高くかかげよ燃える火を
夏本番となった灼熱の東京、都庁前で開催されたセレモニーには危惧されていた嘉納も、また昨日不破に犯行予告染みた言葉を残した小山田こと神崎も姿を現す事は無かった。
「諦めちゃったんでしょうか?」
「そうであったならどれだけ楽だったことか。だが嘉納も小や──いや、神崎さんも意味の無い言動はしない。今ここに現れないならそれは目的がここではないというだけの事さ。尤も、意味の無い言動は無くても、どちらも意味の分かり辛い謎かけみたいな発言はするのだがな」
粛々とセレモニーが執り行われている一方その外側、立ち入り禁止エリアの外ではオリンピックの反対を唱える人間たちがプラカードを掲げて声を張り上げている。その群衆の密な有様と「命を守れ」と書かれたプラカードの文字は何某らかの断末魔の如き悲壮感とシニカルな喜劇性、そして空疎な違和感をただただ漂わせるのだ。
そんな会場の様子を二区画程離れた場所から伺いながら、双眼鏡片手の不破は自分のハンカチで汗をぬぐう。一方の牧は日差しを気にしてかマスクにサングラス、ポータブルの扇風機と万全の装備で彼の横に張り付いていた。そうしてしばらくは一通り周囲の様子を確認していた不破だったが、大きく伸びをすると顎にかけていたマスクを口にかけ直しセレモニーに背を向けた。
「どうやらここはハズレのようだな。少なくとも嘉納の方はどこに出現するかだけは分かっている。問題はその嘉納の行動に神崎さんの行動がどの程度関わっているか…だ。行くぞ、どこか涼しい場所で作戦会議だ」
「良かったァ、丁度喉が渇いていたところでした。ご馳走になります♪」
「……自分の食い分、飲み分は自分で出せ」
「ケチ!」
二人は直射日光を避けそのまま地下街へと降りて行った。
◆
PM7:45……遥か彼方にドコモタワーの尖塔が黒いシルエットを浮かびあがらせた空を仰ぐ新宿御苑。既に閉園時間は過ぎて施設内には一見人の姿を認める事は出来ず、夕闇が覆い始めた各種の公園や庭園はただ蝉の声だけが響き渡っていた。
そんな施設の一角、植え込みの茂みから牧の頭がひょっこり飛び出し、きょろきょろと周囲を伺う。それに喰らいつく様に後方から伸びた不破の手が彼女の頭をがしりと掴んで植え込みの中に押し戻した。
「アホぅ、頭を出すな。気付かれるぞ」
「そんなこと言ったって、全然人の姿なんてありませんよ? 時間や場所、間違えたんじゃないですか?」
「場所はともかく時間に関しては確かに何の確証も持てないな。閉園時間で一般人が出入りできないとはいえ、腐ってもここは新宿だ、奴が現れるとしたら世間の注目がこの後国立競技場で開催されるオリンピックの開会式に目を奪われているこの時間からと考えるのが妥当だと思ったのだが……」
「さっきここに潜り込むのも結構苦労しましたよね? 意外に警官歩きまわっているんだなぁ……って思いましたよ。あ、そうだ。先輩、赤外線スコープ使います?」
「……そんなモノ持ってきていたのか。いや、助かるけど……」
牧は手元のバッグから赤外線式の暗視スコープを取り出すとそれを不破に手渡した。もちろん自分のも用意してある。カメラのレンズを外すと牧はスコープを本体に取り付けファインダー越しに闇が浸食し始めた公園を狙うのだ。
「………先輩、聞いて良いですか?」
「何だ?」
不破はスコープを覗き込んだまま応じる。
「咲楽さんが嘉納の妹だって事、どうやって気付いたんですか?」
唐突且つ、核心を突く牧の疑問に不破は返答を返すまで数瞬の間を要した。
「気付いていたわけじゃない……実際、その事実を確信したのはつい此間、小やま……じゃねぇ、神崎さんから真相を打ち明けられた時だ。主旨は嘉納が瞳美夫人……『№193号』の子供である事を示唆するものだったが、そこで神崎さんが用いたきょうだいという言い回しが気になってな……。思えば嘉納には何者か関係者を庇う様な発言が多々見られた。神崎さんの話を聞いて俺は最初それは母親……つまり夫人を庇っているんだと思ったんだが、よくよく考えてみると夫人は別に一連の犯行に何一つ自発的には関わっていないのだから庇い立てする必然性が薄い。ならばその相手はきょうだいのどちらかだろうと思った。……嘉納とその兄か弟……あるいは妹か……。そう考えた時、山下公園で夫人を救出した時の事を思い出したんだ……」
「横浜で? 何かありましたっけ?」
「憶えてないか? あの時夫人が口ずさんでいた歌だ」
「歌?」
確かにあの時彼女は呟く様に歌を口ずさんでいた事を牧は思い出した。歌詞は飛び飛びにしか聞き取れなかったので未だにそれが何の歌なのかは判らないのだが、判然としない意識であるにも拘らず明確に歌っていた事を考えるとそこには彼女にとって大切な記憶の断片が潜んでいるのであろうとは推測できるのだ。
「それでな、実は以前にも俺はその歌を別の人物から聞いていたんだ」
「……もしかして、それが咲楽さん?」
「そうだ。彼女の鼻歌が正にその歌だったんだ」
それはヴェラティの洗い出しを行っていた時である。うたた寝していた不破は咲楽が台所でハミング混じりの鼻歌を奏でているのを聞いた事があった。もちろんその時はそこに何の関係性を見出す事など無かったのであるが、何故か薄っすらとその歌声が記憶の片隅に残っていたのである。
「確か『高くかかげよ』という唱歌……だったかな? 小学生の時キャンプファイヤーで歌った記憶があったな」
──高くかかげよ 燃える火を
みにくきもの 焼き尽くす火を
嵐吹くとも この火は消せない
高くかかげよ 我らの火を
──高くかかげよ 燃える火を
よをうち開き 光増す火を
嵐吹くとも この火は消せない
高くかかげよ 我らの火を
「………何となく嘉納の犯行を象徴するかの様な歌ですね。いえ、犯罪を匂わせるって意味じゃ無くって、何と言うか……確固たる意志を感じるというか……?」
そこに感じた印象をどう言葉にしたら良いものか、上手く表現出来ずに牧は思案に暮れてしまう。
「言わんとしている事は解るよ、この唱歌自体が多分に含みを持ったものであるからな。ともかく夫人と詩穂ちゃん……両者の歌が一致した時その関係性が分かったんだ。たぶん詩穂ちゃんは兄である嘉納のバックアップと情報収集を担っていた最初からの『共犯者』だったんだ。彼女のハッカーとしてのスキルはそのために身につけたものなのだろうな」
まだあれこれと考えていた牧は虚を突かれてぎょっとした顔を不破に向けた。咲楽との約束を律義に守って牧は彼女がハッキングを用いていた事をずっと誰にも言わず胸のうちに秘めていたのだ。ところが、よりにもよって恐らく彼女が一番知られたくないと思っていたであろう不破の口からその事実が明かされたのである。
「……えっ? えぇっ!? ……どっ、どうして……その事を?」
「どうしても何も、そんな特殊な手でも使わない限りあの短時間で中林さんや麻臣さんの犯行計画の証拠が掴めるわけ無いだろうが? それ以前にも詩穂ちゃん自身、葛藤があったのか何やら言いたげだったしな、後はそこからの推測さ」
「……彼女の秘密がバレない様に必死で隠してた私の苦労って一体……………」
深いため息とともに牧はがくりと肩を落とした。気疲れと落胆と、ほんの少し安堵を覚えて一気に体の力が抜けた様な虚脱感に襲われる。
「ほら、気を抜いているんじゃない。恐らくここに現れるのは嘉納だけじゃない、既にこの施設のどこかに嘉納を追っている緊急強化選手の連中も潜んでいるかも知れないんだ。言うなればここは敵陣、気を抜いていると誇張無しで命の保証はないぞ?」
「だったらいっその事、外をうろついている警官呼んでそんな連中全員逮捕させちゃえばいいのよ。不法侵入者なんだから!」
「言っとくが、俺たちもその不法侵入者である事は忘れるなよ?」
「ゔ……っ」
改めて自分が極めて危険な領域に足を踏み込んでいる事を再認識してしまい牧は言葉を詰まらせる。毒を食らわば皿まで、こうなったら牧も覚悟を決めなければならないのである。
一方で、今までそうした状況には一切関わらせようとしなかった不破が同行を許した事を、心のどこかでは嬉しく感じている自分もいたりする。それが自分に対する期待であるなら報いなければと心を奮わせるのだ。
「……ん?」
そんな思いを咀嚼していたところ、牧の視界は広場を挟んだ林の暗がりに微かに動くぼんやりとした人型の姿を発見する。それは代々木方面から侵入してきて新宿方面へと歩を進めている様に見受けられる。牧は声を潜めてすぐ脇に控える不破に注意を促した。
「……先輩っ、見つけました」
「やはりお出でなすったか……!」
人影は二人、三人……とたちまちの間に数を増やしてゆく。だがその増え方は尋常な量ではない。公園内にあれだけ響き渡っていた蝉の声はいつの間にか聞こえなくなっていた。
「どういうことだ!? こいつは十人、二十人なんてもんじゃないぞ!?」
「何かの集会……ってワケじゃあない……よね?」
さすがに続々と集結して来る緊急強化選手らしき集団を目の当たりにして不破も牧も顔色を失う。
「どうやら連中、残存勢力全てを投入してでも嘉納を潰したいと見えるな。奴らとしてもこれが瀬戸際なのだろうぜ……」
実際、先日黒スーツらを一斉検挙した事でSS擬きの裏で糸を引いていた組織も少なからぬダメージを受けたはずである。未だにゲームが続行されている現状が余力からくるものなのかそれとも引き返せない破滅の道の途上なのかは伺い知れないが、これが最後の総力戦を狙ったものである事は明白である。
やがて周囲の物陰という物陰がおびただしい数の人間に満たされる頃、不意に不破と牧の背後に人の気配が現れた。
「えっ!?」
この距離にまで近づかれるまで全く気付かなかった。二人が身体を翻すとスコープ内の視野が一瞬にして光に包まれる……慌ててスコープから目を離すと、そこには煌々とした炎を点したトーチ片手の嘉納の姿……。彼は二人の姿を認めると一度小さくお辞儀をして空いた手で「その場から動かぬように」と動きを制してから先へと進む。言われずとも不破は相手の張り詰めた気配にその場から動けずにいた、牧に至っては完全に気圧されて言葉すら出せないでいる。
なおも前に進み出て広場の中心へと向かう嘉納。それはあたかも何かしらの儀式の様であり、嘉納はまるでその儀式に求められた生贄か巫女の如く然るべき舞台へと登壇するのだ。時刻はPM8:55……目と鼻の先に在る国立競技場ではとっくに開会式が始まっている時間である。
それに呼応するかの様に木々の陰から緊急強化選手たちが姿を現す。あるものは白や青の道着に身を包み、またある者は身軽なランニングウェアにプロテクターを装着している。中には半裸の者も居り、背中一面を覆う刺青をこれ見よがしに晒して威嚇している。奇妙なのは皆目出し帽やらサングラスとマスクやら、様々な扮装で顔を隠している点。そのどこかちぐはぐな恰好は恐ろしさよりも先に奇怪さが際立つのだ。やがて彼らの輪の中、単身中央に臨んだ嘉納は油断なく周囲の『敵』を見据える。時折昂りを抑えられず一歩進み出る者も何人か見受けられたが、その度嘉納のひと睨みで彼らはまた後ろ退る。
「……これ、完全に不利じゃあありませんか?」
息を潜めた呟き声で牧は不破に問いかける。言われるまでも無くこの状況は嘉納にとって絶望的でしかない。達人は複数人を相手にしても後れは取らないものだが、それとて限度はある。フィクションの世界の超人でもない限りこれだけの大人数を相手にしてでは勝つどころか無事に生き延びる事さえ至難の業なのだ。
「何か大逆転の秘策でもあるんでしょうか……?」
「そんなのあるもんかよ。こいつはただの多勢に無勢、孤立無援って状況だ。漫画じゃあるまいし、この状況をひっくり返せる様な奇跡の展開なんざ、まずあり得ない」
それをただ指をくわえて見ているだけの自身にも歯がゆさを感じる。実は先程からどうすればこの状況を好転させることが出来るのだろうかと、不破は必死で頭を回転させていたのであるが妙案はなかなか浮かばない。
「だが、このまんまじゃなぶり殺しにされるのが目に見えている……、オイ……お前、本当にどう収拾付ける気なんだよ……」
一瞬自分に対してかけられた言葉かと勘違いして、牧は不破の方を振り返る。だがその見つめる先からそれが嘉納に対して投げかけられた独り言だという事にすぐに気づき、再び目の前の緊迫した状況へと視線を戻した。
嘉納が手にしたトーチを高々と頭上に掲げる。ゆらゆらと光を湛える炎が周囲を取り囲む殺意の群れどもを照らし出すのが見える。嘉納はまるで死地を見出した修羅か悪鬼の様な笑みを浮かべる。
次の瞬間、嘉納は手にしたトーチを逆手に持ち替え、そのまま聖火を足元の地面へと突き立てた………!
一瞬破裂するような炎が地面を照らし、そして白い煙を上げて聖火は消え失せた。
周囲を取り囲む緊急強化選手たち……それを更に離れた場所から事の行方を見守る不破と牧さえも、嘉納を除くその場にいた全ての人間が目の前で起こった事実を容易に呑み込めず、ただ呆然と立ち尽くす……。
「……っ、お…ッ……!?」
だがしばらくの間を置いて、絶句する群れの中から誰かが驚愕と憤怒で裏返った声を絞り出した。
「……お、おどりゃァっ……!? 一体何してくれてんじゃあァアっっっ!!!」
それを合図に地響きの様な怒声が巻き起こり、津波となった人間の群れが嘉納目がけて躍りかかってゆく。
PM9:00……。国立競技場では各国の選手団が入場を開始したのと時同じくして、新宿御苑では怒涛の如くなだれ込む無数の緊急強化選手らを相手取った嘉納の最後の犯行が開始された。
「諦めちゃったんでしょうか?」
「そうであったならどれだけ楽だったことか。だが嘉納も小や──いや、神崎さんも意味の無い言動はしない。今ここに現れないならそれは目的がここではないというだけの事さ。尤も、意味の無い言動は無くても、どちらも意味の分かり辛い謎かけみたいな発言はするのだがな」
粛々とセレモニーが執り行われている一方その外側、立ち入り禁止エリアの外ではオリンピックの反対を唱える人間たちがプラカードを掲げて声を張り上げている。その群衆の密な有様と「命を守れ」と書かれたプラカードの文字は何某らかの断末魔の如き悲壮感とシニカルな喜劇性、そして空疎な違和感をただただ漂わせるのだ。
そんな会場の様子を二区画程離れた場所から伺いながら、双眼鏡片手の不破は自分のハンカチで汗をぬぐう。一方の牧は日差しを気にしてかマスクにサングラス、ポータブルの扇風機と万全の装備で彼の横に張り付いていた。そうしてしばらくは一通り周囲の様子を確認していた不破だったが、大きく伸びをすると顎にかけていたマスクを口にかけ直しセレモニーに背を向けた。
「どうやらここはハズレのようだな。少なくとも嘉納の方はどこに出現するかだけは分かっている。問題はその嘉納の行動に神崎さんの行動がどの程度関わっているか…だ。行くぞ、どこか涼しい場所で作戦会議だ」
「良かったァ、丁度喉が渇いていたところでした。ご馳走になります♪」
「……自分の食い分、飲み分は自分で出せ」
「ケチ!」
二人は直射日光を避けそのまま地下街へと降りて行った。
◆
PM7:45……遥か彼方にドコモタワーの尖塔が黒いシルエットを浮かびあがらせた空を仰ぐ新宿御苑。既に閉園時間は過ぎて施設内には一見人の姿を認める事は出来ず、夕闇が覆い始めた各種の公園や庭園はただ蝉の声だけが響き渡っていた。
そんな施設の一角、植え込みの茂みから牧の頭がひょっこり飛び出し、きょろきょろと周囲を伺う。それに喰らいつく様に後方から伸びた不破の手が彼女の頭をがしりと掴んで植え込みの中に押し戻した。
「アホぅ、頭を出すな。気付かれるぞ」
「そんなこと言ったって、全然人の姿なんてありませんよ? 時間や場所、間違えたんじゃないですか?」
「場所はともかく時間に関しては確かに何の確証も持てないな。閉園時間で一般人が出入りできないとはいえ、腐ってもここは新宿だ、奴が現れるとしたら世間の注目がこの後国立競技場で開催されるオリンピックの開会式に目を奪われているこの時間からと考えるのが妥当だと思ったのだが……」
「さっきここに潜り込むのも結構苦労しましたよね? 意外に警官歩きまわっているんだなぁ……って思いましたよ。あ、そうだ。先輩、赤外線スコープ使います?」
「……そんなモノ持ってきていたのか。いや、助かるけど……」
牧は手元のバッグから赤外線式の暗視スコープを取り出すとそれを不破に手渡した。もちろん自分のも用意してある。カメラのレンズを外すと牧はスコープを本体に取り付けファインダー越しに闇が浸食し始めた公園を狙うのだ。
「………先輩、聞いて良いですか?」
「何だ?」
不破はスコープを覗き込んだまま応じる。
「咲楽さんが嘉納の妹だって事、どうやって気付いたんですか?」
唐突且つ、核心を突く牧の疑問に不破は返答を返すまで数瞬の間を要した。
「気付いていたわけじゃない……実際、その事実を確信したのはつい此間、小やま……じゃねぇ、神崎さんから真相を打ち明けられた時だ。主旨は嘉納が瞳美夫人……『№193号』の子供である事を示唆するものだったが、そこで神崎さんが用いたきょうだいという言い回しが気になってな……。思えば嘉納には何者か関係者を庇う様な発言が多々見られた。神崎さんの話を聞いて俺は最初それは母親……つまり夫人を庇っているんだと思ったんだが、よくよく考えてみると夫人は別に一連の犯行に何一つ自発的には関わっていないのだから庇い立てする必然性が薄い。ならばその相手はきょうだいのどちらかだろうと思った。……嘉納とその兄か弟……あるいは妹か……。そう考えた時、山下公園で夫人を救出した時の事を思い出したんだ……」
「横浜で? 何かありましたっけ?」
「憶えてないか? あの時夫人が口ずさんでいた歌だ」
「歌?」
確かにあの時彼女は呟く様に歌を口ずさんでいた事を牧は思い出した。歌詞は飛び飛びにしか聞き取れなかったので未だにそれが何の歌なのかは判らないのだが、判然としない意識であるにも拘らず明確に歌っていた事を考えるとそこには彼女にとって大切な記憶の断片が潜んでいるのであろうとは推測できるのだ。
「それでな、実は以前にも俺はその歌を別の人物から聞いていたんだ」
「……もしかして、それが咲楽さん?」
「そうだ。彼女の鼻歌が正にその歌だったんだ」
それはヴェラティの洗い出しを行っていた時である。うたた寝していた不破は咲楽が台所でハミング混じりの鼻歌を奏でているのを聞いた事があった。もちろんその時はそこに何の関係性を見出す事など無かったのであるが、何故か薄っすらとその歌声が記憶の片隅に残っていたのである。
「確か『高くかかげよ』という唱歌……だったかな? 小学生の時キャンプファイヤーで歌った記憶があったな」
──高くかかげよ 燃える火を
みにくきもの 焼き尽くす火を
嵐吹くとも この火は消せない
高くかかげよ 我らの火を
──高くかかげよ 燃える火を
よをうち開き 光増す火を
嵐吹くとも この火は消せない
高くかかげよ 我らの火を
「………何となく嘉納の犯行を象徴するかの様な歌ですね。いえ、犯罪を匂わせるって意味じゃ無くって、何と言うか……確固たる意志を感じるというか……?」
そこに感じた印象をどう言葉にしたら良いものか、上手く表現出来ずに牧は思案に暮れてしまう。
「言わんとしている事は解るよ、この唱歌自体が多分に含みを持ったものであるからな。ともかく夫人と詩穂ちゃん……両者の歌が一致した時その関係性が分かったんだ。たぶん詩穂ちゃんは兄である嘉納のバックアップと情報収集を担っていた最初からの『共犯者』だったんだ。彼女のハッカーとしてのスキルはそのために身につけたものなのだろうな」
まだあれこれと考えていた牧は虚を突かれてぎょっとした顔を不破に向けた。咲楽との約束を律義に守って牧は彼女がハッキングを用いていた事をずっと誰にも言わず胸のうちに秘めていたのだ。ところが、よりにもよって恐らく彼女が一番知られたくないと思っていたであろう不破の口からその事実が明かされたのである。
「……えっ? えぇっ!? ……どっ、どうして……その事を?」
「どうしても何も、そんな特殊な手でも使わない限りあの短時間で中林さんや麻臣さんの犯行計画の証拠が掴めるわけ無いだろうが? それ以前にも詩穂ちゃん自身、葛藤があったのか何やら言いたげだったしな、後はそこからの推測さ」
「……彼女の秘密がバレない様に必死で隠してた私の苦労って一体……………」
深いため息とともに牧はがくりと肩を落とした。気疲れと落胆と、ほんの少し安堵を覚えて一気に体の力が抜けた様な虚脱感に襲われる。
「ほら、気を抜いているんじゃない。恐らくここに現れるのは嘉納だけじゃない、既にこの施設のどこかに嘉納を追っている緊急強化選手の連中も潜んでいるかも知れないんだ。言うなればここは敵陣、気を抜いていると誇張無しで命の保証はないぞ?」
「だったらいっその事、外をうろついている警官呼んでそんな連中全員逮捕させちゃえばいいのよ。不法侵入者なんだから!」
「言っとくが、俺たちもその不法侵入者である事は忘れるなよ?」
「ゔ……っ」
改めて自分が極めて危険な領域に足を踏み込んでいる事を再認識してしまい牧は言葉を詰まらせる。毒を食らわば皿まで、こうなったら牧も覚悟を決めなければならないのである。
一方で、今までそうした状況には一切関わらせようとしなかった不破が同行を許した事を、心のどこかでは嬉しく感じている自分もいたりする。それが自分に対する期待であるなら報いなければと心を奮わせるのだ。
「……ん?」
そんな思いを咀嚼していたところ、牧の視界は広場を挟んだ林の暗がりに微かに動くぼんやりとした人型の姿を発見する。それは代々木方面から侵入してきて新宿方面へと歩を進めている様に見受けられる。牧は声を潜めてすぐ脇に控える不破に注意を促した。
「……先輩っ、見つけました」
「やはりお出でなすったか……!」
人影は二人、三人……とたちまちの間に数を増やしてゆく。だがその増え方は尋常な量ではない。公園内にあれだけ響き渡っていた蝉の声はいつの間にか聞こえなくなっていた。
「どういうことだ!? こいつは十人、二十人なんてもんじゃないぞ!?」
「何かの集会……ってワケじゃあない……よね?」
さすがに続々と集結して来る緊急強化選手らしき集団を目の当たりにして不破も牧も顔色を失う。
「どうやら連中、残存勢力全てを投入してでも嘉納を潰したいと見えるな。奴らとしてもこれが瀬戸際なのだろうぜ……」
実際、先日黒スーツらを一斉検挙した事でSS擬きの裏で糸を引いていた組織も少なからぬダメージを受けたはずである。未だにゲームが続行されている現状が余力からくるものなのかそれとも引き返せない破滅の道の途上なのかは伺い知れないが、これが最後の総力戦を狙ったものである事は明白である。
やがて周囲の物陰という物陰がおびただしい数の人間に満たされる頃、不意に不破と牧の背後に人の気配が現れた。
「えっ!?」
この距離にまで近づかれるまで全く気付かなかった。二人が身体を翻すとスコープ内の視野が一瞬にして光に包まれる……慌ててスコープから目を離すと、そこには煌々とした炎を点したトーチ片手の嘉納の姿……。彼は二人の姿を認めると一度小さくお辞儀をして空いた手で「その場から動かぬように」と動きを制してから先へと進む。言われずとも不破は相手の張り詰めた気配にその場から動けずにいた、牧に至っては完全に気圧されて言葉すら出せないでいる。
なおも前に進み出て広場の中心へと向かう嘉納。それはあたかも何かしらの儀式の様であり、嘉納はまるでその儀式に求められた生贄か巫女の如く然るべき舞台へと登壇するのだ。時刻はPM8:55……目と鼻の先に在る国立競技場ではとっくに開会式が始まっている時間である。
それに呼応するかの様に木々の陰から緊急強化選手たちが姿を現す。あるものは白や青の道着に身を包み、またある者は身軽なランニングウェアにプロテクターを装着している。中には半裸の者も居り、背中一面を覆う刺青をこれ見よがしに晒して威嚇している。奇妙なのは皆目出し帽やらサングラスとマスクやら、様々な扮装で顔を隠している点。そのどこかちぐはぐな恰好は恐ろしさよりも先に奇怪さが際立つのだ。やがて彼らの輪の中、単身中央に臨んだ嘉納は油断なく周囲の『敵』を見据える。時折昂りを抑えられず一歩進み出る者も何人か見受けられたが、その度嘉納のひと睨みで彼らはまた後ろ退る。
「……これ、完全に不利じゃあありませんか?」
息を潜めた呟き声で牧は不破に問いかける。言われるまでも無くこの状況は嘉納にとって絶望的でしかない。達人は複数人を相手にしても後れは取らないものだが、それとて限度はある。フィクションの世界の超人でもない限りこれだけの大人数を相手にしてでは勝つどころか無事に生き延びる事さえ至難の業なのだ。
「何か大逆転の秘策でもあるんでしょうか……?」
「そんなのあるもんかよ。こいつはただの多勢に無勢、孤立無援って状況だ。漫画じゃあるまいし、この状況をひっくり返せる様な奇跡の展開なんざ、まずあり得ない」
それをただ指をくわえて見ているだけの自身にも歯がゆさを感じる。実は先程からどうすればこの状況を好転させることが出来るのだろうかと、不破は必死で頭を回転させていたのであるが妙案はなかなか浮かばない。
「だが、このまんまじゃなぶり殺しにされるのが目に見えている……、オイ……お前、本当にどう収拾付ける気なんだよ……」
一瞬自分に対してかけられた言葉かと勘違いして、牧は不破の方を振り返る。だがその見つめる先からそれが嘉納に対して投げかけられた独り言だという事にすぐに気づき、再び目の前の緊迫した状況へと視線を戻した。
嘉納が手にしたトーチを高々と頭上に掲げる。ゆらゆらと光を湛える炎が周囲を取り囲む殺意の群れどもを照らし出すのが見える。嘉納はまるで死地を見出した修羅か悪鬼の様な笑みを浮かべる。
次の瞬間、嘉納は手にしたトーチを逆手に持ち替え、そのまま聖火を足元の地面へと突き立てた………!
一瞬破裂するような炎が地面を照らし、そして白い煙を上げて聖火は消え失せた。
周囲を取り囲む緊急強化選手たち……それを更に離れた場所から事の行方を見守る不破と牧さえも、嘉納を除くその場にいた全ての人間が目の前で起こった事実を容易に呑み込めず、ただ呆然と立ち尽くす……。
「……っ、お…ッ……!?」
だがしばらくの間を置いて、絶句する群れの中から誰かが驚愕と憤怒で裏返った声を絞り出した。
「……お、おどりゃァっ……!? 一体何してくれてんじゃあァアっっっ!!!」
それを合図に地響きの様な怒声が巻き起こり、津波となった人間の群れが嘉納目がけて躍りかかってゆく。
PM9:00……。国立競技場では各国の選手団が入場を開始したのと時同じくして、新宿御苑では怒涛の如くなだれ込む無数の緊急強化選手らを相手取った嘉納の最後の犯行が開始された。