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作者: 沖房 甍
手がかり
 まだ不明瞭な意識が最初に捉えたのは囁き声の様に途切れ途切れに聞こえてくる女性の歌声だった。
 決して達者な歌声では無いし流暢とも言えない、時々ふっと途絶えてはまた思い出した様に再開されるメロディーはどこか危うくもどかしい……。

 ……何の曲だったか……? 聞き覚えがあるのだが思考がまだ曖昧で特定が出来ないでいる。

 少しずつ明瞭になってくる思考がそれを鼻歌だと認識するまでしばらく不破は微睡まどろみの中にいたのだが、やがて漂ってきた鼻腔を抜ける香りが意識を急速に覚醒させていった……。


 まだぼんやりとした目が周囲を見回す、見慣れぬその風景が昨日自身が借りたウィークリーマンションの一室であると思い出すまでほんの数舜のタイムラグを要した。周囲を見回すと自分が突っ伏していたテーブルの上にはまだ未整理の書類の山、肩にかけられた毛布は自分でかけた記憶が無い。……そして台所の方からコーヒーの香りとたどたどしいハミング……。

「あ、起きましたか不破さん? 今コーヒー淹れますから待ってて下さい」

 台所の角から咲楽がひょっこりと顔を出した。

「どうぞ、作業始める前にしっかり目を覚まして下さい」

 差し出された一杯に、不破はすぐに手を出せない……先日の塩入りコーヒーを思い出したのだ。恐る恐るカップの持ち手をつまむと、意を決してそれに口をつけ……すぐにホッと胸を撫で下ろす。どうやら今日はちゃんとした普通のコーヒーの様だ。

「どうしたんです?」

 そのあまりに不自然な様子に気付いて咲楽が怪訝な顔を覗かした。

「あ……いや、この前のコーヒーと違って……その、何て言うか……」
「この前?」

 咲楽は何だか分からないといった様子だ、不破は妙な気の遣い方もそれはそれで問題があるかと思い直して先日の件を咲楽に白状する。

「……え? やだ、私そんな事しちゃってたんですか!?」

 見る間に顔が紅潮してゆく咲楽。

「ありゃぁ~……、私よっぽど気が動転してたんですね。……すみません」
「いや、でも朝臣さんは気を遣って飲み干してんだから、俺も我慢するのが礼儀かなぁ……なんて……」
「礼儀なわけないじゃないですか!」

 笑いと怒り半々の咲楽に肩をはたかれる不破。

「朝臣さんって、味音痴なんですから塩が入ってようが醤油が入ってようがきっと平気で飲んじゃいますよ」
「酷い言われようだな……まぁ、おかげですっかり目が覚めた、ご馳走さん。それじゃ作業再開と行くか」
「はい」

 咲楽は二人分のカップを片付けると自分の席に着きノートPCを起動させた。その日もやはり午後の数時間だけ咲楽がホームページ用にリレー開催の模様を撮影に抜けだしたが、それ以外はただひたすら単純作業の繰り返し……終始単調な作業が続く。単調な作業だからついぞ口数は減るのだが、眠気が部屋を支配してくると無理にでも会話を設けてそれを振り払った。


 作業に入って三日目、咲楽は午前中のうちに執念の成果であるキーワードのピックアップを一覧表にまとめていた。

「やがてこういう煩雑な作業はAIがやってくれるようになるんでしょうね」

 退屈と沈黙を紛らわすため咲楽がそんな他愛もない話題を切り出す。

「そんないつ来るか分からない未来を待っているわけにはいかないだろ? 必用なのは今出来る手段だ」
「……にしたって、もっと楽できる方法があったんじゃないですか? 何だか要らない苦労しているような気がしますよ、私は」
「『労力を省くな、ネタは足で見つけろ』こいつは昔からのブンヤの鉄則なんだぞ?」
「時代遅れの根性論にも聞こえますけど?」

 お説教染みた持論を展開する不破に対して、咲楽も軽口で応戦する。当然口喧嘩をしているのではない、それはまるで気心知れた親友同士の丁々発止に似ていた。
 それにしても誰かに感化されたのか、それとも本来の自分が露呈する様にでもなったのか、この数日で咲楽はすっかり不破に対しての遠慮が無くなっていた。敬語を使わなくなったとか言葉遣いがぞんざいになったという意味ではなく、自身の意見を忌憚無く主張するようになったのである。そのため二人の会話には行き違いや齟齬が少なくなり、打てば響く様なテンポが生まれるようになっていたのだ。不破にとってそれは心地良く、そしてどこか懐かしさを感じるものであった。

 ……尤も、彼の徹夜続きの頭にはその懐かしさの正体が何であるのかまでは判らなかったのだが……。

「はい、出来ましたよ。頻度の高い150項目……個人特定であればこれだけでもかなり絞り込めるんじゃないですか?」
「そうだな。よし、次は──」
「え? まだあるんですか!?」

 これで作業終了かと思っていた咲楽がうげっとカエルがつぶれた様な声を上げる。

「何言ってる、ここからが本番だ。今度はこれら抽出したキーワードを多用している人物のアカウントを検索で捜し出す」
「検索ですか……随分漠然としてますね。何か予め範囲を絞れる要素は無いんですか?」
「最優先は匿名掲示板、それもオリンピックや聖火リレーを扱ったスレッドだ。その後はツィッターやフェイスブック等に限定して探してみよう」
「……ま、それなら昨日よりは楽か……」

 早速ものすごいスピードで検索を始める咲楽。

「こうして見るとあまり関係無さそうなアカウントばっかりですね。それにあんまり物騒なこと言ってる記事も少ないし……」
「そうでも無いさ。悪態ついている人間がどこでも同じ様な事をしているとは限らない、正気を疑うような人間が他所では常識的な人間だった……なんて話はよくある事だろ?」
「そりゃあ確かに……」

 ネットモラルに関しては本来自分の方が熟知しているはずなのに、不破の話にいちいち納得させられることに少なからず咲楽は驚きを覚えていた。

「でもこれで散々調べて実は無害な人間でした……なんて事もありますよね? それに該当者が特に見つからないってことも……」

 そうなるとこの苦労は何だったのだろうか? なんて考えが頭の隅を過り、咲楽は軽い目眩に襲われる。だがそれに対する不破の回答は潔いくらいさっぱりとしたものだ。

「それで相手に危険性が見当たらなければそれで良し、だ。まずはしっかり論拠と証拠を揃えて、警察沙汰にするのはそれからだよ」
「そりゃそうですけど……」

 何かそれでは気持ちがさっぱりできない自分がいる。

「それを疑うのも、対策の苦労も、全部被害受けている方がしなきゃいけないってのは何だか理不尽だなァ……」
「まぁ、専守防衛……ってか、俺たちが今やっているのは万が一の用心だ。用心ってのは最悪の状況想定に基づいた労力が無駄に終わることを良しとする、言わば不戦の矜持みたいな心構えの事を言うんだよ」
「そっか。……そういう見方もあるんだ」

 それもまた目から鱗が落ちる思いだった。

 一旦300以上まで膨れ上がった候補を、細かい吟味を経て最終的に二十余名分のアカウントにまで絞り込むことが出来たのは翌日。それが終わると今度はそれを過去のログに遡りながら対象となる人物像にそぐわない点を見つけて候補から落としてゆく作業に入る。

「……ん? ちょっと待てよ……」

 不意に咲楽の作業を覗き込んでた不破が妙な声を上げた。

「詩穂ちゃん、ちょっと二つ前のアカウントに画面戻してくれ」
「はい」

 それはごくありふれたツイッターアカウントだった。今日はどこそこのレストランで食事した、今日はこんな買い物した、自分の飼っている犬はこんなにも賢い……そんな内容の記事に料理やバッグやペットの写真ばかりで綴られている。

「このアカウントをチェックしといてくれ。……んで、続けて……」

 こんな調子で二人はしばらくいくつかのアカウントを行ったり来たりしながらアカウントのピックアップと取捨選択を続ける。……やがて不破は一つの結論を導き出した。

「このヴェラティって人物……女性だな」
「女性? ヴェラティがですか?」

「ああ。もちろん絶対とは言えないがこのピックアップした女性名義の4つのアカウント、それぞれ別人であるかのように見えるが……たぶんヴェラティと同一人物だ」
「なるほど……まぁ、ネットの世界で性別偽ったりサブアカ持ってたりなんてのは日常茶飯事ですからねぇ」
「それと、相手の年齢層だ。最初から引っかかってたんだ……例の君が問題視した書き込み……」
「あれが何か?」
「文章の癖と似た様な話なんだが、世代によっても用いるワードの特徴があってな……その書き込みに用いられている、いわゆるネットスラングや若者言葉が無理して使っているというか、感覚にズレがある……というか……」

 少し歯切れが悪い。不破は何やら言葉を選んでいるようだったが、咲楽はそれに対してお構いなしの翻訳を加えた。

「ああ、確かに。言われてみるとちょっと使ってる言葉がハンパに古臭いなって思ってました」
「ん……まぁ、そういう事なんだが……世の中には自覚的に古い言葉を使う者もいるが、そう仮定するにしてもあの書き込みの文面には最近の流行に乗っかろうという作為が見られるし……。そこから判断するとこの人物の年齢層は文体に合っていない印象がある」
「要するにいい歳して流行の後追いばかりしているオバサンなんですね?」
「……バッサリと斬りまくるね」

 もはや苦笑を漏らすしかない不破、言葉を選んでいる自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。

「つまりヴェラティなる人物は流行を追いながらそれに後れを取る程度には年配で、一方でサブアカウントを用いることに頓着が無い程度には若い。想定すると三十代後半~四十代前半の、女性である可能性が強い……かな?」
「言い切って下さいよ。不安になる」
「断定は危険だぞ? 先入観で決めつけると思わぬ落とし穴にはまるからあくまで熟考が必用って事だ、だがこの線で概ね間違いは無いだろうな。そしたら、これらのアカウントからリンクされている先を、今度はホームページやブログにまで範囲を拡大して同一人物のものであろうサイトを洗い出してくれ」
「うひゃあ……」

 絞り込んだ先からまた仕事が増えていく。

「……もしかして……、不破さんって……蛇みたいに執念深い性格?」
「何か言ったか?」
「……いえ、何も~」

 小声で呟いたつもりがしっかり聞かれていたらしい。結局この作業にも丸一日を費やすこととなる。


 翌朝、改めてピックアップしたサイトに目を凝らす不破。だがその表情が次第に驚愕の色を帯びてくる。

「……こいつぁ、まずいな……」
「どうしたんですか?」

 咲楽は深刻気な相手の様子に小首を傾げる。
 不破はピックアップしたサイトから一つのブログを指し示した。例の自分の生活や持ち物自慢をしていたツイッターのアカウント主である女性が開設しているブログだ。

「このブログな……旅行の写真が頻繁にアップされているんだが、日付を追うとどうも旅行先が裏聖火リレーのスケジュールと被っているみたいなんだ」
「えぇっ!?」

 ……佐渡、寒河江、大潟村、弘前、十和田、函館……確かに確認すると彼らがリレーを開催した地域としっかり一致する。

「こいつ……ひょっとして俺たちを追跡して──と、いう事は……、詩穂ちゃん!」
「は、はいっ!」
「先週、今週と、君らのホームページから現地の様子を写した画像を出してくれないか? 未使用のやつもだ!」
「現地……リレー会場の?」
「そうだ。リレーの参加者は基本的には開催県の人間……だったよな?」
「そうですけど……って、えっ? まさか!?」

 何か察しがついたようで、咲楽も慌てて画像ファイルを開く。

「スタッフ以外の参加者は一箇所の会場にのみしか写っていないはず。画像の中から複数会場に重複して写っている一般参加者をしらみつぶしで探し出すんだ……!」

 不破は急いで外出の準備を整えつつ、あちこちへ連絡を取り始めた。


「……まずいぞ。ヴェラティは、もう会場に潜伏している……!!」
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