残酷な描写あり
R-15
7.― DOUBLE KILLER ―
7.― DOUBLE KILLER ―
美味い酒を飲めても、一眠りもすれば失せてしまう。しかも、目覚めは相変わらず最悪だった。自分の呻き声で目が覚めるのなら世話ない。
年々、眠ると言う行為が重労働になってきてる。悪い夢にうなされ、音と光に敏感になり、寝ているのか起きてるのか、或いは休息を取らねばと言う強迫観念。
日本に帰ってきて、十年。まともに眠れた試しは一度もなかった。
限界まで倒した助手席のシートから身体を起こし、携帯の画面を開くと時刻は八時を過ぎた辺り。雨は霧雨になっていた。
あれから出直すと言う気にもなれなかったので、輝紫桜町で飲み明かしていた。
これだけ長く、この大歓楽街で時間を過ごしたのは初めてだった。BARを二軒ほど梯子し、街の雰囲気を眺めていた。
この街は活気に溢れているが、その裏では、見えない何かで繋がり合っている様な。そんな気配と視線を常に感じた。
蓮夢の話を聞いたから余計に気になるのか、一般人に紛れ込む、ギャングにヤクザ。店やキャッチ、セックスワーカーと、常にアイコンタクトをとり合っているかの様な、ヒリヒリとした異様な連帯感。
この街に住む者と、外から来る者の間には、見えない壁が確かに存在している様に思えた。
車から降りて軽い背伸びをする。有料駐車場から四車線の道路の先にある、輝紫桜町の正門を見据えた。通勤ラッシュで車道はやや渋滞している。
車の中に置いてある携帯のバイブレーションが疎ましく震える。予定通りだな。
携帯を見ると案の定、蓮夢からのメールだった。終わって待ってる。と、簡単な内容のメッセージが入っていた。当たり前の様に連絡をしてくれる。
奴にハッキングされた携帯端末は、その日の内に破棄した。一方的に送られたアドレスのみ引き継いで。
この携帯端末は“組合”の支給品で、特殊なプロテクトが施されているのに、蓮夢はあっさりと突破して情報を手に入れた。それも、そんな素振りは一切見せる事なく侵入して、自由に奪える状況にしていた。
一体、どんなからくりは分からないが、あの男には相当なスキルがある事は間違いない。なのに、何故――あんな惨めな生き方をしているのか。
昨晩の蓮夢の顔と姿は、自分自身を売り物にしていると言う様を、まざまざと見せ付けていた。情報で散々分かり切っていた事だったのに、輝紫桜町の男娼である事に衝撃を受けた。
後の祭りだが、俺も横暴だったかも知れない。そもそも、何を警戒しているのか、何を過敏に反応しているのか。蓮夢が自分の人生の中において、決して関わる事のないタイプの人間でありながら、深く関わって来る事に戸惑っていた。それが態度に出過ぎてしまった。
戸惑うばかりだ。男があんな風に涙を溜めて、弱々しく睨んで来るものなのか。月並みの弱音や泣き言なら、突っぱねるところだが、その時の蓮夢の姿に何も言えなかった。
セックスワーカーや同性愛者に偏見や差別などは持っていなかったが、同時に関心もなかった。それは結局のところ、その辺の連中の偏見が俺の基準になっている――俺は蓮夢を差別していた。
これでは初っ端から躓いてしまって当然の結果だ。
門を超え、すぐにある右側の裏路地に視線を移す。暗がりに目が慣れると同時に蓮夢の姿を確認できた。
昨晩と変わらず、はだけた黒のスカジャンからは、肩や背中を大きく露出させていたが、すこし乱れていた。ブリキのゴミバケツに腰を下ろして、今にも崩れてしまいそうな程、深く項垂れていた。それを支えている左手は髪を乱し表情は伺えない。右手に持つ煙草はほとんど吸われる事なく、か細く燃えていた。誰の目から見ても憔悴し切った姿だ。
近づく足音にビクリと反応して、蓮夢は僅かに顔を上げる。暗がりで表情は良く見えない。
「随分、早いね」
ほんの僅かだけ顔を上げ、深い溜息の後にか細い声が漏れた。悪ガキの様な不敵な笑み、妖艶な視線、強かで合理的な思考。これまでの蓮夢の印象からは、かなりかけ離れいた。
「街で飲んでた。意外に良いBARが多いな、此処は」
「古い街だからね……それで、話って何?」
輝紫桜町への評価が、少しばかり上がったのは事実だった。たまたま当たりを引けたのか、適当に選んだ二軒のBARは、どちらとも雰囲気も良く、酒の豊富さも申し分なかった。古い街、つまりは手堅い老舗が多いと言う事だ。
煙草を吸い一筋吐いてから、蓮夢は腰を上げた。少しよろめきながら近づいて来る。俯いた顔が明るみに出た時、唖然とした。
「お前、顔どうした?」
「別に、どうもしないよ……」
疎ましそうに顔を横に逸らした。蓮夢の目元や頬は青アザと切れた唇。首筋には指の形がはっきりしていた。
荒っぽくキレ易い客だとは言っていたが、これは度を越していた。
俺は蓮夢のいる世界に理解もないし、知りもしないが、金で買った売られたの関係でも、超えてはならない一線ぐらいはある筈だ。
こんな目に遭いながらも、蓮夢は一晩、そんな奴の相手をしていたと言うのか。
「元々、気が乗らない相手だったけど、モロに顔に出して、このザマさ……プロ失格だよね……」
咥え煙草から吐き出される煙は、ウンザリとした様な溜息が混じっていた。こんな目に遭って、なぜ自分を責めているのか。俺には理解できない。
ふと気付くと、蓮夢の左目が俺を鈍く睨み付けていた。恨めしくも非力で、卑屈さに満ちた暗紫色の赤目。
「ホント、心の見えない人だね。何が言いたいの? 軽蔑? 同情? それともお門違いな責任でも感じてる訳? どれも薄っぺらいね……」
蓮夢は足元に煙草を叩き付けた。飛び散った火の粉は雨に濡れる地面に一瞬で消え失せる。
確かに、蓮夢の言う様な幾つかの感情は、少なからず持っていた。そんな義理はないが、上手い具合に蓮夢に売春をさせずに俺の都合に付き合わせていれば、こんなにボロボロになる事はなかった。
やはり対応の仕方を誤っていたのか、鼻持ちならない奴だが、必要以上に威迫して蔑んで、優位な位置を保つ必要はなかったのかもしれない。
俺の本心は今、後悔が過っていた。
「何故、そこまでする? 腕の良いハッカーなのに、他に選べる道だってある筈だろ」
「他の道……。ねぇ? 鉄志さんはどうして、殺し屋なんてやってるのさ……人殺しが好きだから? それとも、射撃のスキルを活かしたいから?」
迂闊だった。蓮夢に問い詰められる隙を作ってしまった。お互い生きてる世界が違い過ぎる。
理解できない事を考えもなく、何も知らないくせに勝手な事を言うな。とでも言いたいのだろう。
「なぁ、言えよ。それとも、また力で俺を押さえ付けて、自分はだんまりを決め込む気かよ?」
蓮夢は昨晩と同じ様に、両手で胸倉を掴んで来たが、その手は弱々しく、僅かに震えていた。俺に掴みかかっても、返り討ちに合うと分かっている筈なのに。
そう、答えてやる必要なんてない。ちょっと捻るだけであっさり突飛ばせる。しかし、今回ばかりはそんな気分になれなかった。
つくづく思う、この蓮夢と言う男、本当に扱いに困る奴だ。
「俺には、それしか道がなかったからだ……」
勢い任せで答えたが、これはきっと、嘘だ。
今、俺が殺し屋でいる事も、傭兵だった事も、そもそも“組合”と言う組織にいる事も。全ては俺の――無責任さ故だ。
それを、この場で蓮夢に話す様な事じゃない。ましてや、理解などされる事もないだろう。
「俺だって同じだよ、ずっとそうやって生きてきた。それしか方法がなかった。親も選べない、生き方も選べない。どうすりゃいいんだよ! 捨てられて、踏み付けられて、玩具にされて、死に損なって……ただ、独りで……」
蓮夢は項垂れ崩れる様に寄り掛かって来る。今まで蓄積させた感情が思わず爆発してしまった様に見えた。俺が知る筈もない過去の話が噴き出していた。
「こんな姿、見られたくなかったよ……」
フラフラと背を向けて、壁に寄り掛かる。項垂れる額を片手で支え、凍える身体を窄めて小さく震えていた。
必死そうに声を殺し、むせび泣いている後ろ姿を見ていると、二つの感情が俺の中で犇めく。泣かせしまったと言う罪悪感と、男のくせにと呆れる感情が相変わらず存在していた。
その理屈を当てはめる事自体が、蓮夢を見る目を曇らせているのかも知れないのに。
「おい……」
「うるさい! 見るな!」
気付くと、蓮夢に向かって腕が伸びかけていた。一体何をする気だったんだ。肩に手でも添えて、慰めてやるとでも。
俺は何を狼狽えているのだ。綯い交ぜなる感情。小さく、むせび泣いている蓮夢の姿に釘付けになり、動けなくなっていた。
「ごめん、十分したら行くから……」
「門の外で待ってる」
こんな状況では話なんて出来たものじゃない。蓮夢が落ち着くまで、待つしかなさそうだ。裏路地を抜け、門の外へ出る。
輝紫桜町の外は、まだまだ通勤ラッシュの真っ只中だった。これからあの格好の男と駐車場まで歩くのかと思うと、気が滅入るな。
近くにある自販機の側で煙草に火を着ける。とにかく、俺も落ち着かないと。
さて、どう接するのが正解なのか。蓮夢の様なタイプの人間は初めてだ。いや、そう言う考え方がそもそも間違いなのか。それでも、どうしても特殊な目で見てしまう。中性的、同性愛者、セックスワーカー。余計な情報が先走る。
単独任務の殺し屋が自分に向いているかどうか、ずっと悩んでいたが、今は独りの方が楽だと心底思えた。
このままじゃいけない。昔の様に一人一人の仲間をよく見て受け入れていた、あの頃の感覚を思い出さねば。
「ごめん……」
少しは落ち着いた様子だが、明るみに出た蓮夢の姿は、更に酷い有様だった。
化粧の乱れに、よく見ると身体にも数ヶ所、痣ができてた。あの痣は足蹴にでもしないと出来ないレベルだ。
蓮夢の相手した客は一体どんな性癖なんだ。羽振りの良い奴など、大概が横柄な者だが、これは度を越している。
俺にも非はある、それは認める。蓮夢と高々、一時間少々の話しができれば済む事なのに。この客も余計な事をしてくれる。無駄な遠回りだ、殺意が沸いてくる。
蓮夢は相変わらず俯き気味に顔を逸らしている。自販機に携帯をかざし、缶コーヒーを一つ買って、蓮夢に投げ渡した。
「お疲れさん」
「随分と甘ったるいヤツを……」
不満気に眉をひそめていた。練乳をブレンドした、おそろしく甘ったるい缶コーヒーだった。俺も数年前に試して後悔した記憶がある。それでもロングセラーな商品でファンは多いらしい。
「甘いものは気持ちを落ち着ける」
「そうだね……」
蓮夢の顔に笑みが浮かぶ。何かを思い出したかの様な懐かしむ雰囲気に後、缶コーヒーを数秒で一気に飲み干し、深呼吸をした。目の前にあるリサイクルボックスなどお構いなしに、空き缶を放り捨てる。行儀が悪い。
「悪かった、無礼は詫びる。仕切り直してもらえるか?」
蓮夢の傍へ行くと、蓮夢は一瞬ビクリと反応して、気まずそうに上目遣いで俺と目を合わせる。
この謝罪は一〇〇パーセントではないが、今は蓮夢に合わせる事を優先する。
そうだ、先ずは会話を続ける。そして観察するんだ。相手の事を知れば、自ずと自分と相手の落とし処が見つかる。昔、俺はそれが得意だった。
「そうだよね。こんな事してても、時間の無駄だ。でも悪いけど、話をするなら何処か飯食えるとこでもいいかな? もう二日ぐらいロクに飯食ってなくてさ。すぐそこに安い大衆食堂があるんだけど、そこでもいいかな?」
蓮夢もまた一〇〇パーセントではないが、謝罪を受け取ってくれた様だった。それにしても、食うのも困るぐらいの金欠なのか。ここに来て、緊張感が一気に抜ける提案だった。
「そんな所で話す気はない。来い、もっとマシなとこに連れて行ってやる」
予定変更だ。しかし、今回ばかりは蓮夢のペースに合わせてやろう。
「お久し振りですね。鉄志さん」
レストランオーナー自ら、淹れ立ての珈琲と灰皿を持ってきてくれた。中央区にある四つ星ホテル、“宮”の最上階にあるレストランバーは、何時訪れても気持ちがよかった。
白を基調としたバロック調の内装ながら、開放的な空間は、古いものと新しいもの対照的な雰囲気を織り交ぜて、絶妙な調和を保っている。数年前に利用して以来になるが、また一段と磨きがかかっていた。
「すまないな、また勝手を頼んで」
「いえいえ、お構いなく」
蓮夢は此処に来るまでの車中、車の席が狭い、エンジン音がうるさいと、始終毒を吐き、レストランに着いてからは化粧を落とすと言って、トイレに行ったきりである。
厚底ブーツの遠慮のない足音が近付いて来る。かれこれ二十分は経過していた。
「悪いね、来て早々。それにしても高そうな店……しかも開店前に。鉄志さんってセレブなの?」
投げる様にスカジャンを椅子に掛けた。黒いスカジャンの背中の刺繍は妖艶なポージングの真っ赤な悪魔がシルエットだった。
トイレから戻って来た蓮夢の顔は痛々しい痣こそあるが、化粧を落とし小ざっぱりしていた。
声の感じからすると、大分落ち着いた様に見える。まだ数回程だが、何時もの調子に戻った様に思えた。
「オーナーと知り合いなんだ。融通を利かせてもらっただけだよ。それより、それどうした?」
「別に、“元気の前借り”ってヤツさ。煙草もらうよ、切らしちゃって」
すぐに目についた。右腕の浮き出た血管部分に貼られた絆創膏。ガーゼの部分は既に真っ赤な血で滲んでいる。目も少し虚ろだった。
蓮夢の口振りからすると、おそらく覚醒剤の類いだろう。
「感心しないな……」
「仕方ないだろ、疲れてるんだ。説教でもする気かい? パパ」
俺の煙草とライターを手にしながら、蓮夢は席へ座る。挑発的でふてぶてしい。
「雄也って客でね、どっかの土建屋の二代目でさ。二十歳そこそこで親父から会社を継いだヤツなんだ。世間体を気にして結婚して子供もいたけど、仕事の重圧とかセクシュアルのストレスなんかでDVやらかして離婚した。それからは俺が捌け口って訳さ。ずっと避けてきたけど、捕まっちゃった……二十五のガキに殴られても逆らえない、三十二のHOE。こんなもんだよね、人生なんて……って、鉄志さんに話したって、何の意味もないんだけどね。なんか調子狂うんだよね、鉄志さんと話しているとさ」
ころころと雰囲気を変えてみせる。俯き気味に、卑屈そうな薄ら笑みを浮かべていた。
嫌な客と言う割に随分詳しいが、二十五のガキにか。考えただけでも、確かに心に堪えるものがある。俺の気質なら耐えられない。
蓮夢には常々、相手を手玉に取って、会話をコントロールするのが上手いヤツだが、意外にも話していて調子が狂うのはお互い様らしい――まだ腹の探り合いか
とは言え、やる事は変わらない。事を進めていくだけだ。メニュー表を蓮夢の元へ差し出した。
「好きなもの頼め、奢るよ」
「マジで! いいの? 悪いけど貧乏人はこう言う時、遠慮しないよ」
急に目の色をキラキラさせて、卑屈な物言いとは真逆に無邪気な笑み見せた。単純なのか、がめついのか。
「それじゃ、今すぐビール欲しい、で、飯はねぇ、リブロースの四〇〇グラムをレアで、ライスは大盛りでね。ワインは安いのでいいよ。あと、お味噌汁ってないかな?」
オーナーを呼び、スラスラと注文を付けてる。朝なのに随分重たい食事だなと思うが、相当、腹が空いてるらしい。まさに仕事上がりの食事と言ったところだ。大盛りを注文したり、そう言う所はしっかり男なんだなと感じる。
「メニューにはありませんが、作らせましょう」
「ありがと」
オーナーには視線で詫びておくが、裏表のない笑顔をしていた。この店にしたのは正解だった。元々、こういう用途で利用するとこだが、こう言う時は自分の待遇に、ありがたみを感じた。
蓮夢は早々と根元まで吸い尽くした煙草を灰皿に押し付けた。少しの間、沈黙が続いた。
「俺のいる組織について、どこまで知っている?」
「基本的な事ぐらいは、それ以外は興味ないよ。どらにせよ、対立よりも協力がベター。リスク高いけど、俺にはもうそれしか手がない」
確かに興味はなさそうだ。目付きで直ぐに分かった。だとしても“組合”の人間相手に協力を提案するのは大胆だ。
話を続けたったが、ウェイターが蓮夢にビールを渡していた。
「かと言って俺も何も考えていない訳じゃない。もし“組合”に危険を感じれば、刺し違えるぐらいの事は必ずしてやるよ」
蓮夢は手にしたビールを、一気に飲み干した。大きく出たな、抵抗する意思を見せてくるとは。
本当に対抗できると、思っているのだろうか。いや、おそらくその為の選択肢は持ってるのだろう。ここに来て、つまらないハッタリを使うとも思えない。
「俺はお前と手を組みたいと思ってる。これは組織の意向じゃない。それを提案し、掛け合っていた。外部から人を雇うのを好まない組織なんでね。言い訳になるが、それで三日かかった」
予想していた通り、蓮夢の意思は固い。“組合”に対する警戒心も、相当強かった。本来なら、明確に主従関係を作るべきだが、それでは話を進まない。
やはり、俺の舵取りにかかっている。折れるところは折れた方がよさそうだ。
「この三日で“組合”はお前の事を調べ上げた。CrackerImpだけじゃない。ポルノデーモンについてもな」
「何処の組織もケツが重たいらしいね」
反論したいが、残念ながら事実だ。個人活動の蓮夢には分かるまい。
当然、イワンは反対した。それどころか、蓮夢を口封じすべきだと言った。それが正式な命令となる寸前のところで、河原崎と秋澄が蓮夢の事を調べ、まずは交渉すると言うところにまで漕ぎ着けたのだ。
蓮夢には分からないだろうが、かなりギリギリな状況である。
携帯端末に入っている情報を開いた。
「CrackerImpは、ここ二年の間で名が売れてきてる様だな。確かに派手な噂はないが、手堅い仕事振りだと評判にはなってる。ロシアや中国の軍事衛星をハッキングして破壊したのがCrackerImpじゃないかと言う噂もあるな」
「あぁ、アレね。大した事じゃないよ。たまたま、それができる場にいただけ。月並みのハッカーでも、同じ条件ならできる事だよ」
その時を思い出してか、蓮夢は少々苦笑いを浮かべていた。隠す気もなくさらりと認めた。どんな理由があってそんな事をしたのか。
ただ、この事でロシアも中国も大きく騒いでいないのは、何かしら、やましい事が両国にあるのだろう。
「幾つかのサイバーテロ組織からも誘いが来てるそうだが、全て蹴ってる。それは何故だ?」
「興味ないね、俺はローンウルフ。三流ハッカーと群れるなんてダルい」
この情報を知った時は、なんとなく、蓮夢らしいなと思えた。そして今の言葉にもらしさがあった。
荒んだ環境に生きているにも拘らず、蓮夢の行動理念には――気高さがある。
正義と言う言葉を使えば陳腐になるが、良心と呼ばれるものに対して、正面から向き合える様な精神だ。
俺にはまるで縁のないもの。それ故に新鮮味がある。
「今から七年前、輝紫桜町のほぼ全ての事業を牛耳っていた亜細亜系マフィア通称“ナバン”に所属してた男娼。“ポルノスターよりもハマるポルノデーモン”この辺は省略してもいいか……」
一通り読み上げているが、この辺りの情報は無用だ。やはり“ナバン”と言う言葉に蓮夢の表情は一瞬で強張る。
分かっている限りの情報だけでも、蓮夢はこの組織の中で――商品の様な扱いを受けている。
その心情は俺には察する事は出来ない。
「別に省略しなくもいいよ……実際、昨日の鉄志さんだって、俺をそう言う目で見てたし」
耳が痛い。確かに今でも、そんな感情は少なからず持っていたが、どうしようもない事もある。俺にもそう言う経験はあった。
それを棚に上げて、蓮夢に接した結果が昨晩から今にかけての無様な展開だ。それでも、この話は続けるしかない。
「抗争の後“ナバン”が撤退してからも、街で男娼を続けている。しかも、輝紫桜町の全ての組織から、黙認と言う形でフリーでの活動が許されている。輝紫桜町の表でも裏でも顔が利き、重度の薬物中毒、複数の偽造IDを持ち、街で起きるトラブルの類いに、頻繁に首を突っ込みたがる混沌とした思考の持ち主。適正な人材には程遠い。これが“組合”の結論だ」
一通り話終えて、煙草を手に取る。通過儀礼の様なものだが、他人から自分の過去を話されるのは、決して気分の良いものじゃない事は分かっている。
「勝手にあれこれと、ほじった挙句、不合格通知って……。随分、エゲつないプレイだね。胸糞悪いよ」
蓮夢は椅子に深くふんぞり返る様に凭れる。黒いデニムのポケットに手を突っ込み、チンピラの風体そのものだった。もっとも、こんな美形のチンピラも中々いないだろうが。
脚を大きく開かれると、裂けた部分から肌が大きく見える。反射的に目が行ってしまうのが疎ましい。
「こっちも仕事なんでね、でも話は終いまで聞け。それでも俺は、お前と組むべきだと思ってる。俺は他人の評価や前評判は真に受けない。何時でも自分の目で、相手を見極める」
人間なんて、一癖、二癖あって当然な生き物だ。でも時として、それが強みになる事もある。それ知った上で最大限のパフォーマンスを発揮させるのが俺の役目だ。
“組合”が調べたもの。これまでの蓮夢との会話で見えてきた本質。蓮夢はこの一件に不相応ではない。
「お前の腕が良いのは確かだ、俺の携帯の情報を何時の間にか盗んだ。あの夜、警察のオートマタを操って脱出しようとしてた。アレもお前がハッキングしていたんだろ? 罠と分かっていながら、林組の土俵に乗り込んで渡り合ってる。これだけでも、充分な行動力だ。それに……」
珈琲を一口飲み、一息いれる。ブルーマウンテンだろうか。香りも味もよく整っていた。
「トラブルに首を突っ込む質だと言うが、そのトラブルを解決してるんじゃないのか? 街で顔が利くのも、そう言う事の積み重ねだし、実際お前は頭の回転が速い。洞察力もあるし、機転も利く。優秀な筈だ」
「聞こえの良い言葉ばかり……嬉しいけど、それを一言で“姑息”って言うんだぜ、輝紫桜町のHOEの必須事項さ」
姑息ではない。強かさだと俺は思っている。誉められたなら、素直に喜べばいいものを。
蓮夢は窓の先の景色を眺めながら複雑な表情をしている。素直じゃないな。
「何にせよ、お前も俺と組みたいと思っているのなら、もう一押し欲しい。お前にはその辺のハッカーには出来ない事が出来る。タネと仕掛けがあると言ったな。それを見せてくれ。それが申し分ないものと証明できれば、俺は組織の意見を無視してお前と手を組む。悪い様にはしないと約束するよ」
蓮夢は顔を背けたまま、暗紫色の左目だけは俺を見据えている。態度の悪い姿勢は変えず、顔を向けたかと思えば、今度は天井を見つめながら前髪を掻き上げて溜息を一つして俯いた。
これが俺達の第一歩となる。お前の手札を見せてみろCrackerImp。
美味い酒を飲めても、一眠りもすれば失せてしまう。しかも、目覚めは相変わらず最悪だった。自分の呻き声で目が覚めるのなら世話ない。
年々、眠ると言う行為が重労働になってきてる。悪い夢にうなされ、音と光に敏感になり、寝ているのか起きてるのか、或いは休息を取らねばと言う強迫観念。
日本に帰ってきて、十年。まともに眠れた試しは一度もなかった。
限界まで倒した助手席のシートから身体を起こし、携帯の画面を開くと時刻は八時を過ぎた辺り。雨は霧雨になっていた。
あれから出直すと言う気にもなれなかったので、輝紫桜町で飲み明かしていた。
これだけ長く、この大歓楽街で時間を過ごしたのは初めてだった。BARを二軒ほど梯子し、街の雰囲気を眺めていた。
この街は活気に溢れているが、その裏では、見えない何かで繋がり合っている様な。そんな気配と視線を常に感じた。
蓮夢の話を聞いたから余計に気になるのか、一般人に紛れ込む、ギャングにヤクザ。店やキャッチ、セックスワーカーと、常にアイコンタクトをとり合っているかの様な、ヒリヒリとした異様な連帯感。
この街に住む者と、外から来る者の間には、見えない壁が確かに存在している様に思えた。
車から降りて軽い背伸びをする。有料駐車場から四車線の道路の先にある、輝紫桜町の正門を見据えた。通勤ラッシュで車道はやや渋滞している。
車の中に置いてある携帯のバイブレーションが疎ましく震える。予定通りだな。
携帯を見ると案の定、蓮夢からのメールだった。終わって待ってる。と、簡単な内容のメッセージが入っていた。当たり前の様に連絡をしてくれる。
奴にハッキングされた携帯端末は、その日の内に破棄した。一方的に送られたアドレスのみ引き継いで。
この携帯端末は“組合”の支給品で、特殊なプロテクトが施されているのに、蓮夢はあっさりと突破して情報を手に入れた。それも、そんな素振りは一切見せる事なく侵入して、自由に奪える状況にしていた。
一体、どんなからくりは分からないが、あの男には相当なスキルがある事は間違いない。なのに、何故――あんな惨めな生き方をしているのか。
昨晩の蓮夢の顔と姿は、自分自身を売り物にしていると言う様を、まざまざと見せ付けていた。情報で散々分かり切っていた事だったのに、輝紫桜町の男娼である事に衝撃を受けた。
後の祭りだが、俺も横暴だったかも知れない。そもそも、何を警戒しているのか、何を過敏に反応しているのか。蓮夢が自分の人生の中において、決して関わる事のないタイプの人間でありながら、深く関わって来る事に戸惑っていた。それが態度に出過ぎてしまった。
戸惑うばかりだ。男があんな風に涙を溜めて、弱々しく睨んで来るものなのか。月並みの弱音や泣き言なら、突っぱねるところだが、その時の蓮夢の姿に何も言えなかった。
セックスワーカーや同性愛者に偏見や差別などは持っていなかったが、同時に関心もなかった。それは結局のところ、その辺の連中の偏見が俺の基準になっている――俺は蓮夢を差別していた。
これでは初っ端から躓いてしまって当然の結果だ。
門を超え、すぐにある右側の裏路地に視線を移す。暗がりに目が慣れると同時に蓮夢の姿を確認できた。
昨晩と変わらず、はだけた黒のスカジャンからは、肩や背中を大きく露出させていたが、すこし乱れていた。ブリキのゴミバケツに腰を下ろして、今にも崩れてしまいそうな程、深く項垂れていた。それを支えている左手は髪を乱し表情は伺えない。右手に持つ煙草はほとんど吸われる事なく、か細く燃えていた。誰の目から見ても憔悴し切った姿だ。
近づく足音にビクリと反応して、蓮夢は僅かに顔を上げる。暗がりで表情は良く見えない。
「随分、早いね」
ほんの僅かだけ顔を上げ、深い溜息の後にか細い声が漏れた。悪ガキの様な不敵な笑み、妖艶な視線、強かで合理的な思考。これまでの蓮夢の印象からは、かなりかけ離れいた。
「街で飲んでた。意外に良いBARが多いな、此処は」
「古い街だからね……それで、話って何?」
輝紫桜町への評価が、少しばかり上がったのは事実だった。たまたま当たりを引けたのか、適当に選んだ二軒のBARは、どちらとも雰囲気も良く、酒の豊富さも申し分なかった。古い街、つまりは手堅い老舗が多いと言う事だ。
煙草を吸い一筋吐いてから、蓮夢は腰を上げた。少しよろめきながら近づいて来る。俯いた顔が明るみに出た時、唖然とした。
「お前、顔どうした?」
「別に、どうもしないよ……」
疎ましそうに顔を横に逸らした。蓮夢の目元や頬は青アザと切れた唇。首筋には指の形がはっきりしていた。
荒っぽくキレ易い客だとは言っていたが、これは度を越していた。
俺は蓮夢のいる世界に理解もないし、知りもしないが、金で買った売られたの関係でも、超えてはならない一線ぐらいはある筈だ。
こんな目に遭いながらも、蓮夢は一晩、そんな奴の相手をしていたと言うのか。
「元々、気が乗らない相手だったけど、モロに顔に出して、このザマさ……プロ失格だよね……」
咥え煙草から吐き出される煙は、ウンザリとした様な溜息が混じっていた。こんな目に遭って、なぜ自分を責めているのか。俺には理解できない。
ふと気付くと、蓮夢の左目が俺を鈍く睨み付けていた。恨めしくも非力で、卑屈さに満ちた暗紫色の赤目。
「ホント、心の見えない人だね。何が言いたいの? 軽蔑? 同情? それともお門違いな責任でも感じてる訳? どれも薄っぺらいね……」
蓮夢は足元に煙草を叩き付けた。飛び散った火の粉は雨に濡れる地面に一瞬で消え失せる。
確かに、蓮夢の言う様な幾つかの感情は、少なからず持っていた。そんな義理はないが、上手い具合に蓮夢に売春をさせずに俺の都合に付き合わせていれば、こんなにボロボロになる事はなかった。
やはり対応の仕方を誤っていたのか、鼻持ちならない奴だが、必要以上に威迫して蔑んで、優位な位置を保つ必要はなかったのかもしれない。
俺の本心は今、後悔が過っていた。
「何故、そこまでする? 腕の良いハッカーなのに、他に選べる道だってある筈だろ」
「他の道……。ねぇ? 鉄志さんはどうして、殺し屋なんてやってるのさ……人殺しが好きだから? それとも、射撃のスキルを活かしたいから?」
迂闊だった。蓮夢に問い詰められる隙を作ってしまった。お互い生きてる世界が違い過ぎる。
理解できない事を考えもなく、何も知らないくせに勝手な事を言うな。とでも言いたいのだろう。
「なぁ、言えよ。それとも、また力で俺を押さえ付けて、自分はだんまりを決め込む気かよ?」
蓮夢は昨晩と同じ様に、両手で胸倉を掴んで来たが、その手は弱々しく、僅かに震えていた。俺に掴みかかっても、返り討ちに合うと分かっている筈なのに。
そう、答えてやる必要なんてない。ちょっと捻るだけであっさり突飛ばせる。しかし、今回ばかりはそんな気分になれなかった。
つくづく思う、この蓮夢と言う男、本当に扱いに困る奴だ。
「俺には、それしか道がなかったからだ……」
勢い任せで答えたが、これはきっと、嘘だ。
今、俺が殺し屋でいる事も、傭兵だった事も、そもそも“組合”と言う組織にいる事も。全ては俺の――無責任さ故だ。
それを、この場で蓮夢に話す様な事じゃない。ましてや、理解などされる事もないだろう。
「俺だって同じだよ、ずっとそうやって生きてきた。それしか方法がなかった。親も選べない、生き方も選べない。どうすりゃいいんだよ! 捨てられて、踏み付けられて、玩具にされて、死に損なって……ただ、独りで……」
蓮夢は項垂れ崩れる様に寄り掛かって来る。今まで蓄積させた感情が思わず爆発してしまった様に見えた。俺が知る筈もない過去の話が噴き出していた。
「こんな姿、見られたくなかったよ……」
フラフラと背を向けて、壁に寄り掛かる。項垂れる額を片手で支え、凍える身体を窄めて小さく震えていた。
必死そうに声を殺し、むせび泣いている後ろ姿を見ていると、二つの感情が俺の中で犇めく。泣かせしまったと言う罪悪感と、男のくせにと呆れる感情が相変わらず存在していた。
その理屈を当てはめる事自体が、蓮夢を見る目を曇らせているのかも知れないのに。
「おい……」
「うるさい! 見るな!」
気付くと、蓮夢に向かって腕が伸びかけていた。一体何をする気だったんだ。肩に手でも添えて、慰めてやるとでも。
俺は何を狼狽えているのだ。綯い交ぜなる感情。小さく、むせび泣いている蓮夢の姿に釘付けになり、動けなくなっていた。
「ごめん、十分したら行くから……」
「門の外で待ってる」
こんな状況では話なんて出来たものじゃない。蓮夢が落ち着くまで、待つしかなさそうだ。裏路地を抜け、門の外へ出る。
輝紫桜町の外は、まだまだ通勤ラッシュの真っ只中だった。これからあの格好の男と駐車場まで歩くのかと思うと、気が滅入るな。
近くにある自販機の側で煙草に火を着ける。とにかく、俺も落ち着かないと。
さて、どう接するのが正解なのか。蓮夢の様なタイプの人間は初めてだ。いや、そう言う考え方がそもそも間違いなのか。それでも、どうしても特殊な目で見てしまう。中性的、同性愛者、セックスワーカー。余計な情報が先走る。
単独任務の殺し屋が自分に向いているかどうか、ずっと悩んでいたが、今は独りの方が楽だと心底思えた。
このままじゃいけない。昔の様に一人一人の仲間をよく見て受け入れていた、あの頃の感覚を思い出さねば。
「ごめん……」
少しは落ち着いた様子だが、明るみに出た蓮夢の姿は、更に酷い有様だった。
化粧の乱れに、よく見ると身体にも数ヶ所、痣ができてた。あの痣は足蹴にでもしないと出来ないレベルだ。
蓮夢の相手した客は一体どんな性癖なんだ。羽振りの良い奴など、大概が横柄な者だが、これは度を越している。
俺にも非はある、それは認める。蓮夢と高々、一時間少々の話しができれば済む事なのに。この客も余計な事をしてくれる。無駄な遠回りだ、殺意が沸いてくる。
蓮夢は相変わらず俯き気味に顔を逸らしている。自販機に携帯をかざし、缶コーヒーを一つ買って、蓮夢に投げ渡した。
「お疲れさん」
「随分と甘ったるいヤツを……」
不満気に眉をひそめていた。練乳をブレンドした、おそろしく甘ったるい缶コーヒーだった。俺も数年前に試して後悔した記憶がある。それでもロングセラーな商品でファンは多いらしい。
「甘いものは気持ちを落ち着ける」
「そうだね……」
蓮夢の顔に笑みが浮かぶ。何かを思い出したかの様な懐かしむ雰囲気に後、缶コーヒーを数秒で一気に飲み干し、深呼吸をした。目の前にあるリサイクルボックスなどお構いなしに、空き缶を放り捨てる。行儀が悪い。
「悪かった、無礼は詫びる。仕切り直してもらえるか?」
蓮夢の傍へ行くと、蓮夢は一瞬ビクリと反応して、気まずそうに上目遣いで俺と目を合わせる。
この謝罪は一〇〇パーセントではないが、今は蓮夢に合わせる事を優先する。
そうだ、先ずは会話を続ける。そして観察するんだ。相手の事を知れば、自ずと自分と相手の落とし処が見つかる。昔、俺はそれが得意だった。
「そうだよね。こんな事してても、時間の無駄だ。でも悪いけど、話をするなら何処か飯食えるとこでもいいかな? もう二日ぐらいロクに飯食ってなくてさ。すぐそこに安い大衆食堂があるんだけど、そこでもいいかな?」
蓮夢もまた一〇〇パーセントではないが、謝罪を受け取ってくれた様だった。それにしても、食うのも困るぐらいの金欠なのか。ここに来て、緊張感が一気に抜ける提案だった。
「そんな所で話す気はない。来い、もっとマシなとこに連れて行ってやる」
予定変更だ。しかし、今回ばかりは蓮夢のペースに合わせてやろう。
「お久し振りですね。鉄志さん」
レストランオーナー自ら、淹れ立ての珈琲と灰皿を持ってきてくれた。中央区にある四つ星ホテル、“宮”の最上階にあるレストランバーは、何時訪れても気持ちがよかった。
白を基調としたバロック調の内装ながら、開放的な空間は、古いものと新しいもの対照的な雰囲気を織り交ぜて、絶妙な調和を保っている。数年前に利用して以来になるが、また一段と磨きがかかっていた。
「すまないな、また勝手を頼んで」
「いえいえ、お構いなく」
蓮夢は此処に来るまでの車中、車の席が狭い、エンジン音がうるさいと、始終毒を吐き、レストランに着いてからは化粧を落とすと言って、トイレに行ったきりである。
厚底ブーツの遠慮のない足音が近付いて来る。かれこれ二十分は経過していた。
「悪いね、来て早々。それにしても高そうな店……しかも開店前に。鉄志さんってセレブなの?」
投げる様にスカジャンを椅子に掛けた。黒いスカジャンの背中の刺繍は妖艶なポージングの真っ赤な悪魔がシルエットだった。
トイレから戻って来た蓮夢の顔は痛々しい痣こそあるが、化粧を落とし小ざっぱりしていた。
声の感じからすると、大分落ち着いた様に見える。まだ数回程だが、何時もの調子に戻った様に思えた。
「オーナーと知り合いなんだ。融通を利かせてもらっただけだよ。それより、それどうした?」
「別に、“元気の前借り”ってヤツさ。煙草もらうよ、切らしちゃって」
すぐに目についた。右腕の浮き出た血管部分に貼られた絆創膏。ガーゼの部分は既に真っ赤な血で滲んでいる。目も少し虚ろだった。
蓮夢の口振りからすると、おそらく覚醒剤の類いだろう。
「感心しないな……」
「仕方ないだろ、疲れてるんだ。説教でもする気かい? パパ」
俺の煙草とライターを手にしながら、蓮夢は席へ座る。挑発的でふてぶてしい。
「雄也って客でね、どっかの土建屋の二代目でさ。二十歳そこそこで親父から会社を継いだヤツなんだ。世間体を気にして結婚して子供もいたけど、仕事の重圧とかセクシュアルのストレスなんかでDVやらかして離婚した。それからは俺が捌け口って訳さ。ずっと避けてきたけど、捕まっちゃった……二十五のガキに殴られても逆らえない、三十二のHOE。こんなもんだよね、人生なんて……って、鉄志さんに話したって、何の意味もないんだけどね。なんか調子狂うんだよね、鉄志さんと話しているとさ」
ころころと雰囲気を変えてみせる。俯き気味に、卑屈そうな薄ら笑みを浮かべていた。
嫌な客と言う割に随分詳しいが、二十五のガキにか。考えただけでも、確かに心に堪えるものがある。俺の気質なら耐えられない。
蓮夢には常々、相手を手玉に取って、会話をコントロールするのが上手いヤツだが、意外にも話していて調子が狂うのはお互い様らしい――まだ腹の探り合いか
とは言え、やる事は変わらない。事を進めていくだけだ。メニュー表を蓮夢の元へ差し出した。
「好きなもの頼め、奢るよ」
「マジで! いいの? 悪いけど貧乏人はこう言う時、遠慮しないよ」
急に目の色をキラキラさせて、卑屈な物言いとは真逆に無邪気な笑み見せた。単純なのか、がめついのか。
「それじゃ、今すぐビール欲しい、で、飯はねぇ、リブロースの四〇〇グラムをレアで、ライスは大盛りでね。ワインは安いのでいいよ。あと、お味噌汁ってないかな?」
オーナーを呼び、スラスラと注文を付けてる。朝なのに随分重たい食事だなと思うが、相当、腹が空いてるらしい。まさに仕事上がりの食事と言ったところだ。大盛りを注文したり、そう言う所はしっかり男なんだなと感じる。
「メニューにはありませんが、作らせましょう」
「ありがと」
オーナーには視線で詫びておくが、裏表のない笑顔をしていた。この店にしたのは正解だった。元々、こういう用途で利用するとこだが、こう言う時は自分の待遇に、ありがたみを感じた。
蓮夢は早々と根元まで吸い尽くした煙草を灰皿に押し付けた。少しの間、沈黙が続いた。
「俺のいる組織について、どこまで知っている?」
「基本的な事ぐらいは、それ以外は興味ないよ。どらにせよ、対立よりも協力がベター。リスク高いけど、俺にはもうそれしか手がない」
確かに興味はなさそうだ。目付きで直ぐに分かった。だとしても“組合”の人間相手に協力を提案するのは大胆だ。
話を続けたったが、ウェイターが蓮夢にビールを渡していた。
「かと言って俺も何も考えていない訳じゃない。もし“組合”に危険を感じれば、刺し違えるぐらいの事は必ずしてやるよ」
蓮夢は手にしたビールを、一気に飲み干した。大きく出たな、抵抗する意思を見せてくるとは。
本当に対抗できると、思っているのだろうか。いや、おそらくその為の選択肢は持ってるのだろう。ここに来て、つまらないハッタリを使うとも思えない。
「俺はお前と手を組みたいと思ってる。これは組織の意向じゃない。それを提案し、掛け合っていた。外部から人を雇うのを好まない組織なんでね。言い訳になるが、それで三日かかった」
予想していた通り、蓮夢の意思は固い。“組合”に対する警戒心も、相当強かった。本来なら、明確に主従関係を作るべきだが、それでは話を進まない。
やはり、俺の舵取りにかかっている。折れるところは折れた方がよさそうだ。
「この三日で“組合”はお前の事を調べ上げた。CrackerImpだけじゃない。ポルノデーモンについてもな」
「何処の組織もケツが重たいらしいね」
反論したいが、残念ながら事実だ。個人活動の蓮夢には分かるまい。
当然、イワンは反対した。それどころか、蓮夢を口封じすべきだと言った。それが正式な命令となる寸前のところで、河原崎と秋澄が蓮夢の事を調べ、まずは交渉すると言うところにまで漕ぎ着けたのだ。
蓮夢には分からないだろうが、かなりギリギリな状況である。
携帯端末に入っている情報を開いた。
「CrackerImpは、ここ二年の間で名が売れてきてる様だな。確かに派手な噂はないが、手堅い仕事振りだと評判にはなってる。ロシアや中国の軍事衛星をハッキングして破壊したのがCrackerImpじゃないかと言う噂もあるな」
「あぁ、アレね。大した事じゃないよ。たまたま、それができる場にいただけ。月並みのハッカーでも、同じ条件ならできる事だよ」
その時を思い出してか、蓮夢は少々苦笑いを浮かべていた。隠す気もなくさらりと認めた。どんな理由があってそんな事をしたのか。
ただ、この事でロシアも中国も大きく騒いでいないのは、何かしら、やましい事が両国にあるのだろう。
「幾つかのサイバーテロ組織からも誘いが来てるそうだが、全て蹴ってる。それは何故だ?」
「興味ないね、俺はローンウルフ。三流ハッカーと群れるなんてダルい」
この情報を知った時は、なんとなく、蓮夢らしいなと思えた。そして今の言葉にもらしさがあった。
荒んだ環境に生きているにも拘らず、蓮夢の行動理念には――気高さがある。
正義と言う言葉を使えば陳腐になるが、良心と呼ばれるものに対して、正面から向き合える様な精神だ。
俺にはまるで縁のないもの。それ故に新鮮味がある。
「今から七年前、輝紫桜町のほぼ全ての事業を牛耳っていた亜細亜系マフィア通称“ナバン”に所属してた男娼。“ポルノスターよりもハマるポルノデーモン”この辺は省略してもいいか……」
一通り読み上げているが、この辺りの情報は無用だ。やはり“ナバン”と言う言葉に蓮夢の表情は一瞬で強張る。
分かっている限りの情報だけでも、蓮夢はこの組織の中で――商品の様な扱いを受けている。
その心情は俺には察する事は出来ない。
「別に省略しなくもいいよ……実際、昨日の鉄志さんだって、俺をそう言う目で見てたし」
耳が痛い。確かに今でも、そんな感情は少なからず持っていたが、どうしようもない事もある。俺にもそう言う経験はあった。
それを棚に上げて、蓮夢に接した結果が昨晩から今にかけての無様な展開だ。それでも、この話は続けるしかない。
「抗争の後“ナバン”が撤退してからも、街で男娼を続けている。しかも、輝紫桜町の全ての組織から、黙認と言う形でフリーでの活動が許されている。輝紫桜町の表でも裏でも顔が利き、重度の薬物中毒、複数の偽造IDを持ち、街で起きるトラブルの類いに、頻繁に首を突っ込みたがる混沌とした思考の持ち主。適正な人材には程遠い。これが“組合”の結論だ」
一通り話終えて、煙草を手に取る。通過儀礼の様なものだが、他人から自分の過去を話されるのは、決して気分の良いものじゃない事は分かっている。
「勝手にあれこれと、ほじった挙句、不合格通知って……。随分、エゲつないプレイだね。胸糞悪いよ」
蓮夢は椅子に深くふんぞり返る様に凭れる。黒いデニムのポケットに手を突っ込み、チンピラの風体そのものだった。もっとも、こんな美形のチンピラも中々いないだろうが。
脚を大きく開かれると、裂けた部分から肌が大きく見える。反射的に目が行ってしまうのが疎ましい。
「こっちも仕事なんでね、でも話は終いまで聞け。それでも俺は、お前と組むべきだと思ってる。俺は他人の評価や前評判は真に受けない。何時でも自分の目で、相手を見極める」
人間なんて、一癖、二癖あって当然な生き物だ。でも時として、それが強みになる事もある。それ知った上で最大限のパフォーマンスを発揮させるのが俺の役目だ。
“組合”が調べたもの。これまでの蓮夢との会話で見えてきた本質。蓮夢はこの一件に不相応ではない。
「お前の腕が良いのは確かだ、俺の携帯の情報を何時の間にか盗んだ。あの夜、警察のオートマタを操って脱出しようとしてた。アレもお前がハッキングしていたんだろ? 罠と分かっていながら、林組の土俵に乗り込んで渡り合ってる。これだけでも、充分な行動力だ。それに……」
珈琲を一口飲み、一息いれる。ブルーマウンテンだろうか。香りも味もよく整っていた。
「トラブルに首を突っ込む質だと言うが、そのトラブルを解決してるんじゃないのか? 街で顔が利くのも、そう言う事の積み重ねだし、実際お前は頭の回転が速い。洞察力もあるし、機転も利く。優秀な筈だ」
「聞こえの良い言葉ばかり……嬉しいけど、それを一言で“姑息”って言うんだぜ、輝紫桜町のHOEの必須事項さ」
姑息ではない。強かさだと俺は思っている。誉められたなら、素直に喜べばいいものを。
蓮夢は窓の先の景色を眺めながら複雑な表情をしている。素直じゃないな。
「何にせよ、お前も俺と組みたいと思っているのなら、もう一押し欲しい。お前にはその辺のハッカーには出来ない事が出来る。タネと仕掛けがあると言ったな。それを見せてくれ。それが申し分ないものと証明できれば、俺は組織の意見を無視してお前と手を組む。悪い様にはしないと約束するよ」
蓮夢は顔を背けたまま、暗紫色の左目だけは俺を見据えている。態度の悪い姿勢は変えず、顔を向けたかと思えば、今度は天井を見つめながら前髪を掻き上げて溜息を一つして俯いた。
これが俺達の第一歩となる。お前の手札を見せてみろCrackerImp。