残酷な描写あり
R-15
６．― KOGA LIU ―
６．― KOGA LIU ―
潮風が心地よい。このまま月見酒でも洒落込みたい気分になる。生憎の曇りで月はほとんど見えないが、忍者にとっては都合の良い夜だ。
港区の工業地域にある廃ビルを陣取って三日、今夜はいよいよ、荒神会の構える事務所へ潜入する。五階建ての廃ビルの屋上から、その向かいにある荒神会が所有する三階建てのビルを見下ろた。じき、午前〇時になるが、ほとんどの窓から灯りが漏れている。こんな夜中まで一体何をしているのやら。
あの建物には常に三、四十人ぐらいがいる。初日にあそこへ忍び込んだ日を思い出す。
先ずは電気工務店に化けて盗聴器を仕掛けた。通信回線のショートを装い、修理に行く。荒神会が利用する、電気工務店に、氷野市長殿が事前に手を回してくれていたので、楽に忍び込めた。
その時に建物の大体の間取りは覚えた。三階の真ん中、大きな窓ガラスに御大層な三宝荒神が描かれている部屋。一際広く、社長室の様な出で立ちの部屋だ。その時は組長の様なのがいたのだろう、入る事は出来なかった。扉の隙間から得る僅かな情報と位置、後はこの廃ビルから覗き込む様子のみ。
そして印象的なのが、このビルに出入りする連中は年齢に問わず全員が背広姿だった事だ。
見るからに下っ端の様な若い連中ですら、しっかりとした背広を着こなし、襟を正していたのが印象的だった。
盗聴器から聞こえる会話も、一部は如何にもなヤクザな雰囲気もあれば、機械的で整った会話をしている者達もいる。総合的に見てヤクザと言うより、ヤクザの体でいるかの様な違和感を感じた。
何れにしても今夜中に必要な物を頂戴して、今後の行動も定めていかねば。
目的は三階のあの部屋だ。この三日間の盗聴と盗撮の探りで、情報らしい物を納めていそうな場所はそこしかない。狙うのは密輸を立証できる情報の類。
パソコンの様な証拠が残り易い物には入れられない、物理的に存在する情報を手に入れたいところだが。
荒神会はこの事務所以外にも、幾つかの拠点があるが、氷野さんと鷹野の話では、ここが有力だと言う話だった。
蜂がねを引き締め、マスクとバイザーを装着しフードを被る。忍者は常に任務の成功率を高める為に、その時代時代における最新鋭と呼べる物を柔軟に多く取り入れて、生き永らえてきた歴史があるが、俺の様にそれは最小限に止めて、忍本来の技術や技を追求する者も少数ながら存在する。それを酔狂を笑う者もいるが、ここぞと言う時こそ磨いてきた業が物を言うと、俺は信じている。
最近では身体の機械化、所謂サイボーグ技術の導入を唱える軟弱な者すらいる。
それでは駄目だ、長年の鍛錬があってこそ、忍の技は今もまだ唯一無二。俺はそんな者は決して認めない。
廃ビルから荒神会のビルまで二〇メートル程、ワイヤーガンを撃ち下ろす。シュルシュルと螺旋を描きながら、荒神会のビルの屋上出入口に深々と突き刺さった。
固定具にワイヤーを巻き付けて限界まで引っ張り、一気に滑り落ちる。荒神会ビルの屋上へ降り立つと同時に、ワイヤーを小太刀で切り落とした。ピンと張ったワイヤーが吸われる様に廃ビルの屋上へ戻っていく。
出入口の扉に耳を当てて様子を探り、ゆっくりと開ける。ここからは息を殺し、五感を研ぎ澄まして足並み十法を駆使して目的の部屋まで向かう。
わざわざ屋上から侵入するのも、目的の部屋への最短ルートだからだ。その部屋には三人いるのを確認している。人の形をした赤とオレンジの三つ塊、一人はソファに座っていて酩酊している様な雰囲気だった。
低くかがみ、廊下の様子も並行して伺う。幸いにも三階にはその三人しかいない様だ。あの三人を部屋から追い出す方法は既に仕込んでいるが――しばし様子も見てみたい気もしていた。
座っている奴は重要ではなさそうだったが、立っている二人。一人は忙しなく動き、一人は直立のした状態。何かを話している様に思えた。
その会話は、おそらく俺にとって――聞く価値のある物と直感が働いた。
階段がある個所から足音が聞こえる、二人か。物陰のない廊下、相手の視界から消えるには上だけか。まだ猶予はある、階段の出入り口まで近付いて飛び上がる。縁と天井の僅かな隙間を掴んで身体を固定した。
意外と気付かれないものだ、子供の頃から仕込まれた“無心”を保つ術と、死角を見極める感覚。二人が真下を通り過ぎていき、三人が話している事務室とは反対の部屋へ入っていく。
ドアが閉まる音と同時に降り立ち、素早く三人がいる部屋の隣の部屋へ入り込んだ。最初の潜入の際に、この部屋が物置代わりの様に使われている事を知っている。部屋の中には、折り畳まれた長机やパイプ椅子、脚立や工具類が乱雑に並べられていた。
天井にある通気ダクトの下に脚立を立てて、通気ダクトのフードを慎重に取り外した。
この通気ダクトも事前に利用できそうだとは思っていたが、できれば使いたくない手段だった。ダクトの中は大体、酷く汚れている物だ。
ダクトの様子を覗いてみる。人一人が、充分に入り込める大きさだったが、案の定ダクトの中は汚れている。マスクとバイザーがなければ、五分と耐えられない様な場所だ。
身を捩り、ダクトの中を芋虫の様にゆっくりと縮めては伸ばして進んでいく。ファンから来る風は控えめで、既に部屋の方からの話声が聞こえてきた。あと四、五メートル程で目的の部屋の真上に辿り着く。
「今西のオヤジも、なんで輝紫桜町なんかに行ってたのか」
「あそこのママには相当入れ込んでたからな。自分の立場を見失ってる……」
格子状のフードの隙間から、部屋の中の三人を覗き込む。話しているのは立っている二人、もう一人はソファにふんぞり返って酒を飲んでいた。三人とも年齢は四十代ぐらい、着こなしているスーツもブランド物だ。おそらく、幹部クラスの連中といったところか。
今西、輝柴桜町の高級クラブで殺された荒神会の幹部だ。思った通り、おもしろそうな話が聞けそうだ。
「お陰で“ブツ”の流れが止まったままだ、データも暗号コードも何処かのクソハッカーに破壊されて、中継ぎ出来る奴もいない」
落ち着きなくウロウロと動く男がこちらの視界から消える。
輝紫桜町の高級クラブ。たった一人で数分の内に九人を仕留めた、紛れもないプロの犯行。
ハッカーと言う言葉はお初の情報だな。殺し屋は荒神会と敵対している勢力に雇われているか、その配下にあると思って間違いないが、そのハッカーも同じか別勢力か。この数週間の間に、荒神会は方々から攻撃を受けていたらしい。
“ブツ”と呼ばれている物は、密輸品の類である事は明白だが、やはり人間のなのだろうか。今西はそれを仕切っていた幹部。更に密輸組織間のでのやり取りや、その類をハッカーに破壊されて港に密輸品を受け入れる事が出来ないでいる。どうやら今の荒神会は身動きが取れない状況の様だ。
「それなんだが、林組の竹藤がその中継ぎをやるって言ってるみたいだぜ」
「やらせる訳ないだろ、なんで林組なんかに。貧乏ヤクザの組長にデカい顔させる気か？」
やはり盗聴器を仕掛け損ねた場所だけに、良い情報が手に入るな。この三日間、建物の中を探っても大した情報は得られなかった。リスク覚悟で、この通気ダクトの中で聞き耳を立てたのは正解だな。
林組、ヤクザと言った風体の名だが、今は詳細を調べられない。話の感じからすると、荒神会よりは格下のヤクザと言った所か。
「今西からこの事業の事は大体聞いてるって話だ。壊されたデータをほとんど持ってるなんて言ってる」
「今西と盃を交わしたからと言って、そんなに親しかったか？」
「上は輝柴桜町の内部に入り込めるなら、悪くない話だなんて言って今西と竹藤の接触を許可したが、返って拗れたかも知れないな。所詮は掃き溜めの地獄だ。明日、竹藤の話を聞きに行く約束だ。期待はしてないが本当に出来るなら、やらせるしかないだろうな。第一陣もようやく出荷できるまでになった大事な時期だ。」
林組と言うのは輝柴桜町のヤクザ連中か。会話の雰囲気だと荒神会の方が格上のようだが、あんな歓楽街に価値なんてあるのだろうか。
この一連の会話が、人身売買の裏事業の事だと仮定して“上”と言う言葉が引っ掛かる――荒神会の裏には、何かが存在してるのか。
コイツ等の話し方にも違和感がある。ヤクザって人種を沢山見てきているが、コイツ等からはドスの利いた感じがなく、大きな組織のヤクザにしては淡白な印象だった。
荒神会規模の大きな勢力を、束ねられるだけの組織が存在するのなら、下手をすると警察や行政では、対処が難しい相手と言う事にもなりかねない。
この国のシステムは、依然壊れたままで、時が止まっている様な状況だ。それを良い事に、外資系企業の介入も止まる事を知らない。その中にこう言う、如何わしいネットワークが組み込まれていく。俺達もまた、そんな連中の隙を突きながら行政機関を支えてシステムを保っている。
氷野市長の予感は当たっているのかもしれない。もっと情報が必要だ――忍者一人では荷が重いかもな。
「ここまで来るのに五年かかった。連中にはしっかり働てもらわないとな」
「それと上からの情報だが、今西をやった殺し屋、どうも“組合”の人間でほぼ間違いないらしい」
「だろうな、手際が良すぎる。面倒な組織だ全く……」
“組合”か、良く知っている組織だ。世界中に点在し、兵士や殺し屋等、荒事に強い人材を育成して斡旋する、無国籍の組織だ。ここ数十年の間、俺達忍者にも度々、組合に加入しないかと誘いが来ているそうだ。
その条件や待遇は最高と言っていいが、どの流派も拒み続けていた。忍びの技は簡単にマニュアル化できる物じゃないし、すれば衰退する。
此処まで先代が守り抜いていた、忍びの技を易々と俗物には渡せない。俺もその考えには賛成だ。
とは言え、流石は世界規模の組織だ、腕のいい殺し屋を持っている。俺の予想だが、その殺し屋は目立った目撃情報もないから、日本人だろう。
争いに無縁な時代が長かったこの日本で、これだけ戦闘慣れしていて、感覚が研ぎ澄まされた者がいるのは、時代が変わったのだと思い知らされる。
「ハッカーに殺し屋と、ここに来てトラブル続きだ。早いとこそいつ等を見つけ出して始末しないと……」
そろそろ潮時だろう。この会話と映像はバイザーの方で記録済みだ。三人にはこの部屋から退散してもらおう。右腕の端末で廃ビルに仕掛けてある“囮”を起動させる。
派手な爆音と共に窓ガラスが派手に割れて建物が揺れる。数発の銃声が鳴り始める。ヤクザ共が早速、怒号と共に慌て始めた。
単純な仕掛けだ。このビルの入口前と道路に爆弾を仕掛け、その一つを爆破させた。発火性の高い薬剤を含んでいるので、小規模な爆発の割によく燃える。銃声は向かいの廃ビルに固定したサブマシンガンを一定間隔で引き金が引かれる様に細工した物だ。
襲撃を装い、建物にいる連中を一階に陽動する。自分達のビルに火が付いたとなれば、避難も想定しないとならない。全員が部屋から出ていくって寸法だ。
立ち話していた二人は一目散に部屋から出ていったが、予想外にもソファにふんぞり返り、酒を煽っていた男が残っていた。完全に酔っぱらっていて、呂律の回らない怒声で廃ビルに向けて拳銃を撃っている。全く面倒な奴だ。
ダクトのフードを外し、部屋に入り込む。そろそろ弾切れを起こす頃だ、素早く酔っ払いに背後に忍び寄り、ヘッドロックで押し倒し、鼻と口も塞いで息を断つ。あっさり気を失う、短時間の締めなら痕も残らないので、これならただの酔い連れにしか見えないし、本人もそう思うだろう。
これで邪魔者はいない。下の方では仕掛け以外の銃声も聞こえる。まんまと術中にはまった間抜けな連中を他所に、この部屋にある情報を頂く事にする。
立派な書斎机の引き出しを一通り開け物色する。目ぼしい物はなかった。下段の鍵付きはピッキングツールで素早く解錠して開く。中には金庫でもと思ったが、入っていたのは意外にもノートＰＣだった。
さっきの会話ではハッカーがデータを破壊したと言っていたが、どうも嫌な予感がする。
一先ずＰＣを立ち上げて、バックパックに収めてあるＳＳＤを接続した。これは俺の専門外だが、これをＰＣに接続すると、自動でクローンソフトがＰＣに入り込み、ＰＣ内のデータを丸ごとコピーしてくれる代物だと鷹野が言っていた。
あと数分。今の内に脱出の準備をしておく。肩のプロテクターに装着してある、手甲鉤を両手にはめ込んだ。
ＰＣが悪いのか、ＳＳＤが悪いのか分からないが、ようやく七〇パーセントに達した。下の気配を伺う。仕掛けの銃声がほとんど聞こえなくなっていた。罠と気付かれるのも、もう間もなくだな。
あと少し、なんとか一〇〇パーセントに達してコピーが終わった。痕跡を残さず机周りを元通りに戻す。この情報が役に立てばいいが――ハッカーめ、余計な事をしてくれる。
正直、肩透かしを食らった気分だな。氷野さんが喜ぶ程の情報とは言い難い。思っていたより裏が深いのかも知れない。
道路に仕掛けた最後の爆弾を起爆させ、割れた窓ガラスに脚をかけ、外壁に手甲鉤を突き刺す。足場になりそうな場所を見つけ、掴めそうな場所がなければ、手甲鉤を突き刺して、横に素早く移動していく。
このままビルの裏側へ下りながら、あとは去るのみ。ビルの側面まで回り込んで、二階辺りの位置から飛び降りた。
常に音を立てるな。つま先と膝に全神経を集中して、あらゆる衝撃も負荷も受け流し、羽根の如く軽く、そして柳の如くしなやかに。
銃声は聞こえず、向こうの方から聞こえるのはヤクザ共の怒声のみ。そのまま南方面へ速やかに走り去る。
この先にある工場を超えて、大型トラックの駐車場まで辿り着けば、一先ず安心だ。着替えて適当にタクシーでも捕まえて中央区に戻ればいい。
荒神会のビルから離れて、工場の壁際に沿って走る。大分離れた、少し呼吸を整える為に立ち止まったその瞬間。足元の影に消え、頭上から空気の圧の様な物を感じた。
身を逸らして、反射的に避ける事が出来たが、衝撃で身体を吹き飛ばされる。静寂から一転、金属が砕け散る激しい音に耳が痛む――何が起きた。
自分がそれまでいた場所には、白い軽自動車が無残な姿で潰れていた。紙一重の勘に救われた。身体を起こしズキズキした痛みの中、どうにか冷静を保とうする。
これは間違いなく俺を狙った襲撃――何者だ。
そもそも軽自動車を真上から落としてくるヤクザなんて在り得ない、並の人間に出来る様な事じゃない。周囲を警戒して身構える。
ふと、人の気配を感じ、その先へ視界を移す。十メートルほど先の暗がりに佇む人影があった。目を凝らしてその人影を睨むと、次第に暗がりに目が慣れて人影の全貌が目に写る。
背丈は俺と同じぐらい、身体のラインは細い――女なのか。
漆黒に赤いラインが入った、鋭い目付きの狐の面をしていた。ゆっくりとこちらに近づいて来る。
全身黒ずくめで革材質のロングコート。下半身は大きく開き、上半身から首元まで拘束衣の様にベルト金具でしっかり止められており、両腕は着物の広袖の様に大きく両手を隠していた。
ゆらゆらとゆっくり近づいて来る、その異質な存在にを目の当たりにし、混乱は収まらないが、同時に好奇心も沸く。殺気立った気配を感じる。
二回の爆発、銃撃。ヤクザ共が周辺を警戒し出すだろうし、警察が動く可能性も高い。一刻も早く此処を離脱するべきだが、あの不気味な黒狐が道を譲るとは思えない。戦闘は避けれそうになかった。
ならば先手必勝だ。苦無を三本、黒狐に向けて投げ放ったが、またしても我が目を疑う光景に圧倒される。三本の苦無は黒狐の目の前で止まって、ふわふわと浮いていた。
苦無が空しくカランカランと地面に落ちる。黒狐が立ち止まる。その距離はいよいよ五メートル以内。
黒狐が両腕を背中に回し、ワイヤーの様な物を一気にグイっと引っ張ると、さっきの苦無よりも重々しい金属音が、ガラガラと鳴り響いた。黒狐の背中から鋭くはないが、尖った金属の塊が鈍く銀色に光り、無数に垂れ下がった。
こちらも左手で小太刀を逆手に抜き、右袖に仕込んでいる分銅鎖の刃“大蛇”を出す。一体どんな手を使っているのかは分からないが、この黒狐は只者じゃない。本気で立ち向かわければ、間違いなく殺される。
向かい合い、互いを睨み合う数秒。黒狐の背中から垂れた鉄塊が、ゆっくり浮き上がる。
鉄塊はまるで俺を威嚇するかの様に大きく広がり、その高さは二メートル以上は高く浮いて揺らめいている。
その鉄塊は全部で九本あった。自分の中の修羅が疼いている様だった。何が目的かは知らないが、とんだ妖に出くわしてしまったらしい。
九尾だ――九尾の黒狐だ。
潮風が心地よい。このまま月見酒でも洒落込みたい気分になる。生憎の曇りで月はほとんど見えないが、忍者にとっては都合の良い夜だ。
港区の工業地域にある廃ビルを陣取って三日、今夜はいよいよ、荒神会の構える事務所へ潜入する。五階建ての廃ビルの屋上から、その向かいにある荒神会が所有する三階建てのビルを見下ろた。じき、午前〇時になるが、ほとんどの窓から灯りが漏れている。こんな夜中まで一体何をしているのやら。
あの建物には常に三、四十人ぐらいがいる。初日にあそこへ忍び込んだ日を思い出す。
先ずは電気工務店に化けて盗聴器を仕掛けた。通信回線のショートを装い、修理に行く。荒神会が利用する、電気工務店に、氷野市長殿が事前に手を回してくれていたので、楽に忍び込めた。
その時に建物の大体の間取りは覚えた。三階の真ん中、大きな窓ガラスに御大層な三宝荒神が描かれている部屋。一際広く、社長室の様な出で立ちの部屋だ。その時は組長の様なのがいたのだろう、入る事は出来なかった。扉の隙間から得る僅かな情報と位置、後はこの廃ビルから覗き込む様子のみ。
そして印象的なのが、このビルに出入りする連中は年齢に問わず全員が背広姿だった事だ。
見るからに下っ端の様な若い連中ですら、しっかりとした背広を着こなし、襟を正していたのが印象的だった。
盗聴器から聞こえる会話も、一部は如何にもなヤクザな雰囲気もあれば、機械的で整った会話をしている者達もいる。総合的に見てヤクザと言うより、ヤクザの体でいるかの様な違和感を感じた。
何れにしても今夜中に必要な物を頂戴して、今後の行動も定めていかねば。
目的は三階のあの部屋だ。この三日間の盗聴と盗撮の探りで、情報らしい物を納めていそうな場所はそこしかない。狙うのは密輸を立証できる情報の類。
パソコンの様な証拠が残り易い物には入れられない、物理的に存在する情報を手に入れたいところだが。
荒神会はこの事務所以外にも、幾つかの拠点があるが、氷野さんと鷹野の話では、ここが有力だと言う話だった。
蜂がねを引き締め、マスクとバイザーを装着しフードを被る。忍者は常に任務の成功率を高める為に、その時代時代における最新鋭と呼べる物を柔軟に多く取り入れて、生き永らえてきた歴史があるが、俺の様にそれは最小限に止めて、忍本来の技術や技を追求する者も少数ながら存在する。それを酔狂を笑う者もいるが、ここぞと言う時こそ磨いてきた業が物を言うと、俺は信じている。
最近では身体の機械化、所謂サイボーグ技術の導入を唱える軟弱な者すらいる。
それでは駄目だ、長年の鍛錬があってこそ、忍の技は今もまだ唯一無二。俺はそんな者は決して認めない。
廃ビルから荒神会のビルまで二〇メートル程、ワイヤーガンを撃ち下ろす。シュルシュルと螺旋を描きながら、荒神会のビルの屋上出入口に深々と突き刺さった。
固定具にワイヤーを巻き付けて限界まで引っ張り、一気に滑り落ちる。荒神会ビルの屋上へ降り立つと同時に、ワイヤーを小太刀で切り落とした。ピンと張ったワイヤーが吸われる様に廃ビルの屋上へ戻っていく。
出入口の扉に耳を当てて様子を探り、ゆっくりと開ける。ここからは息を殺し、五感を研ぎ澄まして足並み十法を駆使して目的の部屋まで向かう。
わざわざ屋上から侵入するのも、目的の部屋への最短ルートだからだ。その部屋には三人いるのを確認している。人の形をした赤とオレンジの三つ塊、一人はソファに座っていて酩酊している様な雰囲気だった。
低くかがみ、廊下の様子も並行して伺う。幸いにも三階にはその三人しかいない様だ。あの三人を部屋から追い出す方法は既に仕込んでいるが――しばし様子も見てみたい気もしていた。
座っている奴は重要ではなさそうだったが、立っている二人。一人は忙しなく動き、一人は直立のした状態。何かを話している様に思えた。
その会話は、おそらく俺にとって――聞く価値のある物と直感が働いた。
階段がある個所から足音が聞こえる、二人か。物陰のない廊下、相手の視界から消えるには上だけか。まだ猶予はある、階段の出入り口まで近付いて飛び上がる。縁と天井の僅かな隙間を掴んで身体を固定した。
意外と気付かれないものだ、子供の頃から仕込まれた“無心”を保つ術と、死角を見極める感覚。二人が真下を通り過ぎていき、三人が話している事務室とは反対の部屋へ入っていく。
ドアが閉まる音と同時に降り立ち、素早く三人がいる部屋の隣の部屋へ入り込んだ。最初の潜入の際に、この部屋が物置代わりの様に使われている事を知っている。部屋の中には、折り畳まれた長机やパイプ椅子、脚立や工具類が乱雑に並べられていた。
天井にある通気ダクトの下に脚立を立てて、通気ダクトのフードを慎重に取り外した。
この通気ダクトも事前に利用できそうだとは思っていたが、できれば使いたくない手段だった。ダクトの中は大体、酷く汚れている物だ。
ダクトの様子を覗いてみる。人一人が、充分に入り込める大きさだったが、案の定ダクトの中は汚れている。マスクとバイザーがなければ、五分と耐えられない様な場所だ。
身を捩り、ダクトの中を芋虫の様にゆっくりと縮めては伸ばして進んでいく。ファンから来る風は控えめで、既に部屋の方からの話声が聞こえてきた。あと四、五メートル程で目的の部屋の真上に辿り着く。
「今西のオヤジも、なんで輝紫桜町なんかに行ってたのか」
「あそこのママには相当入れ込んでたからな。自分の立場を見失ってる……」
格子状のフードの隙間から、部屋の中の三人を覗き込む。話しているのは立っている二人、もう一人はソファにふんぞり返って酒を飲んでいた。三人とも年齢は四十代ぐらい、着こなしているスーツもブランド物だ。おそらく、幹部クラスの連中といったところか。
今西、輝柴桜町の高級クラブで殺された荒神会の幹部だ。思った通り、おもしろそうな話が聞けそうだ。
「お陰で“ブツ”の流れが止まったままだ、データも暗号コードも何処かのクソハッカーに破壊されて、中継ぎ出来る奴もいない」
落ち着きなくウロウロと動く男がこちらの視界から消える。
輝紫桜町の高級クラブ。たった一人で数分の内に九人を仕留めた、紛れもないプロの犯行。
ハッカーと言う言葉はお初の情報だな。殺し屋は荒神会と敵対している勢力に雇われているか、その配下にあると思って間違いないが、そのハッカーも同じか別勢力か。この数週間の間に、荒神会は方々から攻撃を受けていたらしい。
“ブツ”と呼ばれている物は、密輸品の類である事は明白だが、やはり人間のなのだろうか。今西はそれを仕切っていた幹部。更に密輸組織間のでのやり取りや、その類をハッカーに破壊されて港に密輸品を受け入れる事が出来ないでいる。どうやら今の荒神会は身動きが取れない状況の様だ。
「それなんだが、林組の竹藤がその中継ぎをやるって言ってるみたいだぜ」
「やらせる訳ないだろ、なんで林組なんかに。貧乏ヤクザの組長にデカい顔させる気か？」
やはり盗聴器を仕掛け損ねた場所だけに、良い情報が手に入るな。この三日間、建物の中を探っても大した情報は得られなかった。リスク覚悟で、この通気ダクトの中で聞き耳を立てたのは正解だな。
林組、ヤクザと言った風体の名だが、今は詳細を調べられない。話の感じからすると、荒神会よりは格下のヤクザと言った所か。
「今西からこの事業の事は大体聞いてるって話だ。壊されたデータをほとんど持ってるなんて言ってる」
「今西と盃を交わしたからと言って、そんなに親しかったか？」
「上は輝柴桜町の内部に入り込めるなら、悪くない話だなんて言って今西と竹藤の接触を許可したが、返って拗れたかも知れないな。所詮は掃き溜めの地獄だ。明日、竹藤の話を聞きに行く約束だ。期待はしてないが本当に出来るなら、やらせるしかないだろうな。第一陣もようやく出荷できるまでになった大事な時期だ。」
林組と言うのは輝柴桜町のヤクザ連中か。会話の雰囲気だと荒神会の方が格上のようだが、あんな歓楽街に価値なんてあるのだろうか。
この一連の会話が、人身売買の裏事業の事だと仮定して“上”と言う言葉が引っ掛かる――荒神会の裏には、何かが存在してるのか。
コイツ等の話し方にも違和感がある。ヤクザって人種を沢山見てきているが、コイツ等からはドスの利いた感じがなく、大きな組織のヤクザにしては淡白な印象だった。
荒神会規模の大きな勢力を、束ねられるだけの組織が存在するのなら、下手をすると警察や行政では、対処が難しい相手と言う事にもなりかねない。
この国のシステムは、依然壊れたままで、時が止まっている様な状況だ。それを良い事に、外資系企業の介入も止まる事を知らない。その中にこう言う、如何わしいネットワークが組み込まれていく。俺達もまた、そんな連中の隙を突きながら行政機関を支えてシステムを保っている。
氷野市長の予感は当たっているのかもしれない。もっと情報が必要だ――忍者一人では荷が重いかもな。
「ここまで来るのに五年かかった。連中にはしっかり働てもらわないとな」
「それと上からの情報だが、今西をやった殺し屋、どうも“組合”の人間でほぼ間違いないらしい」
「だろうな、手際が良すぎる。面倒な組織だ全く……」
“組合”か、良く知っている組織だ。世界中に点在し、兵士や殺し屋等、荒事に強い人材を育成して斡旋する、無国籍の組織だ。ここ数十年の間、俺達忍者にも度々、組合に加入しないかと誘いが来ているそうだ。
その条件や待遇は最高と言っていいが、どの流派も拒み続けていた。忍びの技は簡単にマニュアル化できる物じゃないし、すれば衰退する。
此処まで先代が守り抜いていた、忍びの技を易々と俗物には渡せない。俺もその考えには賛成だ。
とは言え、流石は世界規模の組織だ、腕のいい殺し屋を持っている。俺の予想だが、その殺し屋は目立った目撃情報もないから、日本人だろう。
争いに無縁な時代が長かったこの日本で、これだけ戦闘慣れしていて、感覚が研ぎ澄まされた者がいるのは、時代が変わったのだと思い知らされる。
「ハッカーに殺し屋と、ここに来てトラブル続きだ。早いとこそいつ等を見つけ出して始末しないと……」
そろそろ潮時だろう。この会話と映像はバイザーの方で記録済みだ。三人にはこの部屋から退散してもらおう。右腕の端末で廃ビルに仕掛けてある“囮”を起動させる。
派手な爆音と共に窓ガラスが派手に割れて建物が揺れる。数発の銃声が鳴り始める。ヤクザ共が早速、怒号と共に慌て始めた。
単純な仕掛けだ。このビルの入口前と道路に爆弾を仕掛け、その一つを爆破させた。発火性の高い薬剤を含んでいるので、小規模な爆発の割によく燃える。銃声は向かいの廃ビルに固定したサブマシンガンを一定間隔で引き金が引かれる様に細工した物だ。
襲撃を装い、建物にいる連中を一階に陽動する。自分達のビルに火が付いたとなれば、避難も想定しないとならない。全員が部屋から出ていくって寸法だ。
立ち話していた二人は一目散に部屋から出ていったが、予想外にもソファにふんぞり返り、酒を煽っていた男が残っていた。完全に酔っぱらっていて、呂律の回らない怒声で廃ビルに向けて拳銃を撃っている。全く面倒な奴だ。
ダクトのフードを外し、部屋に入り込む。そろそろ弾切れを起こす頃だ、素早く酔っ払いに背後に忍び寄り、ヘッドロックで押し倒し、鼻と口も塞いで息を断つ。あっさり気を失う、短時間の締めなら痕も残らないので、これならただの酔い連れにしか見えないし、本人もそう思うだろう。
これで邪魔者はいない。下の方では仕掛け以外の銃声も聞こえる。まんまと術中にはまった間抜けな連中を他所に、この部屋にある情報を頂く事にする。
立派な書斎机の引き出しを一通り開け物色する。目ぼしい物はなかった。下段の鍵付きはピッキングツールで素早く解錠して開く。中には金庫でもと思ったが、入っていたのは意外にもノートＰＣだった。
さっきの会話ではハッカーがデータを破壊したと言っていたが、どうも嫌な予感がする。
一先ずＰＣを立ち上げて、バックパックに収めてあるＳＳＤを接続した。これは俺の専門外だが、これをＰＣに接続すると、自動でクローンソフトがＰＣに入り込み、ＰＣ内のデータを丸ごとコピーしてくれる代物だと鷹野が言っていた。
あと数分。今の内に脱出の準備をしておく。肩のプロテクターに装着してある、手甲鉤を両手にはめ込んだ。
ＰＣが悪いのか、ＳＳＤが悪いのか分からないが、ようやく七〇パーセントに達した。下の気配を伺う。仕掛けの銃声がほとんど聞こえなくなっていた。罠と気付かれるのも、もう間もなくだな。
あと少し、なんとか一〇〇パーセントに達してコピーが終わった。痕跡を残さず机周りを元通りに戻す。この情報が役に立てばいいが――ハッカーめ、余計な事をしてくれる。
正直、肩透かしを食らった気分だな。氷野さんが喜ぶ程の情報とは言い難い。思っていたより裏が深いのかも知れない。
道路に仕掛けた最後の爆弾を起爆させ、割れた窓ガラスに脚をかけ、外壁に手甲鉤を突き刺す。足場になりそうな場所を見つけ、掴めそうな場所がなければ、手甲鉤を突き刺して、横に素早く移動していく。
このままビルの裏側へ下りながら、あとは去るのみ。ビルの側面まで回り込んで、二階辺りの位置から飛び降りた。
常に音を立てるな。つま先と膝に全神経を集中して、あらゆる衝撃も負荷も受け流し、羽根の如く軽く、そして柳の如くしなやかに。
銃声は聞こえず、向こうの方から聞こえるのはヤクザ共の怒声のみ。そのまま南方面へ速やかに走り去る。
この先にある工場を超えて、大型トラックの駐車場まで辿り着けば、一先ず安心だ。着替えて適当にタクシーでも捕まえて中央区に戻ればいい。
荒神会のビルから離れて、工場の壁際に沿って走る。大分離れた、少し呼吸を整える為に立ち止まったその瞬間。足元の影に消え、頭上から空気の圧の様な物を感じた。
身を逸らして、反射的に避ける事が出来たが、衝撃で身体を吹き飛ばされる。静寂から一転、金属が砕け散る激しい音に耳が痛む――何が起きた。
自分がそれまでいた場所には、白い軽自動車が無残な姿で潰れていた。紙一重の勘に救われた。身体を起こしズキズキした痛みの中、どうにか冷静を保とうする。
これは間違いなく俺を狙った襲撃――何者だ。
そもそも軽自動車を真上から落としてくるヤクザなんて在り得ない、並の人間に出来る様な事じゃない。周囲を警戒して身構える。
ふと、人の気配を感じ、その先へ視界を移す。十メートルほど先の暗がりに佇む人影があった。目を凝らしてその人影を睨むと、次第に暗がりに目が慣れて人影の全貌が目に写る。
背丈は俺と同じぐらい、身体のラインは細い――女なのか。
漆黒に赤いラインが入った、鋭い目付きの狐の面をしていた。ゆっくりとこちらに近づいて来る。
全身黒ずくめで革材質のロングコート。下半身は大きく開き、上半身から首元まで拘束衣の様にベルト金具でしっかり止められており、両腕は着物の広袖の様に大きく両手を隠していた。
ゆらゆらとゆっくり近づいて来る、その異質な存在にを目の当たりにし、混乱は収まらないが、同時に好奇心も沸く。殺気立った気配を感じる。
二回の爆発、銃撃。ヤクザ共が周辺を警戒し出すだろうし、警察が動く可能性も高い。一刻も早く此処を離脱するべきだが、あの不気味な黒狐が道を譲るとは思えない。戦闘は避けれそうになかった。
ならば先手必勝だ。苦無を三本、黒狐に向けて投げ放ったが、またしても我が目を疑う光景に圧倒される。三本の苦無は黒狐の目の前で止まって、ふわふわと浮いていた。
苦無が空しくカランカランと地面に落ちる。黒狐が立ち止まる。その距離はいよいよ五メートル以内。
黒狐が両腕を背中に回し、ワイヤーの様な物を一気にグイっと引っ張ると、さっきの苦無よりも重々しい金属音が、ガラガラと鳴り響いた。黒狐の背中から鋭くはないが、尖った金属の塊が鈍く銀色に光り、無数に垂れ下がった。
こちらも左手で小太刀を逆手に抜き、右袖に仕込んでいる分銅鎖の刃“大蛇”を出す。一体どんな手を使っているのかは分からないが、この黒狐は只者じゃない。本気で立ち向かわければ、間違いなく殺される。
向かい合い、互いを睨み合う数秒。黒狐の背中から垂れた鉄塊が、ゆっくり浮き上がる。
鉄塊はまるで俺を威嚇するかの様に大きく広がり、その高さは二メートル以上は高く浮いて揺らめいている。
その鉄塊は全部で九本あった。自分の中の修羅が疼いている様だった。何が目的かは知らないが、とんだ妖に出くわしてしまったらしい。
九尾だ――九尾の黒狐だ。