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作者: 沖房 甍
怒り
 スタッフの努力の甲斐あってか、横浜での裏聖火リレーは内輪でトラブルが生じていた事など参加者には微塵も感じさせないまま滞り無く終了させることが出来た。
 さしあたって問題なのは明日以降のHP更新を担当する人間が不在である事と、そして他の身内にも別なトラブルが生じていた事であるのだが、午後からずっと会場を離れていた不破と牧にはまだその情報は伝わっていなかった……。


 その夕刻、煌びやかなイルミネーションと雑踏の賑わいが溢れるみなとみらいの地区とは対照的に完全にひと気の途絶えた大黒埠頭……、僅かに遠くの方で荷下ろし作業に動き回るトラックと作業員が見えるだけでその一角を離れるともう周囲はしんと静まり返っている。
 意識を取り戻した咲楽が最初に自覚したのは目の前の空間が光源の一つも見当たらない完全な闇に閉ざされているという状況だった。そのため前後不覚に陥り最初のうちははっきりしなかった身体感覚は、やがて自分が横たえられている事を認識させる。次に咲楽はそこから起き上がろうと身を起こす……が、手足が動かない。どうやら手首と足首に拘束を受けている様で、ちょっとやそっと動かした程度ではそれは外れそうもない‥…不意に後頭部の鈍痛に襲われ一度身を屈めた。この頃になるともうだいぶ意識もはっきりしてきていて、自分の身に何が起こったのかを直前のおぼろげな記憶と共に整理することが出来るようになってくる。

・・・・・・・・・・

 早朝、思う処あって牧との約束よりも1時間も早く現場に到着した咲楽はPCの電源を入れるよりも先に、昨夜判明した備品購入記録と経費との不一致確認と、物証確保のため事務書類を漁り始める。
 求めていた書類はすぐに見つかった。やはり購入リストには改ざんが為されていて、ある品だけ異常な量購入されていた記録が書き換えられていたのだ。恐らく購入品のリストだけでも、経費の記録だけでもこの誤差は発見できなかった。双方を照らし合わせることで初めてあぶり出すことが出来たのは全く別のアプローチからファイルを調べた事による偶然の結果であった。
 だが、この事実は犯人像に関して咲楽にある予感をもたらし、同時に大いに動揺させることとなる……。

「……そんな……、こんな事って……」

 しばし呆然と立ち尽くす咲楽、俄かに信じ難い事実から目を背けこのまま逃避したい思いが心中渦巻く……が、僅かに残る理性はあくまで咲楽を事実解明へ突き動かす。咲楽はスマホを取り出すと一度牧の携帯番号を呼び出し……すぐに思い直して不破の番号に変更した。

 その刹那、後頭部に衝撃が走り風景がぐるりと歪んだ……!

 次第に朦朧としてゆく咲楽の思考は必死で何が起きたのかを理解しようとするが、もはや状況を判断する事も叶わなくなる。
 半ば反射的に携帯のロック機能をオフにした咲楽は倒れざまにそれを机の陰へと放り出す。確信は無いが誰かがこれを発見してくれれば、自分の身に何かが起きた事だけは伝えられるはず……出来る事はこれで精一杯、後はただ断片的な記憶が途切れ途切れに過ってゆくに任せるだけだった。


──布団越しに聞く様なくぐもった人の声……、

──倒れた拍子にどこかに落としたのか手にスマホの感触が無い……、

──鼻にツンとした火薬のような、それでいて甘ったるい匂い……、

──何かを探してうろうろとする影……、

──外に人が近づいてくる気配……、

──体が引き起こされる感覚……、

……………

 ……そこで咲楽の意識は途切れた……。

・・・・・・・・・・

 真っ暗な天井を見上げながら咲楽は大体の状況を把握し、推測される結論を言葉にすることで状況認識へと換えた。

「……捕まっちゃったかぁ~……」

 まだ少しじんじんと痛みが疼く後頭部を気にしながら左右に首を巡らすが、闇以外に確認できるものは無い。かけていた眼鏡も一体どこに落としたのやら……。そういう訳で裸眼である事にようやく気付くのだが、どちらにしても周囲が真っ暗では眼鏡などあろうとなかろうとまるで関係は無い。だが視覚以外でも判断材料はある。例えば床……、薄い板でも敷いているのだろうか、体を動かす度に微妙に浮き上がって何だかふわふわとした感覚が残る。空間の広さは思いの外広く感じる……目には見えなくても音の反射から凡その距離感は掴める。顕著なのはその音の響きだった……外の音が薄っすら聞こえてくることから防音の類が施されていない事が判るし、音が独特の反響を伴って聞こえてくる事からここが金属の壁に囲まれた空間である事が推察できるのだ。それはまた周囲に漂う鉄と錆、そして僅かな油の匂いからも分かることで、これらの情報から咲楽はここがどういった空間であるかを理解した。

「コンテナの中……だね、たぶん……」

 一方で皆目分からない事もある、今が昼間なのか夜なのかが全然分からないのだ。何だか随分眠っていた様にも感じるがそれとて時間を特定できる目安にならない。

「……あ~……しまった、時間の事なんか考えるんじゃなかった。トイレ、どーする気なの……?」

 そんなあれこれと考えている所、足元の空間の先で突然重い金属音が響き、観音開きに空間が開かれた。潮の香りの混じった生温い空気が流れ込んでくる。

「!」

 咲楽は首をそちらに向けると、視界の向こうに昼間の空と夜の空とがオレンジ色を挿んだグラデーションで溶け合う夕刻の空……さらにその下に街路の灯りが目に入る。扉を開けたその人影はこちらからでは逆光となりアウトフォルムしか確認できないが、こつこつとこちらに近づいてくる足音だけがやけにはっきりと聞こえてくる。足下にいる相手の視界を避ける様に後ろに回り込んだ人影は、その腕を掴んでぐいと上半身を引き起こした……背後に微かな息づかいを感じる。僅かな情報だったが、それで咲楽は相手の正体を確信してしまったのだ。

「……中林さん……だよね?」

 背後の呼吸が一瞬止まり……間を置いて苦悩に満ちた声が戻って来る。

「気づいてたのかい。……悪かったね、詩穂ちゃん。こんな目に遭わせちゃって……」
「………やっぱり、そうだったんだ。消去されたヴェラティとのDMに前後して経費の保存記録が残っていた事でまさかと思っていたんだけど……。できれば思い過ごしであってほしかった」
「昨日の朝、あんたたちが何やら調べものしていたのを見て血の気が引いたよ。悪いことはできないもんだねぇ……」

 そう言って中林は咲楽を壁にもたれかけさせると持ってきた袋を床に置く。

「お腹空いてるだろ? 喉も乾いたろ? 半日以上こんな所に閉じ込められていたんだ、食べ物買ってきたからお食べ」
「中林さん、……どうして? 何が目的でヴェラティをけしかけるような真似を!? 不破さんが機転を利かせてくれなかったら大変な事になってたし、警察沙汰にもなっていたところだったんですよ?」

 ようやく面と向かえたところで咲楽は中林に訴える、当然何らかの理由あってしたことに違いない訳だから、彼女としてはそれを確かめない事には何一つ納得できないのだ。

「……その警察沙汰をね、起こそうとしたんだよ」
「えっ?」
「最初はね、オリンピック開催に抗議がしたかったんだ。ところが外からどんなに叫んだって何ンにも伝わりゃしない……政府にも世の中にもね。だから次に聖火リレーを真似たこのイベントを利用してニュースになるような騒ぎを起こそうと考えたんだよ。イベントの開催側になればより自分の思った通りの規模とタイミングで事件を起こせるし、世間的に一度注目を集めればそれだけ事件を起こした時にはセンセーショナルなニュースになる。そしたら本物のオリンピックの開催意義の論議にも発展するんじゃないかって計画していたんだけど……まさか延期された二年目もここまで世の中が混乱するなんて思ってなかったよ……」

 中林の声にはいつもの様なさばさばとした明るさや暖かみを感じない。低く無感情に呟く様には怨嗟に満ちたおどろおどろしい深く暗い澱みが立ち込めている。

「でも、どうしてそんな事を……?」

 政治的な動機ではあまりこうした行動はしない。そこには何かもっと人間の奥深い感情を伴った「理由」が存在するはずなのだが、それはすぐに明らかとなる。

「死んだ私の旦那はね……電力会社の人間で、十年前原発で働いていたんだ……福島のね」
「……え?」
「何かと責任抱え込んじゃう人でね、震災の時も最後まで現場に残って従業員の避難と炉心の制御に走り回ってたそうだよ。そのせいで被爆して、それから三年も経たないうちに亡くなっちまったのさ」

 思えば中林の家族の話など聞いたことは無かったし彼女も話すことは無かった。ここら辺の関係性に関しては元々SNSでのコミュニティーであることが影響していたのだろう、本人から語ることでもない限り相手のプライベートには踏み込まない……それが暗黙の了解みたいに染みついていて、オフの場で会うようになってからもその点は変わらず交流が成立してしまっていたのである。

「だけどね、本当の不幸はそこからだったよ……震災後、住む家も無くした私はまだ中学生だった娘と仮設住宅暮らしをしていたのだけど、旦那の事をどこから聞きつけてきたのかそれから周囲の陰湿な嫌がらせが始まってね……。理不尽なもんさ、うちの旦那は最前線で我が身を省みず頑張ったのに、関係者だってだけでまるで事故を起こした元凶扱いだ。しかもそれは娘が通っていた中学校にも及んで、……そりゃあ酷いいじめに遭ったらしいよ……」

 中林はそこで一度鼻をすする。その様子と「らしい」という彼女の言い回しに咲楽はその後の悲劇的な顛末と、その事実がうやむやにされてしまったのであろう当時の事情を察した。

「でも私に気を遣ったのか、それとも誰にも話せないほど追い込まれていたのか……。思えばあの子も父親に似て何でも背負いこんじゃう性格だったからねぇ。ある日家に帰って来なくて捜索願を出したんだけど、見つかったのは何十㎞も離れた場所……半壊した元の家で首吊ってたところを発見されたんだよ……」
「そんな事があったなんて……」

 災害の二次被害に関しては過去にも数多例があり枚挙には暇が無い、実際の所中林の境遇もフィクションの中では極々ありふれた話に聞こえてしまうものだろう。だが実際に、しかも見知ったはずの人間のそうした話をいざ間近で聞いてしまうとやはり安易な言葉など出てこなくなるものだ。咲楽もまた無念さに顔を歪ませる中林を前にして何もかけてやれる言葉を持てないでいたのである。

「その後はもう空っぽの抜け殻人生さ。一人残された私は親類のツテを頼って富山に移り住み、今の職場で慎ましやかに暮らしていたんだ……正直、震災の頃の記憶なんて思い出したくもなかった。それが何だい、復興五輪? 何をお為ごかしな事言ってんだって話だよ! もっとやることが他にあるじゃないのさ!!」

 感情が昂ってきたのか後半中林の語気が荒くなる。彼女がこれほどまでに激しい怒りを秘めていた事を咲楽は今更に知る。

「ようやく薄れかけてた怒りに火が点いちゃったんだろうね。だから私にとっちゃ与党も野党も無い、目先の利害とオリンピックを肴に政治ごっこしている政治屋連中なんてはみんな同じだし、それに追従してオリンピック開催だ中止だってしたり顔で語っている連中も同罪さ。そいつらの目の前でこの怒りを何でもいいから突き付けてやりたくなったんだ……」

 胸に貯め込んでいた気持ちと共に大きな嘆息を吐くと、中林はどうにも遣る方無い表情を咲楽に向ける。

「……でもまさか、よりによってあんたにその証拠を見つけられちゃうなんてねぇ……」

 ため息まじりの語り口に先程までの激しい怒りはすっかり鳴りを潜めていた、その代わりに中林の顔には感情の読み取り難い虚無の表情が浮かび、それがかえって咲楽の心に不安を呼ぶ。

「あれを誰かに話されちゃうと、こっちにとってあまり都合が良くは無いんだよ………」


 中林は懐から果物ナイフを取り出すとそれを咲楽の目の前に翳した。
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