残酷な描写あり
R-15
5.― JIU WEI ―
5.― JIU WEI ―
今度会った時は必ず殺してやる。数日前まで、この忍者にはそんな殺意しかなかった。
ところが、今はどうだ。自分でも驚く程、落ち着いていた。話せば案外上手くいく。と、飄々と答えたポルノデーモンの言葉と表情が思い浮かぶ。私に賢く立ち回る事ができるだろうか。
私には“力”があった。常人では手に入れる事の出来ない、非常に特殊で強力な力だ。
ねじ伏せてきた。弟を拐った奴等を、それに関わっている連中も。話す必要もない、脅せばいい。今までは、そうしてきた。
「市長の命の下、この街を影から守っている忍者。正義の味方って訳ね……」
締め上げている首を少し緩めてやる。話辛いだろうから。
荒い息遣いを整えてる。同じぐらいの背丈、左目の縦傷、そして念動力で掴んだ感覚は紛れもない、あの夜の忍者その物だった。
フォーマルな短髪に、安物のスーツ越しからも逆三角形の引き締まった体系が浮き出ている様だ。
役所に忍び込んで、この部屋に辿り着くのは意外に簡単だった。闇雲に探すには時間が掛かりそうなので、私物のハンカチを使って、職員に尋ねたのだ。ロビーで左目に縦傷のある人が落としたと。
庶務課のネームプレートを付けた、気の良さそうなおばさんがあっさりと、ここを教えてくれた。
「知ってると思うけど、私はまだ、“二つ”念動力を残している。下手な真似をしても無駄よ」
今は両手両足、胴体と首を念動力で掴んでいる状態だ。前回よりも拘束は大雑把だが、余力を残し、忍者の様子に警戒しておく。安っぽいスーツ姿でも、何かを隠し持っている可能性は否定できない。喋る様子も見せないのは、反撃の機会を伺ってるからだ。
それにしても、黙られると何となく話辛く感じる。
「お前は荒神会を襲っていた。それなら私達は味方同士、と言う事でいいのか?」
問いかけに対し無言が続く。いやに重苦しい間。
会話をする。そんな人間の基本的な行為なのに、私は今、それを難しいと感じていた。相手に自分を無視させずに興味を持たせると言う、意図した会話。どうすれば、そんな事が出来るのだろうか。
私には彼の様な魅力も色気だってないし、そもそも、この状況では相手に姿も見せられない。沈黙に耐えるしかない。
「味方だと? 笑わせるな。先に仕掛けてたのそっちだろ」
やっと鵜飼の方から言葉が出てきた。確かに先に仕掛けたのは自分だ。怒り任せに自動車を叩き付けた。
ここまでで、五分少々が経過してる。彩子さんから何事も十分以内が安全だと言われていた。確かに長居は好ましくない。
「そうだった……。なら、一度改めてみないか? 二日後のあの場所、あの時間にもう一度会って、ゆっくり話し合おうじゃないか。お互いの利益になる様に」
今日、ここで全てを話す事は出来ないのは前提である。用件を話して撤収する準備を進めないと。
ポケットの中から結束バンドと布切れを取り出す。
「利益だと? 貴様の様な性悪女のガキにくれてやる利益なんてない! イカれたサイキックめ!」
酷い言われ様だ。何も知らないくせに勝手な事ばかり。
「イカれてる? 不条理に暴力で家族を奪われて、異国へ連れ攫われた人達を救うたいと行動する事が、イカれていると言うのか」
「通すべき筋があるだろ」
「如何にも役人の言いそうな御尤もだな。お前たちが役に立った試しがあるか? 証拠を提示したって奴等は動かなかった。この国だってどうせ同じだ。違うと断言出来るか?」
出来る訳がない。此処だって既存の公的機関では対処できない事が多いから、忍者なんかを雇っているんだ。この矛盾の中に在りながら何が筋だ――笑わせるな。
真っ当な説教に耳を傾ける段階はとっくに終わっているんだ。でなきゃ、鋼鉄の尾を振り回す化物になんかなるものか。
「だから同じ穴の狢になるのか、貴様等アウトローは何時もそうだな。身勝手を正義に置き換えて暴走する……」
「その言葉、お前にそっくり返してやる。忍者だって暗殺者の延長じゃないか。飼い主が御上なだけの、つまらない犬だ」
やはり相容れない関係なのか、公僕とアウトローでは。
じき十分になる。携帯を取り出し画面を見るが、彩子さんからの連絡はない。まだ市長と話している最中だろう。こちらはそろそろ潮時だ。
「我等を見縊るなよ……」
鵜飼の両腕が僅かに動き出す。強力な念動力に、ここまで抵抗する者は今まで見た事なかった。意識を集中して力を強めるが、それでも鵜飼の身体は僅かに動いていた。破られはしないだろうけど、忍者の執念には恐れ入る。
念動力で布切れを浮かし、鵜飼に猿ぐつわをしてやり、両腕を後ろに回して素早く結束バンドで拘束した。
何を仕込んでいるか分からない。出来るだけ近づきたくなかった。
「粋がるな……私は今、お前の命だけじゃない、ここで働く人達、そして市長の命だって握っているんだぞ。二日後、必ず来い。お前の正体は分かった、やろうと思えば、何時でもやれるぞ……」
この手の脅し文句は得意だ。叔父がよく使っていたのを横で見ていたから。ドアの鍵を開け、部屋を出る準備に入る。この時点で鵜飼との距離は二メートル。
五メートル以上離れれば、念動力の力も次第に弱くなる。結束バンドの拘束だって、奴の事なら容易く解く事だろう。
念の為だ、ドアを開け部屋を出ると同時に、傍にある本棚を念動力でドアの前にずらしておく。これなら鵜飼が部屋を出るのに時間が稼げる。
「忍者の鵜飼猿也、また会おう……」
ドアを閉めて、早々にロビーへ向かう。念動力が弱まって来るのが分かる。帽子を深く被り、すれ違う職員に軽い会釈をし、走りたい気持ちを抑えながら、早歩きに階段を駆け下りる。既に念動力は解けてしまった。
騒ぎになるかどうかは、数分後の鵜飼次第だ。ロビーに出て、再びトイレで着替えれば、一先ず安心だろう。
少々ぎこちない形ではあるが、上手くいったぞ。私と彩子さん、二人で一歩、前進したのだ。
気が早いが、その事に気が高ぶって来る。――美味い紅茶が楽しめそうだ。
彩子さんからメールが届く。そろそろ一時間が過ぎて、心配になってきたタイミングだったが、どうやら、騒ぎにはなっていないらしい。これで一安心だ。
市役所の近くにある、喫茶店は昼食時を過ぎても、賑やかに繁盛していた。古めかしい純喫茶の出で立ち。午後をゆったり過ごすには最適な処だった。
ティーポットに入った紅茶をカップに注ぐ。この二杯目にはミルクと砂糖も入れた。
あと数分もすれば、彩子さんがこの店に来る筈だ。紅茶を口にする。先程まで続いていた、ソワソワとした胸の高鳴りが、ようやく落ち着いたところで、再び本の文字を追いかける。
まさか自分がこんな本を呼んでいるなんて、数ヶ月前なら、いや、輝紫桜町に足を踏み入れなければ絶対なかっただろうな。
久しく体験してない感情を味わえている。本を読み、驚きと発見の連続に身を置く事。家族がいた頃は、よく本を読んでいた。叔父と暮らすようになってからはインターネットで必要な物だけを吸収するだけの生活になっていったが。
そもそも、人に関心なんてなかった私には、何を考えたって傷付けてしまうのだろう。この本を読んでいると、その事をまざまざと痛感する。
彼の言った通りだった。私には自分の考えなんて持っていない。そのくせ、何の根拠も意思もなく、勝手な価値観を前提にして。これは――考え方も知らなかったで済む事じゃない。
やっと理解した。私はあの人に酷い事を言っていたと。
「ユーチェン?」
「あ、彩子さん……」
少し前まで喫茶店の入り口に注意を払っていたが、何時の間にか本を読むのに集中してしまって気付けなかった。目の前に立つ彩子さんを見上げる。ネクタイを崩し、ワイシャツのボタンを二つ外している。少し、はだけ過ぎている様にも思えるが。
「ごめんなさいね、ちょっと長話になって」
スーツのポケットから取り出した煙草の箱とライターをテーブルに置いて、忙しなく席に座って、同じく忙しなく店内を走るウェイタードローンに珈琲を注文していた。ブロンズとウッドのボディが店の雰囲気に合っていた。
市長とはアポイントメントなしの訪問で、話せても数十分程度というのが当初の予定だったが、どんな話をしていたのだろうか。
「何か騒ぎになったりとかしてませんでしたか?」
「特に何も。氷野市長が港区の再開発について熱弁してた。こっちが話す隙も与えないぐらいにね。多少の揺さぶりはかけてみたけど、中々に強かで、掴み所のない人だった……。そっちも上手くいった様ね」
拘束を解いた忍者の鵜飼が、騒ぎ立ててないか心配したが、そうはならなかったようだ。今頃、どうなっているのか。
「後は二日後、でも、あの忍者は協力的ではなさそうです。利用する方向で」
今回の目的は、あの忍者の正体を掴んで、話が出来る場へ誘い込む事だ。計画通りに、今の所は進んでいる。
重要なのは次の段階。味方になれるか、やはり敵となるか、お互いの目的と今持ち合わせている情報を共有し合えるかだった。
次はまた、あの忍者と戦う事になる可能性も高い。それを避ける為にも、しっかり会話が出来るかどうか。それに関しては――少し自信を失いかけている。
「先ずは第一段階突破ね、何だかスパイ映画みたい」
「そんな呑気な……」
こっちの抱いている重圧とは裏腹に、彩子さんは無邪気に笑顔を見せて来たので言い返しておくが、確かに今後は、こういう行動も必要になってくるのかもしれない。所謂、情報戦だ。
今までみたいに、チンピラやヤクザを、九尾で薙ぎ倒すだけでは通用しない段階に来たのかもしれない。
「呑気じゃないわよ、何なら署から自動小銃持ち出してでも、忍者と戦うつもりなんだから」
今の彩子さんの調子なら、本当にやりかねないから、少し心配になる。
荒神会の襲撃が空振りに終わったあの夜から、彩子さんは本当に雰囲気が変わった。それまではお互い他人行儀だったのに、その距離が一気に縮まった。
塞ぎ込んでいた私を気遣ってなのか、何時も明るく、日増しに生き生きとした雰囲気で、私を励ましてくれた。――救われたと思ってる。
「本当に何から何まで、彩子さんには感謝しかありません」
ウェイタードローンが珈琲を差し出し、空になったティーポットを片付けてくれたタイミングで、私は彩子さんに感謝をする。出会って約一ヶ月半。何度、礼をした事か。
彩子さんは、その言葉を受け止めると、少し微笑み、神妙な面持ちで珈琲を飲んでいた。あまり見ない表情に感じる。
「こんな事言うと、おかしいって思われるかもしれないけど。私ね、貴方からメールが来る以前は、いや、陽葵が中国へ行って以降は、自分の中身がどんどん空っぽになって行く様な感じだったの……。勿論、警察の仕事はやり甲斐があるけどね」
「空っぽ、ですか」
初めてかもしれない。彩子さんから母の話は沢山聞いてきたが、彩子さん自身の話を聞くのは。
思い立ったかの様な、言葉のぎこちなさが普段の彩子さんの大人の女性と言うイメージから離れていた。
「貴方を通じて陽葵が死んだと知り、その空っぽになった所を、何かで満たさないと、自分自身の意味すら失ってしまう様な気がした……。陽葵は私にとって、私を証明してくれる唯一の存在だった。だから貴方とジャラを救う事は、私自身を救う事でもあるの。貴方を手助けしてるのは、警官の務めでもなく、大人の責任なんかでもない、私と陽葵の為。自分でも勝手だと思っている……」
始終、視線を下に降ろしたまま、忍びなさを滲ませている。彩子さんがそんな事を考えていたとは。
しかし、私は何処か納得していた。親しかった人の娘、それだけの理由でここまで協力的に、いや、献身的にしてくれるだろうかと。
彩子さんの言葉の真意を完全に理解している訳ではない。親しい友人、それ以上の感情すら感じる。それは常に感じていた。
「それでも、助けである事には変わりません。意外に私達は、対等な相棒なのかもしれませんね」
彩子さんを駆り立てる理由が何であれ、その行き着く先が弟を救う道に辿り着けるのなら、私達の生きる意味に繋がるのなら、何だって構わない。
CrackerImpに彩子さん。私は気付かない内に、心強い味方に出会えていたようだ。
「ところで、最近熱心に読んでるけど、何かあったの?」
ふと気付くと手元に広げいた本が、彩子さんに取られていた。表紙を突き付けられる。
表題は“私を見て”副題には“LGBTQ+とSOGIE”。現時点では熱心と言うよりも、夢中に近い領域まで来ている。
ポルノデーモン、彼が言っていた言葉の一つ一つが読み解ける様で、快感すら覚えている。“私を見て”という表題も“シンプルに俺の事を見てよ”と言っていた彼の言葉と重なるものがあったから、数ある中からこの本を選んだのだった。
完全に理解している訳ではない。でも、こう言う人の見方と、そんな人達の考え方があったのかと、衝撃を受けていた。当然、自分の無知さも思い知っている。
それにしても、本を手にする彩子さんの表情が、妙に硬く感じられた。確かに脈絡もなく突然、こういう本を読んでいれば、気になるかもしれないが。
「まぁ、興味と言うか」
「何故、興味が?」
透かさず問われる。詰問とまではいかないが、今の綾子さんは、まさに刑事の顔付きだ。もしかして私がそうなのかと疑っているのだうか。
答えるまで引き下がらない。そんな圧力すら感じた。
「実を言うと、輝紫桜町で、そういう人と話す機会があって。何て言うか、自分の理解を超えいて、その人とうまく噛み合わない感じが、どこかもどかしくて……」
まるで、白状する犯罪者だ。濁したり、誤魔化す言葉を探す間もなく、本当の事を話してしまった。
輝紫桜町を素通りしただけ。と言う嘘はこれで終わりか。
「私の国では、性別も在り方も全て厳しく定められていています。大国だから、多様性よりも、統一思想が強いのでしょう。だから、なんか戸惑ってしまって。でもそれはきっと、言い訳にはならなくて。私は何時も、普通になりたいと思っていたから、普通じゃないのに堂々としていられるその人が、どこか許せなくて」
それからは本音がどんどんこぼれ落ちてしまった。故郷の国の事を思い出すと息苦しくなる。
今の私の状況に関係なく、サイキックである事は隠すべき事だ。普通じゃない者として畏れられるか、それこそ、トラブルの種になる。
そんな肩身の狭さが時々苦しかった。その不満に相反する、輝紫桜町とポルノデーモンの態度が腹立たしかった。
でもそれは、無知故に一方的に決め付けて、軽蔑を前提にした身勝手な行いだった。その後も空回りを続けてしまった。
あの桜の前で私に触れる彼の目を見た時、気付いてしまった。挑発的で自信に満ち溢れ、気丈に振舞っている彼の心を、私は確実に傷付けてしまっていたのを。
「貴方らしいわね……真面目で、ちょっと頑固で。ま、この国だって似た様な物よ、崩壊前はマシだったらしいけど、思考を放棄して偏ったイメージを今だに引き摺っている……でもね、ユーチェン。LGBTQ+に限らず、他人を理解して受け入れるって事自体が、そもそも、難しい事なの。その本で学べても、それを実践するとなると、きっと今みたいな戸惑いを繰り返す事なる」
彩子さんから本を手渡される。まるでこの本を以前から熟読して、その上で自分の言葉に置き換えて、解かり易く解釈してるかの様だ。大人の人が持つ、思考や経験には、不本意ながら頭が下がる思いだ。
確かにこれに限った話じゃない。相手を知って自分を知ってもらう、その過程で受け入れ難いものがあれば、拒絶して対立する。
それどころか、どうせ分かり合えないと鼻から先手を打って、押さえ付ける事を考えてしまう。その方が楽だし、力がある私には最も手っ取り早く容易な手段だ。
「では、どうするべきですか?」
そんな容易で無知な手段を使わずに、或いは使っていけない人と、向き合う為の方法、そして望む関係性を築いていく為の方法。
忍者の鵜飼であれ、輝紫桜町のポルノデーモンであれ、私は今、それを学ぶ必要がある。人として心得るべき事を、弟の為にとは言え、今まで情け知らずの妖に成る事に執着し過ぎて、蔑ろにしてきたものを。
「そうやって考えて悩んで、そして互いによく話す。貴方が相手を受け入れるのと同じ様に、貴方も相手に受け入れてもらえる努力をなさい。その本に書かれている事は、その努力が実りあるものなる為のヒントだけ。参考書でもないし、攻略法でもない。この人はアレで、あの人はソレ。だからこうなんだ。って安易に決めてかかると、必ず同じ失敗を繰り返す事になる。その本に記された言葉は時として人を縛る事にもなる……」
「何だか、難しそうですね……」
努力か。長い時間と、もどかしさが付き纏う言葉だった。でも、それが一番有効な手段なのだろう。
分からない事、理解できない事を知ろうとする努力。それを話し合えるぐらいの信頼関係を築く為の、時間の積み重ねならば、確かに無駄な事にエネルギーは使いたくはないな。
彩子さんとポルノデーモンの言った言葉が、見事に重なっていた。近道なんてものはない、だからこそ時間を無駄にしたくはない。
本の表紙を眺める。油絵具で力強く描かれた八色のレインボーフラッグは鮮やかながらも、どこか重々しく感じた。
「彩子さんは、そういう経験がありますか?」
「ない……私じゃなく、陽葵がそれを教えてくれた」
「母が?」
私の問いに、長い間を置いて彩子さんは答えた。母の事を話す時は、何時も良き日を懐かしむ様な眩しさがあったが、今の彩子さんにそれはなく、むしろ影の様な雰囲気を纏っていた。
私の知る“友達”と言う存在は十三の頃から止まっていて、それ以降は存在していない。だとしても、母と彩子さんの関係が、友達と言う関係で消化できるものなのだろうか。信頼を超えた、深くて強い絆。
彩子さんの母を想う気持ちは、本当に親友への弔いだけなのだろうか。何故、私は二人の事を、昔の友人同士と言う言葉だけで消化できずに興味を持ち始めてきているのか。
「ま、その話はまた追々で、何か食べましょ。緊張が解けたらお腹空いて来ちゃった。オムライスでも頼もうかしら、貴方は?」
しばし続いていた沈黙を、彩子さんは無理に振り払う様に、遅めのランチを提案してきた。
この雰囲気だと、彩子さんは話してはくれなさそうだ。
「じゃあ、ホットサンドで……」
「それを食べたら、二日後に備えてしっかり準備しないとね」
母と彩子さんの関係についても、いずれは詳しく聞ければいいが、先ずは目の前の成すべき事を、何よりも弟のジャラを見つけ出す事に専念しないと。
ちょっと不思議で、でも心強くて頼れる相棒の彩子さんと共に、行動開始だ。
ウェイタードローンを呼び止め、料理を注文している彩子さんをよそに窓の外を眺める。
立ち並ぶ味気ないビルの、更にその上の空は、厚い灰色に満たされて、味気なさを一層引き立てていた。
今日の夜から明日辺りはずっと、雨が降り続ける日になりそうだ。
今度会った時は必ず殺してやる。数日前まで、この忍者にはそんな殺意しかなかった。
ところが、今はどうだ。自分でも驚く程、落ち着いていた。話せば案外上手くいく。と、飄々と答えたポルノデーモンの言葉と表情が思い浮かぶ。私に賢く立ち回る事ができるだろうか。
私には“力”があった。常人では手に入れる事の出来ない、非常に特殊で強力な力だ。
ねじ伏せてきた。弟を拐った奴等を、それに関わっている連中も。話す必要もない、脅せばいい。今までは、そうしてきた。
「市長の命の下、この街を影から守っている忍者。正義の味方って訳ね……」
締め上げている首を少し緩めてやる。話辛いだろうから。
荒い息遣いを整えてる。同じぐらいの背丈、左目の縦傷、そして念動力で掴んだ感覚は紛れもない、あの夜の忍者その物だった。
フォーマルな短髪に、安物のスーツ越しからも逆三角形の引き締まった体系が浮き出ている様だ。
役所に忍び込んで、この部屋に辿り着くのは意外に簡単だった。闇雲に探すには時間が掛かりそうなので、私物のハンカチを使って、職員に尋ねたのだ。ロビーで左目に縦傷のある人が落としたと。
庶務課のネームプレートを付けた、気の良さそうなおばさんがあっさりと、ここを教えてくれた。
「知ってると思うけど、私はまだ、“二つ”念動力を残している。下手な真似をしても無駄よ」
今は両手両足、胴体と首を念動力で掴んでいる状態だ。前回よりも拘束は大雑把だが、余力を残し、忍者の様子に警戒しておく。安っぽいスーツ姿でも、何かを隠し持っている可能性は否定できない。喋る様子も見せないのは、反撃の機会を伺ってるからだ。
それにしても、黙られると何となく話辛く感じる。
「お前は荒神会を襲っていた。それなら私達は味方同士、と言う事でいいのか?」
問いかけに対し無言が続く。いやに重苦しい間。
会話をする。そんな人間の基本的な行為なのに、私は今、それを難しいと感じていた。相手に自分を無視させずに興味を持たせると言う、意図した会話。どうすれば、そんな事が出来るのだろうか。
私には彼の様な魅力も色気だってないし、そもそも、この状況では相手に姿も見せられない。沈黙に耐えるしかない。
「味方だと? 笑わせるな。先に仕掛けてたのそっちだろ」
やっと鵜飼の方から言葉が出てきた。確かに先に仕掛けたのは自分だ。怒り任せに自動車を叩き付けた。
ここまでで、五分少々が経過してる。彩子さんから何事も十分以内が安全だと言われていた。確かに長居は好ましくない。
「そうだった……。なら、一度改めてみないか? 二日後のあの場所、あの時間にもう一度会って、ゆっくり話し合おうじゃないか。お互いの利益になる様に」
今日、ここで全てを話す事は出来ないのは前提である。用件を話して撤収する準備を進めないと。
ポケットの中から結束バンドと布切れを取り出す。
「利益だと? 貴様の様な性悪女のガキにくれてやる利益なんてない! イカれたサイキックめ!」
酷い言われ様だ。何も知らないくせに勝手な事ばかり。
「イカれてる? 不条理に暴力で家族を奪われて、異国へ連れ攫われた人達を救うたいと行動する事が、イカれていると言うのか」
「通すべき筋があるだろ」
「如何にも役人の言いそうな御尤もだな。お前たちが役に立った試しがあるか? 証拠を提示したって奴等は動かなかった。この国だってどうせ同じだ。違うと断言出来るか?」
出来る訳がない。此処だって既存の公的機関では対処できない事が多いから、忍者なんかを雇っているんだ。この矛盾の中に在りながら何が筋だ――笑わせるな。
真っ当な説教に耳を傾ける段階はとっくに終わっているんだ。でなきゃ、鋼鉄の尾を振り回す化物になんかなるものか。
「だから同じ穴の狢になるのか、貴様等アウトローは何時もそうだな。身勝手を正義に置き換えて暴走する……」
「その言葉、お前にそっくり返してやる。忍者だって暗殺者の延長じゃないか。飼い主が御上なだけの、つまらない犬だ」
やはり相容れない関係なのか、公僕とアウトローでは。
じき十分になる。携帯を取り出し画面を見るが、彩子さんからの連絡はない。まだ市長と話している最中だろう。こちらはそろそろ潮時だ。
「我等を見縊るなよ……」
鵜飼の両腕が僅かに動き出す。強力な念動力に、ここまで抵抗する者は今まで見た事なかった。意識を集中して力を強めるが、それでも鵜飼の身体は僅かに動いていた。破られはしないだろうけど、忍者の執念には恐れ入る。
念動力で布切れを浮かし、鵜飼に猿ぐつわをしてやり、両腕を後ろに回して素早く結束バンドで拘束した。
何を仕込んでいるか分からない。出来るだけ近づきたくなかった。
「粋がるな……私は今、お前の命だけじゃない、ここで働く人達、そして市長の命だって握っているんだぞ。二日後、必ず来い。お前の正体は分かった、やろうと思えば、何時でもやれるぞ……」
この手の脅し文句は得意だ。叔父がよく使っていたのを横で見ていたから。ドアの鍵を開け、部屋を出る準備に入る。この時点で鵜飼との距離は二メートル。
五メートル以上離れれば、念動力の力も次第に弱くなる。結束バンドの拘束だって、奴の事なら容易く解く事だろう。
念の為だ、ドアを開け部屋を出ると同時に、傍にある本棚を念動力でドアの前にずらしておく。これなら鵜飼が部屋を出るのに時間が稼げる。
「忍者の鵜飼猿也、また会おう……」
ドアを閉めて、早々にロビーへ向かう。念動力が弱まって来るのが分かる。帽子を深く被り、すれ違う職員に軽い会釈をし、走りたい気持ちを抑えながら、早歩きに階段を駆け下りる。既に念動力は解けてしまった。
騒ぎになるかどうかは、数分後の鵜飼次第だ。ロビーに出て、再びトイレで着替えれば、一先ず安心だろう。
少々ぎこちない形ではあるが、上手くいったぞ。私と彩子さん、二人で一歩、前進したのだ。
気が早いが、その事に気が高ぶって来る。――美味い紅茶が楽しめそうだ。
彩子さんからメールが届く。そろそろ一時間が過ぎて、心配になってきたタイミングだったが、どうやら、騒ぎにはなっていないらしい。これで一安心だ。
市役所の近くにある、喫茶店は昼食時を過ぎても、賑やかに繁盛していた。古めかしい純喫茶の出で立ち。午後をゆったり過ごすには最適な処だった。
ティーポットに入った紅茶をカップに注ぐ。この二杯目にはミルクと砂糖も入れた。
あと数分もすれば、彩子さんがこの店に来る筈だ。紅茶を口にする。先程まで続いていた、ソワソワとした胸の高鳴りが、ようやく落ち着いたところで、再び本の文字を追いかける。
まさか自分がこんな本を呼んでいるなんて、数ヶ月前なら、いや、輝紫桜町に足を踏み入れなければ絶対なかっただろうな。
久しく体験してない感情を味わえている。本を読み、驚きと発見の連続に身を置く事。家族がいた頃は、よく本を読んでいた。叔父と暮らすようになってからはインターネットで必要な物だけを吸収するだけの生活になっていったが。
そもそも、人に関心なんてなかった私には、何を考えたって傷付けてしまうのだろう。この本を読んでいると、その事をまざまざと痛感する。
彼の言った通りだった。私には自分の考えなんて持っていない。そのくせ、何の根拠も意思もなく、勝手な価値観を前提にして。これは――考え方も知らなかったで済む事じゃない。
やっと理解した。私はあの人に酷い事を言っていたと。
「ユーチェン?」
「あ、彩子さん……」
少し前まで喫茶店の入り口に注意を払っていたが、何時の間にか本を読むのに集中してしまって気付けなかった。目の前に立つ彩子さんを見上げる。ネクタイを崩し、ワイシャツのボタンを二つ外している。少し、はだけ過ぎている様にも思えるが。
「ごめんなさいね、ちょっと長話になって」
スーツのポケットから取り出した煙草の箱とライターをテーブルに置いて、忙しなく席に座って、同じく忙しなく店内を走るウェイタードローンに珈琲を注文していた。ブロンズとウッドのボディが店の雰囲気に合っていた。
市長とはアポイントメントなしの訪問で、話せても数十分程度というのが当初の予定だったが、どんな話をしていたのだろうか。
「何か騒ぎになったりとかしてませんでしたか?」
「特に何も。氷野市長が港区の再開発について熱弁してた。こっちが話す隙も与えないぐらいにね。多少の揺さぶりはかけてみたけど、中々に強かで、掴み所のない人だった……。そっちも上手くいった様ね」
拘束を解いた忍者の鵜飼が、騒ぎ立ててないか心配したが、そうはならなかったようだ。今頃、どうなっているのか。
「後は二日後、でも、あの忍者は協力的ではなさそうです。利用する方向で」
今回の目的は、あの忍者の正体を掴んで、話が出来る場へ誘い込む事だ。計画通りに、今の所は進んでいる。
重要なのは次の段階。味方になれるか、やはり敵となるか、お互いの目的と今持ち合わせている情報を共有し合えるかだった。
次はまた、あの忍者と戦う事になる可能性も高い。それを避ける為にも、しっかり会話が出来るかどうか。それに関しては――少し自信を失いかけている。
「先ずは第一段階突破ね、何だかスパイ映画みたい」
「そんな呑気な……」
こっちの抱いている重圧とは裏腹に、彩子さんは無邪気に笑顔を見せて来たので言い返しておくが、確かに今後は、こういう行動も必要になってくるのかもしれない。所謂、情報戦だ。
今までみたいに、チンピラやヤクザを、九尾で薙ぎ倒すだけでは通用しない段階に来たのかもしれない。
「呑気じゃないわよ、何なら署から自動小銃持ち出してでも、忍者と戦うつもりなんだから」
今の彩子さんの調子なら、本当にやりかねないから、少し心配になる。
荒神会の襲撃が空振りに終わったあの夜から、彩子さんは本当に雰囲気が変わった。それまではお互い他人行儀だったのに、その距離が一気に縮まった。
塞ぎ込んでいた私を気遣ってなのか、何時も明るく、日増しに生き生きとした雰囲気で、私を励ましてくれた。――救われたと思ってる。
「本当に何から何まで、彩子さんには感謝しかありません」
ウェイタードローンが珈琲を差し出し、空になったティーポットを片付けてくれたタイミングで、私は彩子さんに感謝をする。出会って約一ヶ月半。何度、礼をした事か。
彩子さんは、その言葉を受け止めると、少し微笑み、神妙な面持ちで珈琲を飲んでいた。あまり見ない表情に感じる。
「こんな事言うと、おかしいって思われるかもしれないけど。私ね、貴方からメールが来る以前は、いや、陽葵が中国へ行って以降は、自分の中身がどんどん空っぽになって行く様な感じだったの……。勿論、警察の仕事はやり甲斐があるけどね」
「空っぽ、ですか」
初めてかもしれない。彩子さんから母の話は沢山聞いてきたが、彩子さん自身の話を聞くのは。
思い立ったかの様な、言葉のぎこちなさが普段の彩子さんの大人の女性と言うイメージから離れていた。
「貴方を通じて陽葵が死んだと知り、その空っぽになった所を、何かで満たさないと、自分自身の意味すら失ってしまう様な気がした……。陽葵は私にとって、私を証明してくれる唯一の存在だった。だから貴方とジャラを救う事は、私自身を救う事でもあるの。貴方を手助けしてるのは、警官の務めでもなく、大人の責任なんかでもない、私と陽葵の為。自分でも勝手だと思っている……」
始終、視線を下に降ろしたまま、忍びなさを滲ませている。彩子さんがそんな事を考えていたとは。
しかし、私は何処か納得していた。親しかった人の娘、それだけの理由でここまで協力的に、いや、献身的にしてくれるだろうかと。
彩子さんの言葉の真意を完全に理解している訳ではない。親しい友人、それ以上の感情すら感じる。それは常に感じていた。
「それでも、助けである事には変わりません。意外に私達は、対等な相棒なのかもしれませんね」
彩子さんを駆り立てる理由が何であれ、その行き着く先が弟を救う道に辿り着けるのなら、私達の生きる意味に繋がるのなら、何だって構わない。
CrackerImpに彩子さん。私は気付かない内に、心強い味方に出会えていたようだ。
「ところで、最近熱心に読んでるけど、何かあったの?」
ふと気付くと手元に広げいた本が、彩子さんに取られていた。表紙を突き付けられる。
表題は“私を見て”副題には“LGBTQ+とSOGIE”。現時点では熱心と言うよりも、夢中に近い領域まで来ている。
ポルノデーモン、彼が言っていた言葉の一つ一つが読み解ける様で、快感すら覚えている。“私を見て”という表題も“シンプルに俺の事を見てよ”と言っていた彼の言葉と重なるものがあったから、数ある中からこの本を選んだのだった。
完全に理解している訳ではない。でも、こう言う人の見方と、そんな人達の考え方があったのかと、衝撃を受けていた。当然、自分の無知さも思い知っている。
それにしても、本を手にする彩子さんの表情が、妙に硬く感じられた。確かに脈絡もなく突然、こういう本を読んでいれば、気になるかもしれないが。
「まぁ、興味と言うか」
「何故、興味が?」
透かさず問われる。詰問とまではいかないが、今の綾子さんは、まさに刑事の顔付きだ。もしかして私がそうなのかと疑っているのだうか。
答えるまで引き下がらない。そんな圧力すら感じた。
「実を言うと、輝紫桜町で、そういう人と話す機会があって。何て言うか、自分の理解を超えいて、その人とうまく噛み合わない感じが、どこかもどかしくて……」
まるで、白状する犯罪者だ。濁したり、誤魔化す言葉を探す間もなく、本当の事を話してしまった。
輝紫桜町を素通りしただけ。と言う嘘はこれで終わりか。
「私の国では、性別も在り方も全て厳しく定められていています。大国だから、多様性よりも、統一思想が強いのでしょう。だから、なんか戸惑ってしまって。でもそれはきっと、言い訳にはならなくて。私は何時も、普通になりたいと思っていたから、普通じゃないのに堂々としていられるその人が、どこか許せなくて」
それからは本音がどんどんこぼれ落ちてしまった。故郷の国の事を思い出すと息苦しくなる。
今の私の状況に関係なく、サイキックである事は隠すべき事だ。普通じゃない者として畏れられるか、それこそ、トラブルの種になる。
そんな肩身の狭さが時々苦しかった。その不満に相反する、輝紫桜町とポルノデーモンの態度が腹立たしかった。
でもそれは、無知故に一方的に決め付けて、軽蔑を前提にした身勝手な行いだった。その後も空回りを続けてしまった。
あの桜の前で私に触れる彼の目を見た時、気付いてしまった。挑発的で自信に満ち溢れ、気丈に振舞っている彼の心を、私は確実に傷付けてしまっていたのを。
「貴方らしいわね……真面目で、ちょっと頑固で。ま、この国だって似た様な物よ、崩壊前はマシだったらしいけど、思考を放棄して偏ったイメージを今だに引き摺っている……でもね、ユーチェン。LGBTQ+に限らず、他人を理解して受け入れるって事自体が、そもそも、難しい事なの。その本で学べても、それを実践するとなると、きっと今みたいな戸惑いを繰り返す事なる」
彩子さんから本を手渡される。まるでこの本を以前から熟読して、その上で自分の言葉に置き換えて、解かり易く解釈してるかの様だ。大人の人が持つ、思考や経験には、不本意ながら頭が下がる思いだ。
確かにこれに限った話じゃない。相手を知って自分を知ってもらう、その過程で受け入れ難いものがあれば、拒絶して対立する。
それどころか、どうせ分かり合えないと鼻から先手を打って、押さえ付ける事を考えてしまう。その方が楽だし、力がある私には最も手っ取り早く容易な手段だ。
「では、どうするべきですか?」
そんな容易で無知な手段を使わずに、或いは使っていけない人と、向き合う為の方法、そして望む関係性を築いていく為の方法。
忍者の鵜飼であれ、輝紫桜町のポルノデーモンであれ、私は今、それを学ぶ必要がある。人として心得るべき事を、弟の為にとは言え、今まで情け知らずの妖に成る事に執着し過ぎて、蔑ろにしてきたものを。
「そうやって考えて悩んで、そして互いによく話す。貴方が相手を受け入れるのと同じ様に、貴方も相手に受け入れてもらえる努力をなさい。その本に書かれている事は、その努力が実りあるものなる為のヒントだけ。参考書でもないし、攻略法でもない。この人はアレで、あの人はソレ。だからこうなんだ。って安易に決めてかかると、必ず同じ失敗を繰り返す事になる。その本に記された言葉は時として人を縛る事にもなる……」
「何だか、難しそうですね……」
努力か。長い時間と、もどかしさが付き纏う言葉だった。でも、それが一番有効な手段なのだろう。
分からない事、理解できない事を知ろうとする努力。それを話し合えるぐらいの信頼関係を築く為の、時間の積み重ねならば、確かに無駄な事にエネルギーは使いたくはないな。
彩子さんとポルノデーモンの言った言葉が、見事に重なっていた。近道なんてものはない、だからこそ時間を無駄にしたくはない。
本の表紙を眺める。油絵具で力強く描かれた八色のレインボーフラッグは鮮やかながらも、どこか重々しく感じた。
「彩子さんは、そういう経験がありますか?」
「ない……私じゃなく、陽葵がそれを教えてくれた」
「母が?」
私の問いに、長い間を置いて彩子さんは答えた。母の事を話す時は、何時も良き日を懐かしむ様な眩しさがあったが、今の彩子さんにそれはなく、むしろ影の様な雰囲気を纏っていた。
私の知る“友達”と言う存在は十三の頃から止まっていて、それ以降は存在していない。だとしても、母と彩子さんの関係が、友達と言う関係で消化できるものなのだろうか。信頼を超えた、深くて強い絆。
彩子さんの母を想う気持ちは、本当に親友への弔いだけなのだろうか。何故、私は二人の事を、昔の友人同士と言う言葉だけで消化できずに興味を持ち始めてきているのか。
「ま、その話はまた追々で、何か食べましょ。緊張が解けたらお腹空いて来ちゃった。オムライスでも頼もうかしら、貴方は?」
しばし続いていた沈黙を、彩子さんは無理に振り払う様に、遅めのランチを提案してきた。
この雰囲気だと、彩子さんは話してはくれなさそうだ。
「じゃあ、ホットサンドで……」
「それを食べたら、二日後に備えてしっかり準備しないとね」
母と彩子さんの関係についても、いずれは詳しく聞ければいいが、先ずは目の前の成すべき事を、何よりも弟のジャラを見つけ出す事に専念しないと。
ちょっと不思議で、でも心強くて頼れる相棒の彩子さんと共に、行動開始だ。
ウェイタードローンを呼び止め、料理を注文している彩子さんをよそに窓の外を眺める。
立ち並ぶ味気ないビルの、更にその上の空は、厚い灰色に満たされて、味気なさを一層引き立てていた。
今日の夜から明日辺りはずっと、雨が降り続ける日になりそうだ。