パーソナルスペース
翌日からは会場が岩手、宮城と東北地方に移る事となるというので不破は北海道滞在僅か半日で本州へと引き返すこととなった。差し当たり当面の拠点を仙台と定め、現在は行きと同様新千歳空港まで咲楽の車で送ってもらっている最中だ。
「不破さんって……もしかして免許持ってないんですか?」
「……悪いか?」
咲楽に目を合わせることなくぼそりと答える不破。
「意外です」
「俺はたぶん無茶な運転して周囲を巻き込みかねない様な危険な運転するからね」
「そんな事は……、運転してもいないのにどうして分かるんですか?」
「どう説明すりゃいいかな……? ……詩穂ちゃんは彼氏いるのかい?」
ごとん! と、大きな振動が車体を揺らす。
「な、な、な……っ、何をいきなり???」
質問の突拍子の無さと急に呼び方が変わったので思いっきり動揺する咲楽。当惑した顔を助手席に向けると、当の不破は頭を抱えてうずくまっている……どうやらルーフに頭を打ちつけた様だ。
「大丈夫ですか!?」
「……い……いや、心配ない」
「もぉ、急に変なこと言いだすから……」
「悪い悪い。彼氏なんて聞いたのはこういう話があるからなんだ……交際している男性の本性を知りたいなら、まずはそいつの運転する車に乗ってみろ……ってね」
「何ですソレ? 嫌ですよ下ネタは」
只でもセクハラ紛いな発言が続いているだけに何か良からぬ方向に話が向かうのを警戒してか、咲楽は眉間に皺を寄せてジト目を向ける。まだ頭を押さえている不破は笑ってそれを否定した。
「違うよ、心理学の話さ」
「心理学?」
「そう、車内というのは一種のパーソナルスペース的な性質がある。そうしたプライベートな空間では人間は本音……というか本性が露呈しやすい。つまりプライベートの性格を知ることが出来るんだ」
「へぇー、そうなんですか!?」
「例えば普段温厚そうに見えても運転が荒かったり、車内だと口が悪くなる人間っているだろ? そういう人はプライベートな場でも、普段外で見せないような荒っぽさや口の悪さが出る傾向がある……という説だな」
「なるほど……」
「ネットもそうしたパーソナルスペース効果が出やすい……と言われている」
不破は口端を歪めて呟いた。
「え?」
「普段ネットで過激な発言している人間が、オフ会等で会ってみると意外におとなしかった……なんて話、よく聞くだろ?」
「あー、分かります。それって結構ネットあるあるですよね」
「例のヴェラティって奴も、普段社会の中では目立たずごく普通の人間の振りして暮らしているのかも知れないな……ってね」
緊張でハンドルを握る手に思わず力が入る。咲楽はこれから相対さなければならない見えない「何者か」の姿を想像し、再び気持ちが沈んでゆくのを自覚した。
「なぁに、相手も所詮は人間だ。正体を見極める事……まずはそこから始めよう」
「………はい。……でもどうやって?」
匿名が当たり前のようにまかり通るネットの世界では、その先に潜む人間の姿を垣間見るのは極めて困難だ。
「IPアドレス辿ってプロバイダーに情報開示請求でもしますか?」
「そいつぁ現実的ではないな。具体的な実害があって、且つ時間をかければそれも可能だが、今回みたいなグレーな案件の場合、現在の法制度ではあまりに分が悪い手段だ」
「そういえば昨年もありましたね。タレントが名誉棄損で悪質な書き込みをした人間の情報開示を求めた……って事例が。確かにそれも随分と手続きに苦労したと聞きました」
「まだ手続きが煩雑な事、その労力に比べて認定される可能性がまだ低い事……時間と手間と出費ばかりかかって非常に訴える側にメリットが少ないのが現状なんだ」
「じゃあ、どうしたら良いんでしょう?」
車は交差点で停車、車内はウインカーのクリック音だけがリズムを刻んでいる。
──手段なら無いことも無い。
そう考える咲楽は助手席の男をちらりと盗み見る……先程皆で話していた際には、当面自分達だけどうにかするみたいな運びとなって打ち切られたわけだが、何か妙案でもあるのだろうか……。
──確かに相手の正体を掴む方法はある……けどそれは……、
「不破さん」
「ん、何かな?」
「……もしも……もしも、の話ですよ? 相手の情報を入手する方法があるなら……どうします?」
相手の真意をつかみかねて不破が怪訝な表情を向ける。
「あるのかい? そんな方法」
「それは……その……」
自分から話を切り出しておいて、咲楽は返答に困って口ごもってしまう。だが不破は何かを言い淀む咲楽を気にする素振りも無く、両手を頭に回してシートに深く身を沈め呟く。
「……まぁ、例えば不正な手段を計算に入れればまだ手段はいくらかあるだろうな」
一瞬、何かを見透かされてしまったかの様な錯覚を覚え、咲楽は身を固くした。
「あの……私──」「まぁ、でも。真っ当な手段でもまだやり様はある、心配するな」
咲楽の告白はその矢先、不破の楽観的な台詞に遮られた。
「……え?」
「手はあるっての。聞いてたか?」
任せろ、とばかりに不破は彼女に対して相好を崩して見せる。
「ほら詩穂ちゃん、信号!」
「……ああ、………はい……」
いつの間にか信号は青に変わっていた、咲楽は慌ててギアを入れる。
「……あの……不破さん?」
「ん?」
「何で急に名前呼びなんです?」
「……?」
不破は一瞬何の話をしているのか分からないといった顔をして……すぐにその意味に気付いた。
「ああ! いや、他意は無いよ? さっき中林さんが君の事名前で読んでたの聞いて、苗字に『さん』付けよりもそっちの方がしっくりくるし、他人行儀でなくて良いかな……ってね。畏まるなって言ったのは君だろ?」
「……あ~……そーなんですか………そーですね……」
些か気が抜けた咲楽はカーブで投げやり気味にステアリングを切る。確かに車内ではその人物の本性が出てしまうのかも知れない、今日ひときわ機嫌の悪い音でサスペンションが軋みを上げた。
「不破さんって……もしかして免許持ってないんですか?」
「……悪いか?」
咲楽に目を合わせることなくぼそりと答える不破。
「意外です」
「俺はたぶん無茶な運転して周囲を巻き込みかねない様な危険な運転するからね」
「そんな事は……、運転してもいないのにどうして分かるんですか?」
「どう説明すりゃいいかな……? ……詩穂ちゃんは彼氏いるのかい?」
ごとん! と、大きな振動が車体を揺らす。
「な、な、な……っ、何をいきなり???」
質問の突拍子の無さと急に呼び方が変わったので思いっきり動揺する咲楽。当惑した顔を助手席に向けると、当の不破は頭を抱えてうずくまっている……どうやらルーフに頭を打ちつけた様だ。
「大丈夫ですか!?」
「……い……いや、心配ない」
「もぉ、急に変なこと言いだすから……」
「悪い悪い。彼氏なんて聞いたのはこういう話があるからなんだ……交際している男性の本性を知りたいなら、まずはそいつの運転する車に乗ってみろ……ってね」
「何ですソレ? 嫌ですよ下ネタは」
只でもセクハラ紛いな発言が続いているだけに何か良からぬ方向に話が向かうのを警戒してか、咲楽は眉間に皺を寄せてジト目を向ける。まだ頭を押さえている不破は笑ってそれを否定した。
「違うよ、心理学の話さ」
「心理学?」
「そう、車内というのは一種のパーソナルスペース的な性質がある。そうしたプライベートな空間では人間は本音……というか本性が露呈しやすい。つまりプライベートの性格を知ることが出来るんだ」
「へぇー、そうなんですか!?」
「例えば普段温厚そうに見えても運転が荒かったり、車内だと口が悪くなる人間っているだろ? そういう人はプライベートな場でも、普段外で見せないような荒っぽさや口の悪さが出る傾向がある……という説だな」
「なるほど……」
「ネットもそうしたパーソナルスペース効果が出やすい……と言われている」
不破は口端を歪めて呟いた。
「え?」
「普段ネットで過激な発言している人間が、オフ会等で会ってみると意外におとなしかった……なんて話、よく聞くだろ?」
「あー、分かります。それって結構ネットあるあるですよね」
「例のヴェラティって奴も、普段社会の中では目立たずごく普通の人間の振りして暮らしているのかも知れないな……ってね」
緊張でハンドルを握る手に思わず力が入る。咲楽はこれから相対さなければならない見えない「何者か」の姿を想像し、再び気持ちが沈んでゆくのを自覚した。
「なぁに、相手も所詮は人間だ。正体を見極める事……まずはそこから始めよう」
「………はい。……でもどうやって?」
匿名が当たり前のようにまかり通るネットの世界では、その先に潜む人間の姿を垣間見るのは極めて困難だ。
「IPアドレス辿ってプロバイダーに情報開示請求でもしますか?」
「そいつぁ現実的ではないな。具体的な実害があって、且つ時間をかければそれも可能だが、今回みたいなグレーな案件の場合、現在の法制度ではあまりに分が悪い手段だ」
「そういえば昨年もありましたね。タレントが名誉棄損で悪質な書き込みをした人間の情報開示を求めた……って事例が。確かにそれも随分と手続きに苦労したと聞きました」
「まだ手続きが煩雑な事、その労力に比べて認定される可能性がまだ低い事……時間と手間と出費ばかりかかって非常に訴える側にメリットが少ないのが現状なんだ」
「じゃあ、どうしたら良いんでしょう?」
車は交差点で停車、車内はウインカーのクリック音だけがリズムを刻んでいる。
──手段なら無いことも無い。
そう考える咲楽は助手席の男をちらりと盗み見る……先程皆で話していた際には、当面自分達だけどうにかするみたいな運びとなって打ち切られたわけだが、何か妙案でもあるのだろうか……。
──確かに相手の正体を掴む方法はある……けどそれは……、
「不破さん」
「ん、何かな?」
「……もしも……もしも、の話ですよ? 相手の情報を入手する方法があるなら……どうします?」
相手の真意をつかみかねて不破が怪訝な表情を向ける。
「あるのかい? そんな方法」
「それは……その……」
自分から話を切り出しておいて、咲楽は返答に困って口ごもってしまう。だが不破は何かを言い淀む咲楽を気にする素振りも無く、両手を頭に回してシートに深く身を沈め呟く。
「……まぁ、例えば不正な手段を計算に入れればまだ手段はいくらかあるだろうな」
一瞬、何かを見透かされてしまったかの様な錯覚を覚え、咲楽は身を固くした。
「あの……私──」「まぁ、でも。真っ当な手段でもまだやり様はある、心配するな」
咲楽の告白はその矢先、不破の楽観的な台詞に遮られた。
「……え?」
「手はあるっての。聞いてたか?」
任せろ、とばかりに不破は彼女に対して相好を崩して見せる。
「ほら詩穂ちゃん、信号!」
「……ああ、………はい……」
いつの間にか信号は青に変わっていた、咲楽は慌ててギアを入れる。
「……あの……不破さん?」
「ん?」
「何で急に名前呼びなんです?」
「……?」
不破は一瞬何の話をしているのか分からないといった顔をして……すぐにその意味に気付いた。
「ああ! いや、他意は無いよ? さっき中林さんが君の事名前で読んでたの聞いて、苗字に『さん』付けよりもそっちの方がしっくりくるし、他人行儀でなくて良いかな……ってね。畏まるなって言ったのは君だろ?」
「……あ~……そーなんですか………そーですね……」
些か気が抜けた咲楽はカーブで投げやり気味にステアリングを切る。確かに車内ではその人物の本性が出てしまうのかも知れない、今日ひときわ機嫌の悪い音でサスペンションが軋みを上げた。