残酷な描写あり
R-15
9.― DOUBLE KILLER ―
9.― DOUBLE KILLER ―
フィクションの世界で散々使い古されきた様な存在が目の前にいる。信じ難い事だが、この退廃した島国の堕落した歓楽街の片隅に、正真正銘の唯一無二の力を持つ者がいたのだ。
俺はとんでもない奴と出会い、そして相棒になろうとしているのかも知れなかった。
その唯一無二は、余程腹が減っていたのか、カットされたステーキに食い付いて、ライスをかき込み、味噌汁で流し込んだ。このペースで食べ続けるのなら、四〇〇グラムもあっという間だろう。こういう所はしっかり男なんだな。
冷めかけている珈琲を飲みながら、蓮夢のノートPCを眺める。これでも見てろと言わんばかりに、モニターにはアクアセンタービルの外観が表示されていた。
一階がロビー、二階から三階はモール式になっていて、テナントや飲食店が連ね、四階と五階もジム等の商業施設で開放していて、一般人の出入りは盛んな印象だった。
それから上の階層は、海楼商事の貸しオフィスになっていて、幾つかの企業が利用している。蓮夢の言うサーバールームは二十九階にあった。
「そんなお前でも、海楼商事のサーバーを攻略出来ないのか……」
「建物に忍び込んで直接ハッキングする手段は何度か経験してるけどね。今回ばかりは相手の規模が大き過ぎる。独立されたネットワークに、狭い出入り口には罠だらけ、遠隔で出来る事には限界がある……要塞みたいな高層ビルの天辺までどうすれば辿り着ける? 林組に荒神会、海楼商事。更にその裏には他にどんな組織が潜んでいるのか……しかも“組合”が興味を持っていて鉄志さんは俺の前に立ちはだかった。手に負えない、悔しいけど俺独りじゃ八方塞がりさ。ここで孤軍奮闘して時間を浪費するよりも、誰かと協力する選択の方が最も効率的だよ。知恵は多い方がいい」
俺に言わせれば、蓮夢の持つ能力は驚異的だが、蓮夢にとっては俺の知識や経験に魅力があるらしい。一体、何に期待しているのだろうか。
「だから俺の助けが欲しいと?」
「鉄志さんだって、俺みたいなのがいれば便利だと思っているんだろ? 拒絶される理由なんてないと思ってたけど、俺の事、そんなに嫌い?」
真っ直ぐな目で嫌いかと尋ねられてそうだと堪えられる訳ないだろ――あざとい。
嫌っていたのかもしれない。始めから、どうする事が正解なのかは分かりきっていた。全ては俺の色眼鏡のせいだ。
組織のしがらみだって確かにあるが、合理性を無視してでも、こんな奴に、男娼ごときが偉そうに手を組もうなんて、思い上がりだと意地を張っていた。
今もまだ、わだかまりが消えた訳じゃない。それでも、嫌わず理解する努力はすべきだと、今はやっとその段階にまで来れた気分だった。
「もう少し、ゆっくり食べたらどうだ」
「貧乏性でね」
厚みのあった肉もあと二切れしかなかった。盛られたライスも味噌汁で流し込んでいる。時間に追われる者の作業的な食事に思えた。
俺も昔はそうだった。日本に帰って来て、少しは落ち着いて食事を味わえる様にはなったが。
「まったく……変わった奴だな、お前」
「どうでもいいさ。それで、鉄志さんの答えは?」
綺麗に平らげ、一息ついた後、蓮夢はワインを飲み干す。食器を重ねて端に置いて、ノートPCを畳んで手元に置いた。
テーブルに置いた両手に顎を乗せて、こちらを見ている。歳不相応な目をしていた。
仕方がないとは言え結局、誰かの思惑や希望に流されてしまうのか。ガキの頃から、ずっとこれの繰返しだな。それをリーダーの気質だと言うのなら、損な役回りである。
何時も自分は一歩下がって、思いを律し、意見をよく聞き、調子も帳尻も合わせて、バランスを整えて、仲間と共に目的を果たす。或いは戦友達と共に任務を成功へと導くんだ――この上ない満足感が得られる瞬間。
コイツと、蓮夢と俺は、その領域にまで辿り着けるだろうか。若い頃はそんな不安なんかお構いなしに前へ進めたというのに。今は不安ばかりが過る。
「恐れ入った。ここまで凄い奴だったとはな。改めるよ、是非、手を組ませてくれないか? それと、話し辛い事情を話てくれた事にも感謝するよ。組織には、優れたデバイスを使いこなす天才ハッカー。とでも言っておくよ」
蓮夢の目と表情に穏やかな雰囲気が滲み出て来る。分かり易いヤツだな、それとも、してやったりとでも思っているのだろうか。
「力関係は基本的に、鉄志さんが八、俺は二でいいよ。多くの部分で、鉄志さんの方針や指示に従うけど、俺の分野が重要な場合は逆転してもらう。あとクライアントさんの不利益な事になる様な事は避けてもらうよ」
驚いたな、対等にとは言わず、こちらを上に祭り上げて来るとは、ここぞと言う時の決断以外は俺に委ねると言う訳だ。都合に良いポジションだ。現時点、知る限りでは蓮夢らしいと言えば蓮夢らしいと思えた。
蓮夢の差し出した右手。この右手に応えた瞬間、俺達は相棒と言う関係か。
「六対四の関係でいよう。俺がお前のジャンルに弱いのは事実だからな。出来るだけ、隠し事はなしで頼むよ」
昔の俺ならば、ほとんどの要望を受け入れていただろうけど、今回はその自信がない。こちらの負荷を分かち合ってもらうぞ。
俺は右手で蓮夢に応じる――これでようやく、一歩前進か。
「よろしくね、鉄志さん」
「こちらこそ」
遠回りしてしまったが、ここからどれだけ巻き返せるか。今後どう動くかについて、今からでも話しておきたいところだが、緊張が解けた蓮夢の様子は、明らかな疲労が漂っていた。
髪を掻き上げる仕草に見せかけて、頭部の左側を押さえている。頭痛だろうか。
「疲れたな、お互い……」
「アンタは飲んでただけだろ」返す言葉もない。
ウェイターが皿を片付けるついでにと、蓮夢はウイスキーのロックをダブルで注文していた。しかも、ここぞばかりに高い銘柄の物を。本当に遠慮がないな。
さて、蓮夢と手を組み、具体的にどんな活動をするのか、ハッカーのリサーチに殺し屋がボディーガード以外に役に立つ事なんてあるのだろうか。
六対四の関係であっても、概ね蓮夢が方針を定める事になりそうだな。
今の俺に必要な事は、久し振りの相棒と言える相手。この蓮夢という、一癖も二癖もある男の事を、出来るだけ多く知り、把握する事だろう。
「嫌なら答えなくてもいいが。何故、売春をしているんだ? それだけの能力があれば他にやり様もあると思うんだが」
昨晩からずっとこれが揉め事の種になっている。確かに俺にも非があるが、どうしても理解できなかった。
それでも引き下がらなかった蓮夢の、理由が知りたい。俺達は余りにも、生きてきた道が違い過ぎるから。
蓮夢はしばらく下を向き、言葉を探している様な素振りから、観念したかの様に顔を上げた。
「ずっと、そうやって、生きてきたからだよ……他の生き方を必死に探していた時期だってあったさ。でも抜け出せなかった……弱いって言われれば、否定はしないよ」
蓮夢の表情は憂う事も怒る事もない、静かなものだった。それが自分の普通であると言わしめるか、或いはそう見せかける意図もありそうな、フラットな雰囲気。
「それにハッカーなんて、大して儲からないよ。頻繁に依頼なんか来ないし、一仕事終えるに数週間から一、二ヶ月かかる時だってある。輝紫桜町でHOEやってる方が手っ取り早く稼げる。それに……」
ノートPCを片手でひらひらと振る。確かに、CrackerImpは名が知れている割には、大した情報は得られなかった。それほど多くの依頼はこなしていないのだろう。ハッカーに仕事を依頼すると言う事は、ある程度こちらの情報を渡す事になる。ある種の諸刃の刃だ。
「俺がこんな風になったのは、そもそも死なせたくないって思ってくれた人達の思いがある。悪人にさせる為じゃない。色々考えたよ、それこそ、あちこちの口座から引っこ抜きしたりとか、クラッキングで企業を転ばして、株価をコントロールしたりとか、高性能なソフトウェアを作って売ろうとか……でも、どうシミュレーションしても、最後には必ず足が付く。その時、俺がどんなに金や権力を持っていても、それすらもねじ伏せれる“上”がいるもんだよ“組合”だって、その類いじゃない?」
「そうだな……神とは言わないが、それに近いぐらいの連中はいる」
合点のいく答えだった。常識外れの能力を持っている割に控え目な理由。不安定で感情的になる事もあるが、やはり蓮夢は基本的に、冷静で賢く、強かな性格の様だ。多少捻くれているが、世の中の不条理な現実もしっかり見ている。この手の相手と組めるのなら、互いに達観して同じ歩幅で動けるかもな。
逆に、俺が先行するのも良いかも知れないな。行き過ぎても蓮夢なら的確に止める事が出来るだろう。
「こんな事で、正体がバレたら、俺も博士も破滅だよ。俺に関しては、どんな目に遭うか、脳ミソだけ外されて、どっかのサーバーにでも繋げられるかも。せいぜい誰かさんのお役に立てるぐらいの事しか出来ないよ……それでも十桁いきそうな負債もどうにかしないとならない。出来る事はなんだってやったし、なんでも利用した……」
無限の可能性を手にしていながら、日の目も浴びれず、生き方も変えられないと言うのは、口惜しいのだろうな。それでも腐らずに善意に向く、不器用なまでの直向きさ。それでも愚かしさなんて言葉は似合わない。高潔さすら感じる。
もし俺が蓮夢の立場なら、どうなるかと考えると、とてもじゃないが真似出来ない。どこか逃げ道を探してしまうんだろうな。
ウェイターがオンザロックのグラスを蓮夢に差し出す。アルコール度数六〇を超える希少なバーボンだ。こんな酒を頼むところを見ると結構なバーボン党らしい。
「別に何て事ないよ。昔からずっと身体売ってきたし、昨日のザマで言っても説得力ないかも知れないけど、俺は人とセックスする事自体は好きだよ」
控え目にバーボンを一口飲み、余韻に浸る。昨日散々飲んだが、俺まで飲みたくなってきた。
セックスが好きだなんて恥ずかし気もなく、よく言えるな。単に俺がそう言う話題に対して免疫がないのだろうが。蓮夢にとって、セックスは俺以上に身近なものだと言う事を肝に銘じておかないと、またつまらない事で揉めたり傷つけたりする事になるだろう。蓮夢と会話をするのなら、おそらく避けては通れないが、少々苦手を感じる。異性間ならまだしも、蓮夢の場合は同性間だ。
「昔は大嫌いだった。何でこんなグチャグチャになる事ヤらないといけないんだって……でもどうにかしようなんて力も知恵もなかった。自分自身が、何もかもが汚らわしくて大嫌いだった。輝紫桜町は地獄みたいなとこだよ、俺みたいな野良犬にはおあつらえ向きさ。でも、あの街で知ったんだ。俺は汚れちゃいないって」
眉をひそめ、グラスの中の丸氷を泳がしていた。昔と言うのは言ったどれぐらい前の事なのだろうか。気にもなるが、知りたくもない。或いは知らない方が良い様な気もしてきた。
違法サイボーグと言う壮絶な現状以前に、苦労が絶えない生き方をしてきたのだろうと、雰囲気だけで伝わって来る。
「それからは、何も気にならなくなった。薄っぺらい情と一時の絆、たまに相手の心に触れられた様な感覚に溺れていくだけ……勿論、それ以上に快楽も追及するけどね」
バーボンをくいっと半分ほど飲み、蓮夢は薄い笑みを浮かべていた。
したくもない相手との行為だと言うのに、その中にでも情や絆を見出す。俺には理解できない感情だった。
あの輝紫桜町で何を知り、何を受け入れ、蓮夢は強くなったのだろうか。
「俺はこの通り、超イケてる。あと十年はやれる自信あるぜ。って、そう思っていたんだけどさ……なんか、最近は気が乗らなくて、しかも相手にしたくない苦手な客ばかりに当たる。ホント、ツイてないよ。金も返済して、あともう一息だってのにさ。なんだか……」
急に言葉を詰まらせる。何時も悠長に話す蓮夢にしては珍しく感じる。漂い始める沈黙の間、俺からは特に言う事はなかった。蓮夢はグラスを持つ手を口元に当てて考えているのか躊躇しているのか、動きはなかった。
しばらくして、蓮夢は深い溜息の後で残りのバーボンを飲み干す。
「なんだか、おかしいんだ。身体と心が追い付かなくなってきてる様な感じがしてさ、昔ならあれぐらい泣けばスッキリして仕切り直せたのに、今はなんだかズルズルと引きづってさ……」
左手で頭を抱えて蓮夢は項垂れる。蓮夢にとっては今の自分の状態と言うのが説明が付かず、釈然としない日々が続いているらしい。こんな精神状態で、大企業とその裏に潜んでいる、国際レベルの犯罪組織を相手にしていたとは。
風前の灯火だ。数回会って話しただけでは気付けなかったが、遅かれ早かれ、蓮夢は自分の背負っているもので潰されていただろう。
「強くなる以外の理由しか残されてないのに、どんどん弱くなっていく……ホント、笑っちゃうよね」
何か言葉をかけてやるべきなのか、その言葉を拾い集めてた最中、蓮夢と目が合う。何を思っているのか、大きく目を見開いて、ハッとした様な表情をしていた。
その表情の意図が分からず怪訝そうにしてると、蓮夢の表情が徐々に歪み、次の瞬間には、頭と腹を抱えて笑い出した。
「ちょっと待って、なんで? なんで俺、こんな、ベラベラと喋っちゃったんだろう。それこそ、鉄志さんにはどうでもいい事じゃん。嗚呼、おかしい、バッカみたい……」
突然の事だったので、こっちも訳が分からなかったが、どこか自虐的で無邪気に笑っている蓮夢を見て、理解した――相当、独りで溜め込んでいたらしい。
「ごめんね、愚痴っぽくて……」
「いや……別に構わないよ」
蓮夢の事が少し分かってきた。混沌と言うよりも複雑と言う言葉が似合う奴だ。
本当の意味で理解するのは難しいかも知れないが、俺の中で蓮夢と上手くやっていけそうな気がしてきた。
大丈夫、少しばかり手のかかる相棒だが、過去の経験を活かせそうだ。
「でも、ありがとう、聞いてくれて。ちょっとスッキリしたかも……確かに少し疲れたかな。ご馳走さま、また連絡して」
蓮夢は腰を上げ、椅子に掛けた上着を掴んでその場を去ろうとした。
「張り詰めた糸が切れたんだ……」
不意に言葉が漏れた。何か言ってやらないと、そう思っていたものが無意識に零れ落ちた。
「俺の経験でしか話せないが、人間なんて、それなりの理由や意味があれば、大概の事はやれるし、耐えられるものだ。戦争がそれを証明してる」
考えも纏まっていない言葉が次々に出てくる。こういう時は、飾り気のない本心しか話せなくなるものだ。
不本意だが、このまま話すしかなかった。
「どれぐらい耐えれるかなんて、個人差に過ぎないが、必ず消耗していく。消耗しない奴は正気じゃない。耐え抜く理由を失ったら、モロにくらうだけだ。強いとか弱いとか、そう言う考えは持たない方がいい」
蓮夢が俺を見つめているのが分かっていたが、俺は視線を蓮夢には移さずに何となく下を見ていた。
強い、弱い。無力さに打ちのめされて虚無感が支配する感覚。その大半の原因を生み出しているのは決まって――他人の理屈と価値観だ。
「そんな時、どうすればいいの?」
「どうにもならないからクソな世の中なんだろ? 進むしかないだろ……」
手持ち無沙汰に耐え兼ね、煙草の箱に手を伸ばした。幸いにも一本残っている。
「鉄志さんにも優しいとこ、あるんだね」
テーブルに手を置き、ほんの少し覗き込む様に蓮夢はこちらを見ているが、俺は視線は変える事なく煙草に火を着けた。
「相棒になるなら、精神面のフォローもするだけだ。優しさじゃない」
「それでも、やっと鉄志さんの心が見えた気がするよ。俺、惚れちゃうかも……」
心か、そんなものが、今の世界の人間なんかに存在しているのかどうかも、俺は怪しいと思っているのが本心だが、後の部分も含めて、蓮夢の言葉は受け流しておく。基本的には懐かれている。
とりあえず目線を上げると、案の定、蓮夢の表情は明るさが戻り、穏やかに笑みを浮かべていた。
「三日後、アクアセンタービルで落ち合う。それでいいな?」
「二日後だよ、ケツが重たいなら蹴り上げちゃいな」
蓮夢に言わせれば、明日にでもと言いたいのだろうが、妥協してやったと言う所か。カウンター前に立っているオーナーに、軽い挨拶をして蓮夢は去って行った。
今日中に河原崎とイワンに会って、言いくるめる。そして明日までに、今後の準備を済ませればいい。何とかなるだろう。
椅子に深く凭れ、咥え煙草から天井の向けて煙草の煙を飛ばす。もう一度、深く吸い込んで天井へ煙を吐き出した。
随分前から、単独行動に嫌気がさしていた。殺し屋という仕事そのものが、自分に向いているのかどうかを、何時も考えていたが、こんな形で相棒を獲得する事になるとは。
気負いがないと言えば嘘になるが、俺は今は少しばかり――高揚していた。
輝紫桜町のポルノデーモン。腕利きのハッカーCrackerImp。違法サイボーグの蓮夢、か。
さて、どうなるなるものか。おもしろそうな相棒に、手強い敵。まるで先が読めないが、先に進めそうな予感はする。
独りじゃ無理な事でも、二人なら、仲間がいれば、必ず乗り越えて行ける事を――俺はまだ覚えていた。
フィクションの世界で散々使い古されきた様な存在が目の前にいる。信じ難い事だが、この退廃した島国の堕落した歓楽街の片隅に、正真正銘の唯一無二の力を持つ者がいたのだ。
俺はとんでもない奴と出会い、そして相棒になろうとしているのかも知れなかった。
その唯一無二は、余程腹が減っていたのか、カットされたステーキに食い付いて、ライスをかき込み、味噌汁で流し込んだ。このペースで食べ続けるのなら、四〇〇グラムもあっという間だろう。こういう所はしっかり男なんだな。
冷めかけている珈琲を飲みながら、蓮夢のノートPCを眺める。これでも見てろと言わんばかりに、モニターにはアクアセンタービルの外観が表示されていた。
一階がロビー、二階から三階はモール式になっていて、テナントや飲食店が連ね、四階と五階もジム等の商業施設で開放していて、一般人の出入りは盛んな印象だった。
それから上の階層は、海楼商事の貸しオフィスになっていて、幾つかの企業が利用している。蓮夢の言うサーバールームは二十九階にあった。
「そんなお前でも、海楼商事のサーバーを攻略出来ないのか……」
「建物に忍び込んで直接ハッキングする手段は何度か経験してるけどね。今回ばかりは相手の規模が大き過ぎる。独立されたネットワークに、狭い出入り口には罠だらけ、遠隔で出来る事には限界がある……要塞みたいな高層ビルの天辺までどうすれば辿り着ける? 林組に荒神会、海楼商事。更にその裏には他にどんな組織が潜んでいるのか……しかも“組合”が興味を持っていて鉄志さんは俺の前に立ちはだかった。手に負えない、悔しいけど俺独りじゃ八方塞がりさ。ここで孤軍奮闘して時間を浪費するよりも、誰かと協力する選択の方が最も効率的だよ。知恵は多い方がいい」
俺に言わせれば、蓮夢の持つ能力は驚異的だが、蓮夢にとっては俺の知識や経験に魅力があるらしい。一体、何に期待しているのだろうか。
「だから俺の助けが欲しいと?」
「鉄志さんだって、俺みたいなのがいれば便利だと思っているんだろ? 拒絶される理由なんてないと思ってたけど、俺の事、そんなに嫌い?」
真っ直ぐな目で嫌いかと尋ねられてそうだと堪えられる訳ないだろ――あざとい。
嫌っていたのかもしれない。始めから、どうする事が正解なのかは分かりきっていた。全ては俺の色眼鏡のせいだ。
組織のしがらみだって確かにあるが、合理性を無視してでも、こんな奴に、男娼ごときが偉そうに手を組もうなんて、思い上がりだと意地を張っていた。
今もまだ、わだかまりが消えた訳じゃない。それでも、嫌わず理解する努力はすべきだと、今はやっとその段階にまで来れた気分だった。
「もう少し、ゆっくり食べたらどうだ」
「貧乏性でね」
厚みのあった肉もあと二切れしかなかった。盛られたライスも味噌汁で流し込んでいる。時間に追われる者の作業的な食事に思えた。
俺も昔はそうだった。日本に帰って来て、少しは落ち着いて食事を味わえる様にはなったが。
「まったく……変わった奴だな、お前」
「どうでもいいさ。それで、鉄志さんの答えは?」
綺麗に平らげ、一息ついた後、蓮夢はワインを飲み干す。食器を重ねて端に置いて、ノートPCを畳んで手元に置いた。
テーブルに置いた両手に顎を乗せて、こちらを見ている。歳不相応な目をしていた。
仕方がないとは言え結局、誰かの思惑や希望に流されてしまうのか。ガキの頃から、ずっとこれの繰返しだな。それをリーダーの気質だと言うのなら、損な役回りである。
何時も自分は一歩下がって、思いを律し、意見をよく聞き、調子も帳尻も合わせて、バランスを整えて、仲間と共に目的を果たす。或いは戦友達と共に任務を成功へと導くんだ――この上ない満足感が得られる瞬間。
コイツと、蓮夢と俺は、その領域にまで辿り着けるだろうか。若い頃はそんな不安なんかお構いなしに前へ進めたというのに。今は不安ばかりが過る。
「恐れ入った。ここまで凄い奴だったとはな。改めるよ、是非、手を組ませてくれないか? それと、話し辛い事情を話てくれた事にも感謝するよ。組織には、優れたデバイスを使いこなす天才ハッカー。とでも言っておくよ」
蓮夢の目と表情に穏やかな雰囲気が滲み出て来る。分かり易いヤツだな、それとも、してやったりとでも思っているのだろうか。
「力関係は基本的に、鉄志さんが八、俺は二でいいよ。多くの部分で、鉄志さんの方針や指示に従うけど、俺の分野が重要な場合は逆転してもらう。あとクライアントさんの不利益な事になる様な事は避けてもらうよ」
驚いたな、対等にとは言わず、こちらを上に祭り上げて来るとは、ここぞと言う時の決断以外は俺に委ねると言う訳だ。都合に良いポジションだ。現時点、知る限りでは蓮夢らしいと言えば蓮夢らしいと思えた。
蓮夢の差し出した右手。この右手に応えた瞬間、俺達は相棒と言う関係か。
「六対四の関係でいよう。俺がお前のジャンルに弱いのは事実だからな。出来るだけ、隠し事はなしで頼むよ」
昔の俺ならば、ほとんどの要望を受け入れていただろうけど、今回はその自信がない。こちらの負荷を分かち合ってもらうぞ。
俺は右手で蓮夢に応じる――これでようやく、一歩前進か。
「よろしくね、鉄志さん」
「こちらこそ」
遠回りしてしまったが、ここからどれだけ巻き返せるか。今後どう動くかについて、今からでも話しておきたいところだが、緊張が解けた蓮夢の様子は、明らかな疲労が漂っていた。
髪を掻き上げる仕草に見せかけて、頭部の左側を押さえている。頭痛だろうか。
「疲れたな、お互い……」
「アンタは飲んでただけだろ」返す言葉もない。
ウェイターが皿を片付けるついでにと、蓮夢はウイスキーのロックをダブルで注文していた。しかも、ここぞばかりに高い銘柄の物を。本当に遠慮がないな。
さて、蓮夢と手を組み、具体的にどんな活動をするのか、ハッカーのリサーチに殺し屋がボディーガード以外に役に立つ事なんてあるのだろうか。
六対四の関係であっても、概ね蓮夢が方針を定める事になりそうだな。
今の俺に必要な事は、久し振りの相棒と言える相手。この蓮夢という、一癖も二癖もある男の事を、出来るだけ多く知り、把握する事だろう。
「嫌なら答えなくてもいいが。何故、売春をしているんだ? それだけの能力があれば他にやり様もあると思うんだが」
昨晩からずっとこれが揉め事の種になっている。確かに俺にも非があるが、どうしても理解できなかった。
それでも引き下がらなかった蓮夢の、理由が知りたい。俺達は余りにも、生きてきた道が違い過ぎるから。
蓮夢はしばらく下を向き、言葉を探している様な素振りから、観念したかの様に顔を上げた。
「ずっと、そうやって、生きてきたからだよ……他の生き方を必死に探していた時期だってあったさ。でも抜け出せなかった……弱いって言われれば、否定はしないよ」
蓮夢の表情は憂う事も怒る事もない、静かなものだった。それが自分の普通であると言わしめるか、或いはそう見せかける意図もありそうな、フラットな雰囲気。
「それにハッカーなんて、大して儲からないよ。頻繁に依頼なんか来ないし、一仕事終えるに数週間から一、二ヶ月かかる時だってある。輝紫桜町でHOEやってる方が手っ取り早く稼げる。それに……」
ノートPCを片手でひらひらと振る。確かに、CrackerImpは名が知れている割には、大した情報は得られなかった。それほど多くの依頼はこなしていないのだろう。ハッカーに仕事を依頼すると言う事は、ある程度こちらの情報を渡す事になる。ある種の諸刃の刃だ。
「俺がこんな風になったのは、そもそも死なせたくないって思ってくれた人達の思いがある。悪人にさせる為じゃない。色々考えたよ、それこそ、あちこちの口座から引っこ抜きしたりとか、クラッキングで企業を転ばして、株価をコントロールしたりとか、高性能なソフトウェアを作って売ろうとか……でも、どうシミュレーションしても、最後には必ず足が付く。その時、俺がどんなに金や権力を持っていても、それすらもねじ伏せれる“上”がいるもんだよ“組合”だって、その類いじゃない?」
「そうだな……神とは言わないが、それに近いぐらいの連中はいる」
合点のいく答えだった。常識外れの能力を持っている割に控え目な理由。不安定で感情的になる事もあるが、やはり蓮夢は基本的に、冷静で賢く、強かな性格の様だ。多少捻くれているが、世の中の不条理な現実もしっかり見ている。この手の相手と組めるのなら、互いに達観して同じ歩幅で動けるかもな。
逆に、俺が先行するのも良いかも知れないな。行き過ぎても蓮夢なら的確に止める事が出来るだろう。
「こんな事で、正体がバレたら、俺も博士も破滅だよ。俺に関しては、どんな目に遭うか、脳ミソだけ外されて、どっかのサーバーにでも繋げられるかも。せいぜい誰かさんのお役に立てるぐらいの事しか出来ないよ……それでも十桁いきそうな負債もどうにかしないとならない。出来る事はなんだってやったし、なんでも利用した……」
無限の可能性を手にしていながら、日の目も浴びれず、生き方も変えられないと言うのは、口惜しいのだろうな。それでも腐らずに善意に向く、不器用なまでの直向きさ。それでも愚かしさなんて言葉は似合わない。高潔さすら感じる。
もし俺が蓮夢の立場なら、どうなるかと考えると、とてもじゃないが真似出来ない。どこか逃げ道を探してしまうんだろうな。
ウェイターがオンザロックのグラスを蓮夢に差し出す。アルコール度数六〇を超える希少なバーボンだ。こんな酒を頼むところを見ると結構なバーボン党らしい。
「別に何て事ないよ。昔からずっと身体売ってきたし、昨日のザマで言っても説得力ないかも知れないけど、俺は人とセックスする事自体は好きだよ」
控え目にバーボンを一口飲み、余韻に浸る。昨日散々飲んだが、俺まで飲みたくなってきた。
セックスが好きだなんて恥ずかし気もなく、よく言えるな。単に俺がそう言う話題に対して免疫がないのだろうが。蓮夢にとって、セックスは俺以上に身近なものだと言う事を肝に銘じておかないと、またつまらない事で揉めたり傷つけたりする事になるだろう。蓮夢と会話をするのなら、おそらく避けては通れないが、少々苦手を感じる。異性間ならまだしも、蓮夢の場合は同性間だ。
「昔は大嫌いだった。何でこんなグチャグチャになる事ヤらないといけないんだって……でもどうにかしようなんて力も知恵もなかった。自分自身が、何もかもが汚らわしくて大嫌いだった。輝紫桜町は地獄みたいなとこだよ、俺みたいな野良犬にはおあつらえ向きさ。でも、あの街で知ったんだ。俺は汚れちゃいないって」
眉をひそめ、グラスの中の丸氷を泳がしていた。昔と言うのは言ったどれぐらい前の事なのだろうか。気にもなるが、知りたくもない。或いは知らない方が良い様な気もしてきた。
違法サイボーグと言う壮絶な現状以前に、苦労が絶えない生き方をしてきたのだろうと、雰囲気だけで伝わって来る。
「それからは、何も気にならなくなった。薄っぺらい情と一時の絆、たまに相手の心に触れられた様な感覚に溺れていくだけ……勿論、それ以上に快楽も追及するけどね」
バーボンをくいっと半分ほど飲み、蓮夢は薄い笑みを浮かべていた。
したくもない相手との行為だと言うのに、その中にでも情や絆を見出す。俺には理解できない感情だった。
あの輝紫桜町で何を知り、何を受け入れ、蓮夢は強くなったのだろうか。
「俺はこの通り、超イケてる。あと十年はやれる自信あるぜ。って、そう思っていたんだけどさ……なんか、最近は気が乗らなくて、しかも相手にしたくない苦手な客ばかりに当たる。ホント、ツイてないよ。金も返済して、あともう一息だってのにさ。なんだか……」
急に言葉を詰まらせる。何時も悠長に話す蓮夢にしては珍しく感じる。漂い始める沈黙の間、俺からは特に言う事はなかった。蓮夢はグラスを持つ手を口元に当てて考えているのか躊躇しているのか、動きはなかった。
しばらくして、蓮夢は深い溜息の後で残りのバーボンを飲み干す。
「なんだか、おかしいんだ。身体と心が追い付かなくなってきてる様な感じがしてさ、昔ならあれぐらい泣けばスッキリして仕切り直せたのに、今はなんだかズルズルと引きづってさ……」
左手で頭を抱えて蓮夢は項垂れる。蓮夢にとっては今の自分の状態と言うのが説明が付かず、釈然としない日々が続いているらしい。こんな精神状態で、大企業とその裏に潜んでいる、国際レベルの犯罪組織を相手にしていたとは。
風前の灯火だ。数回会って話しただけでは気付けなかったが、遅かれ早かれ、蓮夢は自分の背負っているもので潰されていただろう。
「強くなる以外の理由しか残されてないのに、どんどん弱くなっていく……ホント、笑っちゃうよね」
何か言葉をかけてやるべきなのか、その言葉を拾い集めてた最中、蓮夢と目が合う。何を思っているのか、大きく目を見開いて、ハッとした様な表情をしていた。
その表情の意図が分からず怪訝そうにしてると、蓮夢の表情が徐々に歪み、次の瞬間には、頭と腹を抱えて笑い出した。
「ちょっと待って、なんで? なんで俺、こんな、ベラベラと喋っちゃったんだろう。それこそ、鉄志さんにはどうでもいい事じゃん。嗚呼、おかしい、バッカみたい……」
突然の事だったので、こっちも訳が分からなかったが、どこか自虐的で無邪気に笑っている蓮夢を見て、理解した――相当、独りで溜め込んでいたらしい。
「ごめんね、愚痴っぽくて……」
「いや……別に構わないよ」
蓮夢の事が少し分かってきた。混沌と言うよりも複雑と言う言葉が似合う奴だ。
本当の意味で理解するのは難しいかも知れないが、俺の中で蓮夢と上手くやっていけそうな気がしてきた。
大丈夫、少しばかり手のかかる相棒だが、過去の経験を活かせそうだ。
「でも、ありがとう、聞いてくれて。ちょっとスッキリしたかも……確かに少し疲れたかな。ご馳走さま、また連絡して」
蓮夢は腰を上げ、椅子に掛けた上着を掴んでその場を去ろうとした。
「張り詰めた糸が切れたんだ……」
不意に言葉が漏れた。何か言ってやらないと、そう思っていたものが無意識に零れ落ちた。
「俺の経験でしか話せないが、人間なんて、それなりの理由や意味があれば、大概の事はやれるし、耐えられるものだ。戦争がそれを証明してる」
考えも纏まっていない言葉が次々に出てくる。こういう時は、飾り気のない本心しか話せなくなるものだ。
不本意だが、このまま話すしかなかった。
「どれぐらい耐えれるかなんて、個人差に過ぎないが、必ず消耗していく。消耗しない奴は正気じゃない。耐え抜く理由を失ったら、モロにくらうだけだ。強いとか弱いとか、そう言う考えは持たない方がいい」
蓮夢が俺を見つめているのが分かっていたが、俺は視線を蓮夢には移さずに何となく下を見ていた。
強い、弱い。無力さに打ちのめされて虚無感が支配する感覚。その大半の原因を生み出しているのは決まって――他人の理屈と価値観だ。
「そんな時、どうすればいいの?」
「どうにもならないからクソな世の中なんだろ? 進むしかないだろ……」
手持ち無沙汰に耐え兼ね、煙草の箱に手を伸ばした。幸いにも一本残っている。
「鉄志さんにも優しいとこ、あるんだね」
テーブルに手を置き、ほんの少し覗き込む様に蓮夢はこちらを見ているが、俺は視線は変える事なく煙草に火を着けた。
「相棒になるなら、精神面のフォローもするだけだ。優しさじゃない」
「それでも、やっと鉄志さんの心が見えた気がするよ。俺、惚れちゃうかも……」
心か、そんなものが、今の世界の人間なんかに存在しているのかどうかも、俺は怪しいと思っているのが本心だが、後の部分も含めて、蓮夢の言葉は受け流しておく。基本的には懐かれている。
とりあえず目線を上げると、案の定、蓮夢の表情は明るさが戻り、穏やかに笑みを浮かべていた。
「三日後、アクアセンタービルで落ち合う。それでいいな?」
「二日後だよ、ケツが重たいなら蹴り上げちゃいな」
蓮夢に言わせれば、明日にでもと言いたいのだろうが、妥協してやったと言う所か。カウンター前に立っているオーナーに、軽い挨拶をして蓮夢は去って行った。
今日中に河原崎とイワンに会って、言いくるめる。そして明日までに、今後の準備を済ませればいい。何とかなるだろう。
椅子に深く凭れ、咥え煙草から天井の向けて煙草の煙を飛ばす。もう一度、深く吸い込んで天井へ煙を吐き出した。
随分前から、単独行動に嫌気がさしていた。殺し屋という仕事そのものが、自分に向いているのかどうかを、何時も考えていたが、こんな形で相棒を獲得する事になるとは。
気負いがないと言えば嘘になるが、俺は今は少しばかり――高揚していた。
輝紫桜町のポルノデーモン。腕利きのハッカーCrackerImp。違法サイボーグの蓮夢、か。
さて、どうなるなるものか。おもしろそうな相棒に、手強い敵。まるで先が読めないが、先に進めそうな予感はする。
独りじゃ無理な事でも、二人なら、仲間がいれば、必ず乗り越えて行ける事を――俺はまだ覚えていた。