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作者: 沖房 甍
理学部人間工学科研究室
 数刻の後、早々に退院手続きを済ませた不破はそのまま編集部に戻ること無くタクシーで都郊外の大学に向かっていた。
 中央道から降りて多摩方面へ抜けると、やがて鬱蒼とした森に囲まれた丘陵の中腹に佇む広大なキャンパスが見えてくる。支払いを済ませ車を降りた不破は他に目を向ける事も無く、正門からスロープを上がって東側の大きな校舎棟へと足を向けた。
 アポイントメントは入院中既に取ってあったので、事務室で簡単な受付を済ませてそのまま天井を配管が複雑に走る半地下の廊下の奥へ。突き当たりにある無機質なドアには担当教授の名と伴に研究室の名称が掲げられていた。

──『理学部人間工学科研究室』──

 不破はここに伝を頼って訪れたのである。


                    ◆

「……ふむ、なるほどねぇ……」

 頭髪に霜がかかった前髪をかき上げ、菅沼冬至スガヌマ トウジ教授は画面に見入っていた。
 画面に映るのは先の事件の動画であり、件の犯人の姿が遠巻きながら明瞭に捉えられている。不破がバックステージでの騒動の中撮影したものであるが、当の機材であるスマホは今手元には無い。ではこの映像は一体どうしたものであるかと言うと、実は撮影の最中一度SDカードを交換したのであるが、その取り出した方のデータなのである。そのため動画に収められているのは騒動の前半部のみであるが、機材から抜き出したことが幸いして警察の押収を免れたのだ。

 ただし、不破の手元にスマホが無いのは別に警察に押収されたためではなく、実は別の事情によるものなのだが……。

 で、件の動画は不破自身も今日初めて目にするのであるが、彼はそれに対してどこか明瞭過ぎるという印象を感じていた。
 群集が入り乱れる混沌の中、不規則に動き回る特定人物の動きを30~40mは離れた距離から撮影していたわけだから本来は頻繁に目標を見失っても不思議は無いシチュエーションのはずだ。それがこれだけしっかりと捉えられているのは、撮影対象であるこの犯人の動きの無駄の無さにあるのだろう。
 縦横無尽に動きながらもその挙動にはブレが見受けられず、淀みの無い動きは遠目からだと比較的捕捉し易いのだ。一方、近接している側からするとそれはむしろ逆な様で、実際相手を取り押さえんと伸ばされた警備の腕は目的叶わず虚しく空を掴み、そして次の瞬間にはもんどりうって地面に転がされる……まったく、こうして改めて映像で客観視しても何をされてそうなるのかまるで把握できない鮮やかな手並みだ。共に画面に見入る菅沼教授も思わず唸り声を漏らした。

「こりゃあ、見事なもんだねぇ」
「どうでしょう、教授?」

 脇から不破が教授の顔色を伺い見る。背を丸めて両の手を白衣のポケットに突っ込んだまま、リピート再生される動画から目を離さない教授はやがて感嘆を含んだため息を一つつき、何とも表現し難い苦笑いを浮かべた。

「君の考える通り、この人物の動きは格闘技……それも武道の身ごなしだね」
「……やっぱり」

 ある程度予想できていた解答だった。
 会場の外で犯人と遭遇した不破が昏倒の憂き目に遭わされた原因は、恐らく相手の当て身を食らったのだろうと踏んでいたのだ、それも極めて高度な手際で。というのも彼は犯人によって肉体的にほとんど……否、まったくダメージを受けないまま気絶させられたのだ。だとしたらそいつは相当の武術に長けた人間である事は想像に難くは無い。
 格闘技素人とは言え、それなりに警戒していたつもりでいた人間……それも上背に勝る相手に対してこれだけ一方的に事を成せるのであるから、相手の技術力は相当なレベルと思い知る他は無い。腕っぷしにはそれなりに自信があっただけに、不破にとってはショックこの上ない事実だったが、それだけに誰よりも冷静確実に相手の技量を測ることが出来たとも言えよう。

「筋肉と脂肪の付き具合から判断するに、持久力や筋力を用いるタイプというよりも、躰道の様な瞬発力や身体のバネを用いた動きを主とする武術である事が判るね。一方でそれに反して相手の力をそのまま転用して極力自分の体力はロスしない様な技にも特化している……そうだねぇ、合気道にもちょっと似ているのかなぁ?」

 画像は必ずしも対象の全身が映っているとは限らない。だが断片的な情報から教授は次々と相手の特性を分析してのけている。

「……さすが…」

 そういう分析を期待して訪れた不破だったが、それでもなおこの老人の見識には感服せずにはいられない。

「でねぇ、熟練者であるのは言うに及ばずなんだけど──」

 のんびりした口調に反して教授の表情が少し硬くなる。

「──足運びから察するに……これ、古武術か何かだねぇ」
「古武術!?」

 ぎょっとして教授の表情を探る不破。古武術は現代のスポーツ化した武道が発生する以前の日本の戦闘技術の総称である。その効率的な身体動作理論が現代においては介護にも応用されている事を考えると決してその存在自体は幻というわけではないが、それでも武術として嗜みを持つ人間は多くは無い。
 もちろん不破が驚いたのはその希少性からではない。こと実戦としてそれを用いた場合、古武術は紛れも無く抜き身の殺人技術なのだ。

「穏やかな話じゃないですね」
「うん、そうだねぇ……。でももっと不可解なことがあるんだよ」

 どこか人をからかう様な、軽妙な物言いにも聞こえるが内容に含まれた危機感は尋常ではない、本人はいたって大真面目だ。

「これだけの使い手でしょお? 僕みたいな仕事していると、達人の類はみんなどこかで見ていても不思議は無いはずなんだけどねぇ……」

 教授本人には武道の嗜みは全く無い、むしろその正反対とも言える典型的な研究者肌の人物だ。だが元々は工学部のロボット開発から始まって、生物…とりわけ二足歩行生物であるホモサピエンスの動きに魅せられ、巡り巡って現在この研究室に腰を据えた彼の知識は、今や生半可な武道家程度では到底及ばないレベルなのだ。その教授がやや困惑の色を浮かべて、ただでも細い目を一層細めている。


「……どうにもさっぱり、心当たりが無いんだよねえ……この顔にも流派にも」
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