第一章「【ベータ】」④
■■高層マンションの一室■■
S県九軒市。
総面積はおよそ五九〇〇〇〇平方キロメートル、人口は六二〇〇〇〇人ほど。
かつての主要産業だった製鉄業が時代の流れの中で衰退したあと、その水源に恵まれた平坦な土地柄を活かし、都心へのベッドタウンとして発展した町である。
戦時中は軍需産業にも流用されたその工業的リソースは、現在、時代の舞台裏に連綿と存在し続けていた【魔戒】の技術を、国家の名の下で管理・運用するという目的のために利活用されている。
「ふむ、あの女生徒が隠匿系の戒律を展開した時は肝が冷えたが、『乗っ取り』は上手く行ったようだな」
その中核市にそびえ立つ、とある高層マンションの一室。カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で、大柄な男が椅子に腰かけている。
彼がその瞬間に幻視していたのは、紫藤学園の体育館裏にて、突如として心神喪失した諸星海遊の視界である。
その先に立つ雨月桂は、当初こそ目の前の人物の変容に戸惑っていたようだが、間もなく展開した【魔戒】により、淡々と目の前の脅威に対処した。
決着は時間にして二〇と数秒ほど――力の差は歴然だった。
「【星戒】を扱うというから期待したが、所詮は学生か。……しかし、たった一年でよくもああまで紛い物の【魔戒】を具体化したものだ、あの【悪鬼】は」
「――裏切るも何もないさ。あの馬鹿にはあの馬鹿なりの目的があって、今と昔で、お前たちと一致する利害が変わっただけだ」
机を挟んで向こう側に、いつの間にか一人の女性が座っていた。
「川木十和か」
「お前、見たことがあるな。たしか精神感応系の【光戒】使いだ。【理神】がいなくなったら、今度は国家にかしずくという訳か、【御使】は」
「これは異なことを言う。【第二種魔戒師】である以上、貴方もまた国側の人間であるはずですが?」
「もうとっくに資格は剥奪されてるよ。今の私はただの私立高校の教頭先生。『超自然法』に従って、校外じゃ【魔戒】を使うのも禁止されてる」
「……よく単独で出てこられましたね。私に返り討ちにされるとは思わなかったのですか」
「思わなかったから、ここにいる」
川木は嗜虐的に口の端を吊り上げた。
「まあ、とはいえ、今の私にお前を拘束できるほどの権限はない。故に、その目的だけ聞いておこうか」
「貴方がたにも『お上』から捜索依頼があったはずです」
【魔戒】の管理機構における治安維持組織――【超自然観測隊】の特務隊員として、その名を轟かせていた元【魔戒師】に、男は物怖じすることもなく、はっきりとした口調で告げた。
「知っているんでしょう、『黒瀬響』の居場所」
「知らんな」
互いの双眸から視線を逸らすことなく、そのやり取りは続く。
「私から言えることは、アレ自身がその気にならない限り、世俗にその姿が晒されることはないだろうということだけだ」
「困りますね。お陰でウチはしばらく祖主が不在なんです。『教団』運営も一苦労ですよ」
「そりゃ朗報だ。より一層、『紫藤』に権威が傾く」
「…………」
男の怒気が、静まり返った空間に漂う。
その感情を押し殺しながら、やがて、一つ嘆息すると、彼はおもむろに椅子から立ち上がった。
「……そろそろ住人に部屋を返す時間です。私はこれで失礼しますよ」
「ああ、あまり学園の生徒に手を出してくれるなよ。例によって、お国からの指示は『そちらの責任で』のはずだ。やりすぎた時に痛い目を見るのはお前たち自身だぞ」
「ええ、分かっています。貴方はそのことを誰よりもよく知っているでしょうしね」
川木の眉がピクリと動いた。
捨て台詞を言い返してやろうと思った頃には、そこに男の姿はすでになく、玄関から扉の閉まる音がする。
「ちっ、逃げ足だけは一級品だな、『教団』の連中は。……雨月、お前が【鬼戒】を捨てた代償は随分と高く付いたらしい」
その視線がカーテンに遮られた窓のほうへと移る。
「その行い、あるいは自戒が信念となるか逃避となるか……。全てはお前次第だぞ――【悪鬼】の末裔」
▲▲第一章「【ベータ】」/了