残酷な描写あり
R-15
4.― KOGA LIU ―
4.― KOGA LIU ―
薄っすらと均一に、灰色の雲が空を覆っている。今夜辺りから、一雨降るかもしれない。
市役所の屋上に来るのは久し振りだった。そして、こんな沈んだ気分で此処に来るのは――初めてかもしれない。
あの夜、輝紫桜町から出るのに一晩かかってしまった。まるで高額な賞金首にでもなったかの様に愚連隊に追いかけ回され、忌々しいアプリに暴かれながら立ちはだかるチンピラ共を蹴散らしては逃げ続けた。事ある毎に地獄と比喩される、輝紫桜町からの手痛い一撃。
氷野市長には鷹野を経由して報告しているが、これは直接、弁明しなくてはならない事だ。眉間にしわが寄る。この空模様に似て、とても気が重い。
頭の後ろでドアが開く音がする。早歩きの革靴の音。忙しない雰囲気を感じた。
「忍者に呼び出される主君もいたもんだ……久し振りに会ったのに悪いが、人を待たせてる。手短に頼むぞ、鵜飼」
氷野さんの皮肉も一理ある。本来なら俺が呼び出される立場だ。常に雇い主の側に付き、命を受けるのが忍者の勤めである。
本当に格好がつかない。顔を合わせるのも気不味いが、意を決して振り向いた。
「氷野さん。すまない、しくじったよ」
額には裂傷、左頬や右目辺りは青あざと、喧嘩に負けた様な情けない顔を氷野さんに曝した。
「大丈夫か? 鵜飼らしくない……」
触りこそしないが、近づいて来てまじまじと顔を見られる。面食らった表情をされるのも無理ない。この五年間、課せられた仕事は完璧にこなしてきた。その全てが無傷ではないにせよ、こんな無様を氷野さんが見るのは初めてだろう。
「正体は何一つバレちゃいない。けど、俺が余所者で街に出入りしてて、色々嗅ぎ回ってる事はバレてた。あの街には独自のネットワークが存在してて、街の人間同士で広く共有される……」
あの時、チンピラ共から奪った携帯端末の一つを氷野市長に見せる。幾つか奪ったが、この携帯以外は直ぐにアカウントが凍結され、使用できなくなった。これも時間の問題だろう。
“ヘルアイズ”とは、如何にも輝紫桜町らしいアプリだ。携帯を受け取り、氷野市長はアプリをいじっている。
構造は単純な情報掲示板の様なアプリだが、投稿者と投稿数が異常に多い。しかし、その不確かな情報を繋ぎ合わせる精度が優れていた。
今になって思えば、街で感じていた方々の視線は、これのせいだったのかもしれない。
「なるほど、元々そう言う街だが、更に強固なシステムを導入していた様だな。あれから七年か、街の中で絆が強くなったのかもしれないな……」
後の部分の言葉は、ほぼ呟きに近い小声だった。携帯を手渡される。七年前に輝紫桜町で何があったのか。
市長になる前、二十代の頃に氷野さんは輝紫桜町のホストクラブで働いたと言うが、氷野さんが輝紫桜町を口にする時は常に、懐かしむ様な雰囲気を出す。
「鵜飼、しばらく輝紫桜町には近づくな。あの街を敵に回すと、お前と言えども危険だ。我々の関係も暴かれれば厄介だしな」
「あの街には重要な情報を握ってるヤツもいるし、例の“組合”の殺し屋だっていた。引き下がる訳には」
予想はしていた。氷野さんが消極的になるではないかと。仮にも行政であり公僕の立場にある人間が、俺の様な乱破者を雇って都合良く物事を進めているのは、乱暴極まりない話だ。
公に暴かれてしまえば、お互い破滅しかない。それは分かってはいるが。
「鵜飼、警察は輝紫桜町から撤退する。港区の再開発に関しては、賛同してた企業も辞退を始めた」
「そんな……一体何が?」
輝紫桜町に関しては元々無法地帯だ。警察の影響力が微々たるものなのは、始めから変わらない。
しかし、港区の事に関しては納得出来なかった。この数年、特に港区で戦い続けてきた。大小問わず、港区に巣くう犯罪者共を蹴散らしてきたのに。水泡に帰すのか。散々、この手を汚してきたと言うのに。
「敵が本格的に動き出したって事だ。尻尾は見せないが、かなりの大物だ。もしかすると、市では敵わない程の大物かもしれない。国内でも国外であっても、企業の利益があって、この東北エリアは辛うじて成り立っている様なものだ。東北の旧六県が統合した“六連合特別自治区”も、常に危ういバランスの中にある。此処が迂闊に転べば、全体に響く事になる」
俺達の数年の戦いが、ようやく実を結び、味方を増やし、再開発の見通しだって立っていたのに――下らない巨悪に容易く覆されてしまうのか。
それ程までの圧力を短期間にかけられる黒幕とは、一体どんな組織なんだ。
「それじゃ、手を引くと言うのか?」
「まさか、“六連”がどうこう以前に、俺の目標は、この街を良くして儲ける。それが仕事だ。だからこそ慎重になるべき時なんだ」
俺の問いかけに、氷野さんは素早く否定した。安心する。そう答えてくれると信じていた。
掴み所のない人だけど、目的の為ならストイックなまでに情熱を注げる人だ。俺がこの地で仕えている五年間の中で、誇りに思える瞬間はこう言う時だった。
「俺は何をすればいい?」
「しばらくは港区を警戒しててくれ。出過ぎた真似をする連中は潰しても構わない」
随分、直球に言うな。氷野さんも内心穏やかではなさそうだ。
このままだと、港区を巡った縄張り争いの様なものだ。その場合、いずれはこちらが負けてしまうのは目に見えている。おそらく、人も金も足りてない。
根本的な解決方法はやはり、荒神会の裏にいる強力な黒幕を黙らせる事しかないだろう。港区に目を光らせるのも確かに大事だが、これは思ってた以上に追い詰められた状況の様だ。
「輝紫桜町は俺の方で“つて”を頼って情報を集めてみよう。なに、輝紫桜町は心配ない。外からの抑圧には強い街だし、例のポルノデーモンとやらも、あの街を熟知している印象だ。自分の身は自分で守れるだろう……」
今だに輝紫桜町と繋がりがあると言うのか。市長と言う立場でありながら。そもそも、あんな所を放置しているから、悪党共が寄って来るのではないか。
港区を犯罪組織から解放して、正規の貿易ルートを作ると言うのも大事だが、輝紫桜町の様な街があっては元も子もない。
それにポルノデーモン。その名を出しただけで愚連隊が動き、アプリにはあの情報だ。抜け目のなさそうなポルノデーモンが仕込んだ可能性だってある。ふざけたホモ野郎め。
「あんな無法地帯に、いやに信頼を置いてるな。アンタの過去といい、何故だ?」
鷹野は意味を考えろと言ったが、雑念と嫌悪感を持った俺では、その意味を図り知る事は出来ないだろう。
今後の事に集中する為にも、俺は氷野さんと一度、向き合わなくてならない。
「何故って、何がだ?」
「何故、俺に話したんだ? その……両刀持ちのヤツとか」
絞り出した問いかけに、氷野さんは片眉を上げ怪訝そうにしてる。
わざわざ歓楽街で働いていた事も、自分の性癖をさらす事も、一体何の意味があると言うのだ。
「お前を信用しているからだよ。お前と鷹野とは、もう五年の付き合いだ。この街を影から守るチームだと思ってる。隠し事をするのは疲れるし申し訳ない」
信頼という言葉は甘い。それを受け取って悪い気分にはならない。十九の頃、この街に来た時の事が頭を過る。前任者が甲賀流と繋がりを持っていた。氷野さんはその前任者の紹介から、甲賀流と繋がる事になった。
俺にとって、初めての奉公。やっと独り立ちできると、なりふり構わずに、この街へ飛び込んだ。戸惑いの多い日々。それは今も変わっていないが。
もう五年なのか、どうにか慣れを感じてきたタイミングで、関わりたくもない歓楽街と主君への戸惑い。
逼迫した状況で、この厄介な感情に俺は心を搔き乱されていた――また兄貴と“里”の事が脳裏を過る。
「正直言うと、知りたくなかったよ。俺は……分からないよ、どうしてそうなるのか……」
氷野さんに背を向けて、街を一望した。高層ビルとビルの隙間から覗く、遠くのビル群。その狭間に輝紫桜町があった。
信用されているのは嬉しい事だが、その証に性癖を曝すの意味とは何なのだ。
そもそも、俺と鷹野、氷野さんにそこまでの信頼関係は必要なのだろうか。主君の命を忠実にこなし、世直しの一手を担えれば、忍者にとっての本懐を遂げられると言う物だ。
氷野さんが隣に並ぶ、一八〇センチの長身に並ばれると、一六五センチは見上げる事になる。珍しく電子タバコを吸っていた。
「どうしてかな……俺の場合は始めは必要に駆られたからだ。割り切ってたけど、だんだん惹かれていく様にもなった。男の魅力、女の魅力、隔たりがなくなっていったのは、俺が元々そうだったのか、あの街がそうさせたのか……今となって分からないがね。あの街じゃ“在り得ない”なんて言葉は存在しない。なんでも在りの地獄だから」
煙草の煙が空へ消えていく。隔たりか。
自然の摂理では解釈しきれない問題だし、やはり俺の理解を超えている。異性が異性を愛する感覚で同性に接する感覚、そして氷野さんの言う様に隔たりなく同じ感覚で両方に接する感覚。
“里”に居た頃の忌々しい過去を巡ってみても、俺には到底理解できない感覚だった。
「俺は生まれも育ちも輝紫桜町でね、母子家庭だった。母はセックスワーカーで夜になると、男を連れ込んでたもんだよ。その度に窓から外へ出て時間を潰してた。俺が十七になる頃に母が他界した。身寄りもなく、施設に入れる年齢でもなかったし、自分の力で生きてくしかなかった。人には堂々と話せない事も色々やってたよ。そんな時にあの歓楽街で俺を拾ってくれたのが、ホストクラブの大物オーナーだった。死に物狂いで努力したよ。自分のセクシュアリティが徐々に変わってく事に、戸惑いながらも……」
氷野さんを、見上げざるを得なかった。輝紫桜町の生まれだと言うのも驚きだったが、ホストクラブで働いていたと言う只の情報ではない、その経緯に至る壮絶さに、言葉も出ない。俺の考えや想像など、及ぶところじゃなかった。
「でも、良かったと思っている。あの頃、沢山の人達と色んな角度で関われる事が本当に楽しかった。とは言え、あの街の外に出て戦おうと思うなら、俺は本当の自分を隠さないとならない……。お前と同じだよ鵜飼」
氷野さんの言う、本当の自分、俺と同じ。少しばかりは共感出来る感情かもしれない。俺の正体など隠して然るべきものだと言うのは、百も承知の上で、此処で同じく働いている職員共に見せ付けたく事もある――人生の大半を費やし、磨いてきた忍びの業を。
五年の付き合い、お互いに秘め事のない関係性を、氷野さんは望んでの事だったのか。政(まつりごと)をする人間とは思えない程の裏表のない人だ。
「周りは敵ばかり、そして烏合の衆ばかり、本当の正義を貫けるのは、俺達三人だけだ。だから隠したくなかった。それだけだよ……」
先ほどさりげなく言っていた“チーム”と言う言葉も、どうやら本心の様だ。本当の正義。この混沌とした今の日本ならば、俺達は正に必要悪と言う名の正義と言えるだろう。
そう言えば、初めて会った時に下手な敬語はいらないから、プロとして意見してくれ。そんな事を言われた。
氷野市長は間違いなく、善き主君だ。受け入れ難い事もあるけど、俺はそれを誇りに思うべきだし、その信頼を裏切る様な失態は許されない。
堪えるな、これなら叱咤や罵倒される方がまだいい。つまらない邪念に心を搔き乱されて、注意を怠ってこの様だ――面目ない。
「五年の付き合いで、お前が“嫌っている”んじゃないかって雰囲気は多々感じられた。気にしない様に努めて来た……分かってくれと言わない。それでも俺は変わらず、お前と鷹野を信頼して頼りにしてる」
氷野さんは好ましくない、この状況にあっても、何時もと変わらない自信に満ち溢れた笑みを俺に向けていた。そうだ、このまま引き下がる訳にはいかない。
ごちゃごちゃ考えるのは仕舞いにしよう。今一度、気を引き締めて成すべき事に集中せねば、悪を見極め、負の連鎖を断ち切る。
それが出来るのは――俺達だけだ。
「氷野さん、これ以上はしくじらない。約束するよ」
「期待してるぞ」
輝紫桜町の方を見据えた氷野さんは、電子タバコの煙をモクモクと放っていた。
その場を後にして、エレベーターで何時もの物置の様な事務室に向かう。氷野さんと、あんな話をした後に備品管理の仕事は億劫でしかないが、これを消化してしまって、今後の事も考えていかないとな。
港区の監視か、おそらく荒神会は既に活動可能な状態に持ち直しているのだろう。輝紫桜町の動きは氷野市長、警察の動きは鷹野がやる筈だ。俺はその都度指示に従って行動すればいい。
荒神会のバックにいる組織がどれ程の存在なのか。それさえ分かれば対処法を見い出せるところだが。
未だに暗中模索か。放置すればする程、連中にとって有利に事が進んでいく。
あの男娼は裏でハッカーを営んでいるらしいが、現時点でどこまで知っているのか。あの“組合”の殺し屋とはどんな繋がりがあるのか。
否、やめておこう。今は自分の役目に集中した方がいい。彼方此方に意識を巡らせていては、見えるものも見えこない。
事務室のドアを開け、備品が散乱した埃っぽい部屋に入る。その瞬間、妙な気配を感じ取り、習慣の様に身体が強張る――何かが、誰かいるのか。
そう感じた矢先、全身を得体の知れない“手”に握り締められる様な感覚に襲われた。後頭部の奥の方がピリ付くこの感覚には覚えがあった。
両手、両足、そして胴と首。全身を封じられ身動きが取れない。特に首の締め付けは強く、抗い力む声が噴き出してしまう――馬鹿な、こんな事あり得ない。
後ろで何者かが事務室のドアを閉める。鍵をかける音で焦燥感が増していった。
右肩からそろりと忍び寄る、か細い女の手を目で追う。首にぶら下げたネームプレートが奪われた。
「鵜飼……猿也……」
聞き覚えのある声、間違いない。しかし、どうやって此処に辿り着いたのだ。何故、俺が此処にいると分かった。
不覚。他の事に気を取られ、真に警戒すべき脅威を忘れていた。輝紫桜町の男娼や“組合”の殺し屋どころの話じゃない。俺にはもう一人、恐るべき敵がいた――九尾の黒狐。
「狐が猿を罠にかけた。そんな寓話を読んだ事があるけど、確かに笑える……」
薄っすらと均一に、灰色の雲が空を覆っている。今夜辺りから、一雨降るかもしれない。
市役所の屋上に来るのは久し振りだった。そして、こんな沈んだ気分で此処に来るのは――初めてかもしれない。
あの夜、輝紫桜町から出るのに一晩かかってしまった。まるで高額な賞金首にでもなったかの様に愚連隊に追いかけ回され、忌々しいアプリに暴かれながら立ちはだかるチンピラ共を蹴散らしては逃げ続けた。事ある毎に地獄と比喩される、輝紫桜町からの手痛い一撃。
氷野市長には鷹野を経由して報告しているが、これは直接、弁明しなくてはならない事だ。眉間にしわが寄る。この空模様に似て、とても気が重い。
頭の後ろでドアが開く音がする。早歩きの革靴の音。忙しない雰囲気を感じた。
「忍者に呼び出される主君もいたもんだ……久し振りに会ったのに悪いが、人を待たせてる。手短に頼むぞ、鵜飼」
氷野さんの皮肉も一理ある。本来なら俺が呼び出される立場だ。常に雇い主の側に付き、命を受けるのが忍者の勤めである。
本当に格好がつかない。顔を合わせるのも気不味いが、意を決して振り向いた。
「氷野さん。すまない、しくじったよ」
額には裂傷、左頬や右目辺りは青あざと、喧嘩に負けた様な情けない顔を氷野さんに曝した。
「大丈夫か? 鵜飼らしくない……」
触りこそしないが、近づいて来てまじまじと顔を見られる。面食らった表情をされるのも無理ない。この五年間、課せられた仕事は完璧にこなしてきた。その全てが無傷ではないにせよ、こんな無様を氷野さんが見るのは初めてだろう。
「正体は何一つバレちゃいない。けど、俺が余所者で街に出入りしてて、色々嗅ぎ回ってる事はバレてた。あの街には独自のネットワークが存在してて、街の人間同士で広く共有される……」
あの時、チンピラ共から奪った携帯端末の一つを氷野市長に見せる。幾つか奪ったが、この携帯以外は直ぐにアカウントが凍結され、使用できなくなった。これも時間の問題だろう。
“ヘルアイズ”とは、如何にも輝紫桜町らしいアプリだ。携帯を受け取り、氷野市長はアプリをいじっている。
構造は単純な情報掲示板の様なアプリだが、投稿者と投稿数が異常に多い。しかし、その不確かな情報を繋ぎ合わせる精度が優れていた。
今になって思えば、街で感じていた方々の視線は、これのせいだったのかもしれない。
「なるほど、元々そう言う街だが、更に強固なシステムを導入していた様だな。あれから七年か、街の中で絆が強くなったのかもしれないな……」
後の部分の言葉は、ほぼ呟きに近い小声だった。携帯を手渡される。七年前に輝紫桜町で何があったのか。
市長になる前、二十代の頃に氷野さんは輝紫桜町のホストクラブで働いたと言うが、氷野さんが輝紫桜町を口にする時は常に、懐かしむ様な雰囲気を出す。
「鵜飼、しばらく輝紫桜町には近づくな。あの街を敵に回すと、お前と言えども危険だ。我々の関係も暴かれれば厄介だしな」
「あの街には重要な情報を握ってるヤツもいるし、例の“組合”の殺し屋だっていた。引き下がる訳には」
予想はしていた。氷野さんが消極的になるではないかと。仮にも行政であり公僕の立場にある人間が、俺の様な乱破者を雇って都合良く物事を進めているのは、乱暴極まりない話だ。
公に暴かれてしまえば、お互い破滅しかない。それは分かってはいるが。
「鵜飼、警察は輝紫桜町から撤退する。港区の再開発に関しては、賛同してた企業も辞退を始めた」
「そんな……一体何が?」
輝紫桜町に関しては元々無法地帯だ。警察の影響力が微々たるものなのは、始めから変わらない。
しかし、港区の事に関しては納得出来なかった。この数年、特に港区で戦い続けてきた。大小問わず、港区に巣くう犯罪者共を蹴散らしてきたのに。水泡に帰すのか。散々、この手を汚してきたと言うのに。
「敵が本格的に動き出したって事だ。尻尾は見せないが、かなりの大物だ。もしかすると、市では敵わない程の大物かもしれない。国内でも国外であっても、企業の利益があって、この東北エリアは辛うじて成り立っている様なものだ。東北の旧六県が統合した“六連合特別自治区”も、常に危ういバランスの中にある。此処が迂闊に転べば、全体に響く事になる」
俺達の数年の戦いが、ようやく実を結び、味方を増やし、再開発の見通しだって立っていたのに――下らない巨悪に容易く覆されてしまうのか。
それ程までの圧力を短期間にかけられる黒幕とは、一体どんな組織なんだ。
「それじゃ、手を引くと言うのか?」
「まさか、“六連”がどうこう以前に、俺の目標は、この街を良くして儲ける。それが仕事だ。だからこそ慎重になるべき時なんだ」
俺の問いかけに、氷野さんは素早く否定した。安心する。そう答えてくれると信じていた。
掴み所のない人だけど、目的の為ならストイックなまでに情熱を注げる人だ。俺がこの地で仕えている五年間の中で、誇りに思える瞬間はこう言う時だった。
「俺は何をすればいい?」
「しばらくは港区を警戒しててくれ。出過ぎた真似をする連中は潰しても構わない」
随分、直球に言うな。氷野さんも内心穏やかではなさそうだ。
このままだと、港区を巡った縄張り争いの様なものだ。その場合、いずれはこちらが負けてしまうのは目に見えている。おそらく、人も金も足りてない。
根本的な解決方法はやはり、荒神会の裏にいる強力な黒幕を黙らせる事しかないだろう。港区に目を光らせるのも確かに大事だが、これは思ってた以上に追い詰められた状況の様だ。
「輝紫桜町は俺の方で“つて”を頼って情報を集めてみよう。なに、輝紫桜町は心配ない。外からの抑圧には強い街だし、例のポルノデーモンとやらも、あの街を熟知している印象だ。自分の身は自分で守れるだろう……」
今だに輝紫桜町と繋がりがあると言うのか。市長と言う立場でありながら。そもそも、あんな所を放置しているから、悪党共が寄って来るのではないか。
港区を犯罪組織から解放して、正規の貿易ルートを作ると言うのも大事だが、輝紫桜町の様な街があっては元も子もない。
それにポルノデーモン。その名を出しただけで愚連隊が動き、アプリにはあの情報だ。抜け目のなさそうなポルノデーモンが仕込んだ可能性だってある。ふざけたホモ野郎め。
「あんな無法地帯に、いやに信頼を置いてるな。アンタの過去といい、何故だ?」
鷹野は意味を考えろと言ったが、雑念と嫌悪感を持った俺では、その意味を図り知る事は出来ないだろう。
今後の事に集中する為にも、俺は氷野さんと一度、向き合わなくてならない。
「何故って、何がだ?」
「何故、俺に話したんだ? その……両刀持ちのヤツとか」
絞り出した問いかけに、氷野さんは片眉を上げ怪訝そうにしてる。
わざわざ歓楽街で働いていた事も、自分の性癖をさらす事も、一体何の意味があると言うのだ。
「お前を信用しているからだよ。お前と鷹野とは、もう五年の付き合いだ。この街を影から守るチームだと思ってる。隠し事をするのは疲れるし申し訳ない」
信頼という言葉は甘い。それを受け取って悪い気分にはならない。十九の頃、この街に来た時の事が頭を過る。前任者が甲賀流と繋がりを持っていた。氷野さんはその前任者の紹介から、甲賀流と繋がる事になった。
俺にとって、初めての奉公。やっと独り立ちできると、なりふり構わずに、この街へ飛び込んだ。戸惑いの多い日々。それは今も変わっていないが。
もう五年なのか、どうにか慣れを感じてきたタイミングで、関わりたくもない歓楽街と主君への戸惑い。
逼迫した状況で、この厄介な感情に俺は心を搔き乱されていた――また兄貴と“里”の事が脳裏を過る。
「正直言うと、知りたくなかったよ。俺は……分からないよ、どうしてそうなるのか……」
氷野さんに背を向けて、街を一望した。高層ビルとビルの隙間から覗く、遠くのビル群。その狭間に輝紫桜町があった。
信用されているのは嬉しい事だが、その証に性癖を曝すの意味とは何なのだ。
そもそも、俺と鷹野、氷野さんにそこまでの信頼関係は必要なのだろうか。主君の命を忠実にこなし、世直しの一手を担えれば、忍者にとっての本懐を遂げられると言う物だ。
氷野さんが隣に並ぶ、一八〇センチの長身に並ばれると、一六五センチは見上げる事になる。珍しく電子タバコを吸っていた。
「どうしてかな……俺の場合は始めは必要に駆られたからだ。割り切ってたけど、だんだん惹かれていく様にもなった。男の魅力、女の魅力、隔たりがなくなっていったのは、俺が元々そうだったのか、あの街がそうさせたのか……今となって分からないがね。あの街じゃ“在り得ない”なんて言葉は存在しない。なんでも在りの地獄だから」
煙草の煙が空へ消えていく。隔たりか。
自然の摂理では解釈しきれない問題だし、やはり俺の理解を超えている。異性が異性を愛する感覚で同性に接する感覚、そして氷野さんの言う様に隔たりなく同じ感覚で両方に接する感覚。
“里”に居た頃の忌々しい過去を巡ってみても、俺には到底理解できない感覚だった。
「俺は生まれも育ちも輝紫桜町でね、母子家庭だった。母はセックスワーカーで夜になると、男を連れ込んでたもんだよ。その度に窓から外へ出て時間を潰してた。俺が十七になる頃に母が他界した。身寄りもなく、施設に入れる年齢でもなかったし、自分の力で生きてくしかなかった。人には堂々と話せない事も色々やってたよ。そんな時にあの歓楽街で俺を拾ってくれたのが、ホストクラブの大物オーナーだった。死に物狂いで努力したよ。自分のセクシュアリティが徐々に変わってく事に、戸惑いながらも……」
氷野さんを、見上げざるを得なかった。輝紫桜町の生まれだと言うのも驚きだったが、ホストクラブで働いていたと言う只の情報ではない、その経緯に至る壮絶さに、言葉も出ない。俺の考えや想像など、及ぶところじゃなかった。
「でも、良かったと思っている。あの頃、沢山の人達と色んな角度で関われる事が本当に楽しかった。とは言え、あの街の外に出て戦おうと思うなら、俺は本当の自分を隠さないとならない……。お前と同じだよ鵜飼」
氷野さんの言う、本当の自分、俺と同じ。少しばかりは共感出来る感情かもしれない。俺の正体など隠して然るべきものだと言うのは、百も承知の上で、此処で同じく働いている職員共に見せ付けたく事もある――人生の大半を費やし、磨いてきた忍びの業を。
五年の付き合い、お互いに秘め事のない関係性を、氷野さんは望んでの事だったのか。政(まつりごと)をする人間とは思えない程の裏表のない人だ。
「周りは敵ばかり、そして烏合の衆ばかり、本当の正義を貫けるのは、俺達三人だけだ。だから隠したくなかった。それだけだよ……」
先ほどさりげなく言っていた“チーム”と言う言葉も、どうやら本心の様だ。本当の正義。この混沌とした今の日本ならば、俺達は正に必要悪と言う名の正義と言えるだろう。
そう言えば、初めて会った時に下手な敬語はいらないから、プロとして意見してくれ。そんな事を言われた。
氷野市長は間違いなく、善き主君だ。受け入れ難い事もあるけど、俺はそれを誇りに思うべきだし、その信頼を裏切る様な失態は許されない。
堪えるな、これなら叱咤や罵倒される方がまだいい。つまらない邪念に心を搔き乱されて、注意を怠ってこの様だ――面目ない。
「五年の付き合いで、お前が“嫌っている”んじゃないかって雰囲気は多々感じられた。気にしない様に努めて来た……分かってくれと言わない。それでも俺は変わらず、お前と鷹野を信頼して頼りにしてる」
氷野さんは好ましくない、この状況にあっても、何時もと変わらない自信に満ち溢れた笑みを俺に向けていた。そうだ、このまま引き下がる訳にはいかない。
ごちゃごちゃ考えるのは仕舞いにしよう。今一度、気を引き締めて成すべき事に集中せねば、悪を見極め、負の連鎖を断ち切る。
それが出来るのは――俺達だけだ。
「氷野さん、これ以上はしくじらない。約束するよ」
「期待してるぞ」
輝紫桜町の方を見据えた氷野さんは、電子タバコの煙をモクモクと放っていた。
その場を後にして、エレベーターで何時もの物置の様な事務室に向かう。氷野さんと、あんな話をした後に備品管理の仕事は億劫でしかないが、これを消化してしまって、今後の事も考えていかないとな。
港区の監視か、おそらく荒神会は既に活動可能な状態に持ち直しているのだろう。輝紫桜町の動きは氷野市長、警察の動きは鷹野がやる筈だ。俺はその都度指示に従って行動すればいい。
荒神会のバックにいる組織がどれ程の存在なのか。それさえ分かれば対処法を見い出せるところだが。
未だに暗中模索か。放置すればする程、連中にとって有利に事が進んでいく。
あの男娼は裏でハッカーを営んでいるらしいが、現時点でどこまで知っているのか。あの“組合”の殺し屋とはどんな繋がりがあるのか。
否、やめておこう。今は自分の役目に集中した方がいい。彼方此方に意識を巡らせていては、見えるものも見えこない。
事務室のドアを開け、備品が散乱した埃っぽい部屋に入る。その瞬間、妙な気配を感じ取り、習慣の様に身体が強張る――何かが、誰かいるのか。
そう感じた矢先、全身を得体の知れない“手”に握り締められる様な感覚に襲われた。後頭部の奥の方がピリ付くこの感覚には覚えがあった。
両手、両足、そして胴と首。全身を封じられ身動きが取れない。特に首の締め付けは強く、抗い力む声が噴き出してしまう――馬鹿な、こんな事あり得ない。
後ろで何者かが事務室のドアを閉める。鍵をかける音で焦燥感が増していった。
右肩からそろりと忍び寄る、か細い女の手を目で追う。首にぶら下げたネームプレートが奪われた。
「鵜飼……猿也……」
聞き覚えのある声、間違いない。しかし、どうやって此処に辿り着いたのだ。何故、俺が此処にいると分かった。
不覚。他の事に気を取られ、真に警戒すべき脅威を忘れていた。輝紫桜町の男娼や“組合”の殺し屋どころの話じゃない。俺にはもう一人、恐るべき敵がいた――九尾の黒狐。
「狐が猿を罠にかけた。そんな寓話を読んだ事があるけど、確かに笑える……」