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作者: 沖房 甍
反撃
 札幌の市街から少し離れた夜の山林を嘉納が走る。傍観者的立場であった不破が彼を追わなくなったとて嘉納自身の行動に何ら変化を及ぼすものではなく、彼は相変わらず各地で表の聖火リレーの場に現れては、日が落ちるとこうして襲撃者との死闘を繰り広げていた。
 だが身体の消耗は激しく、まだ癒えきらぬ多くの傷痕と腕や脛に巻かれた包帯が痛々しい。その彼の手にするトーチの光に誘われるように追跡者が押し寄せてくるのも、もはや定まった光景となっていた。

 この地で彼が遭遇したのは格闘技を修める二つの集団である。

 一方は馴染みのある白い道着の三人組……いずれも黒い帯を腰に巻いた柔道の使い手、もう一方はハイカットタイプのシングレット……一般に言うところのアマレスウェアを着用したレスリングスタイルの二人組の合計五名である。
 嘉納も含め、いずれも「組み合う」事を前提とした格闘技であるため、少し走っては立ち合い、また少し走っては組み合い……と、断続的な戦闘を繰り返している。とは言え、真っ当な格闘技や競技でよく見る様な膠着した長いスパンの組み合いを見せないのは双方とも投げ技を警戒しての事である。何しろ剥き出しの地面への投げ技なんぞを食らえば致命傷は必至、その上柔道もレスリングも引き倒された後に更なる追い撃ちが待っている。グラウンドからのサブミッションは関節や腱に深刻なダメージを後に残すし、締め技で気絶しようものならその後は無防備で相手のとどめを受ける破目に陥るのだ。無論それは相手も同じことである。嘉納が古武術に近い格闘技を用いることは既に知られているため、相手方も抱えるリスクは同様であることは百も承知なのだ。
 しかしそうした双方の不利に働くはずの条件は、嘉納の側にいくつかの大きなアドバンテージを与えていた。一つは接敵時には必ず一対一の状態に持ち込める点である。これは勝負の決め手が投げ技や倒し技を起点に始まることから、余人が介入すると体勢が崩れて技が有効に決まらないためだ。もちろんその条件は嘉納にとっても同じことなのであるが、彼自身は相手の攻撃を凌ぎ切ることが勝利条件であるため、必ずしも相手を戦闘不能に陥れる必要までは無い。
 これに対して追跡者側は嘉納を確実に戦闘不能にしなければならない、つまり有効な戦術を崩されて不利になる割合は追跡者側の方が遥かに高いわけである。
 次に柔道やレスリングに比べて嘉納の修める技の方が戦術のキャパシティーが広い点である。極論してしまえば相手の使う戦術は全て嘉納も使えるのに対して、嘉納の用いる格闘技には相手が知らない、あるいは使えない戦術が含まれている。カードゲームに喩えるのであれば、嘉納の方が手札が多いという事を意味しているのだ。そして、何よりも嘉納には普段用いている技に加えてもう一つのスキルを修めているというアドバンテージがある。広島で見せたように、嘉納は普段の構えを解くと左右にステップを踏み始めた……。

「……カポエィラ……!」

 嘉納を取り囲む追跡者一派が緊張の度合いを高めた。

「間合いを取らすな、射程が長くなったと心得ろ」

 双方のチームを取りまとめるリーダーらしきレスリングの男が周囲に警戒を発した。もちろん嘉納がカポエィラを使うことは既に知らされている。だが知っている事が即ち対処できるという事と同義であるとは限らない、その事実を追跡者たちはすぐに思い知る事となる。
 ほぼ同じ歩幅で嘉納との間合いを詰める追跡者たち、足技主体のカポエィラのリーチは当然腕よりも長いため相手に組み付くためにはそのリーチの内側に入らなければならない。距離を0にして中長距離攻撃を無効にする……それが彼らが唯一選択し得る戦略であるのだ。正面に立ち塞がる柔道着姿の巨漢がその体躯に反した素早い動きで嘉納の懐を絡め捕ろうと迫る。たちまち互いの頭がぶつかるかという程の距離にまで詰め寄った。しかし次の瞬間ほぼ真上に噴き上がった蹴りがその巨躯を空中高く弾き飛ばす。間髪入れずに後方に旋回させた踵が反対側に位置する別の道着の敵を袈裟懸けに蹴落とした。一挙動の連撃でたちまち前後の相手を倒したその勢いを利用して、嘉納はパルクールさながらの側転宙返りをうって囲みから離脱する。トーチの光がくるりと輪を描き、続いて流れるように木立の陰に途切れる。

 彼が駆け抜けるその先で木々は唐突に開けた……目の前に巨大な構造物が姿を現す。

 喩えるならそれは巨大な滑り台だった。急角度のついたカタパルト状のアプローチレーンは遥か下方で途切れ、断崖の様に一段落ちたカンテ(踏切台)の先に幅のあるランディングバーンが更に続いている。今は初夏なので青々とした路面が見えているが、これが冬場になると雪面の滑走帯に変貌するのだろう。その施設はかつてこの地で冬季オリンピックが開催された際に使用されたスキーのジャンプ競技台なのだ。嘉納はリフトの下を抜け、フェンスを乗り越え、更に負い迫ってくる追跡者をそのスロープの頂上へと誘い込む。

「足を取れ! 奴の機動力を削ぐんだ!!」

 ビル程の高さもある滑空面の上から下を見下ろすと実際の標高以上に高さを感じる。アプローチの脇は階段状の構造になっているとはいえ、こんな足場でバランスを崩せば真下まで転げ落ちてしまうことだろう。それでもリーダーの指示の下、別のレスリングの男が低空飛行のタックルを敢行する。コンパクトに最短距離を詰めてくる相手に不用意な大振りの蹴りを放てば掻い潜られ、下半身の動きを封じられてしまう。それに対し嘉納は相手に向かって自ら前に出た……!
 ごきりと鈍い音が暗闇に響き渡る……だが倒れたのはタックルを仕掛けたレスリングの男の方だ、嘉納はカウンターで膝蹴りを繰り出したのだ。これまた最短距離で放たれた膝の一撃が相手の顔面を砕き意識を奪ったのである。反動でひっくり返ったのが階段状構造上であったため、転がり落ちるのを避けられたのは彼にとって幸いだったと言えるだろう。
 残された二人の追跡者は詰めるべき距離を誤っていたことにようやく気付く……相手と組むため掴みかかる一挙動分だけ距離が足らなかったのだ。かたや打撃技の嘉納の方は相手にヒットしたその瞬間が到達点である、長いリーチと合わさったその利は容易に覆せぬほど圧倒的であると言えよう。

「こうなったら俺が相打ち覚悟で奴の足を止める……その隙にお前が仕掛けろ!」
「だ、だが……!?」
「構うな、俺の体が邪魔なら踏みつけにして構わん」

 言うが早いか弾けるように嘉納に襲いかかるリーダーの男、捨て身のタックルはなり振りかまわない分踏み込みが深く、嘉納はやむなく迎撃するほか無い。側面から頭部を捉えた蹴りは確実に相手に致命傷を与える……が、そのまま蹴り足をホールドされてしまう。端から相手は相打ち覚悟なのだ、その隙を逃すはずもなくすぐ後方に備えていた柔道使いが嘉納の胸ぐらを捕えた。

 それは三人のうちの誰が意図したものだったのだろうか……もつれあう三つの人影は、トーチの光跡となってそのままアプローチを転がり落ち、ランディングバーン下方の闇に姿を消したのである。


 暫くの静寂の後、甲高いモーター音を唸らせ上空から二機のドローンが降下してきた。機体に搭載されているLEDのまばゆい光が地表を照らし出すまで降下したところで、ドローンは交互にアプローチの先からカンテの下へと探索する様にうろうろと飛び回っている。やがて林の中から暗視ゴーグルを着けた数名の黒服の男たちが姿を現し、現場に歩み寄っていく。
 カンテの上では柔道着の男が辛うじて落下を避ける形で倒れていた。あちこち擦り傷や打撲はあるものの比較的軽傷であるが、斜面を転げ落ちた際に頭でも強打したのか完全に気を失っている。一方その遥か斜面の下方で倒れていたのはリーダー格のレスリング男……、こちらはカンテから転落した際、打ち所が悪かったのかより重傷で、何ヶ所か骨折もしているらしい。
 だが黒服たちの目当てである肝心な人間の姿はどこにも発見できない。暗闇の中だ、少なくともトーチの炎が暗視ゴーグルで見つからないはずがない……、黒服たちは周囲を隈なく捜索し続ける。

 ……すると、唐突に空中で待機していた片方のドローンが見えない壁にでもぶつかったかの様に弾け飛び、地面に落下した。続いてもう一機。

 何事かと上空を見上げる暗視ゴーグルの喉元に、トラスの陰から手が伸びて鷲掴みにする。ぐえっ……とくぐもった声を上げて黒服が一人姿を消した。
 異常を察知した他の黒服たちが状況の確認に駆け寄るのだが、そのそばから次々と構造物の影に引き込まれては沈黙してゆく。最後に残った黒服は危険を感じたか懐から拳銃を取り出して構えた……が、むしろ一刻も早くその場から離れるべきであった……背後には既に嘉納が忍び寄っていたのだ。
 自身よりも一回りも小さい、しかも満身創痍の男にいともあっさり組み伏せられてしまう黒服。生け捕りにした獲物を手繰り寄せたまま、光が漏れないようにカンテの裏、構造材が複雑に交差しているその奥に隠していたトーチを回収した嘉納は、銃を取り落とした黒服の腕を捩じりあげると冷たく抑揚の無い声で尋問を始めた……。


「……さて、今まで自由に監視させてきたが、そろそろお前たちの全容と動向を聞きたくなってきたところだ。……喋ってもらおうか……」
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