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作者: 沖房 甍
集中治療室にて
 診療時間を過ぎてひと気が無くなった病院に不破が飛びこんできたのは午後9時を回った頃だった。夜間受付で案内を受けると別棟の集中治療室ICUに駆けつける。
 入り口から半身を覗かせると、室内には無機質なリズムを刻む電子音だけが響き渡っているが、時々忙しそうに看護師や医者らしき人物が出入りする。各ベッドの周囲には半透明のカーテンが閉じられ、いくつもの機械が取り付けられた患者が横たわっている……この部屋で治療を受けている者はいずれもまだ重篤な状態にある患者たちだ。

 その外ではこちらに背を向ける形で長椅子に座る一人の女性の姿が確認できた……。

「……スミ……」

 走ってきて口が乾いてしまったのか不破の声はかすれてしまっていた。呼びかけに牧は一瞬だけ顔を向け、だがすぐに真下に視線を戻して俯いてしまう。

「……………私の……せいだ……」

 肩を落とした背中が小刻みに震えている。

「私が不注意だったから……松原くんが………」

 そうして彼女が一瞬だけ目を向けた先、カーテンからちらりと垣間見えるベッドに一人の男性が横たわっているのが確認できた。話にだけは聞いていたが彼が松原伸介という人物であることを不破は初めて認識する。
 ベッドの上の松原は体のあちこちに傷を負っていた。特に掛布団の腹部付近が浮かされているのはそこに大きな傷を受けているからであろう。

「松原くん、私を助け…来て、……代わ…に刺さ…て………」

 後半は小さな嗚咽でほとんど聞き取れないが大まかな事情は推察できた。よく見ると袖口には少し黒ずんだ赤い染み……恐らくは血の跡が付着している、きっと負傷した松原を抱え上げでもしたのだろう。

 2時間ほど前、救急でここへ運ばれてきた直後は出血がひどく命も危ぶまれた松原であったが、現在は小康状態にまで持ち直したところだと聞いている。意識はまだ回復せず予断を許さない状態ではあるものの、ひとまずの峠は越えたといったところであろう。

「……ぉ──」

 何か声をかけてやるべき……そう思った不破だったが、言葉が出てこない。ICUにはただ、ひどく沈鬱な雰囲気だけが重たく圧しかかっていた……。
 暫くの間、如何ともし難くその場に突っ立っていた不破は、そこに歩み寄ってくる人の気配に気づく。振り返ると使い古されたカーキのコートを羽織った壮年から初老にかかる年齢と思しき男の姿があった。男は不破の姿を認めると軽く頭を下げる。不意打ちを食らったようにハッとなった不破も、慌ててそれに倣った。

「……青梅です。……あー、伸介の伯父でして」

 ゆっくり顔を上げた青梅の瞳が不破を見上げる。慇懃いんぎんな態度であったがその眼光の鋭さに怯みを覚える不破……この人物が一般人でない事を瞬時に悟った。

「不破です、不破昂明……、付き添いの牧菫華の同僚に当たる者です」

 不破は自身を引いて青梅をベッドの脇へと促した。


 一刻の後、ICUに牧を残し不破と青梅は薄暗い待合室にいた。向かい合う長椅子に二人は斜向かいに座る。人っ気は無くとも院内だけにそこは禁煙、時間を潰す手立ての無い不破は何となく落ち着かない。どうやらそれは相手も同じ思いだったようで、先程から無意識に両手を擦り合わせてそわそわしている。やがて沈黙と手持ち無沙汰に嫌気がさしたか、青梅がぽつりと口を開いた。

「あいつぁ、両親とも既に他界しておりましてね……母親は三年前、父親はあいつがまだ小学生ん時の話です」

 しゃがれている割に聴き取りやすい通る声だ……それに落ち着いた重みがある。

「父親が亡くなってからは父方の親類がいなかったこともありましてね、母親の兄としましてはしょっちゅうあいつの世話しに顔出してたわけですよ……たぁ言っても恥ずかしながら子供育てた経験も無いし、これといった趣味特技も無いもんですから精々自分の仕事話を聞かせてやる程度しかできないんですがね……、そしたらすっかり警察の仕事に憧れるようになっちまいまして……」

 警察と聞いてぎょっとして青梅に目を向ける不破……が、松原が警官であることは知っていたのでそういう事もある話か、と自己解決させた。もちろんそうした心中は相手に伝わることも無いので青梅は慌てて自身の身分を明かす。

「……ああ、こいつは失礼。申し遅れましたが私、神奈川県警で刑事やっとります」

 気恥ずかしそうに頭を掻く。一見愚直そうに見えるがこうした人間ほど侮れない事を不破は熟知していた。

「そうですか……いえ、この度は甥御さんに申し訳ないことしました」
「不破さん……でしたっけ? 何であんたが謝るんです?」

 困惑含みの何とも渋い顔に口元だけ笑みを浮かべて青梅は首を振った。

「もちろん牧さんとやらにも非は無い。雰囲気で謝っちゃあいけませんな」
「はあ……」

 そうは言ってもこの状況で刑事を前にしたらつい頭が下がってしまうというもの、何だか不破は自分が取り調べを受けているような錯覚を覚えた。

「そうさな、あんたも事情を知らないのは気分悪かろうからね。……まぁ、こいつぁ所轄の警察署で聞いてきた……言わば身内情報なんだが……」

 関係者に語れる範囲で……とことわりを入れた上で、青梅は今回の事のあらましを語りだす。

「賊は牧さんの帰宅直前に侵入したそうです。隣の店舗施設の屋根からベランダ伝いに窓から……という手口でしてね、目的は分からんですが室内で待ち伏せて事に及ぼうとしたのだろう……ってぇ話です。ただ幸いだったのは侵入する賊を目撃していた人間がいた事で、その一人がうちの伸介だったのですが……どうもあのバカったれ、昨日から牧さんと旅行しておったらしくて、その帰りに牧さんの後を尾けてあの場にいたらしいのですわ。まったく、何を考えているのやら……」

 困ったもんだとこめかみを押さえる青梅。その旅行がどういった内容のものだったのかは不破は察していた……恐らくは嘉納を追って広島に行っていたのだろう。だが相手が刑事という警戒心もあったのかそれを口にすることはしない、もう少し相手の出方を見極めたかったのだ。

「まぁ、今回に限ってはそれが幸いした訳ですがね。それで伸介は救出に向かった……という事らしいです。牧さんの隣室の住人の話では彼女の部屋は施錠されていたため警察への通報を頼み、自身はそちらのベランダから仕切り板を蹴破って賊が侵入した窓から入った……という事だそうです」

 その後、室内でどんな大立ち回りが展開されていたかは当事者不在であるため確かめることは出来ないが、通報で警官が駆け付けた時には既に賊の姿は無く、玄関口で血だらけで倒れている松原とそれを抱えている牧が保護された……というのが経緯だ。

「彼女もまた被害者であり証人でもあるわけですからいずれ事情を聞かせて頂くことにはなりますな。ですが現在は牧さんの部屋は現場検証中ですので、今晩のところはここにいた方が安全でしょう。ほれ──」

 ──と、青梅の指し示す方、救急用の搬送口の辺りに警官が一人立っている。

「警察の信用云々が取り沙汰される昨今ですがね、ここはひとつ任せておいてもらえると有難いもんですな」

 そう言って相好を崩す青梅であったが目は決して笑ってはいない。

「さすがに毅然としたものですね……」

 不破は少し気弱げな愛想笑いを浮かべる。

「私どもは雑誌記者をしてます。こうした事件の現場は慣れっこのつもりだったんですけどね……いざ身内の者が巻き込まれるとさすがに心穏やかではいられません」
「いやいや、そりゃあ刑事をやってても同じですよ」

 一度大きくため息をついて青梅が長椅子に体を預けた。

「こうして甥っ子が危険に晒され、しかも重症負わされて気丈でいられる訳が無い。本当だったら所轄なんて関係なく今すぐにでも飛び出してって犯人を捕まえ、その首根っこへし折ってやりたい気分です」

 努めて感情を抑え込んでいるが、御しきれぬ怒りやら悲しみやらの感情が言葉の端々から感じ取れる。

「それでもね……、私ゃあいつを褒めてやりたい気持ちも心のどっかにあるんですよ」
「褒める?」
「こっそり女の後を付けて、事件現場に出くわして応援も待たずに単身飛びこんでって、その挙句に負傷なんて……そりゃあ呆れて物も言えねぇ、警官としちゃ失格ですわな。でもね、必死になって人を守ったんだから男としちゃあ上出来ですよ。そうは思いませんかね? 不破さんよ……」

 そう言い切った青梅は天井を見上げたまま、どこか自嘲的な表情を浮かべていた。お世辞にも言葉通りの感情とは思えない。


 ……ああ、この表情は知っている……と不破は思う。


 それはつい最近……聖火強奪事件に関わるまで自分が浮かべていた表情、自身の無力さ、不甲斐無さに対する虚無感の自嘲だ。

「……さて、と」

 両ひざを手ではたいて青梅が立ち上がる。

「勤務途中で抜け出して来ちまいましたので私はここで失礼しますよ」
「そうですね。今日はうちの牧に任せて、私もこれで引き揚げようと思います」
「それがいい。仕事がひと段落したら着替え諸々用意してまた来るとしましょうかね」

 内心、だいぶ思いつめているようなので彼女一人残すのも些か心配はあるのだが、今夜は退散する他は無い。何よりも牧本人がそうすることを希望しているのだ。不破はせめてもの役目として帰宅がてら駅前まで青梅を見送ることにした。

「私は所轄外だから事件そのものには手は出せませんけどね、現場の連中も全力で捜査しとりますから何か進展あったらお知らせしましょう」
「助かります」
「牧さんにもあまり根詰めない様に伝えておいて下さいな。若いから体は耐えられても心はやはりダメージ受けてるだろうからね……」
「伝えておきます……あの、青梅さん」
「何ですかな?」

 背を向けた青梅を不破が呼び止める。

「……すみませんでした」
「だから、何であんたが謝るんだい?」

 何でと問われても返答には困るのだが……どうしても自分の判断の甘さが今回の件の要因の一つに思えてならない。

「何とも妙ですな……。そもそもこの場に真っ先に駆けつけたのが職場の同僚であるあなただという事といい、そのあなたが妙に謝ってくる……ひょっとしてあんた──」

 しかめっ面の奥の鋭い眼光が不破を射抜く……が、

「──いや……私はこの件、管轄外でしたな。失敬、気を悪くしないで下さい。……ああ、それとね」

 青梅は引き返して不破の前に進むとその肩をぽん、と叩いた。

「あんたもあまり気に病みなさるな」

 そう言い残すと青梅は再び不破に背を向け改札の雑踏に消えていった。


 だがそれからさほど日も置かず、しかも思いもよらない形で不破はこの刑事と再会することとなる……。
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