残酷な描写あり
第14回 絶望を知る 希望を悟る:5-1
揺り起こされたものの、部屋は暗かった。
「緊急事態だ、ダッシュで着替えろ」
「な、何?」
「火事になる。もうすぐ」
大変なことを言われた。
「か、火事? ……予言?」
本当なのか、と疑うはずもない。
「寺院の人たちに知らせないと」
「あー……っと、な」
トシュは頭を掻いた。
「寺院のやつらが、俺らを焼き殺す準備をしてるんだわ」
ここへ来て、セディカは固まった。
「ど、うして」
「あのマントだろうな」
離れの周りに薪を積み上げ、今は油をかけているところだと、告げる口調はあっさりしていた。
「ジョーのやつが知り合いのとこに火除けを借りに行ってるんだが、どうも間に合いそうにねえ」
ジョイドの首飾りでも防げるかもしれないが、少々冒険だ、という。建物自体が焼け落ちようというときに、その内部にいるわけだから。
急き立てられて、とにかく、着替えた。俺が持った方がいいなと、荷物はトシュが全て引き受ける。
「いいか。扉をぶち破ったら、狼に変わる。すぐに飛び乗ってつかまれ」
例の棒を筆ほどにして、扉を睨んでくるりくるりと二回ひねると、次には丸太ほどにして両手で構えた。気合も入れず声も立てずに、いきなりシュッと棒が伸びて、外への扉を突き破った。戸板が跳ね飛んだ。
すぐさまトシュは白銀の狼となって身を伏せ、セディカはその背に攀じ登った。つかまるといってもどこに、と戸惑う間もなくトシュは駆け出した。
壊れた扉の間を駆け抜けた瞬間、左右に炎が燃え上がっているのが見えた。後ろで少なからぬ人々が騒ぎ始めた、と聞こえたのは一瞬で、その後は暗い中を駆け抜けるばかりになった。尤も、セディカはしがみつくのに必死で周りに視線を投げる余裕もなかったし、びゅうびゅうと風を切る中にいたのでは碌に目を開けてもいられなかったが。
幸い、長いことではなかった。スピードが落ちていって、止まった。
「もういいか。下りな」
指示のままに滑り降りる。トシュは人間の姿になると、さっと頭上を見、足元から頭の後ろへ棒を振り上げるようにした。光が飛んでいき、ぱんと弾けて空中に留まる。ジョイドならみつけられんだろ、と独り言のような解説がついた。ここにいるという合図なのだろう。
「戻っちゃうの」
セディカは口の中で呟いた。
「ん? 狼でいた方がよかったか?」
聞きつけられたらしい。
「黙んなよ」
「ううん……あの……失礼かなって」
「あ?」
「……ふかふかで気持ちよかった」
トシュは呆気に取られてから吹き出した。
「そりゃ、親が子供のほっぺたを撫でて、すべすべで気持ちいいとか言うのとはわけが違うわな」
狼に戻って、どさりと転がる。そら、と促されて困惑した。
「勝手に撫でてきたやつもいるし、俺を寝床にして寝たやつもいるよ。あれはあれで、怖がってないっつうアピールだったんだろう」
「……いいの?」
「まあ、マントの埋め合わせにな」
結局、やはり、マントはセディカのものだということになっていたらしい。
「普通の狼よりいい毛並みらしいぜ。半分は親父の血のせいで、半分は修行の間中、仙境の木の実や果物ばっかり食ってたせいだからな、気に入ったからって後で狼の毛皮を取り寄せたりすんなよ」
親父自身は剛毛も剛毛なんだけどな、などと補足するのを聞きながら跪くと、ふかふかとした毛皮にセディカは顔を埋めた。毛皮に埋もれたくなるような季節ではないけれど、山中だからか夜中だからか、さほど暑くは感じない。
「……マント一つのために?」
こぼれた言葉は短かった。
「人を、三人も……」
「離れと引き換えにするぐらいの価値はあっただろうな。他の僧侶どもが言うことを聞いたってことは、院主だけが貯め込んでるんじゃなくて、他のやつらにも普段からいい思いはさせてんだろうよ」
トシュは核心から外れたことを言った。
目を閉じる。眠ってしまいたかった。ショックに浸る隙も与えず速やかに避難させられた、そのまま速やかに意識を閉ざして終わりにしてしまいたかった。怖い夢を見たなと思いながら目覚めて、身の丈に合わない炎のようなマントに気を張っていたせいだろうとでも、ジョイド辺りに説明をつけてもらいたかった。
自分であったことがショックなのか、僧侶であったことがショックなのか、よりによって〈慈愛の寺〉と名乗るような寺院であったことがショックなのか、よくわからない。それとも、誰であろうと関わりなく、同じショックを受けただろうか。同じように殺された旅人がこれまでにもいたのではなかろうか、というところまでは頭が回らなかった。
「気分転換に何か話してやろうか」
トシュの声がした。狼の姿をしていても人間の声で喋るようだった。
「〈世界狼〉は普通、東の果てに繋がれたっていうな。話によっちゃ、退治されたことになってるが」
「〈世界狼の討伐〉」
セディカはぽそりと口にした。あれは〈武神〉のための賛歌だからな、とトシュは簡単に言った。気の晴れる話ではない、と思う。
「けど、狼の間に伝わる話ではな……っつうのはつまり、単に親父から聞いたってだけなんだが。〈慈愛天女〉が保証人になって、鎖を解いてやったって説もある。もう少し凝ったところだと、解放した後、生きたまま十回地上に生まれ変わらせたって話も」
「生きたまま……?」
「降生とか投胎ってやつさ。神や天人が一時的に人間に生まれることがあんだろ。地上の女の腹に入って人間として生まれて、死んだらまた天に戻るわけだ」
十回生まれ変わるはずだったところを、九回で本来の体に戻ってきたという話もあるという。それは何かすごいことなのだろうかと考えている間に、まあそれは余談だと流されてしまった。
「緊急事態だ、ダッシュで着替えろ」
「な、何?」
「火事になる。もうすぐ」
大変なことを言われた。
「か、火事? ……予言?」
本当なのか、と疑うはずもない。
「寺院の人たちに知らせないと」
「あー……っと、な」
トシュは頭を掻いた。
「寺院のやつらが、俺らを焼き殺す準備をしてるんだわ」
ここへ来て、セディカは固まった。
「ど、うして」
「あのマントだろうな」
離れの周りに薪を積み上げ、今は油をかけているところだと、告げる口調はあっさりしていた。
「ジョーのやつが知り合いのとこに火除けを借りに行ってるんだが、どうも間に合いそうにねえ」
ジョイドの首飾りでも防げるかもしれないが、少々冒険だ、という。建物自体が焼け落ちようというときに、その内部にいるわけだから。
急き立てられて、とにかく、着替えた。俺が持った方がいいなと、荷物はトシュが全て引き受ける。
「いいか。扉をぶち破ったら、狼に変わる。すぐに飛び乗ってつかまれ」
例の棒を筆ほどにして、扉を睨んでくるりくるりと二回ひねると、次には丸太ほどにして両手で構えた。気合も入れず声も立てずに、いきなりシュッと棒が伸びて、外への扉を突き破った。戸板が跳ね飛んだ。
すぐさまトシュは白銀の狼となって身を伏せ、セディカはその背に攀じ登った。つかまるといってもどこに、と戸惑う間もなくトシュは駆け出した。
壊れた扉の間を駆け抜けた瞬間、左右に炎が燃え上がっているのが見えた。後ろで少なからぬ人々が騒ぎ始めた、と聞こえたのは一瞬で、その後は暗い中を駆け抜けるばかりになった。尤も、セディカはしがみつくのに必死で周りに視線を投げる余裕もなかったし、びゅうびゅうと風を切る中にいたのでは碌に目を開けてもいられなかったが。
幸い、長いことではなかった。スピードが落ちていって、止まった。
「もういいか。下りな」
指示のままに滑り降りる。トシュは人間の姿になると、さっと頭上を見、足元から頭の後ろへ棒を振り上げるようにした。光が飛んでいき、ぱんと弾けて空中に留まる。ジョイドならみつけられんだろ、と独り言のような解説がついた。ここにいるという合図なのだろう。
「戻っちゃうの」
セディカは口の中で呟いた。
「ん? 狼でいた方がよかったか?」
聞きつけられたらしい。
「黙んなよ」
「ううん……あの……失礼かなって」
「あ?」
「……ふかふかで気持ちよかった」
トシュは呆気に取られてから吹き出した。
「そりゃ、親が子供のほっぺたを撫でて、すべすべで気持ちいいとか言うのとはわけが違うわな」
狼に戻って、どさりと転がる。そら、と促されて困惑した。
「勝手に撫でてきたやつもいるし、俺を寝床にして寝たやつもいるよ。あれはあれで、怖がってないっつうアピールだったんだろう」
「……いいの?」
「まあ、マントの埋め合わせにな」
結局、やはり、マントはセディカのものだということになっていたらしい。
「普通の狼よりいい毛並みらしいぜ。半分は親父の血のせいで、半分は修行の間中、仙境の木の実や果物ばっかり食ってたせいだからな、気に入ったからって後で狼の毛皮を取り寄せたりすんなよ」
親父自身は剛毛も剛毛なんだけどな、などと補足するのを聞きながら跪くと、ふかふかとした毛皮にセディカは顔を埋めた。毛皮に埋もれたくなるような季節ではないけれど、山中だからか夜中だからか、さほど暑くは感じない。
「……マント一つのために?」
こぼれた言葉は短かった。
「人を、三人も……」
「離れと引き換えにするぐらいの価値はあっただろうな。他の僧侶どもが言うことを聞いたってことは、院主だけが貯め込んでるんじゃなくて、他のやつらにも普段からいい思いはさせてんだろうよ」
トシュは核心から外れたことを言った。
目を閉じる。眠ってしまいたかった。ショックに浸る隙も与えず速やかに避難させられた、そのまま速やかに意識を閉ざして終わりにしてしまいたかった。怖い夢を見たなと思いながら目覚めて、身の丈に合わない炎のようなマントに気を張っていたせいだろうとでも、ジョイド辺りに説明をつけてもらいたかった。
自分であったことがショックなのか、僧侶であったことがショックなのか、よりによって〈慈愛の寺〉と名乗るような寺院であったことがショックなのか、よくわからない。それとも、誰であろうと関わりなく、同じショックを受けただろうか。同じように殺された旅人がこれまでにもいたのではなかろうか、というところまでは頭が回らなかった。
「気分転換に何か話してやろうか」
トシュの声がした。狼の姿をしていても人間の声で喋るようだった。
「〈世界狼〉は普通、東の果てに繋がれたっていうな。話によっちゃ、退治されたことになってるが」
「〈世界狼の討伐〉」
セディカはぽそりと口にした。あれは〈武神〉のための賛歌だからな、とトシュは簡単に言った。気の晴れる話ではない、と思う。
「けど、狼の間に伝わる話ではな……っつうのはつまり、単に親父から聞いたってだけなんだが。〈慈愛天女〉が保証人になって、鎖を解いてやったって説もある。もう少し凝ったところだと、解放した後、生きたまま十回地上に生まれ変わらせたって話も」
「生きたまま……?」
「降生とか投胎ってやつさ。神や天人が一時的に人間に生まれることがあんだろ。地上の女の腹に入って人間として生まれて、死んだらまた天に戻るわけだ」
十回生まれ変わるはずだったところを、九回で本来の体に戻ってきたという話もあるという。それは何かすごいことなのだろうかと考えている間に、まあそれは余談だと流されてしまった。