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作者: NO SOUL?
残酷な描写あり R-15
6.― PORNO DEMON ―
6.― PORNO DEMON ―
 今日は一日中雨か。億劫だな、夜には控え目になって欲しいけど。
 でも、丁度良かったのかも知れない。今日は海楼商事のリサーチで外に出る予定ではなかったし、どの道この雨では、森林公園も人が少ないだろう。それでも“エイトアイズ”だけは公園近辺を巡回させている。
 輝紫桜町の俺のアパートから、アクアセンタービル周辺。彼方此方の無線信号を経由しながら、補助端末のAIに大体の事を任せて、俺は数十分おきに確認していた。
 作業効率はかなり落ちるが、やらないよりはマシだ。地道な“餌撒き”作業をやらせておいて俺も何か行動すべきだったが、ベッドから身体を動かせずにいた。
 昼前に起きて、服を着る気力もなくベッドへ逆戻り。部屋の隅に設置してある一.八メートルのガラスケースの中に詰め込まれたサーバーと左腕をロングケーブルで接続して脳のパフォーマンスを維持していても――心のパフォーマンスが上がらなかった。
 龍岡や輝紫桜クリニックへの借金返済が終わっても、まだ立ち止まれない。ポルノデーモンには、まだまだ稼いでもらわないと。
 何時もこうだ、CrackerImpの仕事が長引いて、ハッカーとHOEの二重生活が続くと、自分を見失って憂鬱に包まれる。
 この大歓楽街のHOEに過ぎなかった自分、ハッカーの自分、そしてサイボーグの自分。その全てにウンザリしてきてるのが本音だった――俺は何がしたいのだろうか。
 HOEだけやってる時は楽だ、堕落したこの街に染まって堕落してればいい。不意に襲い掛かる現実なんて、酒とドラッグで躱せばいいんだ。
 しかし、サイボーグとなった現実は、それを許してくれない。背負ってしまったものへの責任を果たさなくてならない。未だにその手段がハッカーと言う生き方しか見い出せなかった。
 結局、心を満たせるのは僅かな一時だけ――ホント、クソな気分だ。

「あぁ、しんど……」

 溜息とシケた言葉が漏れ落ちる。
 ドラッグケースに手を伸ばし、買ったばかりのコカインを吸い上げる。何が上物だよ、ズーハンの奴、適当な事を言いやがって。
 沈みがちな気分が少し落ち着いてきたところで、他のタスクにも意識を向けてみる“エイトアイズ”の視界を除いてみると。やはり雨のせいで森林公園にほとんど人がいなかった。それでも数人に餌を撒けたようだ。
 今日はこれで打ち止めだな。帰りの距離を考えると、バッテリーも心もとない“エイトアイズ”は帰路に就かせる。
 さて、これからどうやって海楼商事を、アクアセンタービルを攻略するか。
 アクアセンタービル内にはジムやレストラン等の一般利用施設もあり、そこに入り込み、探りを入れる手もあるが、頻繁に出入りすると目立つ。明確な理由がない限りは利用を控えるべきだ。
 そこから直接忍び込んで、海楼商事のサーバールームへ行けないかと色々と考えてはみるが、入り込める隙間はどこにもない。俺の専門外だし、それ以前にあのビルの構造が――特殊だった。
 では俺の専門の方はどうか。当然だが、独立したサーバーにオンラインを通じて侵入できるルートは少ない。ところが先日、偶然にも一か所だけ、侵入可能なルートを見つけた。つまり罠である。
 おそらく入り込めば、こちらも筒抜け状態になって、居場所はおろか、下手をすれば、こちらがクラッキングされかねない。この選択肢は保留中だ。何らかの準備と手段でも考えないと。
 外回りの情報を固めていくのは大切なプロセスではあるが、目標へ接近するには相手の守りが強固な上に大き過ぎる。一人では限界があった。明らかにキャパオーバーだ。
 “組合”の殺し屋さん。鉄志との共同戦線はどうだろうか。
 どうにか、殺されずにあの場を凌いで、今後も立ちはだかる事を想定して、手を組まないかと提案したが、多分嫌われてるだろうな。ヤバい組織の殺し屋って肩書さえなければ、不思議な雰囲気がどこか魅力的な人なんだけど。
 この街で、色んな人間を見て来たけど、あそこまで断固たる意志で、躊躇や葛藤を素早く乗り越え、圧倒的なスキルを最大限に発揮できる奴は見た事がない。死んだ様な目をしているのに、鋭く研ぎ澄まされた獣の様な眼。
 もし、味方になってくれるなら、どれだけ心強く、安心できるか。
 あれから“組合”についても調べてみたが、俺が予想してた以上に危険で強大な組織だ。戦争も裏社会も、この世の争い事と名の付くもの、全ての需要に応える世界規模の秘密結社だ。差し詰め――闘争御用達のイルミナティ。
 アクアセンタービルで会ってから三日経つが、連絡はない。今日も来ないだろうな。午前中か午後一と言う指定した時間帯はとっくに過ぎてしまった。もう一度会ってよく話し合いたい。
 他人を頼るって事自体が昔から下手くそだった。それで人生を大分損しているところもある。素直に助けて欲しい、手を貸して欲しいと思える人間は俺にとって貴重だ。まだよくも知らない人だけど、何となく分かるんだ――この人に頼るのはきっと最適解だと。
 それで何が出来るのか、どんなリスクが潜んでいるのかなんて分からないけど、このまま一人でやっていてもドン詰まりだ。なら賭けてみたい――相棒を持つ事を。
 あの感じだと“組合”はまだ、何の情報も掴んじゃいない。俺にはまだ価値はある筈だ。
 傭兵、暗殺、諜報工作員に用心棒と、穏やかじゃない連中を育成して斡旋する組織が何故、人身売買の組織に興味を持っているのか、目的は何だろう。
 少なくとも、正義を行うなんて事はないだろう。何らかの利用価値があるからこそ、探りを入れているのだ。
 クライアントさんの弟を含めて、攫われた人達を救うと言う目的に対して、最悪“組合”と言う組織が障害になる可能性もある。鉄志を通して、その辺も探りを入れておかないと。
 そう言えば、そろそろクライアントさんにも何か報告をしておかないとな。
 荒神会は完全に息を吹き返している。表立った動きはないが、海楼商事も警戒を強めている筈だ。今後、連中の考えられる行動は、荒神会を筆頭に、引き続き港区の支配を継続する事だろう。
 市が再開発の為に躍起になって、警察と有志と共に抵抗しているが、その力も通用しなくなっていく頃だ。海楼商事の方が金も影響力もある。必ず圧力をかけて来るは目に見えていた。
 俺の方は総本山の海楼商事を攻める事で手一杯な状態だが。今、危惧しているのは連中が――密輸を再開するかもしれないと言う可能性だ。
 奪ったデータを逆に奪われたのは痛手だ。今でも信じ難い、荒神会の連中が車の中でメモリーを起動した時、メモリーに仕込んだセキュリティが作動しなかった事を、いや、作動してる筈のクラッキングプログラムが、一瞬で書き換えられ、無効化された事だ。
 その手のソフトウェアは存在しているが、あそこまで臨機応変に、そして高速で対応できる様なものは初めてだった。未だにそのからくりが分からなかった。
 海楼商事の独自プログラムだろうか、もしそうなら、中々に手強いAIだ。
 俺が海楼商事から情報を奪うまでの間に、荒神会が港区での活動を本格的に再開されたら更にキャパオーバーになる。
 どこまで頼りに出来るか、刑事の坂内彩子にもコンタクトをとって、情報を渡すべきだろうか。それも早い内に決めないと。
 腕のコネクターを外し、ベッドから起き上がる。あと数分もすれば“エイトアイズ”も帰って来る。輝紫桜町の中でも油断ならない。最近は常に“エイトアイズ”を飛ばして警戒していた。数日前もいやにガタイの良いチンピラっぽいのが、無料案内所で俺の事を探っていて、輝紫桜愚連隊と一悶着あったそうだ。情報SNSの“ヘルアイズ”と“エイトアイズ”の監視から目が離せない状況だった。
 煙草に火を着けて、ソファに深く腰を下ろす。そこに放り投げてた携帯に目が行った。こっちの問題にも対応しないとならない。
 現実に引き戻される様な虚しさ。そう、俺は唯一無二のサイボーグで、多くを思考して、何かをやり遂げたところで、所詮は――輝紫桜町のHOEなんだ。
 やらなきゃならない事が余りにも多過ぎて、結局マッチングアプリの問題を先送りしていた結果がこれだ。とうとう最悪の客に捕まってしまった。
 アプリの不都合なんかじゃなく、単なる“乗っ取り”だったが、今は稼ぎ時なのもあって、中々アカウントを消す事も出来ない。確実な利益の為には、呼び水を断てなかった。自業自得ってヤツさ。
 この客だけはどんな手を使ってでも避けたかった相手だったのに“乗っ取り”は、ご丁寧にも、この客にメッセージを送りつけていて日取りまで決めていた。
 お門違いなのは承知だが、こう言う時に鉄志から連絡でもあったなら、HOEをやらない口実も作れたかもしれないのにな。
 でも、現実は何も変わらない。俺は輝紫桜町のポルノデーモンなのだから。





 雨降りの輝紫桜町は、濡れた地面がネオンの光を反射させ、ケバケバしさが一層増す。目が痛い。そしてビッチな服装には少し肌寒かった。
 予報では雨は朝方に止むらしいが、俺には関係ない。正門裏のこの路地は元々雨を凌げるし、もうじき客が来る。最悪の客と一晩中ホテルに缶詰めだ。
 今夜はどんな目に遭うのか、平手打ちぐらいなら我慢できるが、グーで殴られるのは勘弁だな。
 扱いの難しい客だった。下手に出ても、フランクに接しても、何時も逆上されて乱暴される。レイプの様なセックス。屈服させ踏みにじる事に快楽を見出す、不安定な心の持ち主。
 どんなに羽振りが良くても、ぞんざいに扱われるのは、身も心も本当に堪える。
 昔の俺なら“ナバン”に飼われてた頃なら、耐えられただろうか。きっと、耐えられるんだろうな。従うしか選択肢はなかった。若かったし、それしかないって本気で思ってた。
 こうして今、嫌だ。って思う事は自然なのか、ただの我儘なのか。それすらも分からなくなる時がある。昔と違い、今は見えるものが多くて信じるものもないから。
 しかし、結論は稼ぐ為には仕方ない。稼がないと生きていけないだ。それは今も昔も変わってない真理である。
 七年かけて“億”の借金を返済し、それ以降の稼ぎは闇金への前借りで消えた。
 働けども、働けども。と、この街で死ぬまでずっと、この言葉を使い続けるのだろうか。根元まで吸い付くした煙草を投げ捨てた。
 正門を行き交う連中を横目に眺める。今夜は先客がいるから、通りから少し離れて、それを眺めている。仕事帰りの飲み仲間、遊び好きのチンピラ共に、派手好きのパーティ狂い。シラフを装うジャンキー。そこにチラッと紛れているカップル。
 そんな連中を尻目に、嫌だ、嫌だって思いながら客を待ってると、十代の頃を思い出す。人の身体を、舐める様に見る目も、遠慮もなく触ってくる手も、快楽を覚え始める自分に、人肌の温もりに気を休めてしまう瞬間に、何もかもが大嫌いだっ
た。
 自分は何故こんな事ができるのか、自分がなんなのか、他人に自分を見せてはならないと、身構え続ける日々。それが堪らなく辛かった。
 パンセクシュアルであると認識したのは、輝紫桜町に流れ着いて、しばらく経ってからだった。それを教えてくれた人の事を思い出すと、無意識にチョーカーのクラブを摩っていた。
 初めて自分にしっくりきた感覚。長年付き纏っていた、ドロッとした胸糞悪いタールに埋もれてる様な感覚から、一気に身軽になれた気がしたのを覚えている。
 同性とか異性とか、そんな事を気にする事なんてなかった。俺はただ、自分の心に正直で在ればいいって、俺はおかしくないし、独りじゃないって思えた。
 それまでは、淡々としたセックスと言う作業に過ぎなかったものに、僅かばかりの彩りが生まれた。俺も楽しめる様になったし、上っ面で一時の情であっても、存分に味わい、心を満たす様にした。
 その分、通じ合えなかった時の――反動も大きくなってしまったが。
 今夜は間違いなく通じ合う事がない客の相手。分かり切っているから嫌なんだ。
 ジャケットに突っ込んであるドラッグケースとシガーチューブを取り出す。太い葉巻を一本入れる為のシガーチューブは、シャブを詰めた小瓶と注射器を入れるのに便利だった。
 今、悩んでいる。ケースの中にあるラブドラッグか、シャブを打つか。どっちも後が面倒だし、こんな気分じゃ最後にはバッドになるのも、目に見えてる。でも何かキメてないと一晩、乗り切れる自信がなかった。
 この数年、コカイン一択でどうにかセーブ出来てたのに。ヤバいな、また手当たり次第、乱用する引き金になりそうな予感がする。
 どうしよう、どうしよう。嗚呼、久し振りにシャブやりたい、早くやりたい。生身の脳がやかましく騒いでいた。
 ホント、イカれてる。自分の脳を、自分の脳で達観してる様な感覚だ。お陰である程度、踏み止まれる様になったが。
 駄目だ駄目だ。考え事が多くて溢れて来る。したい事としたくない事が混ざり合ってぐちゃぐちゃに掻き回してくる。
 そろそろ客と約束してる時間だ。もう一本、煙草でも吸って落ち着けないと。いい加減気、気持ち切りを替えろ。俺は輝紫桜町のポルノデーモンだ。この地獄に相応しいビッチを演じなくては。

「おい」

 安物ライターの火が、煙草に触れるか否かのタイミングで、呼び掛けられた。ぶっきら棒な言い方に身体がビクついたが、客ではなかった。いや、もっと最悪かも知れない。
 表通りの光で逆行してても、はっきり分かった。身体のラインに合ったスマートなスーツと、バランスの整った立ち姿。
 嘘だろ、よりにもよって、何でこんな時に。

「鉄志さん……」

 裏路地の暗がり、ネオンの赤と青の明かりが混じり合う淀んだ赤紫に染まった鉄志は、少し雨に濡れていた。
 鋭い目付き、精悍な顔立ち。その視線は、何故か俺の下半身の方へ移っていく。
 ヘソ出し、肩出しのトップスに、内股の側も破れた黒のダメージデニムの姿。嫌でも釘付けになるのも当然か。鉄志の表情がみるみる呆れ顔になっていく。

「何見てんだよ、そんなに気になるかい? 中のモノが……」

 派手に裂けたデニムにいやらしく手を入れ、少し広げて見せる。そうする為に裂いたところだ。と言っても今日の下着は、なんて事ない物をはいてるので、刺激は控え目だろうけど。
 相変わらず、愛想のない雰囲気だ。どうせ下らない偏見の目を向けているのだろう。オスだのメスだのって。
 こう言う時、俺は何時もお構い無しに相手を挑発する癖がある。堂々として見せ付けてやるんだ。これが俺の普通だって。今夜は何故が――胸が少し痛かった。
 変な目で俺を見る、お前等が変なんだって、徹底的に抗え。相手が根負けするまで抗い続けろ。
 もっとも、鉄志はやり辛い相手だった。反応も薄く、それほど嫌悪感も露骨じゃない。
 今はどちらかと言うと、俺の方が辛かった。こんな時に会いたくなかったと、この場から消えてしまいたい気分だった。

「話がしたい、ちょっと来い」

 輝紫桜町に遊びに来たついでに、俺に会いに来てくれた。とはいかないか。やはり、用があるらしい。ホント、苛付く。

「俺の話、聞いてなかったの? 事前に連絡してくれって、それも午前か午後一でって、言ったよね?」

 名乗りもしないし、情報も共有しない。尤も、現時点で“組合”は情報らしい情報も持っていないのだろうけど。
 鉄志は俺の事を信用していないし、対等どころか、真っ当に取り合う程の価値なんかないと思っている。常にそう言う態度だった。力関係と主導権を緩めないよう徹底している。
 それは仕方ない事だと思っていた。俺だって立場が逆なら、そうしてると思う。
 でも、流石に今回ばかりはふざけんなって、言ってやりたくなる。

「そこで油を売ってるだけなら暇だろ」

 マジでキレそう。どうして、そんな事を言うんだよ。
 でも、堪えるしかない。鉄志にはどうしたって敵わない。武装したヤクザとオートマタを、最低限の動きで一掃する様な化物だ。
 煙草に火を着けて、壁に凭れる。煙を鉄志に向けて吐き出す。これぐらいの抵抗しかできなかった。

「お生憎様、今夜の俺は予約済みだよ。鉄志さんの方が魅力的だけど、今夜は勘弁してよね」

 実際、どうしようもないんだ。暇なんかじゃないし、油を売って今ぐらい金を稼げるなら、とっくの昔にやってるよ。
 これ以上、鉄志に話す事は何もない。好きなだけ蔑んで、呆れて帰ればいい。
 何で、こんな時に来るんだよ。本当なら待ちに待った再会だったのに。進展が期待できる状況だったのに。どうしてこんな時に。
 再び煙草を口へ近づけようとした、その瞬間、煙草を持つ右手首をグッと掴まれた。言葉で蔑むだけでは飽き足らずに、また力づくで来るのかよ。
 どいつもこいつも、俺を人として扱わない。――ホント、マジでキレそうだ。

「ふざけるな、その尻軽な火遊びとこっちの件と、どっちが大事なんだ!」

 俺は咄嗟に、右手にあった煙草を握り潰した。一瞬の熱から激痛が皮膚を劈く。
 その痛みのお陰で、どうにかキレずに冷静さを繋ぎ留めた。ここで勝ち目のない殴り合いをすれば、僅かな可能性すら失ってしまう。
 堪えろ、堪えるんだ。

「どっちが大事? 海楼商事の件さ、当たり前だろ。なら、聞くけどさ……」

 脳は激しく落ち着け、堪えろと信号を発している。AIから来る信号だ。それでいい、正しい判断だよ。俺の生身の脳もそれに同意してた。
 しかし、抑えが利かずに言葉が続きそうになっている。幾ら脳が合理的に思考してても――心は抑え付けられなかった。
 怒りと悔しさと、卑屈で悲観的な感情が、腹の底から脳天にまで押し寄せて、込み上げてきて、途方もない苦痛が全身を包み込んでいた。止められない。

「俺にコンタクトするのが、そもそも遅いんじゃない? そっちこそ今まで何やってた訳? アンタはいいよ、気楽なもんさ、その気取ったスーツを着て、二、三日を浪費出来る余裕もあるんだから。俺は一日だって無駄には出来ない。金も稼がないと動けないし、掻き集めた情報を纏めながら、次を考える。仮眠して、ヤクで誤魔化して、したくもない奴に股を開いて……。アンタに何が分かるんだよ!」

 鉄志が掴む俺の右手首は、今にもへし折れてしまいそうなぐらい、力が入っていた。痛いよ、何もかも。

「どうしてだよ! 鉄志さん! どうして俺の事を、ちゃんと見てくれないんだよ! 分かってくれないんだよ!」

 鉄志の胸ぐらを掴むこの左手も、殺気立った鉄志の目も。どうして、こうなるんだよ。どうして心が見えないんだよ。
 なのに何故、俺は鉄志に自分の心をぶち撒けているんだ。抑えが利かない。

「分からないな、分かりたくもない!」

 鉄志の胸ぐらを掴む手はあっさり解かれて、壁に押し戻され叩き付けられる。ガッシリした力だった。俺の力では太刀打ちできない。
 このまま崩れ落ちてしまいそうな身体を、辛うじて両手で支えている。項垂れる頭を必死に堪えて、鉄志を睨んだ。
 いや、睨んでなんかいなかった。鉄志は俺を見て、たじろいでいる。
 理由は分かっている。俺は今、すごく情けない顔を鉄志に見せているからだ。もう、堪え切れなかった。怒りや悔しさがなかったら、きっと声を出して泣いていたんだろうな。

「同意した相手を拒むのは、この街じゃご法度なんだ。俺にはケツ持ちする組織の後ろ盾もない、何処にも属してないから。これでトラブルになると、関係ないとこに、あちこちに迷惑がかかる……他の迷惑なら気にしないけど、これだけは駄目なんだよ……」

 これだって鉄志に言わせれば、知った事じゃないのかも知れないけど、今夜ばかりは、いや、しばらくはHOEを続けないとならない。馬鹿だよな、他人の偏見にムキになって言い返したところで何になる。それで理解してもらえた試しなんて一度だってないのに。
 何を言われようが、どんなに蔑まれようが、金を稼がないとならないんだ。その現実は変え様がない。
 項垂れた頭を上にあげて、深呼吸する。ばつが悪い沈黙を紛らわすのは雨音だけだった。

「なぁ、こうしようぜ。仕事が終わったらすぐ連絡するよ。そっからは全部空けるし、そっちの都合があるなら、それ従うから……頼むよ……」

 鉄志の胸に手を添えて哀願する。不本意だし、惨めだけど。俺には、それしか出来なかった。ホント、自分が嫌になる。

「終わるのは何時だ?」

「俺は時間じゃなく一晩で売ってる。夜が明けるまでか、客がいいと言うまで。遅くても、八時までには連絡できるよ……」

 他の奴等と比べても、鉄志の心は見え難い。それでも話の通じる人で、辛抱強い方だと思っている。
 冷静にちゃんと話せてれば、こうはならなかった筈だ。でも、抑えられなかった。
 どうしてこんなに胸が痛いんだ。鉄志に見られている事が、どうしてこんなも苦しいのか。どうする事も出来ない事じゃないか、それなのに。

「分かった、待ってやる。済んだら連絡してくれ」

 俺の手を払い、呆れ返った表情を鉄志は俺に向けてきた。そんな目で見られる事なんて、何時もの事じゃないか、何て事ない。慣れてるし何も感じない。その筈なのに。
 張り裂けてしまいそうな程、胸が痛かった。こんな事で心が塞ぎ込むなんて、輝紫桜町のHOEとして失格だ。
 終わった後、また鉄志と会わないとならないのか。一体、どんな顔をして会えばいいんだよ。

「ありがと。もう行ってよ、荒っぽくてキレ易い客なんだ……。アンタと話してるとこなんか見られたら、早速殴られちまう」

 また少し、雨が強くなってきた。けたたましい雨音と、喧騒の中に鉄志が消えていく。
 もう、両足で自分を支えてられない。このまま崩れ落ちて、いっその事、消えてなくなりたかったけど、それは叶わない願いだった。
 ひたすら続いていくんだ。何故なら此処は――地獄だから。
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