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作者: 沖房 甍
プロメテウス
 白い波濤がごつごつとした岩肌に打ちつける。断崖の上にまで跳ね上がった泡沫は風に乗って心地良い潮の香りを漂わせた。
 伊豆は伊東市の城ヶ崎海岸、不破は約束の時間の少し前に到着し待ち合わせの場所へと向かった。風光明媚な海岸の遊歩道も自然研究路方面に踏み込むとさすがに人の姿もまばらになる。少々歩きづらい自然道に難儀しながら進んで行くと、唐突に木々と視界が開けて海に面した岸壁に出た。

 だが待ち合わせの場所に小山田の姿は無く、その視線の先にあったのは切り立った断崖に佇む車椅子の瞳美夫人と、彼女を囲む見知らぬ数名の男たちの姿だった。男たちは格好こそきちんとした身なりをしていたが、それがどことなく着慣れていない印象で、どちらかと言えば体育会系……あるいは元ヤンが滲み出て隠せない……といった様相だ。
 当の小山田がいない事と、何やら込み入った話をしている様な雰囲気もあり、暫くの間不破は距離を置いてそれを見守っていたわけだが、やがて男たちは夫人に挨拶して彼女から離れてゆく。一瞬垣間見えた彼らの表情は沈痛気で、中には堪えきれず涙を流している者もいる。やがて男たちが遊歩道に消えて行ったのを見届け、不破が夫人に歩み寄ろうとすると不意に後方から声がかけられた。

「彼らは妻の同窓生だそうです」

 不破同様、彼らに遠慮していたのか、木々の陰から姿を現したのは小山田だった。

「元々彼女、神奈川の小田原出身でしてね……我々が静岡に来ていると聞いて、わざわざ足を延ばして彼女に会いに来てくれたのだそうです」

 二人は石積みのテラス状の展望スペースで待たせている夫人の下へと歩を進めた。展望スペースと言ってもさほど広い空間では無く、単に足場をならした程度に過ぎない。そこに車椅子の夫人と大人二人も立てば、もう大して歩きまわる余裕も無いごく狭い空間であった。
 小山田が車椅子の背もたれに設けられたハンドルに手を添えるが、夫人は相変わらず感情のこもらぬ視線を海に向けたままである。時々瞬きしている事に気付かなければ人形かと見間違えてしまう程無機質な印象を受けるのだ。

「……海が、お好きなんですか?」
「おや、気付かれましたか? もちろん僕じゃなくて妻が、なんですけどね」

 小山田は口元だけでニヤリとほくそ笑む、そう言えば彼が裏聖火リレーの会場に夫人を連れてくるのは決まって海の見える場所ばかりだった。

「此間は色々手を煩わせてしまって申し訳ない。でもああした深刻な事態の時は僕が出しゃばるとどうしても話をややこしくしちゃうんで、不破君に協力を仰いで正解でしたよ」

 下から吹き上げる風の心地良さを満喫しながら、小山田は一歩後ろに立つ不破に感謝の意を伝える。無論、先のヴェラティの件であろうが、とは言えそんな事を言うためだけにこんな場所に呼んだのだろうか? と不破は小山田の意図を量りかねた。

「いえ、多くは詩……咲楽さんの力で解決できたようなものです」
「そうだね……彼女、良くやってくれてるでしょ?」

 小山田は何とも嬉しそうに満面の笑顔を不破に向けた。

「けど、何でもかんでも自分でしょい込んじゃうのが玉に瑕でね……だから今回の事も心配していたんですよ」
「……随分と親身になるんですね?」

 言葉のアヤ……というか、それは特に意識すること無く咄嗟に口にした疑問であったが、小山田の返答が数瞬遅れたのが不破には妙に心に引っかかった。

「……そうですかねぇ……。それを言うのであれば中林さんなんかもひどく彼女を可愛がっているようですが?」

 とぼけた様にそれを躱す小山田。

「まあ、確かにそう言われてみれば……」
「愛嬌のあるですから、きっと皆さん気にされるのでしょう」
「……そうかも知れませんね」

 曖昧な返事をしながら、不破はまた何かしらの煙に巻かれてしまった様な錯覚を覚える……この老紳士と会話する時はいつもこうだ。それが決して苛立たしいという訳では無いが、どこか心の中にモヤモヤした感覚が残ってしまうのだ。

「そう言えば今日からまた東京に戻るのですって?」

 そんな不破の内心などお構い無しに小山田が問いかけた。

「ええ、まぁ三日程でまた合流する予定ですが」
「それはお仕事で?」
「それもありますが……まぁ、ちょっとした調べものです」

 俄かに持ち上がったヴェラティの一件で、不破は皆守が遺してくれた「鍵」の件をそのまま手付かずにしてしまっていた。今回の場合深刻さよりも緊急性を優先させてしまったが、そちらも重要、早急に確認作業をしなければならない。

「そうですか、お忙しいのですね。いや、結構な事です」

 事情を知らない小山田の満面の笑顔にこちらも社交辞令の笑みで返す不破であったが、すべき事、考える事が山積している現状で本当は気が気ではない。

「ああ、仕事と言えば……不破君の書いた記事、読ませて頂きましたよ?」
「え?」
「ほら、あの聖火強奪事件……ええっと、何でしたっけ……?」

 はて? とシルクの手袋の人差し指でこめかみを押さえ記憶を辿る仕草をする小山田は矢庭にぽん、と手を打つ。

「そうそう、『嘉納』でしたね……犯人への独占インタビュー! あれは実に興味深かった」
「ああ……、お恥ずかしい話です」
「またまたご謙遜を」

 謙遜ではなかった。今にして思えば嘉納の一件に首を突っ込んだために随分と痛い目……いや、もっと大きなダメージを被ったのである。出来れば今は思い出したくも無い記事なのだ。

 ここしばらくの間、不破は個人的事情から意識してその事件を耳に入れないようにしてきたのだが、世間の方はもっと勝手なもので、始めのうちこそセンセーショナルな事件として取り沙汰されていたこの事件も、最近ではすっかり下火となりワイドショー等でも話題に出る機会が減って来たように見られる。
 だが、不破は理解していた……世間がどう取り扱おうが彼は今もまだ全国各地でその犯行を続けているのだ……「表」の犯行だけではなく、「裏」で行っている何かしらの行動も……。

「不破君は『プロメテウス』はご存じですか?」
「?」

 そんな思案で気が逸れたところに食らった不意な話題の飛躍に面食らう不破。だが小山田は少し悪戯っぽい視線でその様子を窺っている……また何か企んでの問答なのだろうか? 相手のペースに飲まれるままでは癪なので不破はそれを受けて立つ事にした。

「ギリシャ神話ですね? プロメテウス──ティターンの一柱で、確か天界の炎を盗んで人類に与えた神……でしたよね?」

 問答に応じた不破に、小山田の笑みがこれまでのものと異なる色を帯びる……無邪気な印象だったそれとは異質な……不敵で覇気を帯びた笑みだ。

「はい、主神ゼウスが人類と神を分けようと目論んだ際、プロメテウスはオオウイキョウに火を灯し人類に与えました。これによって人類は文明や技術を手にしましたが、同時にそれによって武器を作り、争いを始めてしまう……といった、聖書における人間の原罪にも通ずるような説話です」

 ……小山田が何を言わんとしているのかを不破は察した。

「嘉納が……そのプロメテウスだとでも?」
「さて、そこまでは……。けど僕はあの事件でそれを連想してしまいましたよ」

 自らの目の前に両手をかざし、見えない何かを象る様に揺らす小山田。

「あまり穏やかな喩えには聞こえないですね」
「そうですか?」
「仮にプロメテウスに喩えるとして、嘉納は誰に罪の炎を渡したのです? ……それに知ってて言ってますよね? その後プロメテウスがどうなったのか」
「もちろん、存じてますとも──」

 天界の火を盗んだプロメテウスはその後ゼウスの怒りを買い、コーカソス山に磔にされる。そこで生きながらにして毎日肝臓を鷲についばまれる責め苦を受けるのだ。

「──天の火を盗んだプロメテウスは磔の刑に処せられた……さて、天界ならぬオリンピアの火を盗んだ者たちは……果たして如何なる罪に問われるのでしょうね……?」

 不穏当な会話に二人の間の空気が張り詰める。車椅子ごと二人に背を向け海を眺めている瞳美夫人は、それでも反応を見せる事は無かった。
 やがて小山田はそんな緊張に飽きたかのように不破に向けた視線を上空に一転、天を仰いだ。

「……でもね、プロメテウスは不死だったんですよ。磔で命を落とすことは無かった」
「それでずっと内臓を鳥についばまれ続けるんですから、そちらの方がよほど残酷に思えるんですがね?」
「でもプロメテウスの不死は、未来への希望の暗示にも解釈できませんか?」

 茶目っ気を見せて人差し指をかざした小山田の笑みは、元の子供の様なそれに戻っていた。毎度のように毒気を抜かれてしまった不破はまたも諦観のため息をつく他ない。

「……嘉納は人間です。彼の行いは人の法で量り、裁くのが妥当ですよ」
「はてさて、今後が楽しみですねぇ」
「……楽しまないで下さい」

 全くもって、一体どこまでが本気なのか……掴み処の無い人物である。だが、何であろう? この違和感……小山田の語り口は何かと含みがあり、まるで謎解きの如く言外の言が潜んでいる様に不破には感じる。だからと言って彼との会話に常に憶測を巡らすのもまた危険である、彼の発言の半分はその場のひらめきや思いつきに基づく、刹那的なものであるからだ。
 この人物はきっと生来のトリックスター的性格なのだろう……それが不破の出した彼に対する認識だった。心に余裕のある時ならばそんな言葉遊びのやり取りも楽しめるのかも知れない……が、今現在の不破にとってはそんな老紳士の戯れに付き合える精神的余裕の持ち合わせは無かった。

「そんな問答をするためにこんなところにまで呼ばないで欲しいものですね」
「いえ、君を呼んだのは別の理由でして……」
「え?」

 小山田は夫人の車椅子を回頭させて不破に向けた。

「駐車場まで、彼女移動させるの手伝っていただけませんか? 行きは先程の彼らが手伝ってくれましたが、帰りの道、僕一人じゃ大変なもので……」
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