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作者: 沖房 甍
聖火リレー醜聞史
 病院の屋上で隠れて煙草を吸っていた不破を、ようやくのことで発見した牧は大きく肩で息をつきがくりとうなだれた。巨大な大学病院というわけではないので、病院側が自前で洗濯したシーツやタオルが屋上一面にはためいている。

「……ヤンキーかってぇの……」

 聞こえるか聞こえないか程度の罵りを呟きつつ、そのままつかつかと近寄っていく。

「お、ご苦労さん」
「ご苦労~じゃないですよ。もっと見つけやすい所にいて下さい」
「一服したら戻るつもりだったんだよ。で、持ってきたか?」

 不破が足元のコンクリ地に煙草をすりつけ火をもみ消すのを見て牧は眉をひそめる。

「はい、一応主要紙に今日出ているスポーツ紙まで買ってきました」
「おっ、ご苦労!」

 牧が抱えてきた新聞紙の束を受け取ると不破はそれを無造作に広げ事件面とスポーツ面を次々と読み流す。時々風が強くなり紙面が飛びそうになると牧が慌てて手で押さえた。

「……やっぱり、今日も何も報道されていないな」
「例の犯人、他にも何社かが撮影に成功していたみたいですけど、警察に押収されちゃったみたいですね」
「そうだろうな、俺もあれから捜査協力と称して録音データの提供を求められたよ」


 ──犯人との格闘から大した時間も経たず不破は意識を回復させた。視界がはっきりしてくるといつの間にか周囲にスタッフが集まっていて彼を抱き起こそうとしているところだったのだ。不破はそれを制し、自力で起き上がり……意外な事にどこにも怪我を負っていないことに気づいた。
 それでも大事を取って呼んでいた救急車が到着すると、固辞する彼は半ば強引に担架に乗せられそのまま会場から搬送させられてしまう。わがままを言ってすぐに東京の馴染みの病院に移してもらったものの、軽い検査の後不破を待っていたのは警察からの事情聴取だったのだ。


「案の定会場で事件を目撃した記者も全員証拠物の押収を受けてた……ってわけだ」
「はい、表で騒ぎに気付かなかった私たちもあれこれ聞かれましたよ。さすがに周囲の一般人の動画までは手が回らなかったらしいですけどね。結局その日の報道番組では一連の騒ぎも報じられること無く、式典は滞りなく開催されたことにされてましたよ」
「……何だろな、そんな隠蔽すべき類のアクシデントでもあるまいに……」
「むしろ外す手はない面白おかしいお茶の間のイベント……ですよね、デスク風に言えば」

 言っておいて脳裏にぎょろ目を剥いて詰め寄る馬場園の顔が浮かぶ。牧は一瞬ぶるりと身震いすると、頭を揺すってそれをかき消した。

 勿論、人の口に戸は立てられない。事件はネットの場ではたちまちのうちに拡散され早くも陰謀説なるものまで流れ始めている始末だ。ただそのため各種報道機関や出版は口コミに大きく遅れを取る形で足並みが揃ってしまっていた。尤も、そのおかげで不覚にも出過ぎた真似をしてしまった不破が会社から責任を追求される事が無かったのは不幸中の幸いだったと言えよう。

「でも種火は消されちゃったんですよね? それで聖火リレー続けちゃって大丈夫なんでしょうか?」
「不測の事態に備えてはいるはずだからな、予備の種火が用意してあったはずだ」
「なるほど、それなら安心ですね。……それにしても何でしょう、今回の事件? ……騒乱罪??」
「そんな大それた罪がつくかよ」

 それじゃ陰謀論と大して変わらないと牧の意見は一笑に付される。

「まだ断定は出来ないが犯人は単独犯だからもっと個人的な罪状に問われるはずだ」

 不破は片手で指折り想定される罪状を数え上げてみる。

「まぁ、まずはあの場には警官がいたわけだから公務執行妨害は間違いないだろうな……それに威力業務妨害と───」
「それよりも窃盗ですよ、聖火泥棒!」
「厳密には聖火トーチの、だな。聖火っても、法律上はただの火だから点け直しゃそれで済む事だ。果たしてそれが盗難に当たるかどうかは疑問だな。それよりもむしろトーチの奪取が目的だったと考えるべきだろう」
「トーチ……ってことは転売目的ってことですかね?」

 盗品をネットオークションや古売店に売って収入を得ようとする犯罪行為は今も増加傾向にある。実際オリンピックのトーチに関しては早くも贋物の出品も確認されている始末だ。

「……そうだな、転売目的の強奪……そう考えるのが現実的か………いや、」

 口にしてみたもののやはりイマイチ釈然としない。それはあくまで不破の主観に過ぎないのだが、直に対峙した犯人の印象はそうした利己的な理由で犯行に及んだ人間とは到底思えなかったのだ。

「そんなチャチな目的にしちゃエラくリスキーな行為だ。ただ盗むだけなら何もあんな公の場で犯すメリットが無い」
「それもそうですね……はて???」

 言われて牧も何か引っかかったのか小首を傾げる。

「何で今回の東京オリンピックに限ってこんなトラブル続きなんでしょうね?」
「そう思うか? 例えば聖火リレーに限った話にしてもトラブルは何も今回に限った事じゃないんだぜ?」
「え、そうなんですか?」
「ああ、例えば2008年の北京オリンピックでの聖火リレー国外コースでは、当時のチベット自治区を巡る人権問題を発端としたロンドンでの妨害事件、それにサンフランシスコでの急なコース変更が行われる等の混乱があったことは記憶に新しいな」
「……えぇっと……ありましたっけ、そんな事?」

 およそジャーナルに関わる人間らしからぬセリフを口にして視線が泳いじゃっている牧。

「1964年の、先の東京オリンピックの時も台風で国外コースだった香港からの聖火輸送が危ぶまれたって出来事があったそうだが、一部では香港でのリレーの最中火が消えてしまった……なんて事件があったとも噂されていたらしいしな」
「本当ですか!?」
「さぁな? まぁ、こういうトラブルの為に常に種火が保管されている訳で、その時もそれで事なきを得た……という話だが──」
「……だが?」

 不破は何とも怪しげな薄笑いを牧に向ける。

「……ウソかマコトか、香港でのトラブルの時は再点火に種火を用いずマッチで火を点けたとか点けなかったのだとか……?」
「えー!?」
「ま、ちょっとした都市伝説だ。決してあり得ない話ではない……というレベルの、な」
「むぅ~~~っ……」

 何だか狐につままれた様に頭を抱え込む牧。

「リレー中での話で無ければ、トーチが盗まれる事件もさほど珍しい出来事じゃない。1998年長野の冬季オリンピックでもトーチの盗難はあったからな」
「すでに前例アリ……って事ですか」

 牧はハァ~…とひとつ、大きなため息をつく。

「でも、今回はあんな大騒ぎになった割には意外に容疑は軽いんですね?」
「いやいや、窃盗だって10年以下の懲役又は50万円以下の罰金だ、なかなかの重罪だぞ? それにこの上更に暴行か傷害も付く、幸い俺はこの通り無傷で───」
「そうなんですってね。午後には退院だって聞きました」

 不破の動きが一瞬妙な強張りを見せたことには全く気づかず、悪ガキの所業を告げられた保護者さながら牧が大袈裟に肩を竦める。

「まったく……お医者さんがさっさと連れ帰ってくれって愚痴ってましたよ? 一体入院中に何してたんで──」


 ……空白の間が過ぎる。


「?」

 厭味を浴びせているはずの相手からのリアクションが無い事にようやく気付く牧。その相手である不破はまるで何も耳に入っていない様子でじっと自らのてのひらなんか見つめていた。

「…先輩?」

 牧がきょとんとして不破の顔を覗き込む。

「スミ、お前さ…」

 不破は錆びついたブリキ玩具の様な動きで後輩の顔を見上げる。

「はい?」
「ちょっと頼まれてくれないか?」
「何をです?」

 ああ、またパシリか……といった調子で嫌々ながらも気軽く応じる牧。

「うん……、これからまた福島に行ってくれないかな?」


 ……再びの間。


「はぁあ~っ!?」

 驚きとも怒りともつかない叫声が構内に響き渡った。
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