閉会式
午後に入ってからだいぶ空模様が怪しくなってきた。オリンピックは閉会式を前に三連続で接近して来る台風に戦々恐々としながら、それでも粛々とプログラムを消化し、間も無くその開催期間を終えようとしている。
もちろんオリンピックが閉会した後にはパラリンピックが控えている訳で、それもそれできっと国内外一悶着も二悶着もあるものと予想される。だからこれは完了では無く、一区切りといったところなのであろう。
土台対象の善し悪しに関わらず、世の中に抱く不平不満をを憂さ晴らしで解消するタイプの人間は目の前の標的が見えなくなった途端すぐに次の獲物を捜して徘徊するものであるから、世に紛糾の種が消えることは無い。それさえ別に今に始まった話では無く、この国はずっとそんなすったもんだを続けて歴史を重ねてきたのだ。それがこの数年コロナの感染拡大も絡んで大きく表面化しただけの話なのである。
そうした世の中の澱みさえマスコミにとっては飯の種。例えばオリンピックの開催是非のどちらの主張も本来の祭典の趣旨からは大きくかけ離れた、所詮は政治思想に癒着する外野の泥仕合なのだからそもそもそこに尊さなどある訳が無い。なればそれも結局のところより俗悪なメディアによって双方食い尽くされる運命を辿るほか道の無い下卑た見世物に過ぎない。そんな権力と金とスキャンダル、そしてびた一文にもならないしたり顔どもの論議に至るまで……知る権利を盾に取って今日も記者たちの目は次なる金鉱を漁りまわるのだ。
その最前線の一角たる慧哲編集部の壁掛けテレビの前、ワイドショーで連日流される自国選手の活躍に対してのタレントコメンテーターの賛辞に美辞麗句を、高藤がえらく興覚めした顔で観ていた。
「あれぇ? このタレント、去年の今頃やたらオリンピックの中止を主張していなかったっけ?」
「そうだっけ? よく憶えてるね高藤君」
返事をする尾上は別に相手の方にも番組にも目をくれる気は無さげで、どうしてもレイアウトに収まらない記事の推敲で自身のデスクトップから視線を移さないまま適当に調子を合わせている。一方の高藤も尾上の関心具合などどうでもいいかの様に相手の適当な相槌に更に持論を乗せてくるのだ。
「大体からして、当事者でもなく発言に責任を取らない外野の声ばかりが大きすぎるんですよ、今の世の中って!」
語気は荒いが別に真剣に世を憂いている訳ではない。彼もまた今この一時、仕事に鬱屈した自身の憂さ晴らしの標的を捜しているだけの話なのである。しかしそんな逃避が許される状況ではない事を彼はすぐに知らしめられる事となるのだ、否応無く。
「やかましぃや! つまらんこと抜かしとる暇があったら手を動かせ、スズノスケぇっ!!」
「現在あなたの原稿の遅れで構成が進まず全体の進行に支障が出始めています。これ以上作業を滞らせるようであれば、具体的には減給や罰金という形で相応の責任が生じる可能性もありますが?」
言わぬ事では無い、高藤のあからさまな勤務怠慢は馬場園や鮫島によるダブルの集中砲火を招いてしまう。
「……う、それは困る……今すぐ仕上げます……」
ダメ押しに鮫島女史がこきり、と指を鳴らすのを見て恐れをなした高藤はすごすごと自分の机へと退散してゆく。
馬場園は他にも油を売っている人間がいない事をしっかと確認し終えると、だいぶガタが来はじめた自身のデスクチェアにどかりと腰を下ろして背後の窓から外を眺める。どんよりとした雲間に時々覗く薄日の間隔の早さに上空の雲の流れの速さが伺い知れた。
そんな天気と同様、世論という物も実にアテにならないもので、実際にオリンピックがいざ始まり序盤から空前のメダルラッシュが始まると世間の空気は一気に変わってしまった。
やはり真っ先に変わってしまったのは情報番組やワイドショーで、体裁こそ中立を保ったかのようなコメントも差し挟まれるのであるが、大会中盤を過ぎて獲得メダル数のペースが歴代の記録を大きく超えるであろう予測が囁かれる頃には番組全体の雰囲気はすっかり選手への応援と賛辞の色に塗り替わってしまっていたのである。
もちろん相変わらずオリンピック憎し、政権憎しと繰り返す人間も残っているし、中にはしっかりとした論拠に基づく主張を展開する論客も存在する。だが大多数の人間からすればそれも元からどうでも良いと思っていたのだろうか……無責任な第三者にとっては相手が希望を提供してくれるならば諸手を挙げてそれを歓迎してしまうのだ。
「それにしても、ゲンキンなもんなんですよね人間って。開会式直前まであんなに大きかった開催反対の声がこの二週間ですっかり鳴りを潜めちゃいましたからね」
そんな世間の空気を別に嘆くでも憂えるでもない、日和見型のノンポリ丸出しの高藤がぼそりと独り言ちる。もちろん誰に言った訳なのでも無いのだが彼の場合は多分に周囲のリアクションを期待しての発言が多く、今回は尾上がその役目を引き受けるのだ。
「このところ殺伐とした空気に満ち満ちていたからねー。内心みんな明るい話題が欲しかったんじゃないのかな? ……とは言え、これもまた一過性のものなんだろうね。『貧すれば鈍する』とは言うけれど、人間って心の余裕が無くなるとそのはけ口を外に求めてついつい攻撃的になってしまう。またタチの悪い事に他者への攻撃はある種の人間にとっては快楽と常習性、中毒性を与える麻薬みたいなものだからね。これで収まることは無く今後もまだまだ手を変え品を変えで紛糾は無くならないのかも知れないねぇ……」
そう語る尾上の表情は達観とも諦念とも取れる穏やかさを湛えている。しかし続けて彼が口にしたセリフに、それが見た目通りの感情ではない事はさすがに鈍い高藤にも察することが出来た。
「……けど、どちらに転んでも時間が過ぎてノーサイドという訳にはいかないよね。……いつか次の世代が世の中を動かすようになった時……たとえその時にはもう自分たちはこの世にいないのだとしても、僕たちは誰かの批判の的にされたり、嘲笑の種にされてしまうのかもしれないよ。おっかない話だね……」
不意に編集部に訪れる一瞬の静まり、二人の会話を聞いていたのか馬場園の浅い咳払いが意外な程大きく室内に響き渡った。こうした時決まってそれを破るのは高藤の役目である。
「……そ、そう言えば不破さん、もう落ち着いた頃ですかね? それとも古巣の遠慮なんて元々あの人には無いのかな?」
取り繕う様に話題を逸らす高藤であるが唐突感はぬぐい切れない。意外な事にそれをフォローしたのは鮫島だった。
「当面は皆守さんの抜けた穴を補って政治部に配属されるそうです。早速方々から嫌がられているらしいですね」
いつもの事務的口調に珍しく含んだ笑いを浮かべる鮫島女史。彼女が語る様に、どこへ赴こうが不破が周囲を引っ掻き回す様は容易に想像がつく。
開会式の日から数日も経たないうちに不破の許にかつての職場である慶朝新聞から復帰する気は無いかといった旨の打診を受けたのだという。実はその裏には生前、皆守からの強い推挙があったのだそうだが、その事実を不破本人が聞くのはまだまだずっと先の話である。
仇敵兼、モチベーション維持役を失い、気のせいかどこか急に老けこんでしまったかのように見える馬場園は、それでも例の如くふんっ、と不機嫌気味に鼻を鳴らす。
「恩知らずが元の鞘に収まっただけだろうがよ。ウチとしちゃトラブルメーカーがいなくなって清々したわ」
それがあからさまな強がりに聞こえて周囲の記者たちは笑いをかみ殺すのに必死の思いを強いられる。同時に、今後はこのデスクのはけ口の何割かが自分の方にも向けられるのだな……と覚悟しなければならぬ事も自覚していた。
「何ですかね、この緩み切った雰囲気は!? ちゃんとみんなまじめに仕事してるんですか?」
そうしたどこか和んだ編集部の空気を一喝する声。両肩に機材を積み込んだハードケースを吊るした牧が戻ってきたのだ。
「うへぇ……不破二世が来た」
「誰が何の二世よ、誰がっ!!」
小声で呟かれた高藤の揶揄を聞き逃さず拾い上げた牧が喰い殺さんばかりの形相で睨めつけ相手を凍りつかせる。僅か半年弱、嘉納の事件を経て彼女は随分と逞しさとバイタリティーを身に付けた様だ。
「はい、デスク。これが今号分の画像素材、ちゃんと目を通しといて下さいね」
「……お、おぅ……」
リストアップまで済ませた数件のSDカードをケースごと馬場園の机にどかりと乗せる。別にわざわざそんな真似をしなくても担当記者らに渡せば済む話なのだが、ここの編集部では何かと馬場園が口を出したがるので最近牧は敢えてこうするようになった。そして振り返った牧はまだ言い足りなかったのか高藤に指を突き付けて言い放つ。
「言っときますけどね、私は先輩の後釜襲名する気なんてこれっぽっちもないですからね。私も私で今後の計画があるんだから、いつ私がここを離れても良い様にちゃんと後任捜しといてよね?」
かく言う牧はこのコロナの終息を待ってから自身のスキルを高める修行のために渡仏する予定だ。
「そ、それはもちろんだけど……牧ちゃん、その前に約束の合コンを……」
相手に怯えつつ、それでも懇願は忘れない高藤。ちなみに彼の言うところの約束とは牧が裏聖火リレーで知り合った九品礼と約束した合コンの話である。高藤の参加に関してはあくまで数合わせの都合上のものであって、別に牧がわざわざ彼のために場をセッティングしているわけではない。
「ああ、その話ね……。んー、最低でも三対三にしたいところなんだけど、まだメンバー足りて無いのよねぇ……。男性陣がキミと松原君に県警の関口さんでしょ? で、女性側が私が入ったとしてもあとは九品礼さんだけ……女性側の参加メンバーが一人…いや、出来れば二人足りてないのよね……」
自身の交友の狭さを嘆くわけではないが、今回の場合主役を松原と九品礼の両者と決めている牧にとって、あまりグループ違いの友人を関わらせるのには少々抵抗がある。かと言って手近な面子で頭数揃えるには些か駒が少なすぎる感が否めないのだ。さて、どうしたもんかと思案に暮れる牧。そのすぐ後ろには何やら御指名待ち気に黙って佇む鮫島の姿があった。
ところで、慧哲を去るにあたり不破は一つの置き土産を残していった。それは号を跨いだ短期集中連載予定のとある架空災害シミュレーション特集記事である。
もちろん記事はあくまでフィクションであると断りが入れてあるのだが、取材内容に関しては専門家による科学的検証を踏まえた極めて現実性の高い内容であり、一概に創作と論じ捨てる事の出来ぬクオリティーとなっている。慧哲は当分の間その特集記事に編集部の総力を注ぐ予定だ。
「東京23区を中心に発生した広域火災とその後の復興計画……、架空の災害だとしても何だか真に迫ってて恐ろしく感じますね」
「関東大震災後の都市整備、火災の拡散を防ぐ目的で整備した道路交通網が逆に火災の規模を広げる導火線となる……不破君、この短い期間で都市工学の専門家の元に通って取材を進めていたんだってね」
先程上がって来たばかりのゲラ刷りを眺めて驚嘆の声を上げる高藤に尾上も同意を見せる。
「でも社会派ドキュメンタリーやルポルタージュが本領の不破さんにしては随分と変化球を放ってきたものですよね? 作家業にでも手を出すつもりなんでしょうか?」
「慶朝復帰早々そんな訳は無いでしょう。まぁ本人の意図はともあれ、オリンピックが終わってウチも大ネタが無くなっていたところだし、内容の衝撃度でもデスク好みで助かるから良いんじゃないかな」
「そうですね。記事もここまで綿密に段取りを整えてくれたおかげで僕らは当面楽できますよ。不破さん僕らへの餞別のつもりだったんですかね?」
「餞別は送る側が貰うものではありません。それと、不破さんの記事で紙面を埋めることが出来てもあなたの業務が減った訳ではありませんので、念のため」
感謝を表すつもりがとんだ言葉の誤用と状況見積もりの甘さを鮫島が逃さず指摘を入れる。それを横目に画像サイズの確認を行っていた牧も少し皮肉めいた笑みを浮かべた。
「餞別ですって? 先輩がそんな気の利いたことする訳が無いじゃないですか」
「そーなの?」
きょとんとした表情の高藤に椅子ごと向き直ると、牧は指先に乗せたタブレットのペンをくるりと回して見せた。
「この記事はね、言うなれば一連の嘉納の事件を見届けてきた私たちからの『警告』よ。……まだどこかでえらそーにふんぞり返ってる誰かに対しての……ね」
「?」
彼女のそんな意味深且つどこか挑発的な台詞の真意は、高藤にはさっぱり理解することができなかったのだった。
もちろんオリンピックが閉会した後にはパラリンピックが控えている訳で、それもそれできっと国内外一悶着も二悶着もあるものと予想される。だからこれは完了では無く、一区切りといったところなのであろう。
土台対象の善し悪しに関わらず、世の中に抱く不平不満をを憂さ晴らしで解消するタイプの人間は目の前の標的が見えなくなった途端すぐに次の獲物を捜して徘徊するものであるから、世に紛糾の種が消えることは無い。それさえ別に今に始まった話では無く、この国はずっとそんなすったもんだを続けて歴史を重ねてきたのだ。それがこの数年コロナの感染拡大も絡んで大きく表面化しただけの話なのである。
そうした世の中の澱みさえマスコミにとっては飯の種。例えばオリンピックの開催是非のどちらの主張も本来の祭典の趣旨からは大きくかけ離れた、所詮は政治思想に癒着する外野の泥仕合なのだからそもそもそこに尊さなどある訳が無い。なればそれも結局のところより俗悪なメディアによって双方食い尽くされる運命を辿るほか道の無い下卑た見世物に過ぎない。そんな権力と金とスキャンダル、そしてびた一文にもならないしたり顔どもの論議に至るまで……知る権利を盾に取って今日も記者たちの目は次なる金鉱を漁りまわるのだ。
その最前線の一角たる慧哲編集部の壁掛けテレビの前、ワイドショーで連日流される自国選手の活躍に対してのタレントコメンテーターの賛辞に美辞麗句を、高藤がえらく興覚めした顔で観ていた。
「あれぇ? このタレント、去年の今頃やたらオリンピックの中止を主張していなかったっけ?」
「そうだっけ? よく憶えてるね高藤君」
返事をする尾上は別に相手の方にも番組にも目をくれる気は無さげで、どうしてもレイアウトに収まらない記事の推敲で自身のデスクトップから視線を移さないまま適当に調子を合わせている。一方の高藤も尾上の関心具合などどうでもいいかの様に相手の適当な相槌に更に持論を乗せてくるのだ。
「大体からして、当事者でもなく発言に責任を取らない外野の声ばかりが大きすぎるんですよ、今の世の中って!」
語気は荒いが別に真剣に世を憂いている訳ではない。彼もまた今この一時、仕事に鬱屈した自身の憂さ晴らしの標的を捜しているだけの話なのである。しかしそんな逃避が許される状況ではない事を彼はすぐに知らしめられる事となるのだ、否応無く。
「やかましぃや! つまらんこと抜かしとる暇があったら手を動かせ、スズノスケぇっ!!」
「現在あなたの原稿の遅れで構成が進まず全体の進行に支障が出始めています。これ以上作業を滞らせるようであれば、具体的には減給や罰金という形で相応の責任が生じる可能性もありますが?」
言わぬ事では無い、高藤のあからさまな勤務怠慢は馬場園や鮫島によるダブルの集中砲火を招いてしまう。
「……う、それは困る……今すぐ仕上げます……」
ダメ押しに鮫島女史がこきり、と指を鳴らすのを見て恐れをなした高藤はすごすごと自分の机へと退散してゆく。
馬場園は他にも油を売っている人間がいない事をしっかと確認し終えると、だいぶガタが来はじめた自身のデスクチェアにどかりと腰を下ろして背後の窓から外を眺める。どんよりとした雲間に時々覗く薄日の間隔の早さに上空の雲の流れの速さが伺い知れた。
そんな天気と同様、世論という物も実にアテにならないもので、実際にオリンピックがいざ始まり序盤から空前のメダルラッシュが始まると世間の空気は一気に変わってしまった。
やはり真っ先に変わってしまったのは情報番組やワイドショーで、体裁こそ中立を保ったかのようなコメントも差し挟まれるのであるが、大会中盤を過ぎて獲得メダル数のペースが歴代の記録を大きく超えるであろう予測が囁かれる頃には番組全体の雰囲気はすっかり選手への応援と賛辞の色に塗り替わってしまっていたのである。
もちろん相変わらずオリンピック憎し、政権憎しと繰り返す人間も残っているし、中にはしっかりとした論拠に基づく主張を展開する論客も存在する。だが大多数の人間からすればそれも元からどうでも良いと思っていたのだろうか……無責任な第三者にとっては相手が希望を提供してくれるならば諸手を挙げてそれを歓迎してしまうのだ。
「それにしても、ゲンキンなもんなんですよね人間って。開会式直前まであんなに大きかった開催反対の声がこの二週間ですっかり鳴りを潜めちゃいましたからね」
そんな世間の空気を別に嘆くでも憂えるでもない、日和見型のノンポリ丸出しの高藤がぼそりと独り言ちる。もちろん誰に言った訳なのでも無いのだが彼の場合は多分に周囲のリアクションを期待しての発言が多く、今回は尾上がその役目を引き受けるのだ。
「このところ殺伐とした空気に満ち満ちていたからねー。内心みんな明るい話題が欲しかったんじゃないのかな? ……とは言え、これもまた一過性のものなんだろうね。『貧すれば鈍する』とは言うけれど、人間って心の余裕が無くなるとそのはけ口を外に求めてついつい攻撃的になってしまう。またタチの悪い事に他者への攻撃はある種の人間にとっては快楽と常習性、中毒性を与える麻薬みたいなものだからね。これで収まることは無く今後もまだまだ手を変え品を変えで紛糾は無くならないのかも知れないねぇ……」
そう語る尾上の表情は達観とも諦念とも取れる穏やかさを湛えている。しかし続けて彼が口にしたセリフに、それが見た目通りの感情ではない事はさすがに鈍い高藤にも察することが出来た。
「……けど、どちらに転んでも時間が過ぎてノーサイドという訳にはいかないよね。……いつか次の世代が世の中を動かすようになった時……たとえその時にはもう自分たちはこの世にいないのだとしても、僕たちは誰かの批判の的にされたり、嘲笑の種にされてしまうのかもしれないよ。おっかない話だね……」
不意に編集部に訪れる一瞬の静まり、二人の会話を聞いていたのか馬場園の浅い咳払いが意外な程大きく室内に響き渡った。こうした時決まってそれを破るのは高藤の役目である。
「……そ、そう言えば不破さん、もう落ち着いた頃ですかね? それとも古巣の遠慮なんて元々あの人には無いのかな?」
取り繕う様に話題を逸らす高藤であるが唐突感はぬぐい切れない。意外な事にそれをフォローしたのは鮫島だった。
「当面は皆守さんの抜けた穴を補って政治部に配属されるそうです。早速方々から嫌がられているらしいですね」
いつもの事務的口調に珍しく含んだ笑いを浮かべる鮫島女史。彼女が語る様に、どこへ赴こうが不破が周囲を引っ掻き回す様は容易に想像がつく。
開会式の日から数日も経たないうちに不破の許にかつての職場である慶朝新聞から復帰する気は無いかといった旨の打診を受けたのだという。実はその裏には生前、皆守からの強い推挙があったのだそうだが、その事実を不破本人が聞くのはまだまだずっと先の話である。
仇敵兼、モチベーション維持役を失い、気のせいかどこか急に老けこんでしまったかのように見える馬場園は、それでも例の如くふんっ、と不機嫌気味に鼻を鳴らす。
「恩知らずが元の鞘に収まっただけだろうがよ。ウチとしちゃトラブルメーカーがいなくなって清々したわ」
それがあからさまな強がりに聞こえて周囲の記者たちは笑いをかみ殺すのに必死の思いを強いられる。同時に、今後はこのデスクのはけ口の何割かが自分の方にも向けられるのだな……と覚悟しなければならぬ事も自覚していた。
「何ですかね、この緩み切った雰囲気は!? ちゃんとみんなまじめに仕事してるんですか?」
そうしたどこか和んだ編集部の空気を一喝する声。両肩に機材を積み込んだハードケースを吊るした牧が戻ってきたのだ。
「うへぇ……不破二世が来た」
「誰が何の二世よ、誰がっ!!」
小声で呟かれた高藤の揶揄を聞き逃さず拾い上げた牧が喰い殺さんばかりの形相で睨めつけ相手を凍りつかせる。僅か半年弱、嘉納の事件を経て彼女は随分と逞しさとバイタリティーを身に付けた様だ。
「はい、デスク。これが今号分の画像素材、ちゃんと目を通しといて下さいね」
「……お、おぅ……」
リストアップまで済ませた数件のSDカードをケースごと馬場園の机にどかりと乗せる。別にわざわざそんな真似をしなくても担当記者らに渡せば済む話なのだが、ここの編集部では何かと馬場園が口を出したがるので最近牧は敢えてこうするようになった。そして振り返った牧はまだ言い足りなかったのか高藤に指を突き付けて言い放つ。
「言っときますけどね、私は先輩の後釜襲名する気なんてこれっぽっちもないですからね。私も私で今後の計画があるんだから、いつ私がここを離れても良い様にちゃんと後任捜しといてよね?」
かく言う牧はこのコロナの終息を待ってから自身のスキルを高める修行のために渡仏する予定だ。
「そ、それはもちろんだけど……牧ちゃん、その前に約束の合コンを……」
相手に怯えつつ、それでも懇願は忘れない高藤。ちなみに彼の言うところの約束とは牧が裏聖火リレーで知り合った九品礼と約束した合コンの話である。高藤の参加に関してはあくまで数合わせの都合上のものであって、別に牧がわざわざ彼のために場をセッティングしているわけではない。
「ああ、その話ね……。んー、最低でも三対三にしたいところなんだけど、まだメンバー足りて無いのよねぇ……。男性陣がキミと松原君に県警の関口さんでしょ? で、女性側が私が入ったとしてもあとは九品礼さんだけ……女性側の参加メンバーが一人…いや、出来れば二人足りてないのよね……」
自身の交友の狭さを嘆くわけではないが、今回の場合主役を松原と九品礼の両者と決めている牧にとって、あまりグループ違いの友人を関わらせるのには少々抵抗がある。かと言って手近な面子で頭数揃えるには些か駒が少なすぎる感が否めないのだ。さて、どうしたもんかと思案に暮れる牧。そのすぐ後ろには何やら御指名待ち気に黙って佇む鮫島の姿があった。
ところで、慧哲を去るにあたり不破は一つの置き土産を残していった。それは号を跨いだ短期集中連載予定のとある架空災害シミュレーション特集記事である。
もちろん記事はあくまでフィクションであると断りが入れてあるのだが、取材内容に関しては専門家による科学的検証を踏まえた極めて現実性の高い内容であり、一概に創作と論じ捨てる事の出来ぬクオリティーとなっている。慧哲は当分の間その特集記事に編集部の総力を注ぐ予定だ。
「東京23区を中心に発生した広域火災とその後の復興計画……、架空の災害だとしても何だか真に迫ってて恐ろしく感じますね」
「関東大震災後の都市整備、火災の拡散を防ぐ目的で整備した道路交通網が逆に火災の規模を広げる導火線となる……不破君、この短い期間で都市工学の専門家の元に通って取材を進めていたんだってね」
先程上がって来たばかりのゲラ刷りを眺めて驚嘆の声を上げる高藤に尾上も同意を見せる。
「でも社会派ドキュメンタリーやルポルタージュが本領の不破さんにしては随分と変化球を放ってきたものですよね? 作家業にでも手を出すつもりなんでしょうか?」
「慶朝復帰早々そんな訳は無いでしょう。まぁ本人の意図はともあれ、オリンピックが終わってウチも大ネタが無くなっていたところだし、内容の衝撃度でもデスク好みで助かるから良いんじゃないかな」
「そうですね。記事もここまで綿密に段取りを整えてくれたおかげで僕らは当面楽できますよ。不破さん僕らへの餞別のつもりだったんですかね?」
「餞別は送る側が貰うものではありません。それと、不破さんの記事で紙面を埋めることが出来てもあなたの業務が減った訳ではありませんので、念のため」
感謝を表すつもりがとんだ言葉の誤用と状況見積もりの甘さを鮫島が逃さず指摘を入れる。それを横目に画像サイズの確認を行っていた牧も少し皮肉めいた笑みを浮かべた。
「餞別ですって? 先輩がそんな気の利いたことする訳が無いじゃないですか」
「そーなの?」
きょとんとした表情の高藤に椅子ごと向き直ると、牧は指先に乗せたタブレットのペンをくるりと回して見せた。
「この記事はね、言うなれば一連の嘉納の事件を見届けてきた私たちからの『警告』よ。……まだどこかでえらそーにふんぞり返ってる誰かに対しての……ね」
「?」
彼女のそんな意味深且つどこか挑発的な台詞の真意は、高藤にはさっぱり理解することができなかったのだった。