悔恨
「あれぇ!? 牧ちゃん、もう大丈夫なのかい?」
約20日ぶりに出社してきた牧を最初に出迎えたのは尾上の吃驚の声だった。
「はい、ご迷惑おかけしました」
牧は深々と頭を下げる。
「彼の容態はどう? ええと……、何て言ったっけ?」
「松原君です、ようやく身体を起き上がらせる事が出来るようになって、先生はもう心配は無いだろうって言ってました。今はご親戚の刑事さんが看ていてくれてます」
「そう、それは良かった。色々大変だったからねぇ」
うんうんと頷き、心から安心したように尾上は相好を崩す。
久しぶりに見る編集部の光景……だがそこに見慣れたはずの姿が無い事を牧は既に承知していた。
「わ、牧ちゃん!? お帰りー!」
どこから湧いたか高藤も駆けつける、気付けば彼女の周囲に人だかりが出来ていた。
実際のところ牧はただ看病していただけで、本当に大変だったのは被害者本人である松原なのだが、編集部の人たちからすれば会った事も無い当人よりも身内の方が気になるのは致し方が無い事なのだろう。
とは言え、こうして大勢の人たちが自分を心配してくれていた事に感謝と申し訳なさをつくづく痛感する。その一方で牧はその中に不破の姿が無いことにもの寂しいような、どこかホッとしたような、何とも形容し難い複雑な気分を覚えていた。
「おいコラ、スミっ子! 挨拶する順番間違えてんじゃねぇのか?」
いつまでたってもこちらに気付く様子が無いものだから、いい加減しびれを切らした馬場園がデスク席から不貞腐れた声を投じる。
「あ……はい、デスク。ずっと休んでいて申し訳ありません」
「ふん、まぁとにかく仕事に穴開けた分はきっちり働いてもらうからな」
「はい」
明るく返した牧ではあったがその笑顔はどことなく浮かない。実はバッグの中に一通の封筒を忍ばせていた……それは辞表だ。
もちろん形ばかりのものに過ぎない。牧の様に正規の社員でない人間にとって、その気になれば口頭でも契約の破棄を持ちかける事は(普通ならやらない行為だが)可能だからだ。それでも自身の区切りとして、きっちり意思の表明はしておきたいとこれをしたためていた。
そのうち折を見てこの仕事を辞めよう……この時、彼女はそんな事を考えていたのだ。
◆
「せめてスニーカーかトレッキングシューズでも履いてくりゃよかった……」
軽い後悔を感じながら不破は準備運動に勤しむ。もちろんランニングウェアなんて持ってきているはずもない、シャツにスラックス姿で走ることになる訳だが、大汗かくことになるだろうことを想像すると気が重い。せめてもの抵抗にジャケットだけは脱ぐことにした。
「はい不破さん、これで良いですか?」
やがて咲楽が下腕程の長さの棒っ切れを持ってきた、近くの草っぱらから拾ってきたものだ。
「それとこれ、麻臣さんから包帯もらってきました」
「おう、助かるよ」
不破はそれらを受け取ると棒の片端に包帯をぐるぐると巻き付け、ついでに足下に落ちていた軍手などもダメ押しにかぶせてみる。
「トーチ替わり……ですか?」
「そういうこと」
更に不破は自分の荷物からライターオイルを持ってきて先端の布塊に染み込ませた、即席トーチの完成だ。
「これで簡単には消えないはずだ」
まるで原始人の振り回すこん棒の様な見てくれの悪いトーチであるが、手ぶらで走るのもわざわざルールを守っている他の参加者に失礼だ。不破は剣闘士が得物を手に馴染ませるかの様に手首を振ってグリップの具合を確かめる、まるでこれからチャンバラに挑む子供の如しだ。
「何も会長の気まぐれにまともに付き合うこと無かったんじゃないですか? 無理して走ること無いんですよ」
咲楽はどうした経緯でこうなったのかを聞いているだけに、今はすっかり楽しそうな不破の姿に半ばあきれ顔だ。
「まぁ、こっちもちょっと走ってみたい気分はあったからな……」
「怪我なんかしないで下さいよ?」
「心配無用、これでも元陸上部だ、800mの選手だったんだぜ」
「えー、そうなんですか!」
……尤も実力は県大会止まりなのであるが……、それでも一般レベルよりもマシに走れるだろうという自負はある。
「それじゃこちらで点火お願いします」
受付スタッフに呼ばれてテント脇に並ぶ。長机の上には一抱えもある大型のランタンが据えられ、そこに火が灯されていた。参加ランナーはここでトーチに点火してもらい、コースの最終地点までその炎を繋ぎ渡してゆくのである。
「本格的だな。ちゃんと火も用意しているのか」
「はい、念のため同じ火を三つのオイルランタンに分けてリレー開始の頃からずっと管理してます」
咲楽が誇らしげに語る。
「真似っこでも手抜きせずにこだわるところはこだわろう……って。だから火も決して絶やさずに最後まで繋いでいくつもりなんです」
「……君たちの聖火……ってわけだ」
それは旗印とでも呼ぶべきだろうか、何か事を成すのにその象徴となる存在は重要である。本家オリンピックの聖火リレーがかつてプロパガンダとして発生したものであったとしても、現在に至るまでその形が脈々と受け継がれてきたのはそうした象徴の持つ精神性が重要視されてきたからに他ならないだろう。
細い紐でランタンから分けられた種火が不破の即席トーチへと移される。着火したトーチはライターオイルの効果覿面、必要以上の勢いで盛大に炎を巻き上げた。
「では第一組、スタートしまーす!!」
手に手に彩とりどりのトーチを掲げて、数名のランナーがスタート位置に立つ。飛び入りの不破もその組に入れてもらっていた。
「位置について……用ォー意───」
号砲一発、火薬の爆ぜる音が響いてランナーたちが走り出した。不破も集団の後方の位置で様子を窺いながらついて行く。
「始まりましたねー」
いつの間にか咲楽の隣に小山田が佇んでいた。
「……不破さん焚きつけて楽しんでない?」
小山田に顔も向けずに咲楽が口を尖らす、少しだけ口調が冷ややかだ。
「そんなこと無いですよ? 彼、何だか走りたがってた様でしたので。僕はちょっと背中押してあげただけです」
「………もぉ……」
むくれる咲楽を小山田が横目で見おろしている。心なしかそれは孫をあやす祖父の様な穏やかな表情にも見える。
「人間誰しも悩みやモヤモヤを抱えているものでしょ? そういう時は身体を動かして発散することが一番です」
満面の笑みが咲楽に向けられる。諦念の嘆息を漏らし、咲楽は明後日の方向を向いてしまった。
「……で? 不破君は一体誰に聖火を繋ぐつもりなんだい?」
「……えっ?」
「だって、今日は結構なロングコースだよ? まさか彼、最後まで一人で走り切るつもりじゃないでしょうね?」
「……………げ、」
顔を引きつらせ咲楽は絶句した。
◆
走っている最中の精神状態は人それぞれである。流れる風景を楽しみながら走る者もいれば、外界からの情報一切をシャットアウトして脳内BGMや妄想に浸りながら走る者もいる。
不破の場合はと言えば、何も考えずに心を「無」にして走る事にしている。あれやこれや考えると足が鈍るし、余計な事まで考え出して気分が塞ぐからである。その無の状態に自身の心を導く過程で、まずは早い段階でそうした余計な思考を一つ一つ思い出しては消去してゆくのが彼のルーティーンとなっていた。
こうして無心で走ることで、一時でもここしばらくの鬱屈した気分を消し去ることが出来るのではないか……不破が走りたくなったのはそんな思いからだった。特にここしばらく彼の心を重くしていたのは、一連の、嘉納を巡る聖火トーチ強奪にまつわる記憶だった。
──燻ぶり続ける己の人生の無様さ……──
──親しい者の命や身の安全も守れぬ無力さ……──
──自分の信念も貫き通せぬ不甲斐無さ……──
自責と羞恥の念が圧しかかり、そこから逃れようとする意識が不破の足を駆り立てる。やり場の無い怒りと悔しさが喉から唸り声を絞り出す。無心になるどころかいつまでたっても雑念は消えない……どれも容易に消去できない心のしこりとなっているものばかりなのだ。
そのやるせなさが更に彼の心を逸らせる…。
──あの時、自分にもっと思慮深さがあったなら……──
──あの時、自分にもっと慎重さがあったなら……──
──あの時、自分にもっと力があったなら……──
いつしか不破は雄叫びを上げながらコースを全力疾走していた……。
約20日ぶりに出社してきた牧を最初に出迎えたのは尾上の吃驚の声だった。
「はい、ご迷惑おかけしました」
牧は深々と頭を下げる。
「彼の容態はどう? ええと……、何て言ったっけ?」
「松原君です、ようやく身体を起き上がらせる事が出来るようになって、先生はもう心配は無いだろうって言ってました。今はご親戚の刑事さんが看ていてくれてます」
「そう、それは良かった。色々大変だったからねぇ」
うんうんと頷き、心から安心したように尾上は相好を崩す。
久しぶりに見る編集部の光景……だがそこに見慣れたはずの姿が無い事を牧は既に承知していた。
「わ、牧ちゃん!? お帰りー!」
どこから湧いたか高藤も駆けつける、気付けば彼女の周囲に人だかりが出来ていた。
実際のところ牧はただ看病していただけで、本当に大変だったのは被害者本人である松原なのだが、編集部の人たちからすれば会った事も無い当人よりも身内の方が気になるのは致し方が無い事なのだろう。
とは言え、こうして大勢の人たちが自分を心配してくれていた事に感謝と申し訳なさをつくづく痛感する。その一方で牧はその中に不破の姿が無いことにもの寂しいような、どこかホッとしたような、何とも形容し難い複雑な気分を覚えていた。
「おいコラ、スミっ子! 挨拶する順番間違えてんじゃねぇのか?」
いつまでたってもこちらに気付く様子が無いものだから、いい加減しびれを切らした馬場園がデスク席から不貞腐れた声を投じる。
「あ……はい、デスク。ずっと休んでいて申し訳ありません」
「ふん、まぁとにかく仕事に穴開けた分はきっちり働いてもらうからな」
「はい」
明るく返した牧ではあったがその笑顔はどことなく浮かない。実はバッグの中に一通の封筒を忍ばせていた……それは辞表だ。
もちろん形ばかりのものに過ぎない。牧の様に正規の社員でない人間にとって、その気になれば口頭でも契約の破棄を持ちかける事は(普通ならやらない行為だが)可能だからだ。それでも自身の区切りとして、きっちり意思の表明はしておきたいとこれをしたためていた。
そのうち折を見てこの仕事を辞めよう……この時、彼女はそんな事を考えていたのだ。
◆
「せめてスニーカーかトレッキングシューズでも履いてくりゃよかった……」
軽い後悔を感じながら不破は準備運動に勤しむ。もちろんランニングウェアなんて持ってきているはずもない、シャツにスラックス姿で走ることになる訳だが、大汗かくことになるだろうことを想像すると気が重い。せめてもの抵抗にジャケットだけは脱ぐことにした。
「はい不破さん、これで良いですか?」
やがて咲楽が下腕程の長さの棒っ切れを持ってきた、近くの草っぱらから拾ってきたものだ。
「それとこれ、麻臣さんから包帯もらってきました」
「おう、助かるよ」
不破はそれらを受け取ると棒の片端に包帯をぐるぐると巻き付け、ついでに足下に落ちていた軍手などもダメ押しにかぶせてみる。
「トーチ替わり……ですか?」
「そういうこと」
更に不破は自分の荷物からライターオイルを持ってきて先端の布塊に染み込ませた、即席トーチの完成だ。
「これで簡単には消えないはずだ」
まるで原始人の振り回すこん棒の様な見てくれの悪いトーチであるが、手ぶらで走るのもわざわざルールを守っている他の参加者に失礼だ。不破は剣闘士が得物を手に馴染ませるかの様に手首を振ってグリップの具合を確かめる、まるでこれからチャンバラに挑む子供の如しだ。
「何も会長の気まぐれにまともに付き合うこと無かったんじゃないですか? 無理して走ること無いんですよ」
咲楽はどうした経緯でこうなったのかを聞いているだけに、今はすっかり楽しそうな不破の姿に半ばあきれ顔だ。
「まぁ、こっちもちょっと走ってみたい気分はあったからな……」
「怪我なんかしないで下さいよ?」
「心配無用、これでも元陸上部だ、800mの選手だったんだぜ」
「えー、そうなんですか!」
……尤も実力は県大会止まりなのであるが……、それでも一般レベルよりもマシに走れるだろうという自負はある。
「それじゃこちらで点火お願いします」
受付スタッフに呼ばれてテント脇に並ぶ。長机の上には一抱えもある大型のランタンが据えられ、そこに火が灯されていた。参加ランナーはここでトーチに点火してもらい、コースの最終地点までその炎を繋ぎ渡してゆくのである。
「本格的だな。ちゃんと火も用意しているのか」
「はい、念のため同じ火を三つのオイルランタンに分けてリレー開始の頃からずっと管理してます」
咲楽が誇らしげに語る。
「真似っこでも手抜きせずにこだわるところはこだわろう……って。だから火も決して絶やさずに最後まで繋いでいくつもりなんです」
「……君たちの聖火……ってわけだ」
それは旗印とでも呼ぶべきだろうか、何か事を成すのにその象徴となる存在は重要である。本家オリンピックの聖火リレーがかつてプロパガンダとして発生したものであったとしても、現在に至るまでその形が脈々と受け継がれてきたのはそうした象徴の持つ精神性が重要視されてきたからに他ならないだろう。
細い紐でランタンから分けられた種火が不破の即席トーチへと移される。着火したトーチはライターオイルの効果覿面、必要以上の勢いで盛大に炎を巻き上げた。
「では第一組、スタートしまーす!!」
手に手に彩とりどりのトーチを掲げて、数名のランナーがスタート位置に立つ。飛び入りの不破もその組に入れてもらっていた。
「位置について……用ォー意───」
号砲一発、火薬の爆ぜる音が響いてランナーたちが走り出した。不破も集団の後方の位置で様子を窺いながらついて行く。
「始まりましたねー」
いつの間にか咲楽の隣に小山田が佇んでいた。
「……不破さん焚きつけて楽しんでない?」
小山田に顔も向けずに咲楽が口を尖らす、少しだけ口調が冷ややかだ。
「そんなこと無いですよ? 彼、何だか走りたがってた様でしたので。僕はちょっと背中押してあげただけです」
「………もぉ……」
むくれる咲楽を小山田が横目で見おろしている。心なしかそれは孫をあやす祖父の様な穏やかな表情にも見える。
「人間誰しも悩みやモヤモヤを抱えているものでしょ? そういう時は身体を動かして発散することが一番です」
満面の笑みが咲楽に向けられる。諦念の嘆息を漏らし、咲楽は明後日の方向を向いてしまった。
「……で? 不破君は一体誰に聖火を繋ぐつもりなんだい?」
「……えっ?」
「だって、今日は結構なロングコースだよ? まさか彼、最後まで一人で走り切るつもりじゃないでしょうね?」
「……………げ、」
顔を引きつらせ咲楽は絶句した。
◆
走っている最中の精神状態は人それぞれである。流れる風景を楽しみながら走る者もいれば、外界からの情報一切をシャットアウトして脳内BGMや妄想に浸りながら走る者もいる。
不破の場合はと言えば、何も考えずに心を「無」にして走る事にしている。あれやこれや考えると足が鈍るし、余計な事まで考え出して気分が塞ぐからである。その無の状態に自身の心を導く過程で、まずは早い段階でそうした余計な思考を一つ一つ思い出しては消去してゆくのが彼のルーティーンとなっていた。
こうして無心で走ることで、一時でもここしばらくの鬱屈した気分を消し去ることが出来るのではないか……不破が走りたくなったのはそんな思いからだった。特にここしばらく彼の心を重くしていたのは、一連の、嘉納を巡る聖火トーチ強奪にまつわる記憶だった。
──燻ぶり続ける己の人生の無様さ……──
──親しい者の命や身の安全も守れぬ無力さ……──
──自分の信念も貫き通せぬ不甲斐無さ……──
自責と羞恥の念が圧しかかり、そこから逃れようとする意識が不破の足を駆り立てる。やり場の無い怒りと悔しさが喉から唸り声を絞り出す。無心になるどころかいつまでたっても雑念は消えない……どれも容易に消去できない心のしこりとなっているものばかりなのだ。
そのやるせなさが更に彼の心を逸らせる…。
──あの時、自分にもっと思慮深さがあったなら……──
──あの時、自分にもっと慎重さがあったなら……──
──あの時、自分にもっと力があったなら……──
いつしか不破は雄叫びを上げながらコースを全力疾走していた……。