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作者: 沖房 甍
禍輪

「───復興五輪を掲げたオリンピックの聖火リレーは2011年の震災被災地である福島県からスタートする。
聖火は2020年3月にギリシャで採火式を行い、同月中旬に日本到着予定。
当日まではいくつかの記念イベントの予定をこなし月末には聖火リレーのスタートとなる。
その後約四ヶ月をかけて各都道府県を巡り最終的には開会式が執り行われる東京の国立競技場に到達する予定だ」

(2018年6月発行 日応新聞記事より抜粋)



 そうして迎えた2020年、ところがオリンピックイヤーを迎えた矢先、世界は激変する。中国は武漢を発端に世界中に蔓延した新型コロナウィルスの流行によって世界中の経済活動は大打撃を受けたのだ。
 その余波はオリンピック開催にも影響を与えることとなった。一度はスタートした聖火リレーは程なくオリンピック開催延期を受け、中断を余儀なくされたのである。世界全体がそうであったように、予想外の事態に国内も政治経済双方で混迷を極めることとなる。本来多くのインバウンドで賑わうはずだった観光地は閑散とし、街からは人が消え、社会は予想外の自粛の夏を迎えたのだった。

 抑圧された生活の中、一年後に延期されたオリンピックにも警鐘や疑念が噴出する。開催を危ぶむ声はもちろんのこと、中には早々にオリンピック中止論を声高に叫ぶ者も現れる始末。もちろんそれはオリンピックに限った話では無い。世界的に経済が疲弊してゆく中、世論には攻撃性と悲観論が強く滲み出始め、形の無いぶよぶよとした閉塞感が生活を押し包んでいた。
 そんな世の流れもあってか、この年の夏は不安と無力感が漂う異様な雰囲気に支配されていたのは今もって生々しい記憶として残っている。

 感染の拡大が衰える気配を見せないまま年が明けた2021年も引き続き警戒が叫ばれる中、その反動もまた顕著で各国での意識の緩みが次の大規模感染につながる悪循環も起きていた。特にブラジル、アメリカ、ヨーロッパ各国にインドと、多くの感染者を出した国ではその歯止めが利かず、春を迎えても終息の気配を感じることは出来ない。そんな中、オリンピックは強硬にも近い形で開催に漕ぎつく。

 それは開催国である日本のウィルス感染率が奇跡的に少なかった事(無論比較的な話であり、実際には相当数の感染者や死者が出ている。決して無傷ではないのであるが……)と、世界的に徐々にワクチンの開発と生産が進み始め、日本国内での接種分の確保の目途が立ちつつある…という楽観要素に支えられた極めて綱渡りの末の結果に他ならない。
 感染者数の比率が少ないことに関しては諸説ある。当初のうちはあまり重要視されていなかったマスクの着用や比較的うがい手洗いを励行する国民性などの要因に加えて遺伝子的な要因を唱える説もあり、現在においても決定的な根拠は特定されていない。
 それでも不平不満は噴出するし、迷惑行為も横行する……そんな世論や社会情勢はこの国も既にギリギリの状態であることを如実に物語っているのだろう。

──「たまたま」運が良かっただけ……、それもまた否定できないのだ。

 そして開催が決まってもそれで一致団結とはいかない。外国人の観客も規制され期待されていたインバウンドも絶望的となった事で大会の開催形式も大幅に見直され、規模縮小と安全対策に基づいた簡素化が図られる。その一方で、事がこの段階にまで動き始めても相変わらず中止論は止まないままだ。
 だが、もしもここで中止に舵を切ったとしても各方面への保証金等、開催以上の多大な経済的損失が発生する事となる。

 ……開催するも地獄、しないはもっと地獄……、そんな揶揄は決して誇張などではない。そうした社会的背景の下、かくして聖火リレーは再スタートを迎えたのだった。


                    ◆

「先輩、こっちです、こっち!!」

 時間短縮と経費の節約を図って東京発の高速バスでいわき駅に、そこから常磐線の臨時電車で到着した不破を、すぐに聞きなれた声が出迎えた。
 恐らくは用心して新幹線で仙台まで来てから折り返しの常磐線で現地に到着していたのであろう……改札への階段に到る長いスロープの麓で、手にはキャスターを兼ねた機材ケースと背にもやはり機材を詰め込んだ大きなザックを背負った牧菫華マキ スミカが、ゆさゆさと重たげに飛び跳ねている。

「なにのんびり構えているんですか、もう式典始まっちゃいますよ!」

 欠伸なんかしつつジャケットを腕に抱えたまま歩み寄る不破を、肩まで伸ばしたウェーブを揺らす牧が慌しくせっつく。どちらも実用本位の恰好という意味では同じであるが、かたやその範囲でも抜かりなく着飾る牧と年がら年中同じスーツ姿の不破との組み合わせは身長差もあってかデコボコ感が否めない。尤も、それで良いコンビかと問われると……どうも主導権は完全にずぼらな男の方に握られてしまっている様だった。

「間に合えば問題ない……で…スミ、お前ホームで何してる? ポジションはもう確保したのか?」
「えっ!? ……あ、それはまだ──」
「かぁ~、何やってんだよ。ほら急ぐぞ、走れ!」
「あっ、ちょっ……待って下さァい!!」

 不破は自分が遅れてきたことなど全く意に介さず、牧の背中をはたいてさっさと走って行く。わざとらしく咳き込みながら、その後を小さな荷物の塊がよろよろと追っていった。
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