▼詳細検索を開く
作者: 沖房 甍
刺客
───同日、栃木県。夜半の東北自動車道に沿った山林の中を激しく動き回る複数の人影があった。

 騒音緩衝の役割りも果たす木立はこの時間、傍から見通すことはまず叶わない。その闇の中をチラチラとオレンジ色の光が踊るように翻りまた木々の陰に消えるといった動きが繰り返されている。状況を全く知らぬものが見たら人魂か何かを見たと騒ぎ立てるところであろうが、場所がらもあり高速で走り過ぎる自動車やトラックのドライバーの目にその様子はそうそう留まることは無い。
 更に付け加えるのであれば、その状況は傍から想像がつくほど暢気で幻想的な状況ではなかったのだ……。
 木々に見え隠れする微かな光……時折その灯の中にいくつかの人影が戯れるかのごとく絡み合うのが垣間見えた。もちろん、本当に戯れているわけではない。実際にはもっと緊迫した光景がそこで繰り広げられていたのである。

 山林の茂みを先頭切って走るのは明灰白色のランニングウェアをまとった男……それは先日福島で聖火トーチを強奪し、日中県内を騒然とさせた人物……慧哲編集部で『嘉納』と称されている男だ。服装こそ昼間とは替わっているがその手には件のトーチが握られ、先端にはやはり炎が灯っている。
 それに追いすがるように三人……いや、四人の人物の姿がある。揃いではないがいずれもダークトーンの服装に身を包み、目だし帽を被って顔を隠しているという念の入れ様だ。服の上からでも分かるその体格は屈強にして無駄なぜい肉が削ぎ落つ研鑽けんさんされた肉体の男性である事が判る。
 少し変わっているのはそれだけ目立たない格好ににもかかわらず、全員目だし帽の上に赤なり青のヘッドガードを着けている事。そして白いバンテージが巻かれた拳を常に正眼に構えて暫定『嘉納』を取り囲もうと迫っていた。

「……ボクサー……か」

 嘉納が低く呻くように呟く。
 一度足を止めた嘉納を追手の男達……ボクサー風の一団が取り囲む。いずれも足取りはリズミカルなステップを踏んで油断無く相手との距離を測っている。そのバンテージの拳にはめられているのはグローブではなく、鈍い光を放つメリケンサックだ。どう見たってこれから健全なスポーツを行おうという状況ではない。通り過ぎる車輌のエンジンの唸りとタイヤの摩擦音だけが響く中、森の中には硬質な殺気だけがただ張りつめていた。
 目だし帽の男たちは目配せを交わすと嘉納の周囲を周りつつ、ジリジリとその距離を詰めてゆく。矢庭に一団の内の一人が弾ける如く飛び出し、左の拳が二度相手の側面を掠めた!

「!」

 嘉納が一歩後ずさろうとする…が、その後方から新たに一人が襲い掛かってきた。繰り出されるのは先ほどの様な様子見のジャブではない、明確に相手の顔面を破壊せんと撃ち抜かれた右ストレートだ。
 紙一重でそれを回避し、伸びきった右の拳を捕らえようとし……だが更に次の一人が畳み掛ける様に襲いかかって来ると堪らず嘉納は後方へ飛び退り、一団から距離を置く。

 ……分が悪い。

 こうした一対多数での乱戦の場合、同じ場所に止まるのは決して得策ではない。相手の動きを牽制しつつ左右に場所を移して突破口を確保、そして各個撃破していくのがセオリーだ。そして相手がボクサーならミドルレンジでの接敵は極めて危険だ。本来ならばこうした手合いは十分に距離を取って飛び道具なり長尺武器なりのリーチに勝る攻撃手段で応戦するのが得策と言えよう。
 だが生憎そうした遠距離からの得物の持ち合わせは無い。ならば危険を承知で密接状態にまで接近、そこから得意のスキルで倒すのがベターな選択である。ところが、立ち並ぶ木々と全く手入れの行き届かぬ草むらに足をとられて思うように戦況をコントロールできない。攻撃に転じようにもやはり左右の動きに制限がかかり相手を捕獲できないでいる。それに加えて、これは自身が望んでしている事なのだが片腕がトーチで塞がり、その炎を消さないために必要以上に振り回すことが出来ない事も大きな足かせになっていた。
 対して相手方は足場の悪さとしては条件は同じだが、ボクシングの動きが実にコンパクトであるため優位に立つ事ができる。人数も四人というのは単独の標的を封じ込めるのに適した人数だ。

 それは間違いなく、自分一人を狙ってきている布陣である事を意味している。

 複数の襲撃者からの絶え間ない波状攻撃を受け続け、それでも彼はよくもここまで凌いでいると言えよう。だが決して完全に避けきれているわけではない。何発かに一発は着実に攻撃がヒットし、それを肩や膝で辛うじてブロックすることで致命傷を受けることだけは何とか逃れている状況だ。彼自身にとっては決して望ましい展開ではない……このままではじわじわと体力が削られ、いつか足が止まる。そうなれば多勢に無勢、まず勝ち目は無い。

「ウラぁ! さっさと寝ろや!!」

 一体多数で相手を弄って興奮したか、愉悦混じりの奇声を発し正面の一人が唐突に嘉納の懐に潜り込んできた。

「……っ!? バカヤロ……っ!!」

 功を焦って先走った行動に、対面にいたもう一人が舌打ちする。一瞬の戸惑いが走り連携が乱れた。どうやら相手は必ずしも統率を持った連中ではなかった様だ。
 この好機を見逃す手はない。嘉納は繰り出した正面の拳をトーチの柄で受け流し、カウンターで右腕をレールにして滑り込ませた肘を顔面に叩き込んだ!

 それは昼間や福島の時では一切見せなかった「攻」の技──、喰らった相手は首がおかしな方向に曲がったまま5~6メートル程吹き飛ぶ。

 一方、相手のゾッとするような凄まじい殺気を感じ咄嗟に踏み止まった対面の男は、返しの第二撃目を辛うじて躱すことが出来た。すぐに反撃をもろに受けた男の行方に目を凝らす。

「……軽率な!」

 暗闇でダメージのほどは分からないが、男は吹き飛んだ先、立木にしたたかに打ち付けられて完全に沈黙していた。まず立ち上がることは期待できないであろうし、事によると……。
 連携が計画的であるほど一点を突き崩されると脆さを露呈する、それが最低人数によるフォーメーションであるなら尚更だ。突破口を見出した嘉納は手薄となった側に走り出し包囲を抜けた。

「逃がすな、囲い込め!」

 どうやらリーダー格と思しき反撃を逃れた方の男が他の二人に指示を飛ばす。追撃の二名が暗闇に消え去るのと同時にリーダー格の男は彼らとは別方向に走り出す……挟撃の構えだ。

「愚かな。わざわざ明かりを掲げて逃げ果せると思っているのか?」

 ……だが、相手が「逃げた」と考えたのがそもそもの判断ミスだった。起伏の激しい辺りで追撃者二名が前方にトーチの炎を発見する。

「見つけたぞ」

 二名は互いに距離を置くと、歩を緩めて獲物を狙う狼の様にそろぉりと進む。ところが光を目標に進むうち、二名は次第に違和感を感じ始める。

「おい待て、下っているぞ?」
「えっ!?」

 違和感の正体に気づいた後方の男から声が飛んで来た。頭上に目を凝らすと炎がいつの間にか見上げる位置にある、更に観察するとトーチが木の枝に引っ掛けてあるのが確認できた。どうやら二名はすり鉢状の底に向かって歩いていたらしい。

「何だ……これ──」

 思わぬ光景に判断力が鈍る。間抜けにもその視線が頭上に向いた瞬間、突如何かが根元の暗がりから飛び出してきた……茂みに潜んでいた嘉納だ。

「ぬ……がァっ!!」

 咄嗟の反応で獣の唸りのような声を上げた男は後方回避に跳ぶ……が、それも既に射程距離内だった。嘉納の左掌底が相手の顎を捉える、ダメージは与えられなかったが相手の足が浮き、バランスを崩す。
 相手もさるもの、カウンターを合わせるように同時に右ストレートを繰り出すのだが、掌底で押し上げられた体勢では腰の入ったパンチにならない。嘉納はそれを肩に担ぐようにすり抜けると相手の膝を蹴り下ろし、逆側に砕き折った。

「うグァ……ぁアッ!?」

 痛みにもんどり打つ男、その隙に背後に回り込んだ嘉納は、相手の右腕を後ろ手に固めて組み伏せ、そのまま躊躇せず肩を外す。なおもダメ押しを入れようとした嘉納であったが、その動きが寸でで止まる。耳を澄ますと急速に足音が近づきつつある、異変を聞きつけすぐ後方を探索していた片割れが駆け付けてきたのだ。
 出来れば左腕の肩も外しておきたかったが十分に戦闘不能にしただろうと判断し、肩口に手刀を入れて気絶させると次の相手に構えた。

 先の二人に比べて三人目は慎重な相手らしい、状況を確認すると嘉納と距離を取りつつ、だがヒット・アンド・アウェーで牽制を繰り返して嘉納が逃走するのを阻止する戦法を取る。相手の意図は明白だった、反対側に回ったリーダー格が到着するのを待って二人がかりで襲い掛かってくる腹積もりだ。数こそ半分には減らしたがその分こちらの消耗も決して少なくはない。そこを複数で攻められると苦戦は必至、場合によっては深刻なダメージも避けられないだろう。
 敵が合流を果たす前に、無理をしてでも目の前の相手は倒しておきたいが手の内はもとよりバレている、さすがにもう簡単には懐に入らせてはくれない。ならばどうやって相手のペースを崩すか……?

 嘉納は相手のフットワークに合わせて自らもステップを踏み始めた。もちろんそんな戦法は自分の修めた技には無い、要は相手の用いるボクシングという格闘技の見様見真似、苦肉の策だ。やがて相対する両名のリズムは同じリズムを刻み始めていた。

 相手が前に出れば自身は後ろへ、相手が下がれば自身は前へ……つかず離れずのスタンスを保つこと数十秒。唐突に嘉納のステップが全く逆方向にリズムを転じた──双方の距離が一気に詰まる。
 もちろんタイミング外しの奇襲もボクサーにとっては想定済み、最短で接近してくる相手のタイミングに合わせてストレートを打ち込んだ。……その目前で嘉納の姿が消える!

「何だと……!?」

 否、消えたのではなく側面の幹を足場に駆け上がり、側方宙返り気味で相手を飛び越えたのだ。
 気配を察知してすかさず体勢を返す三人目……だが応戦は間に合わなかった。嘉納の両腕が相手の胸ぐらをつかんで体勢を崩す、同時に嘉納の右足が相手の足を蹴り払った。柔道で言うところの大外刈り……だがここからの動きが違った。嘉納は後方に崩れた相手のベクトルを真下に引き落とし背中から地面に叩きつけた。

「ぐは……ぅ!?」

 後頭部を打ち付け目出し帽から覗く眼が苦痛に歪む。そのかすむ視界が捉えたのは更に追い打ちをかけ喉元に突き落とされる嘉納の肘鉄────、男の意識はそこで途絶えた。


 最後に残ったリーダー格の男とは、トーチを回収し、ちょうどすり鉢地形を登ったところで遭遇してしまった。嘉納は肩で大きく息をしている。……出来れば一旦この場を離れて体力の回復を図るか、でなければ逃走してしまいたかったところだが、残念ながら相手の到着の方が早かった様だ。リーダー格の男はそれでも油断なく嘉納との距離を詰めてゆく。
 不意に嘉納の左頬を鋭い風が吹き抜けた。

「!?」

 遅れて滲み上がって来た痛みと共に一筋の血が左頬を伝って落ちる。暗かったのもあるが、それ以前に拳がどこから飛んで来たのかまるで判らなかった。続いて二撃、三撃……。直前で姿を現す拳をほとんど反射神経だけで躱す嘉納はようやく相手の打撃が腕や手首をしならせて繰り出されるスナップを効かせたパンチである事に気付いた。

「……これは…確かフリッカー……ぐ…っ!!」

 考えている暇など相手は与えてくれない、もちろん反撃のチャンスも掴めない。鞭の様なジャブの暴風に入り混じって、更に鋭いストレートが撃ち込まれるとそれをブロックし切れず嘉納は呻きを上げた。

──さっきの連中とは格が違う……。

 嘉納は直感的に相手の技量を理解した。さすがに連戦で足も重くなりつつある。この状態でこれだけの技量のボクサー相手にまともに立ち合っても勝てる可能性は限りなく低い。確実に相手を倒すのならやはり密接状態に持ち込んでからの投げ技か組み打ちだろうが……嘉納の脳裏に幾重もの戦術パターンが目まぐるしくシミュレートされる。

「一度だけなら飛び込む気力はあるが……」

 うっかり自身の心の声が口を突いて出てしまう。やはり自分が思うよりもずっと疲弊しているらしく、二手目以降の戦略がまるで浮かばない……どうしたら残り僅かの体力で、しかも先程よりも上手の相手を倒すことが──そこまで頭の中で考えて、次の瞬間嘉納は考えるのをやめた。直感の赴くまま、嘉納は相手の懐に低く深く飛び込む……!
 一撃は覚悟していたが、低空で飛び込んだ嘉納の判断は意外な形で功を奏する。相手は腰より低い相手に対する有効打が打てず、たった一度の迎撃チャンスを闇雲な拳の打ち下ろしで費やしてしまったのだった。もちろんダメージは相応にあったが、少なくともカウンターでショートアッパーを食らうよりははるかにマシだ。
 形振り構わず相手に取りついた嘉納はレスリングのタックルよろしく、相手の胴を抱え込むと勢いそのまま茂みに突っ込み、残りの体力を振り絞ってひたすらまっすぐに突き進んだ。
 その間も何度も何度も背中に肘やメリケンサックを叩きつけられ、その度背中がみしりと軋む……時間が無限に感じられ、意識が飛びそうになっていく……と──


 突然足下の地面が消えた。



 あるいは無意識で嘉納の聴覚はその先に広がる空間の気配を感知していたのかも知れない。





 森を突き抜けた先……眼下に広がるのは休耕地と思しき荒れた畑。







 下までビルの3階ほどの高さはあろうか…………、










 両者は組み付いたまま切り立つ崖から落下していった。
Twitter