慙愧
咲楽の眼前で果物ナイフがぎらりと光る。中林は咲楽の小さな躰を抱きすくめる様に引き寄せ、その喉元を狙って刃を高々と掲げた。
「中林さん……!?」
「恨んでくれていいからね、詩穂ちゃん。私が間抜けな事やっちゃったからあんたをこんな目に遭わせちまったんだ……全っ部、私のせいなんだから……」
これから命を奪おうとする相手に、だが中林は微笑みを見せる……無論それは愉悦や快楽の笑みではなくむしろ真逆の、懺悔の気持ちと一切の罪を慎んで受けようとするある種の悟りと慈しみを含んだものであった。そして改めて高々と掲げられた手に一層の力を込め、あたかも演劇のワンシーンでもあるかの様に今まさにその刃が打ち下ろされようとしたその時だった──
「中林さんっ!! やめて下さいっ!!!」
コンテナ扉の陰から何者かが飛び出して来た。人影は体当たり気味で中林にぶち当たると、その懐中から引き離した咲楽を抱えて力いっぱい後ろに飛び退り……勢いあまって尻もちをついてしまう。
「ま、牧さん!?」
クッションとなった牧に圧し掛かる形で手足を拘束されたままの咲楽が、その身を捩って救出者の顔を確認する。
「ごめん、遅れちゃって……でも間に合って良かった」
「……牧さん?……あんた、どうしてここに……」
咲楽の身を確保され、がら空きになった左手を呆然と広げ中林はゆらりと立ち上がる。その挙動に殺気らしきものは感じない……が、半身を起こした牧は咲楽に覆いかぶさる様に身を挺するとその肩越しにじっと中林を見据えた。
「……話は聞かせてもらいました」
牧は咲楽の頭を自分の胸に埋まらせたまま背後の中林へと訴えかける。
「中林さんの気持ちは分かります……って言っても薄っぺらいですよね。きっと私なんかが思うよりもずっと悲しくって、苦しい思いをしたのだからやり場のない怒りを持つのも仕方が無い事だと思います。……でも、だからって直接関係ない人に怒りをぶつけるのは違うと思うんです!」
「……聞いた風な事、言わないでちょうだい……っ!」
中林の語気に再び怒りの色が浮かぶ。
「直接関係ない人? そういう人間が一番残酷で無責任だって事、あんただって経験無いわけじゃ無いだろさ? 私が一番許せないのはそうやって無関係を装った、第三者の顔した加害者なんだ! 被害者の顔を装って都合のいい社会悪を仕立てて叩いている卑怯者たちなんだよっ!」
感情をそのまま叩きつける様な怒声がコンテナ内に反響する、だがそれに負けないくらいの声で……まるで絶叫するかの様に、牧も声を張り上げる。
「それは咲楽さんもですかっ!!?」
「……っ!?」
唐突に正気付かされた中林が声を失う。
「あなたがヴェラティって人を唆して何をしたかったのか私には分かりません、それに何を計画していたのかも……。でも今この時点であなたが傷つけようとしているのは、まだここにいる咲楽さんだけなんですよ? 彼女が真っ先に危険に晒されなきゃいけないあなたの怒りって、一体何だって言うつもりですかっ!」
牧の叫びはとても説得と言えるようなものでは無かった。だがその一言一句は凶行に及んだ中林のロジックもアイデンティティーも尽く切り裂いてゆく。そんな気恥ずかしくなる様な真剣さと破壊力が込められた言葉を受けた中林の腕は魂が抜けた様にだらりと下がり、その手から果物ナイフがからりと転がり落ちた。
やがてコンテナ内の反響音が消える頃、事態の鎮静を図った声が後方から投げかけられる……。
「……もうそのくらいにしといてやれ、スミ」
背後からの声に反応した中林がほとんど無意識の動きで振り返る、すっかり生気を失ったその視線の先……コンテナの扉口に不破の姿があった。
「……先輩」
「まったく、少し様子を見ろと言っといただろうが。こらえ性の無いトコはちっとも成長して無いんだな……作戦無視して飛び込んで行きやがって」
呆れ顔で牧らの許へ歩み寄った不破は中林の足元に転がる果物ナイフを拾い上げ、そのまま牧と咲楽の前で身を屈めるとそれで咲楽の縛めを切り解く。
「……だって、あれ以上放って置いたら中林さんが咲楽さんを……」
自身の行為を責められ思わず抗議の声を上げる牧だったが、その額を不破は軽く小突いた。
「まぁ結果オーライだし、行動そのものは間違っちゃいなかったけどな……。だけどそこまで焦らなくても良かったんだ、だって中林さんには最初っから詩穂ちゃんを刺そうなんて気は無かったんだからな」
「……え? そうなの?」
牧は意外そうな顔を向けてその目を瞬かせた。
「うっかり感情的になってナイフ振り上げてはみたが、やっぱりそれを振り下ろす事は出来なかった。そもそも、殺す気だったらわざわざコンビニ寄って食事や飲み物なんか買ってはこない……そうだろ? 中林さん」
「………刺せるもんですか……、一緒に今まで頑張ってて来た仲間なんですもんねぇ……」
がっくりと下を俯いたまま中林は感情を絞り出すように呟く。ようやく拘束状態から解き放たれた咲楽も身を起こして中林に向き直った。
「……中林さん……」
「……………」
咲楽もまた自分なりに真意を確かめたいという気持ちがあったのだろう。だが中林は咲楽の呼びかけに応ずる事も目を合わせる事もしてくれず、すっかり押し黙ってしまう。
既に頃合いと見たか、コンテナ内には数人の警官が入って来ていた。扉から覗き見える外にも数台のパトカーと警官らが控えている、不破らが到着したのと同時に万が一を考え周囲を固めていた様だ。コンテナ内の警官はその状況を鑑みて、ひとまずはパトカーの車内で簡易的な事情聴取が必要と判断したため手錠をかける事をせず中林の両脇に立つと彼女を外へと促す。中林も素直にそれに従った。
「待って!」
急に駆け出した咲楽が連行される中林の背中にすがりつく。もう言葉も出てこなかったので背中に頭を押し付け、黙って肩口を掴むその手に力を込めた。相変わらず下を向いて黙していた中林は、やがて感極まった様に涙の溜まった顔を空に向け、妙に晴れ晴れとした表情を浮かべた。
「……あ~あ、一体どこで計画狂っちゃったんだろうねぇ……自分の復讐に利用するために潜り込んだコミュニティーだったんだから、私ゃ別にあそこがどうなったって良かったんだ……」
そう言ってうそぶく中林だったが、潮風に晒された目からは涙が止めどなく流れている。
「……どうでも良かったはずなのに……、いつの間に情が移っちまったのかねぇ……?」
中林はおもむろに振り向くと咲楽を抱きしめた、あまりに急に動き出すものだから横の警官が慌てて引き止めにかかり、結果無粋な真似になってしまった事にばつの悪い思いをしてしまう。
「何より詩穂ちゃん……あんた見てたら亡くした娘を思い出しちまうんだよ。……何でも背負いこんじゃう損な性格がホント、そっくりだよ……。それに、生きてたらあんたと同じくらいの齢だからねぇ。……それをこんな目に遭わせて……ごめんね……ごめんね……何やってんだろうね……私は………」
「……不破さんよ、あんた私ら警察をなんでも屋か何かと勘違いしちゃあいませんかね?」
中林を乗せたパトカーが遠ざかって行くのを見送る不破と牧、そして咲楽の後ろで急遽不破の呼び出しで駆り出された青梅がぼやきを漏らした。
「緊急事態だったんだ、こういう時に力になるのが警察ってもんだろ?」
「勘弁してくれや。そういうのは捜査課の仕事じゃないんだ」
何やら不破の口車に乗せられてとんだタダ働きをさせられた形となった青梅はお世辞にも機嫌が良いとは言えない表情を浮かべる。尤も、普段からそのしかめっ面は大して変わることが無いのであるが。
「無理を聞いてくれた分はキッチリと見返りを用意させてもらうよ、助かったぜ青梅さん」
「あの……ありがとうございます」
不破に続く様に牧も青梅に礼を告げる。……ちなみに牧としては病室以外で彼に会うのは初めてとなる訳だが、そんな牧には少しだけ相好を崩し、青梅は次に疲労困憊で二人の間に支えられた咲楽にその目を向けた。
「咲楽さん……でしたな? 今日はお疲れでしょうから引き取って頂いて結構ですよ。ただ後日詳しいお話を聞かせて頂きたいので。……えぇっと、お仲間がいるのでしたっけ? 皆さんにもそうお伝え下さいな」
「……はい」
力なく頷く咲楽。その肩を抱きかかえて牧は不破へと問いかける。
「そう言えば先輩、青梅さんのところ以外にも色々電話かけてたみたいですけど、一体どうやって咲楽さんの居所を特定したんですか? しかもいつの間にか中林さんもマークしてたみたいでしたし……?」
「ああ、それね。実は九品礼さんに連絡を取ってリレー終了後、中林さんと蹲さん、それから梶山さんの見張りを頼んでおいたんだ。そしたらいつもなら最後まで世間話をしている中林さんがそそくさと帰宅するみたいだと聞いて、そこから青梅さんに尾行を頼んだのさ」
事も無げに答えた不破のセリフに牧が呆気にとられる。
「えっ、九品礼さん? それって何か彼女を疑いから外す確証でもあったんですか?」
「いや、単なる勘だ。お前の話を聞いていて、比較論で九品礼さんには犯行を起こせる可能性は低いと踏んで賭けに出たんだ。だから決して具体的な確証があって判断した訳じゃあ無い」
一瞬咲楽を抱えたままよろけかけて、牧は眉間を押さえた。
「……何て行き当たりばったりな……。もしもこれで九品礼さんが犯人だったらどうするつもりだったんですか?」
「その時は更に地道に捜すだけだったさ、そのために青梅さんにも連絡入れておいたんだからな」
「おいおい、そういう探偵ごっこは私が帰ってからにしてくれないもんかねぇ?」
「あ、こりゃ失礼。……まだいたとは……」
わざとらしく青梅に頭を下げる不破に、その場の空気がようやく緩んだ……が、次の瞬間咲楽が不意に大事な事を思い出す。
「……そうだ、不破さん……オキシドールです!」
「オキシドール? 過酸化水素水がどうしたって?」
「……あの……中林さん…が……」
その場に刑事である青梅がいる事を思い出して咲楽は口ごもる、その様子を見て取って青梅は背中を向けた。
「……私ゃ何にも聞こえとらんよ」
「大丈夫だ、詩穂ちゃん。この人は信用しても」
「……はい。……あの……中林さんの経理記録に不審な点があって、オキシドールの大量購入を改ざんしていた形跡があったんです。でも一体それが何に必要だったのか見当つかなくって不破さんに電話かけようとしたんですけど……」
「オキシドールか、そうだな……」
不破は腕組みしてしばしの時間その場で沈思黙考。やがて何らかの結論に至ったのかぽつりと呟く。
「………例えば、TATP──」
「……過酸化アセトンか!?」
不破の呟きを受けて聞いていない振りを決め込んでいた青梅がぎょっとした顔で振り返った。
「何です? そのてぃーえー……てぃー……ぴーって?」
妙に緊迫度を増した二人に対して一向にその意味の分からない牧がきょとんとした顔を見せる。
「分かり易く言えば比較的簡単に製造できる高性能爆薬だ。過酸化水素水はその主な原料として使われる」
「爆薬……って、もしかして爆弾ですか!?」
「そうだ。だがそうなると、中林さんの他に最低もう一人共犯者がいる……って事になる」
「もう一人? それって……一体どういう意味ですか?」
ようやく落ち着きを取り戻しそうになっていた咲楽の顔が再び血の気を失う。不破の推測は更なる共犯者を示唆するものであるのだ。
「簡単といってもそれ相応の知識と経験が無いと爆薬は作れない、中林さんの単独犯行でそれが出来るとは考えられないんだ。だとしたら、スタッフの中……あるいは近しい人間にもう一人そうした知識に長けた共犯者がいるという事になる。……決してその可能性を見落としていたわけではないんだがな……」
それは牧と二人で埠頭を歩いていた時に躊躇した推測だった。ともすると関係者全員共犯者という奇説にまで及んでしまうためその場で口にするのは憚られた訳だが、まさかそれが現実になるとまでは予想できなかった……というのが不破の本音だった。
「……やれやれ、やっぱり私はさっさと引き上げるべきでしたわ。つまり不破さんよ、目的は判らんが何かしらの爆破でも企んどる人間がまだ潜んでいる……という事ですかな?」
愚痴りはするが半ば運が悪かったとばかりに諦めた様子で青梅はどこかに連絡を入れ始めた。さすがに爆破物と聞いては職務上見過ごす事は出来ない。
果たしてタイミングが良いのか悪いのか……。そうした中、不破の携帯にもまた凶兆を告げる連絡が届くのである。
「中林さん……!?」
「恨んでくれていいからね、詩穂ちゃん。私が間抜けな事やっちゃったからあんたをこんな目に遭わせちまったんだ……全っ部、私のせいなんだから……」
これから命を奪おうとする相手に、だが中林は微笑みを見せる……無論それは愉悦や快楽の笑みではなくむしろ真逆の、懺悔の気持ちと一切の罪を慎んで受けようとするある種の悟りと慈しみを含んだものであった。そして改めて高々と掲げられた手に一層の力を込め、あたかも演劇のワンシーンでもあるかの様に今まさにその刃が打ち下ろされようとしたその時だった──
「中林さんっ!! やめて下さいっ!!!」
コンテナ扉の陰から何者かが飛び出して来た。人影は体当たり気味で中林にぶち当たると、その懐中から引き離した咲楽を抱えて力いっぱい後ろに飛び退り……勢いあまって尻もちをついてしまう。
「ま、牧さん!?」
クッションとなった牧に圧し掛かる形で手足を拘束されたままの咲楽が、その身を捩って救出者の顔を確認する。
「ごめん、遅れちゃって……でも間に合って良かった」
「……牧さん?……あんた、どうしてここに……」
咲楽の身を確保され、がら空きになった左手を呆然と広げ中林はゆらりと立ち上がる。その挙動に殺気らしきものは感じない……が、半身を起こした牧は咲楽に覆いかぶさる様に身を挺するとその肩越しにじっと中林を見据えた。
「……話は聞かせてもらいました」
牧は咲楽の頭を自分の胸に埋まらせたまま背後の中林へと訴えかける。
「中林さんの気持ちは分かります……って言っても薄っぺらいですよね。きっと私なんかが思うよりもずっと悲しくって、苦しい思いをしたのだからやり場のない怒りを持つのも仕方が無い事だと思います。……でも、だからって直接関係ない人に怒りをぶつけるのは違うと思うんです!」
「……聞いた風な事、言わないでちょうだい……っ!」
中林の語気に再び怒りの色が浮かぶ。
「直接関係ない人? そういう人間が一番残酷で無責任だって事、あんただって経験無いわけじゃ無いだろさ? 私が一番許せないのはそうやって無関係を装った、第三者の顔した加害者なんだ! 被害者の顔を装って都合のいい社会悪を仕立てて叩いている卑怯者たちなんだよっ!」
感情をそのまま叩きつける様な怒声がコンテナ内に反響する、だがそれに負けないくらいの声で……まるで絶叫するかの様に、牧も声を張り上げる。
「それは咲楽さんもですかっ!!?」
「……っ!?」
唐突に正気付かされた中林が声を失う。
「あなたがヴェラティって人を唆して何をしたかったのか私には分かりません、それに何を計画していたのかも……。でも今この時点であなたが傷つけようとしているのは、まだここにいる咲楽さんだけなんですよ? 彼女が真っ先に危険に晒されなきゃいけないあなたの怒りって、一体何だって言うつもりですかっ!」
牧の叫びはとても説得と言えるようなものでは無かった。だがその一言一句は凶行に及んだ中林のロジックもアイデンティティーも尽く切り裂いてゆく。そんな気恥ずかしくなる様な真剣さと破壊力が込められた言葉を受けた中林の腕は魂が抜けた様にだらりと下がり、その手から果物ナイフがからりと転がり落ちた。
やがてコンテナ内の反響音が消える頃、事態の鎮静を図った声が後方から投げかけられる……。
「……もうそのくらいにしといてやれ、スミ」
背後からの声に反応した中林がほとんど無意識の動きで振り返る、すっかり生気を失ったその視線の先……コンテナの扉口に不破の姿があった。
「……先輩」
「まったく、少し様子を見ろと言っといただろうが。こらえ性の無いトコはちっとも成長して無いんだな……作戦無視して飛び込んで行きやがって」
呆れ顔で牧らの許へ歩み寄った不破は中林の足元に転がる果物ナイフを拾い上げ、そのまま牧と咲楽の前で身を屈めるとそれで咲楽の縛めを切り解く。
「……だって、あれ以上放って置いたら中林さんが咲楽さんを……」
自身の行為を責められ思わず抗議の声を上げる牧だったが、その額を不破は軽く小突いた。
「まぁ結果オーライだし、行動そのものは間違っちゃいなかったけどな……。だけどそこまで焦らなくても良かったんだ、だって中林さんには最初っから詩穂ちゃんを刺そうなんて気は無かったんだからな」
「……え? そうなの?」
牧は意外そうな顔を向けてその目を瞬かせた。
「うっかり感情的になってナイフ振り上げてはみたが、やっぱりそれを振り下ろす事は出来なかった。そもそも、殺す気だったらわざわざコンビニ寄って食事や飲み物なんか買ってはこない……そうだろ? 中林さん」
「………刺せるもんですか……、一緒に今まで頑張ってて来た仲間なんですもんねぇ……」
がっくりと下を俯いたまま中林は感情を絞り出すように呟く。ようやく拘束状態から解き放たれた咲楽も身を起こして中林に向き直った。
「……中林さん……」
「……………」
咲楽もまた自分なりに真意を確かめたいという気持ちがあったのだろう。だが中林は咲楽の呼びかけに応ずる事も目を合わせる事もしてくれず、すっかり押し黙ってしまう。
既に頃合いと見たか、コンテナ内には数人の警官が入って来ていた。扉から覗き見える外にも数台のパトカーと警官らが控えている、不破らが到着したのと同時に万が一を考え周囲を固めていた様だ。コンテナ内の警官はその状況を鑑みて、ひとまずはパトカーの車内で簡易的な事情聴取が必要と判断したため手錠をかける事をせず中林の両脇に立つと彼女を外へと促す。中林も素直にそれに従った。
「待って!」
急に駆け出した咲楽が連行される中林の背中にすがりつく。もう言葉も出てこなかったので背中に頭を押し付け、黙って肩口を掴むその手に力を込めた。相変わらず下を向いて黙していた中林は、やがて感極まった様に涙の溜まった顔を空に向け、妙に晴れ晴れとした表情を浮かべた。
「……あ~あ、一体どこで計画狂っちゃったんだろうねぇ……自分の復讐に利用するために潜り込んだコミュニティーだったんだから、私ゃ別にあそこがどうなったって良かったんだ……」
そう言ってうそぶく中林だったが、潮風に晒された目からは涙が止めどなく流れている。
「……どうでも良かったはずなのに……、いつの間に情が移っちまったのかねぇ……?」
中林はおもむろに振り向くと咲楽を抱きしめた、あまりに急に動き出すものだから横の警官が慌てて引き止めにかかり、結果無粋な真似になってしまった事にばつの悪い思いをしてしまう。
「何より詩穂ちゃん……あんた見てたら亡くした娘を思い出しちまうんだよ。……何でも背負いこんじゃう損な性格がホント、そっくりだよ……。それに、生きてたらあんたと同じくらいの齢だからねぇ。……それをこんな目に遭わせて……ごめんね……ごめんね……何やってんだろうね……私は………」
「……不破さんよ、あんた私ら警察をなんでも屋か何かと勘違いしちゃあいませんかね?」
中林を乗せたパトカーが遠ざかって行くのを見送る不破と牧、そして咲楽の後ろで急遽不破の呼び出しで駆り出された青梅がぼやきを漏らした。
「緊急事態だったんだ、こういう時に力になるのが警察ってもんだろ?」
「勘弁してくれや。そういうのは捜査課の仕事じゃないんだ」
何やら不破の口車に乗せられてとんだタダ働きをさせられた形となった青梅はお世辞にも機嫌が良いとは言えない表情を浮かべる。尤も、普段からそのしかめっ面は大して変わることが無いのであるが。
「無理を聞いてくれた分はキッチリと見返りを用意させてもらうよ、助かったぜ青梅さん」
「あの……ありがとうございます」
不破に続く様に牧も青梅に礼を告げる。……ちなみに牧としては病室以外で彼に会うのは初めてとなる訳だが、そんな牧には少しだけ相好を崩し、青梅は次に疲労困憊で二人の間に支えられた咲楽にその目を向けた。
「咲楽さん……でしたな? 今日はお疲れでしょうから引き取って頂いて結構ですよ。ただ後日詳しいお話を聞かせて頂きたいので。……えぇっと、お仲間がいるのでしたっけ? 皆さんにもそうお伝え下さいな」
「……はい」
力なく頷く咲楽。その肩を抱きかかえて牧は不破へと問いかける。
「そう言えば先輩、青梅さんのところ以外にも色々電話かけてたみたいですけど、一体どうやって咲楽さんの居所を特定したんですか? しかもいつの間にか中林さんもマークしてたみたいでしたし……?」
「ああ、それね。実は九品礼さんに連絡を取ってリレー終了後、中林さんと蹲さん、それから梶山さんの見張りを頼んでおいたんだ。そしたらいつもなら最後まで世間話をしている中林さんがそそくさと帰宅するみたいだと聞いて、そこから青梅さんに尾行を頼んだのさ」
事も無げに答えた不破のセリフに牧が呆気にとられる。
「えっ、九品礼さん? それって何か彼女を疑いから外す確証でもあったんですか?」
「いや、単なる勘だ。お前の話を聞いていて、比較論で九品礼さんには犯行を起こせる可能性は低いと踏んで賭けに出たんだ。だから決して具体的な確証があって判断した訳じゃあ無い」
一瞬咲楽を抱えたままよろけかけて、牧は眉間を押さえた。
「……何て行き当たりばったりな……。もしもこれで九品礼さんが犯人だったらどうするつもりだったんですか?」
「その時は更に地道に捜すだけだったさ、そのために青梅さんにも連絡入れておいたんだからな」
「おいおい、そういう探偵ごっこは私が帰ってからにしてくれないもんかねぇ?」
「あ、こりゃ失礼。……まだいたとは……」
わざとらしく青梅に頭を下げる不破に、その場の空気がようやく緩んだ……が、次の瞬間咲楽が不意に大事な事を思い出す。
「……そうだ、不破さん……オキシドールです!」
「オキシドール? 過酸化水素水がどうしたって?」
「……あの……中林さん…が……」
その場に刑事である青梅がいる事を思い出して咲楽は口ごもる、その様子を見て取って青梅は背中を向けた。
「……私ゃ何にも聞こえとらんよ」
「大丈夫だ、詩穂ちゃん。この人は信用しても」
「……はい。……あの……中林さんの経理記録に不審な点があって、オキシドールの大量購入を改ざんしていた形跡があったんです。でも一体それが何に必要だったのか見当つかなくって不破さんに電話かけようとしたんですけど……」
「オキシドールか、そうだな……」
不破は腕組みしてしばしの時間その場で沈思黙考。やがて何らかの結論に至ったのかぽつりと呟く。
「………例えば、TATP──」
「……過酸化アセトンか!?」
不破の呟きを受けて聞いていない振りを決め込んでいた青梅がぎょっとした顔で振り返った。
「何です? そのてぃーえー……てぃー……ぴーって?」
妙に緊迫度を増した二人に対して一向にその意味の分からない牧がきょとんとした顔を見せる。
「分かり易く言えば比較的簡単に製造できる高性能爆薬だ。過酸化水素水はその主な原料として使われる」
「爆薬……って、もしかして爆弾ですか!?」
「そうだ。だがそうなると、中林さんの他に最低もう一人共犯者がいる……って事になる」
「もう一人? それって……一体どういう意味ですか?」
ようやく落ち着きを取り戻しそうになっていた咲楽の顔が再び血の気を失う。不破の推測は更なる共犯者を示唆するものであるのだ。
「簡単といってもそれ相応の知識と経験が無いと爆薬は作れない、中林さんの単独犯行でそれが出来るとは考えられないんだ。だとしたら、スタッフの中……あるいは近しい人間にもう一人そうした知識に長けた共犯者がいるという事になる。……決してその可能性を見落としていたわけではないんだがな……」
それは牧と二人で埠頭を歩いていた時に躊躇した推測だった。ともすると関係者全員共犯者という奇説にまで及んでしまうためその場で口にするのは憚られた訳だが、まさかそれが現実になるとまでは予想できなかった……というのが不破の本音だった。
「……やれやれ、やっぱり私はさっさと引き上げるべきでしたわ。つまり不破さんよ、目的は判らんが何かしらの爆破でも企んどる人間がまだ潜んでいる……という事ですかな?」
愚痴りはするが半ば運が悪かったとばかりに諦めた様子で青梅はどこかに連絡を入れ始めた。さすがに爆破物と聞いては職務上見過ごす事は出来ない。
果たしてタイミングが良いのか悪いのか……。そうした中、不破の携帯にもまた凶兆を告げる連絡が届くのである。