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作者: 沖房 甍
燻ぶる魂
※本作品はフィクションです。
作品中に登場する人物・団体・事件・固有名称等は架空の創作物であり実在のものとは一切関係ありません。
また、劇中アクションシーンでのスポーツ競技の用いられ方は作品演出によるもので、それらを肯定・推奨するものではありません。

―――オリンピックがやって来る。

 かつて第二次大戦後のわが国の経済復興を牽引し国際社会参加の旗印となった平和の祭典が時を経て、今ひとたびの夢を乗せ東京に戻って来るのだ。
 その間数々の紆余曲折と、何よりも世界に大きな打撃を与えた疫災……それらを乗り越えて我々は迎えることになるのだろう、来るべき時を。その大いなる歓喜と希望を胸に。
 そして今にち国際的に大きな影響力を持つに到ったこの国の成長と貢献を世界に示すために―――



 ……あまりに陳腐な希望論に満ちた書き出しに思わず溜息が漏れる……半ば呆れ、半ば自嘲しつつで天を仰いだ。

 お世辞にも片付いているとは言えない典型的な男やもめの部屋の天井。閉じっ放しのブラインドから差し込む朝日は室内を薄ぼんやりとした明るみで満たしてゆくのであるが、それでも空疎で沈鬱な空間には煙草の煙と煮詰まったコーヒーの匂いばかりが際立つ。
 もちろん換気扇は申し訳程度にからからと回転しているのであるが、室内に染み付いたヤニの臭いと淀んだ室内の空気には大した効果を上げることはない。唯一室内の停滞に脈拍を与えているスリット越しの光芒にちらちらと煌く埃もまた、この徹夜明けのけだるさをただ助長するだけの演出物に過ぎなかった。


 おかげで昨夜からまるで記事がまとまらない。


 遅々として進まない筆の原因は明白で……要はまったく気分が乗ってくれないのだ。
 取材対象に興味が無いわけではない。だが自身を執筆に駆り立てる様な、激情にも似た心の高まりをいまいち感じ取れないでいるのだ。
 もちろんプロの記者が口にして許される言い訳ではないので、それでも格好のつく形で記事は納めなければいけない。決して時間に余裕があるわけではないのだから。
 だがそうした義務感が余計に気分を滅入らせ、キーボード上の指先をいっそう鈍らせる……また自嘲……。


 ……自分はこんな世間に迎合した記事を世に出すためにこの世界に入ってきたわけではないのに……。


 それでも口に糊するために「そんな記事」を献上すべく必死こいて言葉を探している自分がここにいる。
 そうしてまたあても無く空に踊る指先。そこに灯るフィルタまで吸い尽くした煙草を吸殻の山に捻り込ませ、彼は再び大きく上体を反らした。

「……っと、時間……」

 思考の停滞を破ったという意味では彼にとってあるいは救いだったのだろう。午前中からの取材スケジュールを思い出す。
 椅子から跳ね起きると書きかけのファイルを保存する事無くデスクトップの電源を落とし、おっとり刀でジャケットにスマホとICレコーダーを押し込んだ不破昂明フワ タカアキは自室を後にした。


 春まっ只中とは言え暁方の外気はまだ肌寒い。だが不破はその中にほんの僅かに漂う桜の香りを感じ取る、例年に比べて今年の開花は早かった。



 それがこの年───2021年の夏、彼が巻き込まれることとなる奇妙な事件の始まりであった。
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