残酷な描写あり
第10回 奇跡を妬む 摂理を嘆く:3-1
作中よりも過去における死ネタが含まれます。苦手な方はご注意ください。
もう大丈夫だと言うセディカの自己判断を尊重して、トシュは本堂でなく、今一つの寝室の方に引き上げた。ジョイドは先に戻っていて、紙の上に筆を走らせている。
「この時間にやらなきゃならんのか、それは」
「呪符の下描きをね。気付なんて変則的なもの、一発で描く自信はないから」
「……すまん」
「呪文も一応覚えとくでしょ?」
差し出された別の紙には、〈神前送り〉の呪文が書きつけてあった。打ち合わせもしていないのに当然のように出てきたが、あるとないでは大違いのフォローである。どの神を対象とするかによって細部が変わってくるし、直接的には〈侍従狼〉の前に送りつけながら〈天帝〉への仲介を頼むような芸当を、どういった文言で実現すればよいのか、提案したトシュ自身は見当もついていなかったので。
呪符や呪文さえ正しければ、〈侍従狼〉であれば応じてくれるだろう、という確信はある。狼の——縁で。
全く以て、自分の力など大したものではない。ただただ、恵まれているだけだ。偉大な父親と、有能な相棒に。
「国王陛下はどうなった?」
「聞くことは聞いたから、後は院主さんに任せた。追加情報は特にないよ。亡霊だった間のことは、あんまり覚えてられないみたいね」
「覚えてないんじゃ、セダに絡みやがったことに文句言うわけにもいかんな」
「セディの方は? 大丈夫?」
「ん、とりあえず落ち着いた」
簡単に答えて、手元に目を落とす。よく見れば下の方には、同じことを印を用いて行うときの手順も書いてあった。呪符を上手く使えなかった場合に、呪文なら唱えられると決まっているわけでもないのだから、手段は多い方がよい。何でもわかるんだなと舌を巻きながら、上の方から読み込んでいき——。
「マオが死んだとき——誰彼構わず頼るってことを知ってたら、何かは変えられたかもしれない」
前置きも何もなく、唐突にジョイドが口にした。
トシュは眉を寄せた。その話題に触れないで済むようにと、先んじてセディカを宥めてきたものを。
マオ。今は亡き——ジョイドの恋人。
つい午前中に、神琴の奉納によってその魂の平安を祈願した相手も、マオだ。死んだ恋人の供養と言えばセディカが気にするだろうから、身内だと漠然としたことを言って誤魔化したのだろう。
仙人にとっても、仙人を目指す方士にとっても、恋とは扱いにくいものだ。色欲ゆえに神通力を失ったという話が幾らでもある一方で、節度ある正しい交わりは両者を高めるともされており、僧侶や尼僧と違って結婚も認められている。とはいえ、仙人即ち不老不死になろうとする方士が、方士ではない恋人を持つことはあまり推奨されない。普通に考えて、恋人の方は老いて死ぬからだ。
だが、そうしたことに悩むより前に、ジョイドの恋人は世を去ってしまった。強大な妖力を秘めていようと、強靭な肉体を自分自身は持っていようと、ジョイドにも、またトシュにも、死病を治すことはできなかったので。
「でも、あのとき何もしなかったことを気にして、今、俺を甘やかしてくれる人もいるからね。悪いことばっかりじゃないのよ、俺は。失ったものも得たものもある」
柔らかい顔をこちらへ向けて語るジョイドに、無理をしている様子は見受けられなかった。だが、ふと視線を外した僅かな間だけ、一切の表情が消える。
「全てを失ったのはマオだけだ」
トシュはしばらく、その横顔をみつめた。それから浮かべたのは微笑である。
「素直に王を助けてやろうってんだから、おまえはいいやつだよ」
セディカが泣き叫んだことは、ジョイドの中にも渦巻いていそうなものなのだ。国王には与えられた奇跡が、母には、恋人には、何故与えられないのかと、天を憎んでもおかしくないのだ。
それでも、手を差し伸べることを選ぶ。病で我が子を亡くした医者が、同じ病の子供を救うように。恋人を亡くした悲しみなど、自分自身が死んでいく苦しみの足元にも及ばないのだからと。
自分が功徳を積むことで、その功徳を言うなれば恋人の供養に当てたいのではないか、ともトシュは思っていた。それが全てということではないとしても、一つには。だから揺らぐことはないし——だから必ず、付き合うことにしている。
「この時間にやらなきゃならんのか、それは」
「呪符の下描きをね。気付なんて変則的なもの、一発で描く自信はないから」
「……すまん」
「呪文も一応覚えとくでしょ?」
差し出された別の紙には、〈神前送り〉の呪文が書きつけてあった。打ち合わせもしていないのに当然のように出てきたが、あるとないでは大違いのフォローである。どの神を対象とするかによって細部が変わってくるし、直接的には〈侍従狼〉の前に送りつけながら〈天帝〉への仲介を頼むような芸当を、どういった文言で実現すればよいのか、提案したトシュ自身は見当もついていなかったので。
呪符や呪文さえ正しければ、〈侍従狼〉であれば応じてくれるだろう、という確信はある。狼の——縁で。
全く以て、自分の力など大したものではない。ただただ、恵まれているだけだ。偉大な父親と、有能な相棒に。
「国王陛下はどうなった?」
「聞くことは聞いたから、後は院主さんに任せた。追加情報は特にないよ。亡霊だった間のことは、あんまり覚えてられないみたいね」
「覚えてないんじゃ、セダに絡みやがったことに文句言うわけにもいかんな」
「セディの方は? 大丈夫?」
「ん、とりあえず落ち着いた」
簡単に答えて、手元に目を落とす。よく見れば下の方には、同じことを印を用いて行うときの手順も書いてあった。呪符を上手く使えなかった場合に、呪文なら唱えられると決まっているわけでもないのだから、手段は多い方がよい。何でもわかるんだなと舌を巻きながら、上の方から読み込んでいき——。
「マオが死んだとき——誰彼構わず頼るってことを知ってたら、何かは変えられたかもしれない」
前置きも何もなく、唐突にジョイドが口にした。
トシュは眉を寄せた。その話題に触れないで済むようにと、先んじてセディカを宥めてきたものを。
マオ。今は亡き——ジョイドの恋人。
つい午前中に、神琴の奉納によってその魂の平安を祈願した相手も、マオだ。死んだ恋人の供養と言えばセディカが気にするだろうから、身内だと漠然としたことを言って誤魔化したのだろう。
仙人にとっても、仙人を目指す方士にとっても、恋とは扱いにくいものだ。色欲ゆえに神通力を失ったという話が幾らでもある一方で、節度ある正しい交わりは両者を高めるともされており、僧侶や尼僧と違って結婚も認められている。とはいえ、仙人即ち不老不死になろうとする方士が、方士ではない恋人を持つことはあまり推奨されない。普通に考えて、恋人の方は老いて死ぬからだ。
だが、そうしたことに悩むより前に、ジョイドの恋人は世を去ってしまった。強大な妖力を秘めていようと、強靭な肉体を自分自身は持っていようと、ジョイドにも、またトシュにも、死病を治すことはできなかったので。
「でも、あのとき何もしなかったことを気にして、今、俺を甘やかしてくれる人もいるからね。悪いことばっかりじゃないのよ、俺は。失ったものも得たものもある」
柔らかい顔をこちらへ向けて語るジョイドに、無理をしている様子は見受けられなかった。だが、ふと視線を外した僅かな間だけ、一切の表情が消える。
「全てを失ったのはマオだけだ」
トシュはしばらく、その横顔をみつめた。それから浮かべたのは微笑である。
「素直に王を助けてやろうってんだから、おまえはいいやつだよ」
セディカが泣き叫んだことは、ジョイドの中にも渦巻いていそうなものなのだ。国王には与えられた奇跡が、母には、恋人には、何故与えられないのかと、天を憎んでもおかしくないのだ。
それでも、手を差し伸べることを選ぶ。病で我が子を亡くした医者が、同じ病の子供を救うように。恋人を亡くした悲しみなど、自分自身が死んでいく苦しみの足元にも及ばないのだからと。
自分が功徳を積むことで、その功徳を言うなれば恋人の供養に当てたいのではないか、ともトシュは思っていた。それが全てということではないとしても、一つには。だから揺らぐことはないし——だから必ず、付き合うことにしている。