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作者: 沖房 甍
聖火の到達
──津波となった人間の群れが嘉納目がけて躍りかかってゆく。国立競技場では各国の選手団が入場を開始したのと時同じくして、新宿御苑では怒涛の如くなだれ込む無数の緊急強化選手らを相手取った嘉納の最後の犯行が開始された──

 残存兵力とはいえまだまだ多種多様な敵が混在しており、一見こうした乱闘には向かないのではないかと思われる競技やあまり世間的に知名度を持たない格闘技の使い手などもいる。武器を所持する者も少なくはない、投擲用ハンマーや円盤、槍などは真っ先に嘉納の元へと飛来し、競技用ではなく研ぎ澄まされた細身の剣を構えたフェンシング姿の刺客が襲いかかる。既に戦場は無差別異種格闘のバトルロイヤルの様相を呈していた。
 ゲームの勝利条件たる聖火トーチ……正確には火の灯ったトーチの奪取に何かしら報酬でも用意されていたのだろうか、奪うべき対象だった聖火を目の前で搔き消された緊急強化選手の群れはもはや統率も統制もへったくれも無く、直情的な憤慨に狂気を帯びて炎を奪った標的に喰らいついてくる。その狂気の集団を相手取り嘉納は孤軍奮闘、接敵する側から必要最低限のコンパクトな攻撃で次々と相手を打ち倒してゆくのだが、百人を優に超える敵に対したった一人で相手をせねばならない嘉納の不利はどう足搔こうとも変わることは無い。一度こちらがつけ入る隙を見せようものならたちまちのうちに大軍に圧し掛かられてなぶり殺しに遭うことだろう。
 だがこの膠着がいつまでも続くわけでは無い。事実、嘉納は元から疲弊しきっていた体力を少しづつ削られ、徐々にダメージを重ねている。彼の力が尽きてしまうのももはや時間の問題だった……。

 この絶望的な状況を救ったのは牧の機転だった。

 彼女はここに来る前に施設の外にいつもより警官の数が多かった事を思い出す。そこで不破と牧の二人は千駄ヶ谷方面から一旦外に出て、手近な警官を捕まえ新宿御苑内で騒ぎが起こっている旨を伝えたのだ。もちろん自分たちが知る事実やその詳細に関しては隠し、現状の表層部分のみを話しただけなので、果たして警官が事実確認を行い相応の人員を動かしてくれるまで嘉納が持ちこたえてくれるかどうかはその時点で分からないままだったのであるが、幸いにも一体どこに待機していたのか数十人からなる完全防備の警官隊が即座に現れ、二人の目の前であれよあれよという間に御苑内へと突入してゆく。結果、新宿御苑の一角は人知れずの大乱闘となってしまう。その場にいたほぼ全員がその場で取り押さえられたわけだがその中に嘉納が含まれていたかまでは不破は確認することが出来なかったのだった。
 それにしても奇妙だったのはほんの僅かな時間に相当数の警官隊……しかもその装備から察して機動隊と推察される警官らが集結し、しかも極めて統率の取れた行動で一斉検挙に至った事だ。確かに千駄ヶ谷方面であれば折しも開会式の真っ最中、警備と物見遊山やデモ紛いの路上活動に集まった一般人の整理に多くの人員が導入されていた事もあり、多数の警官がその場にいたとしてもさほど不思議な事では無い。だがそれが機動隊となるとさすがに不自然さを感じる。何より集結から行動開始までの手際があまりに良すぎると感じたのだ……まるで前以て準備が整えられていたかの様に……。


「そいつに関しちゃあ不破さんよ、実はあの日はあんたの知らない所でも色々起こっていたんだわ」

 東京は日本橋。冷房の効いた席で青梅は無意識にコーヒーカップを直持ちしようとした手を慌てて引っ込める。対面の不破は一体何の気まぐれかレモンスカッシュにプリンアラモードといった明らかに様相似つかわしからぬオーダーをしていた。複数号列をなして接近して来た台風の直撃を悉く退け、雨の上がった東京は相変わらずの湿度はあるものの、ここ数日の酷暑は心なしか和らいでいるように感じる。それでもさすがに二人は外で会話する気にはなれず喫茶店に飛びこんだのである。
 開会式の夜の出来事のあらましを不破の口から聞いた青梅はそれに付け加えて国立競技場サイドで起こっていたもう一つの事件について不破に明かした。

「あんた方が新宿御苑の騒乱に巻き込まれていたちょうどその時間、国立競技場のバックヤードでは点火に備えて控えていた聖火が何者かによって消されてしまったんですわ……まるでスタートイベントでの嘉納の犯行を再現するかの様にね」
「そんな事が!?」

 些か意外といった表情の不破。もちろんこれは公表されていない事実であるし、今回ばかしは華やかな表に目が向けられ裏方にまで目が向けられることは無かったため、そうした話は不破らマスコミの側にも伝わってはいなかったのだ。

「嘉納の時とは違って、犯行は実にこっそりと成し遂げられたみたいでねぇ、最初はそれが故意に行われていたとは思われなかったくらいだ。しかしそれは同時刻、別の場所に保管されていたランタンや種火も含めて、全ての聖火のストックも一斉に消されたってぇ話だ。こうなると何かしらの事件性を疑わずにはいかないわなぁ? だが不破さんよ……これが嘉納がらみの話だとするってぇなら、あんたなら違和感を感じやしませんかね?」
「……ええ。明らかにこれは複数人が申し合わせて行った犯行……これまで単独犯の体を貫いてきた嘉納の手口とは明らかに異なるものだ。………まさか小山田──いや、神崎さん……と、それに……いや……」

 不破はうっかり咲楽の名前を口に出してしまいそうになり口ごもる。彼女が神崎に加担して実行犯として関わる可能性は当然あり得ない話ではないが、そうであったとしても今回の犯行の規模は彼女一人だけでは手に余る、その実行にはもっと多くの共犯者が必須なのだ。そしてその人物に関して不破には心当たりがまるで無い……。そうした含みを承知しての事か青梅は不破の狼狽を無視して話の続きを語りだした。

「まぁ、嘉納が新宿御苑で大暴れの真っ最中である事を知っていれば、次に疑うのはあの神崎氏……だよなぁ? ところが、その神崎氏もこの犯行には関わっていない……いや、間接的に関わっているのは間違い無かろうが、少なくともそちらの実行犯では無いのですなぁ。……というのも、実は神崎氏は犯行の直後に別の場所に姿を現しとるんだよ」
「別の場所?」
「何かのパフォーマンスの意図でもあったのかねぇ……。新宿方面から単身、聖火を掲げて堂々と国立競技場まで走って来たってぇ話だ。すぐに警備に確保されたんでこいつも公にされてはいないのだがね」

 聞けば片手に火の灯ったトーチを掲げた神崎はまるで本家聖火ランナーの真似事の様に競技場にやって来て、ランタンの火が消えた騒ぎで混乱しているバックヤードに堂々と入り込んできたというのだ。

「さっきあんたの話を聞いて私ゃ思ったんですがね、一連の種火が消されてしまった事と嘉納が手にしていたトーチの火を消してしまった事、そこにきて聖火片手の神崎氏の入場となれば、ここに明確な関連性があると考えない方がおかしいですわなぁ?」
「そうだろうな。目的は……たぶん最後に現れた神崎さんの持つトーチの炎を唯一の『聖火』とするため……か」

 福島の事件はトーチではなく「聖火」そのものの奪取であった……これは当初から不破も予想していた事であるのだが、ならばその最終的な目的は何なのであるか? こうして事が成就した今改めて事件を見返すと彼らの犯行は実に終始一貫したものであったと言えよう。

「その神崎氏が警備に語った話では、そのトーチの火は例のほれ……、裏聖火リレーだったか? あれで用いられた火だと云うじゃあないか。不破さんよ、神崎氏は最初から計算づくめで嘉納に聖火を奪わせた……そうだろ?」
「ええ。そしてそれを裏聖火リレーの炎としてずっと日本各地を巡らせたんだ」
「だとしたらそいつの目的は何なんだい? 聖火としての正当性の主張でもしようってぇのかね?」
「どうだろう……。だが嘉納が自分の手にした聖火を消したとしても、神崎さんが持っていた聖火が同一の火であれば、それは即ち嘉納が火を守り切った……そういう事になる」

 表と裏、双方の事情から嘉納自身が最終的に競技場に姿を現す事が出来ないであろうことは最初から想定済みだったはずである。嘉納がああした行動を取った事は、きっと最初からの予定だったのかも知れない。

「それで? 表向きは聖火の点灯は滞りなく遂行されていたみたいだが………ひょっとして……?」
「ご想像の通りだよ。神崎氏の持ってきた火は『聖火』として、そのまましれっとセレモニーに使われたそうだ。事情を知らないスタッフとしちゃ聖火を失ったところに渡りに船、ライターで再点火した火よりは余程マシだろうって程度の認識しかなかったと思うのですがな」
「……まんまと神崎さんの掌の上か。まったく、最後の最後にそんな事を考えていたとはね……」

 斯くして嘉納の犯行は神崎の犯行と合流を果たしたのである。ふと城ヶ崎海岸で神崎と交わした話を不破は思い出した……プロメテウスの話、あれはひょっとしてこの最終計画の暗示だったのではなかろうか? あの時自分はプロメテウスを嘉納と連想してしまったのだが、あの話の真意は嘉納ではなく神崎自身を喩えたものだったのかも知れない……彼は犯行の最初から自身を主犯として捧げるつもりでいたのだ。
 だが、そう考えると話はそこで収まらなくなる。というのも、大いなる犠牲のもとに届けられた罪の火を、オリンピックという祭典の場で、数多のメディアを通じて、受け取ったのは他でもない日本国民全員であるからだ。あの神崎氏の事だ、そこにも何かしらの意図を含ませていたに違いない。ならば、我々は一体何の原罪を受け取り、そしてこれから何の贖罪を背負っていかねばならないのだろうか……?

 一瞬目が眩むような途方も無さを覚えた不破の呟きは、呆れているというよりももはや感嘆の響きを含んでいた。それはまた青梅も然りで、完全にしてやられた悔しさよりもどこか称賛染みた含みをもって彼の犯行を評した。

「私も長いこと警察官やっとりますがね、こんな大規模な愉快犯は見たことが無いよ」
「愉快犯、なんかじゃあないよ……青梅さん」
「そりゃ解っているさね。紛れも無ぇ、嘉納の犯行も込みでありゃあ確信犯だよ……しかも本来的な意味でのね」


──僕の裏聖火リレーはまだ終わっちゃいませんよ?──


 不破の脳裏に西新宿での彼の台詞が例の飄々ひょうひょうとした、人を食ったような満面の笑みと共に浮かび上がる……実にあの老紳士らしい……不破は苦笑を漏らした。

「で、その後神崎さんは?」
「慌てて駆けつけた公安の連中が連れて行ったよ。何しろ確保の際『小山田俊一』ではなく本名の『神崎』を名乗ったんだ。さぞや肝を冷やした人間たちがいたんでは無いですかなぁ……?」
「………やけに痛快そうな顔してるじゃないか?」
「そうですかい? 私にはあんたの方がよっぽど嬉し気に見えるのだがね」

 そう切り返されても不破はそれを否定する事はできなかった。嘉納にしても神崎にしても、彼らが取った手段は非合法的なものに違いない、本来であれば批判を受けて然るべき行いである。だが今それを成し遂げた者たちに不破が抱いた感情は賛辞に似た好意的なものだったからだ。もちろん彼のそうした思考は青梅もお見通しである事だろう。あるいはこの老刑事も自分と同じ感情を覚えてしまっているのでは? …などと不破は一瞬考えるのであるが、立場上と言おうか、それとも積み重ねた経験値が不破よりも深き故であろうか、青梅はそれを口に出す事はしない。

「私らとしちゃ犯罪は犯罪、動機や手段に関わらずあくまで法的視点で取り締まるのが仕事ですからな……」

 一見割り切ったような口ぶりだが、その実ほとほと困り果てたかのように青梅はこめかみを押さえる仕草を不破に見せる。

「……だが、あれだけ見事に道化劇に仕立て上げられちゃあ思わず拍手の一つでも上げたくなるってのが人情ですからなぁ……そこが小憎らしいのですよ、私ゃ……」

 警察としての立場と犯罪被害者の親族としての立場……その板挟みがこの老刑事に迷いを生じさせている。今回の件では極めてその立場が似通ってしまった不破としてはそこに共感を禁じ得ない。無論、よりニュートラルに振舞える自分と青梅とではその苦悩のウェイトは異なるのであろうが……。

「さて、話はまだ終わりじゃあ無いのですな……最初に戻るのですがね。不破さんよ、あんた方がいた新宿御苑の周辺、やけに警官が多かったのは偶然では無かったんですわ」

 そんな老刑事の秘めた苦悩の代わりに、彼の口から発せられたのは更なる事実である。

「どういうことだ?」
「まぁ、こいつぁ身内情報なんだが──」

 わざわざしなくても良い前置きを入れるのは暗に口外されたくないという刑事なりの意思表示だ。青梅は目くばせで不破の了承を待ってから続きを語り始める。

「──実は事前に警視庁にタレコミがありましてな、新宿御苑での騒乱騒ぎに関しては予めリークがあったらしいのですわ。もちろんそんな信憑性も怪しい情報で同日競技場警備に充てるはずの人員を安易に割くわけにはいかないものでしょ? そこで所轄の警官を巡回させて様子を窺っていた……と、そういう事情だったわけですな」

 なるほど、あれほど速やかな対応はやはり前以て準備が整えられていたからこそなのだろう。

「更には、ですがね……ああ、こいつは開会式の翌日の事なんですが、警視庁の公式HP、また内閣や法務省、外務省を始めとした各省庁に対して大規模なハッキングが発生したらしいのですなぁ……。当初は予てより危惧されていたオリンピック開催に乗じたロシア系ハッカー組織による犯行かとも思われたんだが、それによって送信されたデータは驚くべき内容だったそうで──」

 そこで一区切りつくと青梅は不破の顔色を窺う。不意を突かれたような驚きを隠せない不破には、確信に近いレベルでそれを行った人物が連想出来ていたのだ。

「──とある政治家や政界関係者によるオリンピック招致を巡る買収劇と複数の企業を相手にしたIR汚職、そしてそこに関わった外資系企業役員の殺害等々……これが実に事細かに記されていたらしいのですな。内部告発によって政治家の汚職が発覚する事なんて昨今珍しい話ではありませんがね、さすがにこのレベルの告発を受けちまったんじゃあ、張本人たちもしらを切り通す事は難しいでしょうなぁ……」

 それが『彼ら』が放った最後の一手……神崎が述べたところの「後始末」である事を不破は理解した。嘉納と咲楽の兄妹にとってはそれは復讐であり、神崎はそれを自身の贖罪と語った犯行の完遂である。
 青梅はその政治家、政界関係者とやらが何者なのかに関しては言葉を濁して明らかにはしなかったのだが、この最後の一撃を以て『犯人』達は目的を達成することが出来たのであろう。……だが──

「なぁ、不破さんよ……。嘉納の犯行とやらはどうやら目的を果たしたらしいが、彼の人生はこれで良かったのかね? 逃亡を続けるなり、どこかで出頭するなり、どちらにしても彼はこのささやかな成果と引き換えに残りの一生を日陰者として生きてゆくことになる……それで本当に良かったと思うかい?」

 不破の心にふと湧き上がった割り切れない思いは期せずして青梅から投げかけられることとなる。

「今回の件に限った話じゃあねぇ。犯罪は元より、戦災被害者から交通犯罪に至るまで…望まざる運命ってやつに人生を狂わされた者はその後の人生、ずっとその望まざる運命と関わって生きてゆかなければならなくなっちまう。しかも昨今は世間のご意見番を気取った自称『善意の第三者』様の感情一つで人生を台無しにされっちまう人間だって後を絶たねぇ。そいつぁあまりに理不尽ってぇもんじゃないのかね、ええ? 不破さんよ」

 どこか責めるかの様な青梅の口調に、不破は困惑の色を浮かべて頭を振る。

「聞いてくれるなよ……俺はまだその答えを出せるほど人生に達観した人間じゃないんだから。ただ一つ俺に分かるのはそうした運命に人生狂わされた当事者を語り、世間に訴えるのであれば、ものの喩えではなくまずは当事者に寄り添うしか無いって事だろう?」
「万人が皆そうでありゃ世の中苦労は無いがね、世間にいる多くの人間は自身に危害も不利益も及ばない場所からしたり顔で語るような扇動をするに過ぎないもんだ……ホント、胸糞悪い世の中だねぇ……」

 青梅はつくづく辟易とした顔で天井を見上げる。彼らの頭上では室内の換気強化のため出力高めに設定された空調が淡々と、そして少し鬱陶うっとうし気な唸りを上げていた。
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