接触
その日不破が編集部に顔を出すことは無かった。
「一体どこをほっつき歩いとるんだ、コウメイの奴はァっ!!」
馬場園のカミナリは毎度のことであるが、今日はもう一人ピリついていた人物がいた。
「こら、スミっ子! 奴がどこに行ったのか知らんのか?」
「……何で私が知ってなきゃいけないんですか? 私、先輩の保護者じゃありませんよ」
不用心な馬場園の追及に対する牧の返事はセリフこそ穏やかなものだったが、どすの利いた声で言うものだから、それを向けられた馬場園はおろか編集部中の空気が一瞬にして凍りついた。
「……それから、『スミっ子』はやめてくれません? 不愉快っ……!」
「……あ、ああ、うん、そ…そうだな。……いや、知らなきゃいけない……わけじゃなくて……スマン……」
気圧されたか、しどろもどろで馬場園が頭を下げた。
「ま……牧ちゃん……?!」
この場は何とか取りなさないと…と声をかけた高藤だったが、地獄の鬼も逃げだしそうな眼光で射竦められて動けなくなる。
「愚かですね」
すごすご退散してきた高藤に鮫島が追い打ちをかけた。
「……いや…だって、さぁ……!?」
よほど怖かったのか高藤は半ベソ状態。尾上がふぅむ……と白い髭に覆われた顎をさすった。
「こないだから様子が変だよねぇ? 一体何があったのかな?」
「まぁ、間違い無く今日の不破さんの不在が関係していると思われますけど」
鮫島だけは淡々としたものだ。
「困ったもんだ」
尾上はお手上げとばかりに背を向けた。君子危うきに近寄らず……遠巻きに皆が様子を窺う中、牧は椅子にもたれて大きなため息を一つついた。
「……置いてかれた」
ぽつりと呟いてがっくりと項垂れる。不破がどこに、何をしに行ったのか、牧には漠然とではあるが予想がついていた。
◆
大阪は3月末からの急速な感染拡大を受けて公道でのリレー開催を中止していた。それでもリレー自体は公園等を利用した限られたスペースで、十分な安全対策を施した上で……という体裁を整えて控えめに開催されるのであるが、嘉納は例のごとくそこで一頻りの騒ぎを起こすと警官の包囲態勢が整う前に姿を消した。
だがこう何度も各地で席巻され続け、犯人に翻弄されるがままになっているほど警察も寛容ではないし、無策でもない。警察にとっては都合の良い事に、大幅に規模を縮小されてのリレー開催は警戒範囲を絞り込み、そこに人員を集中投入する事が出来たのだ。通りにはひっきり無しにパトカーや白バイが走り回り、府内の警官が総動員されたかのような大捜査網がリレー期間中張り巡らされていたのである。
このため計画していた逃走路を悉く封鎖されてしまった嘉納は、一旦身を潜めるために現在ホームセンターの立体駐車場に潜入していた。周囲の様子を見渡せ、且つ隠れ場所に困らない屋上階下、更に急な状況の変化に対応できるように非常階段にすぐ駆け込める位置を探す。ワゴン車の陰に腰を下ろしトーチを立てかけるとまずは乱れた呼吸を整える……が──、
「……ったく、何て、足の速い、野郎だよぉ……!」
嘉納の顔が一瞬で強張った。一体どこから追ってきていたのだろうか、ぜぇぜぇと荒く息を切らしながら階下に続く車両用スロープから男が駆け込んで来たのだ。
嘉納は緊張の色を走らせ身を低くする。柱の陰に立てかけていたトーチをそっと手繰り寄せると炎の光を極力感づかれないよう声の反対側に向けた。すぐ近くではパトカーのサイレンが聞こえていた。施設外へ逃亡するなら慎重にタイミングを計る必要がある。
だがどうも様子がおかしい。警官にしてはこんな所で単独行動は不自然だし、先程から身をかがめて息を整えている様子で周囲に報告する気配もない。また、「追跡者」ならこちらに気付かれないように行動するはずだし、何よりも問答無用で襲い掛かってくるだろう……。
──ならば何者だ?──
訝しんだ嘉納は声の主を確認すべく半身を覗かせる、その風体には見覚えがあった。以前福島で会場からの逃走の際、意図せず出くわしてしまった男だ。その際は咄嗟な事で昏倒させてそのまま置いて行ってしまったが、今にして思えば自分を捕えようとしている素振りは感じなかったような気がする。
──だが、そんな人間が何故今ここに?──
「いるんだろ? 安心しろ、警察じゃない。それに尾けられるようなヘマもやってない……少しだけ、こちらの話を聞いてはくれないか?」
まだ息が上がったままの男は敵意が無いことを示すため両手を上げたまま駐車場の奥へとゆっくりと歩を進め、相手が身を潜めているであろう車の陰から5mほどの位置で立ち止まる。
「俺は不破昂明、雑誌記者だ。……あんたに、インタビューを申し込みに来た」
──インタビュー? 一体何を言っているのだ、この男は?──
突然の申し出が嘉納の心理に狼狽を与えていた。
──どうする? あしらって逃げるのは造作もないことだろう……先日同様昏倒させてしまうことだって容易い。だが余計な騒ぎを起こすのが得策とは思えない──
嘉納の中で珍しく逡巡が起きていた。
いくつかの疑念はある。この男は聖火リレーのコースから自分を追ってきたわけでは無く、おそらくどこかで自分がここまで逃走してくるのをある程度予測していたと考えられる。いや、それどころか決して毎日現れているわけでは無いのにどうやって今日この日を予測できた? もしかしたら何かこちらの行動に落ち度があって、それを察知されてしまっている可能性もある。
その上インタビューときたものだ……常識的に判断するなら迂闊に部外者との接触を持つのは自らを危険に晒すようなものだ。
──だとしたらこのまま放っておくわけにも……──
それでも即、相手を撃退……という気にはなれない。それは相手が警察や「追跡者」では無いだろうと思われた事も一因なのだが……。
奇妙な感情だった。もしかしたらこの不破と名乗る男に少しばかり興味が湧いてしまっているのかも知れない。熟考の果て、嘉納はトーチ片手に、足音を立てることなく車の陰から姿を現した。
「……話を、聞こう」
相手の前向きな反応を見て一瞬安堵の表情を不破は浮かべた……が、すぐに気を引き締めて交渉に移る。と、言ってもそれは至極簡単な手続きに過ぎない作業だった。片手で相手を制しながら……今度はスマホ片手に、なんて間抜けはせず懐から一枚の名刺を取り出す。
「いや、今は取り込み中なのだろ? 今日は挨拶だけでこのまま引き上げる」
そう告げると不破は自分の名刺を足下に置いた。
「そこに俺の連絡先を書いといたから、そっちの好きなタイミングで日時と場所を指定してくれ」
そのまま野生の熊でも相手にしているような調子でゆっくり後ずさる。
「もちろんその時は俺一人でその場に行くし、あんたの秘密も安全も保証する事を約束する……それと──」
つい、と外を伺う。
「──今、ここの事は外の警官に言わない。色よい返事、待ってるぜ?」
そのまま不破は非常階段につながる連絡通路の角に消え……ようとして、何か言い残したのか再び頭だけ覗かせる。
「あ~、でもなるべく早い時期にしてくれると記者としては有難い。それじゃ!」
指二本で敬礼などして今度こそその場を後にした。
「………」
先程まで不破が立っていた場所に歩み寄ると、嘉納は床に置かれた名刺を拾い上げ表裏を確認した。
「……不破…昂明……」
奇妙な男だ……だが興味深くもある。この件を受けるにしろ断るにしろ、もう少し話してみたい……そんな欲求も嘉納の頭に芽生え始めている。
「……だが、まずはここを切り抜けてからだ!」
パトカーと警官の気配が遠のいている事を確認した嘉納は、名刺をポケットに押し込み再び走り出した。
「一体どこをほっつき歩いとるんだ、コウメイの奴はァっ!!」
馬場園のカミナリは毎度のことであるが、今日はもう一人ピリついていた人物がいた。
「こら、スミっ子! 奴がどこに行ったのか知らんのか?」
「……何で私が知ってなきゃいけないんですか? 私、先輩の保護者じゃありませんよ」
不用心な馬場園の追及に対する牧の返事はセリフこそ穏やかなものだったが、どすの利いた声で言うものだから、それを向けられた馬場園はおろか編集部中の空気が一瞬にして凍りついた。
「……それから、『スミっ子』はやめてくれません? 不愉快っ……!」
「……あ、ああ、うん、そ…そうだな。……いや、知らなきゃいけない……わけじゃなくて……スマン……」
気圧されたか、しどろもどろで馬場園が頭を下げた。
「ま……牧ちゃん……?!」
この場は何とか取りなさないと…と声をかけた高藤だったが、地獄の鬼も逃げだしそうな眼光で射竦められて動けなくなる。
「愚かですね」
すごすご退散してきた高藤に鮫島が追い打ちをかけた。
「……いや…だって、さぁ……!?」
よほど怖かったのか高藤は半ベソ状態。尾上がふぅむ……と白い髭に覆われた顎をさすった。
「こないだから様子が変だよねぇ? 一体何があったのかな?」
「まぁ、間違い無く今日の不破さんの不在が関係していると思われますけど」
鮫島だけは淡々としたものだ。
「困ったもんだ」
尾上はお手上げとばかりに背を向けた。君子危うきに近寄らず……遠巻きに皆が様子を窺う中、牧は椅子にもたれて大きなため息を一つついた。
「……置いてかれた」
ぽつりと呟いてがっくりと項垂れる。不破がどこに、何をしに行ったのか、牧には漠然とではあるが予想がついていた。
◆
大阪は3月末からの急速な感染拡大を受けて公道でのリレー開催を中止していた。それでもリレー自体は公園等を利用した限られたスペースで、十分な安全対策を施した上で……という体裁を整えて控えめに開催されるのであるが、嘉納は例のごとくそこで一頻りの騒ぎを起こすと警官の包囲態勢が整う前に姿を消した。
だがこう何度も各地で席巻され続け、犯人に翻弄されるがままになっているほど警察も寛容ではないし、無策でもない。警察にとっては都合の良い事に、大幅に規模を縮小されてのリレー開催は警戒範囲を絞り込み、そこに人員を集中投入する事が出来たのだ。通りにはひっきり無しにパトカーや白バイが走り回り、府内の警官が総動員されたかのような大捜査網がリレー期間中張り巡らされていたのである。
このため計画していた逃走路を悉く封鎖されてしまった嘉納は、一旦身を潜めるために現在ホームセンターの立体駐車場に潜入していた。周囲の様子を見渡せ、且つ隠れ場所に困らない屋上階下、更に急な状況の変化に対応できるように非常階段にすぐ駆け込める位置を探す。ワゴン車の陰に腰を下ろしトーチを立てかけるとまずは乱れた呼吸を整える……が──、
「……ったく、何て、足の速い、野郎だよぉ……!」
嘉納の顔が一瞬で強張った。一体どこから追ってきていたのだろうか、ぜぇぜぇと荒く息を切らしながら階下に続く車両用スロープから男が駆け込んで来たのだ。
嘉納は緊張の色を走らせ身を低くする。柱の陰に立てかけていたトーチをそっと手繰り寄せると炎の光を極力感づかれないよう声の反対側に向けた。すぐ近くではパトカーのサイレンが聞こえていた。施設外へ逃亡するなら慎重にタイミングを計る必要がある。
だがどうも様子がおかしい。警官にしてはこんな所で単独行動は不自然だし、先程から身をかがめて息を整えている様子で周囲に報告する気配もない。また、「追跡者」ならこちらに気付かれないように行動するはずだし、何よりも問答無用で襲い掛かってくるだろう……。
──ならば何者だ?──
訝しんだ嘉納は声の主を確認すべく半身を覗かせる、その風体には見覚えがあった。以前福島で会場からの逃走の際、意図せず出くわしてしまった男だ。その際は咄嗟な事で昏倒させてそのまま置いて行ってしまったが、今にして思えば自分を捕えようとしている素振りは感じなかったような気がする。
──だが、そんな人間が何故今ここに?──
「いるんだろ? 安心しろ、警察じゃない。それに尾けられるようなヘマもやってない……少しだけ、こちらの話を聞いてはくれないか?」
まだ息が上がったままの男は敵意が無いことを示すため両手を上げたまま駐車場の奥へとゆっくりと歩を進め、相手が身を潜めているであろう車の陰から5mほどの位置で立ち止まる。
「俺は不破昂明、雑誌記者だ。……あんたに、インタビューを申し込みに来た」
──インタビュー? 一体何を言っているのだ、この男は?──
突然の申し出が嘉納の心理に狼狽を与えていた。
──どうする? あしらって逃げるのは造作もないことだろう……先日同様昏倒させてしまうことだって容易い。だが余計な騒ぎを起こすのが得策とは思えない──
嘉納の中で珍しく逡巡が起きていた。
いくつかの疑念はある。この男は聖火リレーのコースから自分を追ってきたわけでは無く、おそらくどこかで自分がここまで逃走してくるのをある程度予測していたと考えられる。いや、それどころか決して毎日現れているわけでは無いのにどうやって今日この日を予測できた? もしかしたら何かこちらの行動に落ち度があって、それを察知されてしまっている可能性もある。
その上インタビューときたものだ……常識的に判断するなら迂闊に部外者との接触を持つのは自らを危険に晒すようなものだ。
──だとしたらこのまま放っておくわけにも……──
それでも即、相手を撃退……という気にはなれない。それは相手が警察や「追跡者」では無いだろうと思われた事も一因なのだが……。
奇妙な感情だった。もしかしたらこの不破と名乗る男に少しばかり興味が湧いてしまっているのかも知れない。熟考の果て、嘉納はトーチ片手に、足音を立てることなく車の陰から姿を現した。
「……話を、聞こう」
相手の前向きな反応を見て一瞬安堵の表情を不破は浮かべた……が、すぐに気を引き締めて交渉に移る。と、言ってもそれは至極簡単な手続きに過ぎない作業だった。片手で相手を制しながら……今度はスマホ片手に、なんて間抜けはせず懐から一枚の名刺を取り出す。
「いや、今は取り込み中なのだろ? 今日は挨拶だけでこのまま引き上げる」
そう告げると不破は自分の名刺を足下に置いた。
「そこに俺の連絡先を書いといたから、そっちの好きなタイミングで日時と場所を指定してくれ」
そのまま野生の熊でも相手にしているような調子でゆっくり後ずさる。
「もちろんその時は俺一人でその場に行くし、あんたの秘密も安全も保証する事を約束する……それと──」
つい、と外を伺う。
「──今、ここの事は外の警官に言わない。色よい返事、待ってるぜ?」
そのまま不破は非常階段につながる連絡通路の角に消え……ようとして、何か言い残したのか再び頭だけ覗かせる。
「あ~、でもなるべく早い時期にしてくれると記者としては有難い。それじゃ!」
指二本で敬礼などして今度こそその場を後にした。
「………」
先程まで不破が立っていた場所に歩み寄ると、嘉納は床に置かれた名刺を拾い上げ表裏を確認した。
「……不破…昂明……」
奇妙な男だ……だが興味深くもある。この件を受けるにしろ断るにしろ、もう少し話してみたい……そんな欲求も嘉納の頭に芽生え始めている。
「……だが、まずはここを切り抜けてからだ!」
パトカーと警官の気配が遠のいている事を確認した嘉納は、名刺をポケットに押し込み再び走り出した。