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作者: 沖房 甍
交錯
 公道での開催こそ見送られたが、この日横浜では本家の聖火リレーのセレモニーが行われていた。だからこの地に嘉納が現れること自体は決して意外な事では無い……が、この時間……しかもこのタイミングでの彼の出現は不破にとって全くの予想外の出来事であった。しかも彼が今ここに現れた事が聖火リレーと無関係であるのはそのいで立ちからも明らかで、服装こそこれまで同様ボロボロのスポーツウェアに身を包んでいるものの、その手には本来あるべき物……つまりトーチを携えていないのである。
 この事から、彼にとっても今ここにいるのは全く予定外の行動からなるものであり、場合によっては不測の事態で動いた結果この場に現れざるを得なかった事情があったものとも推測できるのだ。

 ──ならばその不測の事態とは一体何だったというのだろうか?

 考え難い事ではあるがこの状況下のみで判断する限り、彼はまるでこの窮地を察知して不破たちの加勢にこの場に現れた……そういう風にしか思えないのである。その行動の真意を知るであろう当の本人であるが、息を切らせて眼下の大階段を上ってきた不破の姿を認めると静かに言い放つ。

「……あなたは、ここで何をしているんだ?」

 それがどういった意図での発言であるかは理解できないが、「それはこっちの台詞だ」と不破は反射的に思う。彼からすれば嘉納の方こそ今この場にそぐわない予定外の人間なのだ。

「あんたこそ、何でこんなとこに……!?」

 飛び入りの参加者に救うべき女性を先にかっさらわれておいてはそれもまた格好のつかない台詞なのであるが、不破としては当然の様にそう問い質す他取るべき態度が無い。ちぐはぐな片道の問答を投げかけ合っている間に嘉納の後方から牧も駆けつけ……彼女もまたその場の状況がよく呑み込めずにその場で思考停止してしまう。

 ……まさかこの嘉納も中林や麻臣の共犯者か? 一瞬そんな悪い想像なども頭を過るのだが、彼の足元に転がる麻臣の姿から察する限りではどうやらその線は無いらしい。この上更にこの超人的な男と対決せねばならないかも知れないという最悪の展開も覚悟した不破はひとまずホッと胸を撫で下ろす。改めて見れば、抱え上げた瞳美夫人を見下ろす嘉納の眼差しは、何故だかこれまで見せた彼の表情のどれよりも穏やかで、優しささえ感じ取られてならない。
 そんな不破の逡巡などまるで関係無いかのように、この場に駆けつけたのが見知った記者である事を認識した嘉納は夫人を静かにその場に下すと、再び無感情な光を宿した目を向け相手に告げる。

「……この人を、関係者の許へ……」
「……あ…、ああ。分かった……」

 不破に夫人を託して嘉納はその場を去ろうと踵を返す……が、何か思う処でもあったのだろうか、いま一度こちらに向き直って再び口を開いた。

「……不破さん、この場であなたに出くわしたのもきっと何かの縁なのだろう。だから伝えておこうと思う」

 それはたった今この場で思いついた事なのだろう。慎重に言葉を選びながらの嘉納はぽつり、ぽつり……と言葉を紡ぐ。

「聖火リレー最終日……点火セレモニーの時間……新宿御苑……、そこが最終ステージだ。あなたには最後まで見届ける義務……いや、権利がある」

 なんて不器用なメッセージなのだろう……と呆れ返りつつも嘉納が何を言わんとしているのかを不破は察した。聖火リレーの最終予定日……そこで彼の犯行が終わるのだ。一体そこで何が起きるのか、またこの男が何を目論んでいたのか……それはまだ杳として知れないのだが、どうやら不破は直々にその顛末見届けの指名を受けたのである。

「……了解した」

 不破もまた短くその意を告げると、嘉納は今度こそ身を翻して公園のアーチの陰に姿を消したのだった。
 しばし呆然と突っ立っていた不破だったが、すぐに我に返って地面に寝かされた夫人の許に駆け寄る……どうやら怪我などはしていない様だ。少し遅れて牧も嘉納の消えた先を目で追いながら歩み寄って来た。

「先輩。今のって……嘉納、ですよね? 何で彼が?」
「……さっぱり、分からん。分らんが……スミ、ひとまずこの件は黙っておけ。特に青梅さんには気取られるなよ」
「え……、何故ですか?」
「……………何となくだよ」

 もちろんこの先の「最終ステージ」を見越して……なのだが、そうした打算よりも今回結果的に助けられた立場上、そうするのが彼に対しての礼儀なのではないか? という心情的な理由の方が大きい。

「……さて、と。まだ全部終わっちゃいない。すべきことが残ってるぞ」

 不破は夫人を一旦牧に預けるとまず咲楽達に連絡を入れてから、続いて当座凌ぎに自分のベルトを使って麻臣を後ろ手に拘束する。
 その間、夫人を抱きかかえていた牧が彼女の目が薄っすら開くのに気づいた。

「先輩、瞳美さんが目を覚ま──えっ?」
「どうした?」
「……いえ、何か言って……」

 意識が朦朧としての行動だろうか? 夫人は抱きかかえる牧の腕に手を添え、何やら呟く様に口を動かす。牧はその微かな吐息がひと綴りの旋律となっている事を認識して不破の顔を見上げた。

「……歌って…いる……?」

 不破が耳を寄せると確かに夫人は唄を歌っていた。愛おしそうに牧の腕を摩ると僅かに……本当に極々僅かな微笑みを浮かべるのであるが、明確な意思をもってそれをしているわけではない事は彼女の目がまだ何も捉えていない事から察せられた。

「何の唄でしょう?」

 牧が小首を傾げて不破に答を求めるのだが、妙なる音楽の如き途切れ途切れの唄声からは明確な解を導き出す事が出来ない。──だが、何だろう……どこかで聴いた記憶が……? 奇妙な既視感に記憶の糸を手繰り寄せる不破であったが、いまいち記憶が晴れず合点のゆく解答が出てこない。あれこれと考えを巡らせているうちに咲楽、蹲、梶山に加え、九品礼も合流した四人が到着していた。
 到着するなり真っ先に夫人に駆け寄った咲楽はひったくる様にその身を引き寄せ、あらん限りの力で抱きしめる。

「ありゃ……ま、いっか……」

 結果介抱の役目を彼女に奪われた牧だったが、咲楽のそんな姿は否応なく牧に微笑ましく見つめさせる満足感を抱かせる。その間不破は梶山にコンビニまで走ってもらうと、そこで買ってきた粘着テープで麻臣の手足を拘束、そこで小山田の身を預けている青梅の到着を待つことにした。

「……うぅ、…ぐっ……」
「不破さん、麻臣さんが目を覚まします」

 緊張含みの蹲の声に重なる様に聞こえてきた呻き声に不破が振り返ると、今まさに麻臣が意識を取り戻すところだった。苦悶の表情で目を開くとしばらくは自身の身に何が起きたのか全く理解が出来ていないらしく呆然と夕空を見上げていたが、それもいずれ記憶を回復させると現状を把握する理性を取り戻す。

「……どうやらしてやられたらしいですね。不破さん、一体どんな手品を使ったのですか?」

 昏倒させられる寸前の記憶が抜け落ちているのか、それとも相手の鮮やかな技でその姿を見る事も無く倒されてしまったのか……、どうやら麻臣には嘉納の手によって意識を奪われたという自覚は無いらしい。麻臣のすぐ脇に腰を落とした不破は彼のネクタイを掴みその上体を無理やり引き起こした。

「あんたには答えてもらわなきゃいけない事がある。答えてもらおう……TATPはもう製造したのか!?」

 その苦悶の表情に無理にいつもの皮肉めいた笑みを浮かべた麻臣は、相手の心理を見透かそうとするかの様に不破の視線を探り、そしてまた夕空を見上げて呟く。

「……今、何時ですか?」
「あ……6時20分過ぎです」

 凄んだ顔で麻臣から視線を外さない不破の代わりに蹲が自分の腕時計を見て答える。

「……そうですか、では急いだ方が良い。仕掛けた爆弾は丁度7時に爆発するようにセットしてありますので」
「あんたは……っ!?」
「おっと、尋問なんかしている暇はありませんよ?」

 計画潰えてなおも余裕を見せる様な麻臣の素振り……それが虚勢なのかそれともまだ何か企んでの表情なのかは判断し兼ねるが、実際問い詰めているはずの不破の方が追い込まれている状況に立たされている事だけは間違い無い。

「……一体、どこに仕掛けた?」

 聞いたところで素直に教えてくれるはずはない……そんな望み薄の尋問を浴びせかけられた麻臣は、意外な事にそれに対してあっさりと白状する。

「タワーに仕掛けました。急いで下さい、それほど時間は残されてはいませんよ?」

 それを聞いた一同がぎょっとして背後に視線を向ける……山下公園のすぐ外、通りを挟んで対面にそそり立つマリンタワーが視界に飛び込んできた。港を臨むビューポイントであると同時にそれ自体もランドスケープである横浜マリンタワーは、現在改装工事中で周囲を防護壁に囲まれている状態。当然一般客の入館は出来ない状態だが、それだけに何かを仕掛けるとしたら都合は良いだろう。

「入り口に警官がいるはずです、彼らを連れて先に行きます!」

 梶山がそれを聞いて飛び出して行くのを横目で確かめて、麻臣は何故だか薄笑みを漏らした。

──何だ、この違和感……!?

 自身も即座に駆けつけるべく身を乗り出したところで、不破は麻臣のその表情に気付いて足を止めた。先程身柄を取り押さえる際にあれだけの悪足掻きを見せた人間が、捕まったとたんにこれほどあっさりと自身の切り札の情報を明かすだろうか? ……そう、爆弾の在処やその解除方法は麻臣にとっては最後の切り札のはず、この人物の性格上それを残しておきながら犯行を放棄するとは考え難い。──確固たる目的を持った行動は万難を排して徹底的に完遂すべき……事実彼はそう言い放ったのだ、ならばこの白状はその発言に明らかに反するのではないか?
 だとしたらタワーに仕掛けたというのは言い逃れ……虚偽なのだろうか? いや、それも何か不自然な気がする。その場の嘘で取り繕って言い逃れしているにしてはその態度に余裕が表れ過ぎていると不破には感じるのだ。……仮に、麻臣が嘘をついていないとしたら……その上で自分たちを出し抜こうとしているとしたら? 不破の脳内で目まぐるしく思考が駆け巡り、それは唐突にある推測へと辿り着かせた。

「……マリンタワー…では無い……!?」

 無意識で口を突いて出た不破の呟きに、麻臣の顔色が一瞬の動揺を見せ、しかしすぐに表情を取り繕う。だがその刹那の変化を不破は見逃さなかった……そして確信、間違い無く自分の洞察は正鵠を射ている……と。

「詩穂ちゃん、疲れている所すまないが車を出してくれないか?」
「え? あ……は、はい……!」

 不破の要請を受け、ずっと夫人を占有していた咲楽がはっと我に返る。夫人の顔を見て一瞬の迷いを見せ……だが不破に応じて立ち上がると「先に行って車、出しときます」と告げてパーキングに走り出す。

「先輩、私も行きます!」

 牧も手を挙げる。

「良いだろう、それじゃあ夫人と麻臣さんの身柄は九品礼さんと蹲さんに任せるのでここで青梅さんの到着を待ってくれ。行くぞ、スミっ!」
「はい! ……って、えっ? ところでどこへ?」

 不破を追って走り出しながら牧は疑問を口にする、もちろんこれから向かうのは咲楽の待つパーキング出口なのだがそういう意味での「どこへ?」ではない、先程不破が言った「もう一つのタワー」の意味が分らなかったのだ。そんな牧に振り返る事無く不破は答えた。

「爆弾が仕掛けられたのはマリンタワーじゃない。横浜にはもう一つ、タワーがあるんだ!」
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