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作者: 壱香壱佳
夢みる少女、名を騙る

 この夢みる少女はやがて「ハジメ」と名を騙りますから、もうその名で呼んでみることにいたしましょう。
 ハジメはその日、魔法使いと出会いました。
「『オズの魔法使い』、もっと早く読んでおけばよかったなぁ」
 十九歳の彼女は、夕どきの図書館帰りにつぶやきました。図書館に通うのはハジメの日課です。小説を読むのが大好きなハジメは、そのなかでもとくにファンタジーを好みました。『はてしない物語』『星の王子さま』『銀河鉄道の夜』など。自身の好奇心のためにたくさんの本を読んでいましたが、今日まで『オズの魔法使い』は未読だったのでした。
 嵐によって始まった、愉快な仲間たちとの旅。それはハジメの心にしっかりと響きました。ただ、と彼女は思います。
 ――オズの魔法使いはあのあと、どうなったんだろう。魔法使いになりきれなかった彼は、その
 ドロシーたちと別れたあとの魔法使いのゆくえに、ハジメは思いを馳せます。ちょっと、寂しくなります。だってこう思えたのです。所詮、魔法使いになりきれなかったものが夢のような世界にいけやしない……。
 ハジメは魔法使いでも詐欺師でもなかったのに、ただの少女なのに、エメラルドの都の魔法使いだったひとを思うと胸が締めつけられました。なぜって、聞かずともおわかりでしょう? ハジメもまた夢のような世界にいきたかったものの、いけなかったひとりでしたから。
 ――ううん、夢の世界にいけなくたっていい。ただ、人を愛せないわたしを純粋に受けいれるようなだれかが現れてくれれば。
 ハジメは恋を知らない人でした。いいえ知ることができない人でした。ハジメには生まれながらに、これっぽっちも恋情や色情が存在していなかったのです。だからこそ、少女はさらに夢をみるのです。家族同士のように温かく友人同士のように穏やかな、うつくしい関係を。
 すこしの感傷とともにゆっくり帰路をゆけば、ピロリロピロリロとスマートフォンが震えました。母親からでした。
 眉を顰めたのも一瞬で、ハジメは母親からの電話に応えました。
「どうしたの、母さん」
『あんた、もうすこしでかえってくるでしょ。私は今から出かける。あとはよろしく』
「……また、男の人のところ?」
『なに。あの人とはもう別れたんだしいいでしょ』
 ――もう別れたんだしって。父さんと別れる前から、あなたは男の人ばっかりを。
 小さく、深呼吸をします。でかかった言葉を呑みこみます。
「ううん、文句なんて。いってらっしゃい」
『ありがと。晩は冷食とか食べといて』
 電話が切れて辺りが急に静かになりました。いいえ、実際には音があります。
 鴉の鳴き声。選挙カーの演説。道ゆくひとの団欒した会話。ですがハジメにとって、この一瞬間は静けさそのものだったのです。
 大学にはいかせてもらえず、高校までの友人とは自然と縁が切れてしまいました。働き口も未だ見つかりません。なにより、母親は娘のじぶんを顧みるようすがないのです。ハジメには「うつくしい関係」どころか、ただの家族だって。
 ――わたしって、なんで生きているんだろう。
 絶望特有の低い温度に背を撫でられて、ハジメの目の縁に熱が溜まりそうになります。立ちどまりました。そのときです!
 子どもの泣き叫ぶ声と、野太い怒号。
 ハジメの静寂は、断たれます。そちらへと走りだしました。つぎの角を曲がって二十メートルほど先の路肩では、今まさに酒瓶を振り上げている中年がいます。その目の前で、八歳ほどの尻もちをついた少年が「お父さんやめて」とひと際高く叫びました。
「危ない!」
 ハジメはとっさに割りこみました。瞬間、脳がビガビガ震えます。体がアスファルトの地面に倒れます。そう、ハジメは中年男の酒瓶を頭に受けとめたのでした。
 どくどく、体のほかに生気が流れてゆくのを感じます。ハジメはまぶたを閉じました。ひとのざわめきと「この男を押さえて子どもとそのを!」という若者の声を耳にたしかめながら。
 ――もうあの子は大丈夫だろう。わたしとおなじで「家族」に恵まれなかった子。でも、うつくしい関係を手に入れられるかもしれない子。彼さえ生きてくれていたら。
 ハジメの意識は、こうしてに落ちていったのです。

 さら、さらさら。羊皮紙に文字を綴る音に、ハジメの目は開かれました。
 ――あれ、わたし、なんで生きて。ここは?
 半身を起こします。生まれたままの姿のハジメは、大きな三日月の揺り籠に揺られておりました。そしてこの円い部屋には、ところ狭しと本棚が詰まってあります。すこしの、閉塞感。ただ、古い紙特有のバニラのような香りが籠めておりますから、嫌な気はしません。
 それよりも不気味なのは黒フードを被った青年です。青年はじぶんの真横で目覚めたハジメには目もくれず、机に向かったまま羽ペンを動かしています。
「あの、ここはどこなの」
 ハジメが聞けば、黒フードの青年はやっとアクションを起こしました。
 青年の生白い手が持ちあがります。彼はこちらを振り向かないままに、空間を裂きました。空気の皮が捲れて、星空のような闇が窺えます。その闇から青年は真っ白なワンピースや靴を取りだして、ハジメに放りました。
「青年」と、くどくど呼びつづけるのもなんですから、あなたには一足先にお教えしましょう。黒フードの青年の名は、レイ。魔法使いです。彼は、剥がれかけの、夜空のような空間を元どおりにくっつけました。ハジメが靴を履き終えたのとときおなじくして彼女に向き合います。
「夢の世界へようこそ、お嬢さん」
「ここは夢のなかなのかい」
 もしそうなら、目の前の浮世離れしたうつくしさも納得できます。レイは、それはそれはうつくしいひとでした。
 真っ黒なフードの下で髪は灰色につやつやしく、瞳は沈没船にかくれた瑠璃の色。左手薬指と小指にまる女性的な装飾の指輪ふたつと、首にかかった十字のペンダントは、銀の色。死人のように白い肌とフードの影が作る暗い印象さえなければ、ハジメは、彼に悪印象など抱かなかったでしょう。
 かくして、すこしばかりの悪印象は口の端を上げます。それから瑠璃の瞳でハジメの澄んだ眼を捉えます。ハジメは、暗くもたえなる青の色をじぃと見ました。いいえ見るほかないように思わされました。ぐわんと、脳が揺さぶられます。かと思えば、視界いっぱいに夢のような世界が広がりました。ハジメが今、立っているのは、桜色の都です。桜の一輪を逆さにしたような屋根が続く家並み。春情のクリスタルでできた石畳。そこを行き交うのは、翅が生えた人びと――翅つき妖精でした。
 翅つき妖精のほかにも花頭はなあたまの紳士や猫の娘もいます。彼女たちは水晶でできた空のもと、生きています。えぇたしかに生きています!
「今見せたのは、夢の世界のごく一部。妖精の棲み処のひとつ。桜の園です」
「ごく一部って。こんなにも素敵な場所がほかにもあるの」
「ふふ、夢の世界は、あまたある世界のひとびとの記憶や心、それに想像などを基にできていますから。想像の力とは案外、侮れないものですよ?」
 それを聞いて、ハジメは目を伏せました。
――死の際を体験した後の、理想郷。おそらくわたしはもう。なら現実に立ちもどる前に、夢を謳歌してもいいんじゃないか? この世界に飽きるまでなら。
 心臓がどくどくと鳴ります。まるで今もなおじぶんが生きているかのような実感です。いいえこの世界では、じぶんは生きているのでしょう。なにせ、ここは夢のなか。そしてじぶんは夢みる少女。だから……と目を伏せた一瞬間で、ハジメはここまで思いました。そして悪印象甚だしくとも、心の底からの願いをレイに引き渡しました。
「ねぇ、きみ。本当に申しわけない気持ちはあるんだ。でも、ひとつお願いがあります」
「なんです?」
「わたしを、ここに置いてほしい。まだ現実にかえりたくないんだ」
 死という概念を思いだし、ハジメの背に冷たい汗がつぅと流れます。一方で、レイは長い睫毛を伏せた後、天の御使いのような微笑を見せました。
「たしかに、俺が貴女を拾ったえにしを大切にするのもありでしょう。まぁ面倒を見ようか見まいかは審査のさなかですが」
 審査。大層なその二文字が夢みる少女を俯瞰します。ハジメは苦笑しか零せません。
「審査って言いかたはひどいんじゃない?」
「事実でしょう? 貴女はひとりでは生きられないのですから」
 レイの笑みは、このうえないほどにきれいです。きれいだからこそ、そこにある悪意も明白でした。彼は本心から「事実だ」と、ハジメを突き放したのではなかったのです。「事実だ」と言って相手がどう反応するのかをたしかめようとしたのです。
「……わかったよ。ごめんね」
 ハジメは踵をかえし、部屋をでます。長い廊下もなんのその、あっという間にレイの家をでます。レイがハジメを追う気配はいつまで経っても、ちっとも、感じられませんでした。
――彼に頼んだのが間違っていた。
 他者を実験するかのような意図。他者への尊重を感じさせない態度。黒フードの彼に、ハジメは怒りと悲しみが綯い交ぜになりました。あるいは、彼女の心は失意の淵まで落とされました。
 そとにでれば、橙と桃の色が混じった夕空。その色彩を帯びた白銀の森が正面に見えます。どうやら崖を背に、森のはずれの開けた場にレイの家は建っていたようですが、失意のハジメはそこまで気にかけている余裕がありません。なにも考えられないまま、森に入ってゆきます。
――わたしが生に絶望していたのは確かだよ。でも、こうなったなら、すこしくらい夢のような世界を楽しんだって許されるでしょう?
 濃密な自然の香りを搔きわけるようにして、おもむろに、前へ前へ。
――でもそのために悪印象の彼に甘えようとしたのは、わたしの判断が違っていたんだ。わたしはわたしで、なんとかしなきゃ。
 自然の香りは噎せかえるほどになります。しかしふしぎなことに虫や鳥の気配はだんだん希薄になってゆきます。
――ひとまずここを抜けて、町にいって。大丈夫、彼とも言葉が通じたんだもの。しかも夢の世界は、あまねく世界のひとびとの想像をもとにしているって言っていた。想像を絶するような災難には遭わないでしょう。
 鳥の声も、虫の音も、もはや聞こえません。そのかわり聞こえました。不協和音のようにいびつな笑い声が!
「⁉」
 バッと後ろを振りむくと、想像を絶するような災難がおりました。大きな銀色の三角帽。魔女の被るようなソレには、裂けた口と赤い目がついておりました。裂けた口はよだれで汚れていて、赤い目はぎらりとしています。
 ハジメが知る由はありませんが、コレは、純色の街近くにある丘から逃げだしてきた知性なきものです。獲物になかなかありつけない日々でやっとこの森に辿りついたばかりなのです。つまり、腹ぺこです。
 きっと目の前の少女を極上の飯と思っていることでしょう。
 ――早く、逃げなきゃ。
 ハジメは一歩を踏みだそうとしましたが、あぁ。子どものために勇気を振りしぼれても、ハジメはじぶんのために勇気を振りしぼれないのでした。足が動きません。
 ――なぁんだ。せっかく夢の世界では生きているのに、わたし、また死んじゃうのか。
 ふしぎと心は凪いでいます。いいえ凪いでいるのではなく、死んでいるのかもしれません。ハジメはやおらにまぶたを閉じました。きたるときを待とうとしました。待つ必要は、ありませんでした。
「貴女、目を開けなさい」
 優しくも冷たい声色にまぶたを擡げれば、煤となった三角帽がレイに踏みつけられています。
「きみが」
 ハジメは頭が回らないまま、ただ口を動かします。
「人食い帽子を煤にしたの」
「魔法使いですから」
 さ、家に戻りますよ。差し伸べられた手をとれば、氷漬けの死体のような冷たさで、その温度にハジメは我にかえりました。
「ちょっと待って。助けてくれてありがとう。だけどきみ、名前はなんて言うんだい」
 さきほどまでは、彼の名などもう必要ありませんでした。しかし今、レイはハジメの恩人です。名前を聞いておかなければ気が済みません。
 レイはハジメの手をとったまま、恭しく礼をしました。
「失礼いたしました、お嬢さん。俺の名前はレイと申します」
「……きみがレイならわたしはハジメだね」
「零の次には一がくるから?」
「そうだよ。きみさえよろしければ、これからよろしく」
 ハジメの挨拶に、レイはすこしだけ口角を上げました。
 こうして夢物語は幕を開け、夢みる少女は自らの名を「ハジメ」と騙ったのです。
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