残酷な描写あり
R-15
5.― KOGA LIU ―
5.― KOGA LIU ―
「ああ、把握してる。昨日までで三件ぐらい起きてるらしいな。そっての方も調べろと?」
パイプに片足を引っ掛け、天地を逆転させた姿勢を保ちながら、イアホンマイク越しに鷹野と会話する。こんなとこ監督に見つかったら、どやされるだろうな。
『小規模な密輸業者でも、これだけ目立つと荒神会が警戒する可能性は?』
「大した揉め事じゃない。港区じゃ小物共の強奪やチンコロ、警察の目こぼしも日常茶飯事だ。荒神会が騒ぐレベルじゃない。今、荒神会のビルを盗聴してるが、その手の話は全くない」
その為だけの足場を組み、脚立と数人、命綱が必須な位置のボルトを、それらを全て省略してインパクトレンチで限界まで締め上げる。その時のガガガって音が結構好きだった。
荒神会の事務所ビルには以前、仕込んだ盗聴器に加え、今回は三階の各部屋にもしっかり盗聴器を仕込んでおいた。襲撃を装い忍び込んだあれ以降、荒神会の連中は入り口や裏口まで、しっかり見張りを立てて警戒していた。だが、こっちも建物に入るのは三回目なので、大した苦労はなかった。
公僕の身でこんな事を言うのも悲しくなるが、それが港区の現実。日本の崩壊を辛うじて、少ないダメージで乗り越えられたエリアの使える港なんて、何処もこんなものだった。
俺達がやろうとしている事は、その中の一つの港を仕切っている大物を成敗して犯罪組織共から開放する事だ。小物の相手などしていられない。
そしておそらく、小物の密輸業者を襲っているのは――九尾の黒狐だ。
港区に蔓延する犯罪組織を末端から虱潰しにしていくつもりなのだろう。手間のかかる方法だが、それも一つの手段だと思っていた。こちらにも時間と相応しい人材がもっと多くいれば、その方法も有効だが。残念ながら、腕利きの忍者が一人だけだった。
鷹野には大した問題じゃないと言っておくが、黒狐が暴れていれば荒神会やバックの組織も焦り出して予定外の動きをせざるを得なくなるだろう――俺の狙いはそこにある。
「それより、輝紫桜町の方はどうだ? “組合”の殺し屋や、あの腐れ男娼のハッカーも何か動きはあったのか?」
港区の話は早々に終わらせる。港区の方はしばし任せてもらおう。
堕落し切った下賤な街の分際で、完璧なまでの高度な監視体制が敷かれた輝紫桜町。一度目を付けられると相当に質が悪い。
『氷野市長の伝を利用して情報はかき集めているけど、中々有力なものは今のところ……元々ポルノデーモンは何処にも属していないフリーのセックスワーカーらしくて何処も把握してないそうよ』
「やれやれ、主君自らが情報収集する事になるとはな……」
それ程までに、輝紫桜町は特殊な街らしい。しかし、氷野さんの伝と言うのは何なのだろうか。古巣のホストクラブとか、或いは。と勘繰るのは野暮ったいか。俺が気にする事ではないな。
『それぐらい港区の解放に必死なのよ。一度、顔を出して。そっちの集めた情報も直接話してもらないと』
「あいよ、手土産は用意しとく。仕事中なんだ、切るぞ」
『楽しんでない? そっちの仕事』
「そりゃ楽しいさ、物置部屋でデスクワークするより」
電話を切って、パイプに引っ掛けた片足を振り、程よい遠心力がかかったタイミングで足場まで飛び降りる。
進捗状況は遅れ気味だった。他の建設業者や支援者がこぞって撤退してしまったせいだ。
憶測になるが、荒神会の裏にいる黒幕というのは、相当大きな企業だろう。方々に手を回して、自分達の都合のいい環境を作って維持している。それも一区間まるごとだ。
親玉さえ倒せれば、なし崩しで解決する。だとしても、目先の荒神会だけでもすぐに潰してしまいたい。それが本音だった。
現場に立ってよく解った。荒神会の影響力の強さが。
あのヤクザ共がいなければ、及び腰の支援者や業者も多少は戻ってくる筈だ。
やろうと思えば、今日にだって決着を着けられるのに――人質をとられてる様な状況では、迂闊に手が出せなかった。
黒狐の思いを汲まず、市の意向を優先させる選択肢もあるかもしれないが、流石に見殺しの様な真似は出来ない。
ふと気付くと、周りから聞こえていた作業音が消えていた。鷹野との電話で気付けなかった。人の気配もなく、更には下の方から複数の怒号が聞こえた。どうやら全員下にいるらしい。只ならぬ雰囲気を感じ緊張が走った。
足場を移動して見下ろしてみると、スーツ姿の男が若社長の雄也に凄んでいた。
監督と作業員がその後ろで縮こまり、男の後ろには七人程いた。まさか、乗り込んで来たのか――荒神会が。
工事を止めろとでも脅しに来たのだろう。安っぽい手段だし、下請けの業者に権限なんかないのは分かっていても、個人個人が危険を感じれば手を引く者も出て来る。それが狙いだろう。
物音は立てず、下へ降りていく。さてどうしたものか。
みんな日頃の肉体労働で厳つい体格ではあるが、一般人だ。ヤクザ相手に喧嘩をする雰囲気ではないし、連中の下っ端共は既にその辺の資材を片手に構えているだけでなく、これ見よがしに拳銃を持っている者いる。
このまま気付かないふりをして、やり過ごすか。忍びとしてはそれが正解だ。間違ってもヤクザ共を全員のしてしまっては、素性を怪しまれる。
頭じゃ分かっていても、身体は下へ降りていく。俺の心はもう決まっていた。出来るだけ目立たずに、連中を追い払う。
地上が近づくにつれて、みんな表情も見えて来る。当然だが怯えている。普段はみんなをたくましく引っ張る若社長の雄也も、流石にビビっていた。あの体格ならあんなひょろっちい奴、倒せそうな気もするが。
やはりこういう手荒い事はプロの仕事のようだ。下へ降りて、萎縮する群れの中に紛れる。始めからここにいたかの様に。
「テメェ等の立場なんか知った事がじゃねぇんだよ! 舐めてんのかコラ!」
ありきたりな脅しだな。若社長はセオリー通りの対応を貫いていたらしい。異議申し立ては市の方へ、か。
実際、こちらはそれしか言い様がない。それは当然、スーツ野郎も分かっている事だ。火に油を注いだのは、お前等の方だって誘導してるだけ。
このまま放置すれば雄也はボコボコだな。俺達の内の誰かが止めにかかるまで。
そうやって俺達が動けば、下っ端共が襲い掛かってきて。軽い修羅場、骨の数本は折られるぐらいの目には合いそうだ。
あまり目立ちたくないが、この流れでこちらの作業を挫かれる訳にはいかない。
雄也を助けて連中には帰ってもらうしかない。狙うのは雄也の胸ぐらを掴んでいるスーツ野郎だ。
他はガラの悪いジャージ姿やスーツ姿、そしてよく見ると――女が一人。
上下黒に赤のレザージャケット。ほぼ坊主に近い金髪にサングラスを合わせている。この距離に来るまで女だと気付かなかった。
だからと言って、どうと言う事はない。何者かは知らないが、ヤクザ程の相手ではない筈だ。さっさとこの場を納めてしまおう。
作業員をかき分けて、止めに入ろうとする監督も振り切り、雄也とスーツ野郎の元へ行く。
「これぐらいで勘弁してくださいよ。俺達だって市に雇われて、仕事でやってるんです。異議があるなら、そっちに話してください」
一瞬、鷹野の顔が脳裏を過る。きっとあいつなら、こんな連中が群がって凄んだところで全く動じずに、睨み返しながら理路整然と説明するんだろうな。ちょっと笑える。
「気のせいか? 今、クソ生意気な事を言った様な気がしたが、あ? もう一回言ってみろよ……」
スーツ野郎の手が雄也から離れると、俺に安っぽい睨みを利かせて、拳銃を顎に突き付けてきた。一気に周りがざわつく。
堅気の素人を相手に、任侠も仁義もあったものじゃないな。
こう言う時はウダウダやらず、さっと動くのがいい。素早く拳銃を持った腕を左手で掴んで捻り、右手で腰を掴んで大外刈りで両脚をすくい上げる。大の大人が大きく一回転宙を舞う。
腹から地面に叩き付けられたスーツ野郎の口から、無様に空気が噴き出す。捻った腕の関節は締め上げたままにした。実戦ならとっくにへし折れ、骨が肉を突き破っていただろう。
「いい加減にしないと、警察呼ぶぞ」
ヤクザ共も作業員達も一瞬の出来事を理解し切れいない様子だ。雄也は放心状態で、監督は気を利かせて携帯端末を手にヤクザ共に見せ付けていた。
その中で、異様な程に唯一冷静にそれを見詰めていたのは女だった。目上がやられていると言うのに、無表情に眺めている。
腕が折れる手前まで捻り上げ、スーツ野郎を叫ばせ、ヤクザ共を睨んだ。ヤクザ共から闘争心を削いでいく。
「今日は引いてください。この事は市の方に話しますので、話し合いの場を作ってください。俺達からはそれしか言えません!」
「わ、分かった! 分かったから!」
観念したスーツ野郎を解放してやる。馬鹿面したジャージがスーツ野郎を抱え上げて、群れの中へ下がっていく。
さて、大人しく引き下がってくれるか、このまま乱闘になるか。そうなると、拳銃を持った連中が厄介になる。これ以上は目立ちたくない。
緊張が高まったが、荒神会の連中から熱が冷めている気配を感じた。同時にこちらの士気が高まっているのを背中越しに感じる。おそらく全員で荒神会のヤクザ共を真っ直ぐ睨んでいるのだろう。それでいい、勢い付かずに意思を見せ付けてやるだけでいい。
ヤクザ共が睨みを利かしつつ、ゆっくり退散していく。一先ず凌げたか。
周りから胸を撫で下ろす溜息が漏れ出し、安堵の笑みが浮かんでいた。気になるのは若社長の雄也だった。随分と思い詰めた様な表情をしていた。銃を持ったヤクザを相手に、不甲斐ないとでも思っているのだろうか。
気にする事じゃないと言ってやりたかったが、反って自尊心を傷付けてしまう事になるだろうか。
雄也は良い人だ。ここで働く連中に分け隔てなく家族の様に接して、妥協のない仕事振りを見せて模範となっている。若いけど立派な社長さんだ。輝紫桜町で女遊びが過ぎるのが玉に瑕だが。
理屈が通じる筈もない連中なんだ、気に落とす事なんてないのに。少し落ち着いたタイミングで話しかけてみよう。雄也には先ず、市に連絡を入れてもらい、俺の方も鷹野に連絡を入れて便宜を図ってもらおう。警察のオートマタぐらいは配置してもらわないとな。
それにしても、本当に鬱陶しい奴等だ――早いところ、潰してしまいたい。
そんな苛立ちを覚えた辺りで、監督の視線の先に目をやると、女だけがその場から離れずに、静かにこちらを見ていた。
俺と目が合った女が近づいて来る。何処か異様な雰囲気に周りが静まり返った。
背丈は一七〇以上か、目の前に立たれると見上げざるを得ない。鬱陶しい。
とりあえず、なんだ?、と言葉を発しようとしたその時には、視界に青空が流れて、両足から伝わる痛みとほぼ同時に、胴体を圧迫する衝撃に息が詰まった。
何が起きたのか、女の手が胸を押し潰している。足をすくわれ、浮いたところを地面へ叩き付けられたのか。これは全く予想していない事態だった。
ジワジワと痛みが込み上げてくるが、今はそれどころではない。女の顔が近づいてきた。反撃するべきか、女の意図が掴めず混乱していた。
女がサングラスを外した。珍しい薄いグレーの目、白内障とまでいかないが、遠目にはそう見えるぐらいの白さだった。
「調子に乗るなよ、甲賀流……」
更に混乱した。薄い笑みを浮かべ、耳元で俺にしか聞こえない声量で女が囁くと、すっと立ち上がり、軽やかにその場を去って行った。
半身を起こし上げると、すぐ傍で監督が何かを言っているが、何も頭に入ってこなかった。あの女、一体何者なんだ、何故俺の素性を知っている。
その答えは現時点では分かる筈もない。ただ早まる鼓動が脳内へ、過剰なまでの酸素を送り込み、得られる筈もない答えを求めていた。
呼吸が荒くなっていくが、周りにそれを悟られない様に平静を装えば、今度は眩暈が襲ってくる。霞む視界で、去って行く女の後ろ姿を見据えた。
確実な事は一つだけ。奴は、あの女は――忍者だ。
「ああ、把握してる。昨日までで三件ぐらい起きてるらしいな。そっての方も調べろと?」
パイプに片足を引っ掛け、天地を逆転させた姿勢を保ちながら、イアホンマイク越しに鷹野と会話する。こんなとこ監督に見つかったら、どやされるだろうな。
『小規模な密輸業者でも、これだけ目立つと荒神会が警戒する可能性は?』
「大した揉め事じゃない。港区じゃ小物共の強奪やチンコロ、警察の目こぼしも日常茶飯事だ。荒神会が騒ぐレベルじゃない。今、荒神会のビルを盗聴してるが、その手の話は全くない」
その為だけの足場を組み、脚立と数人、命綱が必須な位置のボルトを、それらを全て省略してインパクトレンチで限界まで締め上げる。その時のガガガって音が結構好きだった。
荒神会の事務所ビルには以前、仕込んだ盗聴器に加え、今回は三階の各部屋にもしっかり盗聴器を仕込んでおいた。襲撃を装い忍び込んだあれ以降、荒神会の連中は入り口や裏口まで、しっかり見張りを立てて警戒していた。だが、こっちも建物に入るのは三回目なので、大した苦労はなかった。
公僕の身でこんな事を言うのも悲しくなるが、それが港区の現実。日本の崩壊を辛うじて、少ないダメージで乗り越えられたエリアの使える港なんて、何処もこんなものだった。
俺達がやろうとしている事は、その中の一つの港を仕切っている大物を成敗して犯罪組織共から開放する事だ。小物の相手などしていられない。
そしておそらく、小物の密輸業者を襲っているのは――九尾の黒狐だ。
港区に蔓延する犯罪組織を末端から虱潰しにしていくつもりなのだろう。手間のかかる方法だが、それも一つの手段だと思っていた。こちらにも時間と相応しい人材がもっと多くいれば、その方法も有効だが。残念ながら、腕利きの忍者が一人だけだった。
鷹野には大した問題じゃないと言っておくが、黒狐が暴れていれば荒神会やバックの組織も焦り出して予定外の動きをせざるを得なくなるだろう――俺の狙いはそこにある。
「それより、輝紫桜町の方はどうだ? “組合”の殺し屋や、あの腐れ男娼のハッカーも何か動きはあったのか?」
港区の話は早々に終わらせる。港区の方はしばし任せてもらおう。
堕落し切った下賤な街の分際で、完璧なまでの高度な監視体制が敷かれた輝紫桜町。一度目を付けられると相当に質が悪い。
『氷野市長の伝を利用して情報はかき集めているけど、中々有力なものは今のところ……元々ポルノデーモンは何処にも属していないフリーのセックスワーカーらしくて何処も把握してないそうよ』
「やれやれ、主君自らが情報収集する事になるとはな……」
それ程までに、輝紫桜町は特殊な街らしい。しかし、氷野さんの伝と言うのは何なのだろうか。古巣のホストクラブとか、或いは。と勘繰るのは野暮ったいか。俺が気にする事ではないな。
『それぐらい港区の解放に必死なのよ。一度、顔を出して。そっちの集めた情報も直接話してもらないと』
「あいよ、手土産は用意しとく。仕事中なんだ、切るぞ」
『楽しんでない? そっちの仕事』
「そりゃ楽しいさ、物置部屋でデスクワークするより」
電話を切って、パイプに引っ掛けた片足を振り、程よい遠心力がかかったタイミングで足場まで飛び降りる。
進捗状況は遅れ気味だった。他の建設業者や支援者がこぞって撤退してしまったせいだ。
憶測になるが、荒神会の裏にいる黒幕というのは、相当大きな企業だろう。方々に手を回して、自分達の都合のいい環境を作って維持している。それも一区間まるごとだ。
親玉さえ倒せれば、なし崩しで解決する。だとしても、目先の荒神会だけでもすぐに潰してしまいたい。それが本音だった。
現場に立ってよく解った。荒神会の影響力の強さが。
あのヤクザ共がいなければ、及び腰の支援者や業者も多少は戻ってくる筈だ。
やろうと思えば、今日にだって決着を着けられるのに――人質をとられてる様な状況では、迂闊に手が出せなかった。
黒狐の思いを汲まず、市の意向を優先させる選択肢もあるかもしれないが、流石に見殺しの様な真似は出来ない。
ふと気付くと、周りから聞こえていた作業音が消えていた。鷹野との電話で気付けなかった。人の気配もなく、更には下の方から複数の怒号が聞こえた。どうやら全員下にいるらしい。只ならぬ雰囲気を感じ緊張が走った。
足場を移動して見下ろしてみると、スーツ姿の男が若社長の雄也に凄んでいた。
監督と作業員がその後ろで縮こまり、男の後ろには七人程いた。まさか、乗り込んで来たのか――荒神会が。
工事を止めろとでも脅しに来たのだろう。安っぽい手段だし、下請けの業者に権限なんかないのは分かっていても、個人個人が危険を感じれば手を引く者も出て来る。それが狙いだろう。
物音は立てず、下へ降りていく。さてどうしたものか。
みんな日頃の肉体労働で厳つい体格ではあるが、一般人だ。ヤクザ相手に喧嘩をする雰囲気ではないし、連中の下っ端共は既にその辺の資材を片手に構えているだけでなく、これ見よがしに拳銃を持っている者いる。
このまま気付かないふりをして、やり過ごすか。忍びとしてはそれが正解だ。間違ってもヤクザ共を全員のしてしまっては、素性を怪しまれる。
頭じゃ分かっていても、身体は下へ降りていく。俺の心はもう決まっていた。出来るだけ目立たずに、連中を追い払う。
地上が近づくにつれて、みんな表情も見えて来る。当然だが怯えている。普段はみんなをたくましく引っ張る若社長の雄也も、流石にビビっていた。あの体格ならあんなひょろっちい奴、倒せそうな気もするが。
やはりこういう手荒い事はプロの仕事のようだ。下へ降りて、萎縮する群れの中に紛れる。始めからここにいたかの様に。
「テメェ等の立場なんか知った事がじゃねぇんだよ! 舐めてんのかコラ!」
ありきたりな脅しだな。若社長はセオリー通りの対応を貫いていたらしい。異議申し立ては市の方へ、か。
実際、こちらはそれしか言い様がない。それは当然、スーツ野郎も分かっている事だ。火に油を注いだのは、お前等の方だって誘導してるだけ。
このまま放置すれば雄也はボコボコだな。俺達の内の誰かが止めにかかるまで。
そうやって俺達が動けば、下っ端共が襲い掛かってきて。軽い修羅場、骨の数本は折られるぐらいの目には合いそうだ。
あまり目立ちたくないが、この流れでこちらの作業を挫かれる訳にはいかない。
雄也を助けて連中には帰ってもらうしかない。狙うのは雄也の胸ぐらを掴んでいるスーツ野郎だ。
他はガラの悪いジャージ姿やスーツ姿、そしてよく見ると――女が一人。
上下黒に赤のレザージャケット。ほぼ坊主に近い金髪にサングラスを合わせている。この距離に来るまで女だと気付かなかった。
だからと言って、どうと言う事はない。何者かは知らないが、ヤクザ程の相手ではない筈だ。さっさとこの場を納めてしまおう。
作業員をかき分けて、止めに入ろうとする監督も振り切り、雄也とスーツ野郎の元へ行く。
「これぐらいで勘弁してくださいよ。俺達だって市に雇われて、仕事でやってるんです。異議があるなら、そっちに話してください」
一瞬、鷹野の顔が脳裏を過る。きっとあいつなら、こんな連中が群がって凄んだところで全く動じずに、睨み返しながら理路整然と説明するんだろうな。ちょっと笑える。
「気のせいか? 今、クソ生意気な事を言った様な気がしたが、あ? もう一回言ってみろよ……」
スーツ野郎の手が雄也から離れると、俺に安っぽい睨みを利かせて、拳銃を顎に突き付けてきた。一気に周りがざわつく。
堅気の素人を相手に、任侠も仁義もあったものじゃないな。
こう言う時はウダウダやらず、さっと動くのがいい。素早く拳銃を持った腕を左手で掴んで捻り、右手で腰を掴んで大外刈りで両脚をすくい上げる。大の大人が大きく一回転宙を舞う。
腹から地面に叩き付けられたスーツ野郎の口から、無様に空気が噴き出す。捻った腕の関節は締め上げたままにした。実戦ならとっくにへし折れ、骨が肉を突き破っていただろう。
「いい加減にしないと、警察呼ぶぞ」
ヤクザ共も作業員達も一瞬の出来事を理解し切れいない様子だ。雄也は放心状態で、監督は気を利かせて携帯端末を手にヤクザ共に見せ付けていた。
その中で、異様な程に唯一冷静にそれを見詰めていたのは女だった。目上がやられていると言うのに、無表情に眺めている。
腕が折れる手前まで捻り上げ、スーツ野郎を叫ばせ、ヤクザ共を睨んだ。ヤクザ共から闘争心を削いでいく。
「今日は引いてください。この事は市の方に話しますので、話し合いの場を作ってください。俺達からはそれしか言えません!」
「わ、分かった! 分かったから!」
観念したスーツ野郎を解放してやる。馬鹿面したジャージがスーツ野郎を抱え上げて、群れの中へ下がっていく。
さて、大人しく引き下がってくれるか、このまま乱闘になるか。そうなると、拳銃を持った連中が厄介になる。これ以上は目立ちたくない。
緊張が高まったが、荒神会の連中から熱が冷めている気配を感じた。同時にこちらの士気が高まっているのを背中越しに感じる。おそらく全員で荒神会のヤクザ共を真っ直ぐ睨んでいるのだろう。それでいい、勢い付かずに意思を見せ付けてやるだけでいい。
ヤクザ共が睨みを利かしつつ、ゆっくり退散していく。一先ず凌げたか。
周りから胸を撫で下ろす溜息が漏れ出し、安堵の笑みが浮かんでいた。気になるのは若社長の雄也だった。随分と思い詰めた様な表情をしていた。銃を持ったヤクザを相手に、不甲斐ないとでも思っているのだろうか。
気にする事じゃないと言ってやりたかったが、反って自尊心を傷付けてしまう事になるだろうか。
雄也は良い人だ。ここで働く連中に分け隔てなく家族の様に接して、妥協のない仕事振りを見せて模範となっている。若いけど立派な社長さんだ。輝紫桜町で女遊びが過ぎるのが玉に瑕だが。
理屈が通じる筈もない連中なんだ、気に落とす事なんてないのに。少し落ち着いたタイミングで話しかけてみよう。雄也には先ず、市に連絡を入れてもらい、俺の方も鷹野に連絡を入れて便宜を図ってもらおう。警察のオートマタぐらいは配置してもらわないとな。
それにしても、本当に鬱陶しい奴等だ――早いところ、潰してしまいたい。
そんな苛立ちを覚えた辺りで、監督の視線の先に目をやると、女だけがその場から離れずに、静かにこちらを見ていた。
俺と目が合った女が近づいて来る。何処か異様な雰囲気に周りが静まり返った。
背丈は一七〇以上か、目の前に立たれると見上げざるを得ない。鬱陶しい。
とりあえず、なんだ?、と言葉を発しようとしたその時には、視界に青空が流れて、両足から伝わる痛みとほぼ同時に、胴体を圧迫する衝撃に息が詰まった。
何が起きたのか、女の手が胸を押し潰している。足をすくわれ、浮いたところを地面へ叩き付けられたのか。これは全く予想していない事態だった。
ジワジワと痛みが込み上げてくるが、今はそれどころではない。女の顔が近づいてきた。反撃するべきか、女の意図が掴めず混乱していた。
女がサングラスを外した。珍しい薄いグレーの目、白内障とまでいかないが、遠目にはそう見えるぐらいの白さだった。
「調子に乗るなよ、甲賀流……」
更に混乱した。薄い笑みを浮かべ、耳元で俺にしか聞こえない声量で女が囁くと、すっと立ち上がり、軽やかにその場を去って行った。
半身を起こし上げると、すぐ傍で監督が何かを言っているが、何も頭に入ってこなかった。あの女、一体何者なんだ、何故俺の素性を知っている。
その答えは現時点では分かる筈もない。ただ早まる鼓動が脳内へ、過剰なまでの酸素を送り込み、得られる筈もない答えを求めていた。
呼吸が荒くなっていくが、周りにそれを悟られない様に平静を装えば、今度は眩暈が襲ってくる。霞む視界で、去って行く女の後ろ姿を見据えた。
確実な事は一つだけ。奴は、あの女は――忍者だ。