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作者: 沖房 甍
留守録
「急な全力疾走の挙句に足の肉離れとは……正直言って呆れますね」

 医療スタッフの麻臣が特に感慨も無さげに不破の足に冷湿布を張り付ける。

「はぁ、面目無い……」
「責めないで下さい朝臣さん、不破さんが悪いんじゃないんです。元々会長がけしかけたのがいけないんですから!」

 二人にコーヒーを淹れて差し出す咲楽がちっとも弁解しない不破に代わって援護を入れる。

「ごめんなさい、不破さん。後で会長叱っときますから!」
「いえ、そこまでしなくても……」

 思い返せばつい先ほどまで咲楽も随分と取り乱していた。部外者に随分肩入れしてくれるものだと……まぁ悪い気はしないわけだが、不破にとっては少々むず痒くも後ろめたさなども感じたりする。

「たとえそうであったにしろ、軽挙には変わりありません。小中学生じゃあ無いのですから、ご自身の身の程はちゃんと弁えて欲しいところですね……」

 反対に朝臣の方は口調が丁寧なだけに余計に険を感じる。思う処あっての行動でもあったのだが、医者にたしなめられては返す言葉も無い。
 総距離がフルマラソンレベルのコースだったにもかかわらず、結局不破は最後まで一人で完走してしまったのだった。だが、直後襲った足の痙攣と痛みに倒れこんでしまい、駆け付けたスタッフによってこの診療用のプレハブに担ぎ込まれてきたのである。
 ……こういうところが思慮が足りないのだと、自身を戒めずには居れない。

「あまり患者さんを苛めないで下さいね? 絶対ですよ!?」

 しつこいくらい何度も朝臣に念を押す咲楽。心配でしょうがないといった様子の彼女は、だがまだ自分の仕事を残していたため後ろ髪引かれつつもプレハブを後にする。だが残念なことにそれで目の前の医者に態度を改める気は全く無い様で、咲楽が遠ざかるのを確認したところで彼の皮肉が再開される。

「雑誌の記者というのはもっと一歩下がった場所からどこか冷淡に、無責任に取材するものだとばかり思ってましたがね」
「いや、概ねではそれで間違ってませんよ。ただそうしたスタンスに馴染めない馬鹿が多少いるだけです」
「なるほど後者の側ですか、あなたは」
「否定はしません。……まぁ、どちらであっても所詮はタブロイドの記者風情ですので、褒められた人種でない事には変わりないですけどね」

 無表情で切り捨てる麻臣に不破も自虐で返す。これ幸いとばかりにまた攻勢でもかけてくるのであろうな……などと不破は内心身構えていたのであるが、それに対する麻臣の反応は少々不可解なものだった。

「……褒められた人種じゃない……と言うのであれば私たちもそうなんでしょうね」
「?」

 私たち……とは何を指して言っているのだか? 不破は相手の真意を測りかねて少し眉をひそめた。

「だってそうでしょ? こうして走っている暇があるならもっと生産的な事に力を注ぐことだって出来るはずじゃないですか。おまけに密になるわ怪我はするわで、世間的には決して意義のある集団とは言えないと思うのですよね」

 つまりこの裏聖火リレーに集っている、自身を含めた人々のことを言っているのである、これは不破にとっては少し意外だった。
 確かにプロジェクトに関わる面々の中で、この人物は少し冷静で距離を置いた視点を持っている印象はあったが、それにしても随分と辛らつな見解だ。

「麻臣さんは……このイベントには反対なんですか?」
「まさか。もしそう思っているなら最初からスタッフとして参加なんかしていませんよ」

 白けた面持ちで麻臣はかぶりを振る、淡々としたトーンからは一見して何かしらの不満があるようには感じられない。

「全員が全員、お祭り気分では組織は成り立たないでしょ?」
「どうなんでしょう? 私は同好の士の集まりであればお祭り気分であっても決していけないとは思いませんが……?」
「そうして内輪で楽しむには少しばかり大規模になり過ぎたのですよ、この集団は」
「それはそうですが……」

 組織の健全化を考えれば麻臣の意見にも一理はある、……だがそういうものなのだろうか? どうにも彼は普段からシニカルな物言いをするため発言の意図が掴みづらい、小山田とはまた違う意味で読めない人物であると言えよう。

「まぁ、組織があらぬ方向に向かわない様に、誰かが疑問を投じる役を引き受けなければいけない。そしてスタッフでそれが出来るのは現時点で私だけだと悟っている……それだけの事です」

 言って、麻臣はぺちんと不破の膝頭を叩くと冷めかけのコーヒーをくい、と一気に飲み干した。

「さ、これで良し。どうやら腱には損傷は無いようですので、一週間も安静にしていれば痛みは引くでしょう。その間、患部は温め過ぎない様に心がけて下さい」
「はい。お手数おかけしました」

 何だかいま一つ腑に落ちない思いで……痛む足をかばいつつ、不破は立ち上がる。

「ちょっと待った、不破さん」
「はい?」
「せっかく咲楽さんが淹れてくれたのです、飲んでから出て行かれてはどうですか?」
「あ、こりゃ失礼……」

 冷淡そうに見えて意外に他人に気を遣っているのだな……と、妙な感心をして不破はカップに口をつけ……噴き出しそうになるのをなんとか抑え込んだ。

「……どうしました?」
「……い、いえ…プ……お世話…さん……」

 口に物入れたままの状態で辛うじて返答すると、不破はその口を押えてどたどたとプレハブから出てゆく。誰もいない少し離れたところで咳込んで、ようやく口を落ち着かせることが出来た。

「……辛ア…っ!」

 ……よほど気が動転していたのだろうか、それとも元からそそっかしいのか……咲楽の入れたコーヒーは砂糖と塩を間違えるという実にベタな失敗作だったのだ。しかしそれを文句ひとつ言わず飲み干すとは……!?

「……実はあの人、メチャクチャいい人なんじゃ……?」

 人は見かけによらないものだ……一瞬そう考えてから「待てよ?」と思い返す。本当に善人なら自分にまでわざわざ飲ませて巻き添えにするだろうか……?
 職業柄人を視る観察眼には多少の自信があるつもりだが、まだまだ当てにならない……そんな事をぼんやりと考えながら歩き出そうとして、踏み出した不破は靴の違和感に気付いた。

「……ありゃあ……!?」

 長距離の全力疾走を遂げた名誉の革靴は底が見たことも無い磨り減り方をしていた。



                    ◆

 翌日、だめにしてしまった靴や着替えの補充と、医者の言いつけを守っての数日の休養を取りに不破は東京に戻ることにした。
 久しぶりに戻る自室は少し埃臭さに満たされていた。前回戻ってから一週間ほど空けていただろうか、玄関に刺さっていた大量のダイレクトメールを目も通さずにゴミ箱に放り込むと換気扇を開く。相変わらずの陰気なブラインド越しの光、壁に染み付いたヤニの臭い、空疎で沈鬱な雰囲気は何一つ変わらない。

 作業机脇を見れば一体どれくらい溜まっているのか、電話機の留守録ランプがちかちかと赤い明滅を繰り返していた。

 携帯の普及で現在、世間一般的にはほとんどその用を為していない据え置き型電話の留守録機能であるが、何かと連絡事にルーズな不破にとっては未だ現役でこちらにメッセージを残す知人は多い。持ち腐れのスマホの留守録よりも不破がこちらを確認する可能性の方が高いことを、彼と付き合いの長い人間たちは知っているためだ。不破は面倒臭そうに最初からそれを再生した。
 半分以上は馬場園からの意味の無い催促、それに若干の他所からの事務的な連絡だ。どれも返信するには及ばない事と、聞いたそばから消去してゆく。
 あらかた確認と消去のローテーションを消化した後、一本の無言のメッセージが流れてきた。どうやら屋外からかけているらしく、微かに車の通り過ぎる音をスピーカーが拾う。少し乱れた呼吸音……それは何かを言いかけて逡巡している様にも聞こえる。

「……スミ……?」

 その息遣いがここしばらくコミュニケーションの取れていない後輩のそれであるような気がして反射的に受話器を取ろうとした不破は、すぐにそれが留守録であることを思い出して手を止めた。
 やがて無言の間がしばらく続いた後、録音は唐突に途切れる。メッセージに記録された日付は昨日の夜……何やら意味深で気になるメッセージだった。不破はスマホのアプリを開いて牧の電話番号を表示させ、ダイヤルをタップしようとして……その指を止めた。それが本当に牧からの電話だったのか気にはなったが、こちらから電話をかけるのも今は何か抵抗を感じてしまう。

「……確証があるわけじゃ無し」

 少しだけ躊躇して、だが意を決して不破はスマホを懐に収めると留守電のメッセージを消去した。険しい表情でじっと電話機を見つめる不破。

「!?」

 留守録ランプはまだ点滅していた、まだ再生されていないメッセージがあるらしい。不破はほぼ条件反射のように再生ボタンを押した。

『……昂明君、ご無沙汰しています。皆守です、皆守……恵子です』

 最後に録音されていたメッセージは彼にとってよく見知った女性の声だ。

『──主人の件でお伝えしたい事があります。メッセージを聞かれましたらご連絡下さい』


 それは皆守の夫人からのメッセージだった。
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