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作者: 沖房 甍
ノコサレタモノ
 東京は荻窪。駅から商店街を抜けて緩やかな下り坂を少し歩くと川沿いに住宅地が広がる。東京に戻った翌日、不破は皆守の家を訪れていた。

「昂明君、どうしたのその足?」

 行きがけにホームセンターで買ってきたアルミ製の杖など突いて来たものだから、玄関先で不破を見るなり恵子夫人は目を丸くする。

「いや、ちょいと不注意で足を捻っただけだよ」

 ……まさか調子に乗った革靴の全力疾走で肉離れを起こした、などとは口が裂けても言えない。

「また無茶したんじゃないの?」
「信用無ぇなぁ」
「そりゃあ、だって……昔から前科は山ほどあるからねぇ、程々にしときなさい?」

 とっくに悟り切っているかの様に恵子は微笑んだ。まるでやんちゃな弟をあしらう姉の如くに振舞っているが、実は彼女──皆守恵子は学生時代、不破とゼミでの同期である。その後、慶朝にいた頃に同僚の皆守英二に彼女を紹介したのをきっかけに両名は結婚することになるのだが、学生時代彼女に対して不破が淡い恋心を抱いていたのはとうとう明かす事無く今に至っている。

「それで……その……」

 玄関でアルコールを手に噴いていたのを良い事に、不破は彼女から視線を外し謝罪を述べた。

「すまなかった。葬儀にも出ずに……」

 恵子は笑みを崩すことなく首を振る。

「わかってる。君も色々あったんだってね」
「……でも、あいつを巻き込んでしまった」

 彼の死に関しては未だに嘉納の件との関連があると証明された訳では無い。だがそこに何らかの因果性がある事を確信してしまっている不破からすれば、自分が首を突っ込んだ厄介ごとで友人を殺してしまった様なものだという意識がある。だから罪の意識からは逃れられないという思いはあるし、ちゃんと仏前で悔悟せねばならぬと考えていたものだ。
 ところが、それに対して恵子が口にしたのは意外な言葉だった。

「違うのよ、昂明君。巻き込んだのは……たぶん皆守の方なの」
「………どういう意味だ?」

 恵子の口ぶりから何やら不穏な空気を不破は察した。

「皆守が俺を巻き込んだって、一体何があったってんだ?」
「うん、でも玄関先でする話じゃないよね。……上がって、お茶でも用意するから」

 理由を問いただす不破をなだめるように、恵子は不破を応接間に招き入れた。


 来客用の品の良いティーカップに紅茶が注がれると部屋中にダージリンの香りが漂う。それがお茶うけに出されたカステラの甘い匂いと合わさって、その場の空気を穏やかに和らげていた。

「折角だからお持たせにさせて貰ったわね」

 カステラは不破の手土産だ。次第に暑さが増し始めている初夏の昼下がり、このまま談笑して過ごすことが出来ればさぞや有意義な一日になろうものだが、生憎話題はそういう方向には行きそうも無い。

「……で、さっきの話だが……?」

 不破は昨日咲楽の塩コーヒーの件を思い出して一瞬だけ躊躇を見せるが、まさか彼女に限ってそんな失敗はするまいとカップを口に運ぶ……当然の様に品の良いほろ苦さが広がる。ほぅ、と一息ついたところで不破は先程の続きを切り出した。

「何で巻き込んだのは俺では無くてあいつの方だ……と?」

 客が落ち着くのを下座で見守っていた恵子は、おもむろに立ち上がると一旦書斎の方に消え、すぐに一冊のファイルと小さな包みを手に戻ってくる。

「これは……?」

 黙って差し出されたファイルを不破が受け取る。タイトルも何も書かれていない表紙を開くとそこには皆守の取材記録がまとめられていた。

「相変わらず汚職であるとか背任とか……そんなものばっかり追っていたんだな、あいつは……」

 記録は何人かの代議士やそれと癒着していたと目される建築会社やら出版会社やらに関する調査書だ。

「ペンは剣より強し……なんて、本当に堅物な人だったから」

 仕方がない人だと言わんばかりに笑うが、恵子はどこか誇らしげに故人を語る。

「ん……いや、だがこれが何か?」
「仕事の事は何にも家では口にしなかった人だったけど皆守はね、この件を三年前から調べていたらしいの」
「えらく慎重に取材を進めていたんだな」

 と言って、不破はすっかり週刊ペースでの完パケを迫られている現在の職場の常識を当てはめてしまった自身の思考に呆れ返ってしまう。

「そんな折、例の……ほら、聖火トーチ強奪事件だったっけ? あれに君が大きく関わっている事を知って、皆守は色めき立ってたのよ。『奴の話も聞いときたい』って言ってた」
「つまり、俺が遭遇した事件と皆守が追っていた件は関連がある……と?」
「たぶんね。……で、こっちがそんな事情であることを知らずに、君がそっちの事件の件で皆守に連絡入れてきたものだから、彼は喜び勇んで出かけて行ったわよ?」
「渡りに船だったわけだな……あいつめ、恩着せるために黙っていたな?」

 協力ついでに不破の方からの情報を手に入れる好機とでも踏んだのだろう……実に皆守らしいと不破は苦笑する。

「ごめんなさいね、そーゆー人なの」
「……知ってる」

 応接間からは見えないが、不破は廊下の向こうの居間の方向を見遣る。こちらに通される前に仏壇に線香を上げたのはつい先ほどの事である。

「それで、これ……」

 恵子は次に小さな包みを差し出した。

「葬儀が終わって何日か後だったかな……これが家に届いたのよ」

 不破は包みを手に取りそれを確かめる。一度封を切った跡があるのは恵子が開いたためであろう。貼り付けてある届表の差出元には自分の名前が書かれてある……もちろん自分が出した覚えはない……が、

「皆守の字だな」
「そうね。それは私も分かった」

 皆守は急いで書き物をすると文字の末端がひどく跳ね上がる癖がある。不破も恵子夫人も当然その癖の事は承知しているので、この包みの差出人が皆守であることは容易に推測できた。

「あいつが自分の俺の住所と自分の家の住所を間違える訳が無い。何で俺名義でわざわざ自分の家に……いや、愚問か」
「しかも配送日時を遅らせたって事はあまり他人には知られたくない物である可能性は大きいよね。何か重大な物証かそれにつながる手がかり……もしかしたらこんな事態になる事も、あの人は予感していたのかも知れない」

 今でこそ家庭に納まってはいるが恵子も元々は不破と同じゼミにいたジャーナリスト志望である、こうした事件や危険の匂いには鼻が利くし、極めて察しも良い。

「中見ても良いかい?」
「もちろんよ」

 不破は包みを開いて中身を取り出す。ジッパー付きビニール袋に収められていたのは小さな鍵だった。

「……差し詰め、貸ロッカーのキー……ってトコかな?」

 恵子は両手を広げて首を横に振った。否定ではなく「そこまでは分からない」という意味だ。

「皆守が送り主に昂明君の名前を使ったのは、たぶんそれを君に渡して欲しいというメッセージだと思うんだけど……」
「そうだな、俺もそう思う」

 自分の眼前で鍵の入った袋をぶらぶらと揺らして、不破は小難しい顔でそれを眺めた。

「だからね、その取材記録と鍵は君に預かってもらうのが一番良いと思うの。もちろん、それをどうするかの判断も含めてね」
「……そっか……」
「……迷惑?」

 不破のリアクションに一抹の不安でも感じ取ったのか、恵子が相手の顔色を窺う。

「………いや」

 そうした相手を思い遣ってか、不破はわざと大きくかぶりを振った。

「迷惑も何も、もうとっくにあいつに巻き込まれてるんだ。……それも毎度の事だよ」

 袋から鍵をつまみ出すと不破はそれを懐に収めた。

「お言葉に甘えて、これはちょっと預からせてもらうよ」


「行儀が悪い! ホント相っ変わらずだらしないんだから」

 玄関で不破が杖を靴ベラ代わりにしているのを恵子が見咎める。

「いつまでもそんなだから独り者なんだぞ?」
「へいへい、余計なお世話でございます」

 うんざりした顔で不破は見送る夫人に背を向ける。

「いいこと? ちゃんと牧ちゃんにも気を遣ってあげなさい」
「何でそこでスミの名前が出てくる?」
「何ででもいいの、君だってもういい大人なんだから」

 そうお説教している相手も同い年である。

「はいはい、肝に銘じときますよ」
「……失くしてからじゃ、……遅いんだからね……」

 恵子の声のトーンが急に落ちたのでハッとして振り向く不破、恵子の肩は微かに震えていた。またもや失念していた……気丈にしていても相手はついこの間大事な伴侶を失った女性である。不破は恵子の肩をそっと抱き寄せ、赤子をあやす様に背を軽く叩いた。

「何か困ったことがあったら遠慮なく連絡しろよ? いつでも力になるから」
「……ええ……」



                    ◆

 新宿方面に向かう電車の中、不破は懐から鍵を取り出す。しばらく見つめ、そしてそのまま懐に収める……。

「……さて……と、これを一体どうしたものか……」


 まだマスクの手放せない各駅停車の車両内、誰かがこほんと小さな咳をした。
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