3話 機人
リーレニカの手から離れた男の体は、途端にマシーナウイルスの侵食速度を爆発的に早める。
「おいおい冗談だろ」
男の体に、目に見えた変異が始まった。
体の穴という穴からだらしなく水分が抜けていく。
人だったモノが立ち上がる。
立ち上がると言うには、人の体裁を成していなかった。上半身を重い荷物のように扱い、だらしなく逸らし、腹筋だけで起こす。
晴天にも関わらず、麻の衣服は雨に打たれたようにずぶ濡れになっていて重そうだ。瞬く間に高熱を帯び、広範囲に『霧のような蒸気』を撒き散らす。
機人は濃霧の影に隠れた。
「大丈夫か……?」この症状を知らない少年が、安易に近づく。
「離れなさいッ」
技師の言葉を聞く前に、少年は「兄だった者」から暴力という形で拒絶された。
腕を鞭の様に振るわれ、小さな体は木箱の積まれた方へと吹き飛ばされる。
広がっていたどよめきが、一瞬にして静まり返った。
「あ、あ……」
先程まで殺してやると息巻いていた男が、その「異形性」に腰を抜かす。
「人……なのか?」
見たままの感想を、誰かが呟いた。
全身白塗りに、陶器のように磨かれた肌。
眼球も限りなく収縮し、鼻も無い。代わりに発達した口が大きく裂け、均等に並んだ鋭利な牙を覗かせる。
金属製に変異し発達した右腕は、肥大した大爪を下げ、重そうにしている。
下卑た笑みを浮かべるマネキンのようだった。
「た、たす――」
腰を抜かしていた男が、誰にでもなく、機人の傍で助けを乞う。
当然だろう。教科書で機人の姿は認知しているだろうが、実物を見て平静で居られる人間はそう居ない。
だが、それは危険な行為だ。
「怖がるな!」
技師が叫ぶ。
理由は一つ。一般的な機人に視力は無い。
だとすると彼らは何を視るのか。
視界に捉えるのは、マシーナウイルス。
特に、「ストレスに影響されたマシーナウイルス」は濃度が高くなり、よく目立つ。
ぐりん、と機人の顔が男へ向き、恐怖と目があった。
「 あ 」
男の首上で、潰れた柘榴が真っ赤に飛散した。
――機人の発達した右腕が、音速で男の頭を握り潰したのだ。
一瞬の出来事に、野次馬達は息を呑む。
居心地の悪い静寂が辺りを支配した。
「まずいわね……」
小さく、リーレニカが呟く。
民衆のストレス値はAmaryllisを通さなくても明白だ。
蜘蛛の子を散らすが如く、民衆は機人を中心に散り散りに走り出した。
男の死を火種に、パニックが伝染していた。
人の奔流の中、転倒した者は容赦なく踏み付けられ、将棋倒しになる。
逃げ惑う人の流れに逆らい、機人を注視するリーレニカ。人々の避難動線は彼女を中心に裂けていく。
「リーレニカさん、早く逃げないとっ」
ソフィアはリーレニカを案じて逃げずにいたようだ。
人の流れを挟み、向こう側のソフィアへ呆れたように答える。
「ソフィアさんこそ此処に居ては」
カチカチカチ――。
僅かに、歯車が強く噛み合うような音が聞こえた。機人の体内で、構造を変えようとしている音だ。
胸部が拳大に膨らみ、中から心臓らしき物が排出される。
見えたのは、心臓だったモノ――赤い熱波を放つ、液状の宝石。透き通る鉱石でコーティングし、血で出来たマシーナ溶液が満たされている様子が伺える。
粘り気の強い溶液は、灼熱の溶鉱炉を連想させた。
『胸部のマシーナ濃度百パーセント……マシーナ・コアの生成を確認』
「コアにナイフは通る?」
『正面なら外殻の破壊は必須。共振命令式による内部破壊、もしくは背後からの長尺物が有効じゃ』
生憎、リーレニカは傭兵ではない。槍もロングソードも持ち合わせは無かった。
『そろそろ、挑発して良いか?』
Amaryllisが他人事のように聞いてくる。
「もうしてる」
リーレニカは小さく指を動かした。
大気中に溶け込む、微細なマシーナウイルスへ「命令式」を試みる。
チカチカと、マシーナウイルスがリーレニカの意思に反応を示した。
目を細めても分からない程の反応。但し、機人の肌はマシーナウイルスに特化した感覚器。奴らからすれば、この些細な反応すら騒々しい警笛と同義である。
従って、機人はリーレニカの居る方角へ狙いを定める。
『奴め、また変形しよるぞ』
機人は脚をバネのように収縮させ――加速した。
『警告。大振りの爪』
予想通り。
この個体はオーソドックスな「人形」タイプだ。人類の保有するマシーナ濃度に反応し、血肉を摂取することでマシーナウイルスを活性化させる量産型の個体。
マシーナ反応を起こしたリーレニカの半径一メートルは、機人の標的圏内だ。
身構えた矢先、一つの不安が過ぎる。
「ソフィアさんっ」
リーレニカが気づくと同時に、機人は進路をソフィアへと変えた。
正確には、ここの誰よりもマシーナ濃度の高い、ソフィアの持つ「月ノ花」へと。
『高濃度のマシーナ反応がお主の後ろに――』
「分かってます」
この手の機人は知能こそないが、行動だけ見ればどこまで行っても合理的だ。
本能的に無駄を嫌い、自分の欲求を満たそうとする。
それならば、自分も「同じ世界」に入れば良い。
「Amaryllis――〈同期〉」
『あいよ』
――先程より少し、深く入ろう。
視界が白銀に染まる。
水中に身が沈む感覚。
体感時間が凝縮されていくのを感じる。
やがて、ポンッと水泡が弾ける音がし――「マシーナウイルスだけが見える」ようになる。
『同期完了じゃ』
マシーナウイルスは最小単位の寄生体であると同時に、「無秩序なエネルギー」の一種と言われている。
マシーナにはそれぞれに役割があり、自ら燃焼する個体があれば、それ単体で発電する科学的側面を持つ個体もある。
今回は、「精神的側面」に頼る事にした。
命令式は〝伝達〟。
リーレニカが意識を集中させると、大気中のマシーナウイルスが機人の動作予測を報せる。
その精度は高い。
蝶型の耳飾りに閉じ込められたAmaryllisが、機人の予備動作を検知する。
リーレニカの視界へ、マシーナで構築した予測オブジェクトを生成。敵の大まかな攻撃手段をシミュレートした。
「――シッ」
リーレニカが選択したのは柔術。
ソフィアの前に躍り出ると、爪を振り上げた機人の逆手を絡め取り、自身の背中を相手へ押し付ける形で投げ上げる。
しかし相手も異形。姿は人型であっても、関節の可動域に規則性はない。
リーレニカの想像を裏切り、相手は空中で身を捻り海老反りになる。冗談のような動きでそのままリーレニカの首筋を噛み千切ろうと迫った。
一瞬周囲の存在を確認し、カウンターの回し蹴りを顔面に叩き込もうとするが――敵は気まぐれで、標的を隣の老婦人へと変えようとしていた。
「このっ」
カウンターを諦め、敵の体重移動を利用する。果物屋の木箱へ相手諸共引き込んだ。
脆い木箱の割れる音が幾つか重なり、店の日除けテントが崩れ落ちる。
怯んだ機人をリーレニカは待たない。
緩んだテント用ロープを相手の首へ巻き付け、容赦なく吊り上げる。
機人が構わずリーレニカの首元へ牙を立てようと、すぐ目の前でもがいている。全く獰猛な生き物だ。
「コアを何とかしないと」
「そのままで。動くな」
低い男の声。どこからともなく現れ、リーレニカの虚を着く。
リーレニカの集中状態――「白銀の世界」がヒビ割れ、脆く崩れ去る。
目の前の機人もオブジェクト体ではなくなり、グロテスクな口裂け男の姿で眼前に迫る光景に、小さく喉が鳴った。