残酷な描写あり
第2回 祈りが届く 助けが来る:4-1
トシュが蒸しパンを取り上げて齧りついたので、セディカも同じパンを手に取った。食べ始めるところだったのに、いきなり腰を折ってしまった——折られてしまった、のかもしれないが。
「わたしからも訊いていい? 二人は……どこへ行くところなの。〈連なる五つの山〉を越えるなんて」
二人のことを問うたのは、ことさら話題を変えようとしたわけではない。純粋に不思議だったためでもあるが、主には自分のことばかり喋っているような気がしたためだ。
「どこってことでもないのよ。集団生活が得意じゃないから、基本は旅暮らしなの。だから時々変わったルートを取ってみたくなるわけ」
「たまに人目のないとこに行きたくなるってのはあるな。人目がなけりゃ、術を使って騒がれることもねえし」
敢えて山道を採りたい理由も仙術なら、山道を採れる理由も仙術らしい。危なくなったら飛んで逃げればいいからね、と言われればわからなくはない。
といっても、セディカは仙術のことなど何も知らない。トシュの手に三味が現れた、あの瞬間まで見たこともなかったし、仙術使いが現れたと町で噂を聞いたこともない。常人には叶わないことも容易に果たせるのだろう、と無根拠に想像するだけである。
「あの赤い棒も——何て言えばいいの、……髪の毛、だったの?」
「いや?」
トシュは肩の辺りから何かを引き抜いて、掌に載せて差し出した。待ち針のようだが、待ち針にしては球が両端についている。……今、刺さっていたものを抜き取ったように見えたのだけれど。
どういうことかと問う前に、針は不意に筆ほどの長さと太さになり、次いで麺棒ほどになった。指を曲げて握れば長さだけが物干し竿ほどになり、頭の上に掲げると今度は太さが椀ほどにもなる。それからひゅっと手の中に戻ったのを見れば縫い針になっていて、トシュはそれを上着の肩にすいと刺した。手が離れたときには、また球が両端についた待ち針に変わっている。これなら抜け落ちる心配もないし、自分に刺さる心配もないわけだ。
ジョイドも同じように肩から針を外して、はたき程度の大きさの杖にしてみせた。先端の金輪が聞き覚えのある音でシャラシャラと鳴る。
「仙術って、何年も修行を積んで使えるようになるものだと思ってたんだけど」
「俺らは特別よ、親の血のおかげでね。生まれつき、才能っていうか、適性があったの。これに関しては俺らの力より、これ自体の機能の方が大きいけど」
仙術について根掘り葉掘り聞き出したいわけではないけれども、流石にさらりとは受け流せずに、セディカはつい、いつになくあれこれと尋ねてしまった。そろそろしつこいだろうか、普段を知らぬ二人にはただの詮索好きとしか映るまいと口を閉じたとき、
「それを言ったら、君が破魔三味を弾き熟したのも俺は驚いたんだけど。難しいんじゃないの、あの弾き方」
内面を読んだかのように、久しぶりにジョイドがセディカのことを訊いた。
「破魔三味はお祖母様に習ったの。元々はお祖父様が、東国にいた間に覚えたんだって。それをお祖母様に教えて、持ってた破魔三味もくれたんだって聞いてる」
「そのベールも何かあんのか? 尼僧でもないのにベールをつける習慣なんて、南ならともかくここらにはないだろ」
「ああ、これは」
便乗するようなトシュの質問に、頭へ手をやる。凝ったものでも洒落たものでもなく、ドレスと合わせるような素材でもデザインでもなく、正にトシュが言及した、尼僧が使うものに近かった。首までは隠さないけれども、髪は概ね見えなくなる。前髪も、額も。
「ベールじゃなくてもよかったんだけど。旅先じゃあ、誰もわたしのことなんて知らないし、気にも留めないでしょう。目立つ格好をしていれば、何かあったときに『あのベールの子だ』とは思ってもらえるかと思って」
いなくなった従者たちが、来たときと同じ道を帰るとしたら。一度自分を見かけた誰かが、あのベールの子はどうしたんだい、と不思議がってくれるかもしれない。
確かに記憶には残るな、と相槌を打ったトシュは、言葉に反してすっきりしない顔をしていた。セディカが眉を寄せたのは、気を悪くしたためではなかった。
「変に思う方が自然なのよ。何も訊かないから、あの人たち」
「あっは、さっきの木々ね。あれは仕方ないところもあるのよ。こんな山の中じゃ、千年生きてたって人間を見かける機会は数えるほどだもの」
「あいつらは自分のことにしか興味ねえだけだろ」
ジョイドの擁護に、セディカを差し置いてトシュが噛みついている。少し笑って、少女は干し果物をつまんだ。濃い黄色の切れ端であって、白でも橙でもなかった。
何も人との会話に飢えていたわけではないけれど、その前にぶつかった集団がああだったせいか、妙にありがたみを覚えてしまう。話が通じている、成り立っている安心感。
いや、そうでなくとも、山の中に一人置き去りにされて、途方に暮れていたところなのである。こうも些細な、わざわざ意識せずともよいようなことが、不当なほど響いても無理はないだろう。
二人を信用してよいものかはわからない。父だって従者たちだって、まさか自分の命を危うくするとは思ってもみなかったのだ。暗闇の中にただ一筋見えた光が、だからといって正しい道であるとは限らない。
だが、今は。
「わたしからも訊いていい? 二人は……どこへ行くところなの。〈連なる五つの山〉を越えるなんて」
二人のことを問うたのは、ことさら話題を変えようとしたわけではない。純粋に不思議だったためでもあるが、主には自分のことばかり喋っているような気がしたためだ。
「どこってことでもないのよ。集団生活が得意じゃないから、基本は旅暮らしなの。だから時々変わったルートを取ってみたくなるわけ」
「たまに人目のないとこに行きたくなるってのはあるな。人目がなけりゃ、術を使って騒がれることもねえし」
敢えて山道を採りたい理由も仙術なら、山道を採れる理由も仙術らしい。危なくなったら飛んで逃げればいいからね、と言われればわからなくはない。
といっても、セディカは仙術のことなど何も知らない。トシュの手に三味が現れた、あの瞬間まで見たこともなかったし、仙術使いが現れたと町で噂を聞いたこともない。常人には叶わないことも容易に果たせるのだろう、と無根拠に想像するだけである。
「あの赤い棒も——何て言えばいいの、……髪の毛、だったの?」
「いや?」
トシュは肩の辺りから何かを引き抜いて、掌に載せて差し出した。待ち針のようだが、待ち針にしては球が両端についている。……今、刺さっていたものを抜き取ったように見えたのだけれど。
どういうことかと問う前に、針は不意に筆ほどの長さと太さになり、次いで麺棒ほどになった。指を曲げて握れば長さだけが物干し竿ほどになり、頭の上に掲げると今度は太さが椀ほどにもなる。それからひゅっと手の中に戻ったのを見れば縫い針になっていて、トシュはそれを上着の肩にすいと刺した。手が離れたときには、また球が両端についた待ち針に変わっている。これなら抜け落ちる心配もないし、自分に刺さる心配もないわけだ。
ジョイドも同じように肩から針を外して、はたき程度の大きさの杖にしてみせた。先端の金輪が聞き覚えのある音でシャラシャラと鳴る。
「仙術って、何年も修行を積んで使えるようになるものだと思ってたんだけど」
「俺らは特別よ、親の血のおかげでね。生まれつき、才能っていうか、適性があったの。これに関しては俺らの力より、これ自体の機能の方が大きいけど」
仙術について根掘り葉掘り聞き出したいわけではないけれども、流石にさらりとは受け流せずに、セディカはつい、いつになくあれこれと尋ねてしまった。そろそろしつこいだろうか、普段を知らぬ二人にはただの詮索好きとしか映るまいと口を閉じたとき、
「それを言ったら、君が破魔三味を弾き熟したのも俺は驚いたんだけど。難しいんじゃないの、あの弾き方」
内面を読んだかのように、久しぶりにジョイドがセディカのことを訊いた。
「破魔三味はお祖母様に習ったの。元々はお祖父様が、東国にいた間に覚えたんだって。それをお祖母様に教えて、持ってた破魔三味もくれたんだって聞いてる」
「そのベールも何かあんのか? 尼僧でもないのにベールをつける習慣なんて、南ならともかくここらにはないだろ」
「ああ、これは」
便乗するようなトシュの質問に、頭へ手をやる。凝ったものでも洒落たものでもなく、ドレスと合わせるような素材でもデザインでもなく、正にトシュが言及した、尼僧が使うものに近かった。首までは隠さないけれども、髪は概ね見えなくなる。前髪も、額も。
「ベールじゃなくてもよかったんだけど。旅先じゃあ、誰もわたしのことなんて知らないし、気にも留めないでしょう。目立つ格好をしていれば、何かあったときに『あのベールの子だ』とは思ってもらえるかと思って」
いなくなった従者たちが、来たときと同じ道を帰るとしたら。一度自分を見かけた誰かが、あのベールの子はどうしたんだい、と不思議がってくれるかもしれない。
確かに記憶には残るな、と相槌を打ったトシュは、言葉に反してすっきりしない顔をしていた。セディカが眉を寄せたのは、気を悪くしたためではなかった。
「変に思う方が自然なのよ。何も訊かないから、あの人たち」
「あっは、さっきの木々ね。あれは仕方ないところもあるのよ。こんな山の中じゃ、千年生きてたって人間を見かける機会は数えるほどだもの」
「あいつらは自分のことにしか興味ねえだけだろ」
ジョイドの擁護に、セディカを差し置いてトシュが噛みついている。少し笑って、少女は干し果物をつまんだ。濃い黄色の切れ端であって、白でも橙でもなかった。
何も人との会話に飢えていたわけではないけれど、その前にぶつかった集団がああだったせいか、妙にありがたみを覚えてしまう。話が通じている、成り立っている安心感。
いや、そうでなくとも、山の中に一人置き去りにされて、途方に暮れていたところなのである。こうも些細な、わざわざ意識せずともよいようなことが、不当なほど響いても無理はないだろう。
二人を信用してよいものかはわからない。父だって従者たちだって、まさか自分の命を危うくするとは思ってもみなかったのだ。暗闇の中にただ一筋見えた光が、だからといって正しい道であるとは限らない。
だが、今は。
「仙人」は道教の用語ですけれども、作中の仙人は本来のそれとは完全一致しておりません。ご了承ください。