残酷な描写あり
2.おおかみひつじ
翌日、私はヤケ村農民小等学校に登校した。
昼の二時間目、私は教室の外に置かれた椅子に座って膝上の教科書を眺めていた。真昼の陽射しが頭に当たって頭皮が熱い。風が吹くと教科書と学習帳が飛ばされそうになり、膝にぐっと押さえつける。
隣の開いた窓から、国語の教科書の小説を朗読する先生の声が聞こえてくる。私の席はいつも教室の外だった。私が教室の中にいると「汚ねえ! 汚ねえ!」と生徒たちがうるさいし、先生からも「あんたが教室にいると吐き気がするから外にいて」と言われているので、雨の日も雪の日も外で授業を受けていた。
他の先生たちも雨風に当てられながら授業をしている私を見ても、あいつはああいう扱いがお似合いだと言わんばかりに知らんぷりをしている。私も自分が教室にいれば皆の心をえぐり、不快な思いをさせることを知っているので、外での授業はむしろ適切だと思っていた。
どうせ自分だけ朗読を指名されることはないし、陽射しも熱くてたまらないので、私は椅子から立ち上がって隣の桜の樹の木陰に座る。
枝々に広がる緑葉の幕が日光を遮り、熱くなっていた頭が少し涼しくなった。額に浮かんだ汗を腕で拭い、腕に付いた汗を着物の裾で擦る。
枝みたいに細い自分の腕を見ていると物悲しい気分になり、私は溜め息をついた。
両足も、握って力を込めればぽっきり折れてしまいそうなくらいに細い。こんなにがりがりに痩せているのは、毎日の三食がイナゴの佃煮、里芋煮、山菜の汁物だけという粗末な献立のせいかもしれない。
他の農民よりも遥かに小さい畑で生計を立てている私達親子の食べられるものは、山の幸と畑で取れる小さい里芋だけだ。玄米や麦は貯金しないと買えないのでめったに食べられない。
ぐうぅ、と腹が鳴って胃に締め付けられるような痛みが走る。先程から音を立ててはきりきりとした痛みを発し、食べ物をせがんでくる胃が憎たらしかった。
頭上の枝に一羽の小鳥が止まり、鈴の転がるような可愛らしい声で数回囀った後、飛び去っていく。青空を背景に宙を舞い、彼方の里山へ消えていった小鳥を眺めて私は羨ましさに溜め息をついた。あんたはいいね、自由に色んな場所へ行けて。私は農民という立場ゆえ生まれた時からこの村から出て行けず、飢えに苦しみ、村人たちからいじめられる毎日だ。
背中に翼が生えてどこかへ飛んでいけたらなぁ、と何度思ったことか。
授業が終わり、給食の時間になった。子供たちがお互いの机を一斉に動かしくっつける騒音が窓越しから鳴り響く。私は運動場に独り立ち尽くしながら、窓越しから響いてくる椅子の音を聞いていた。
私は入学してから六年間、皆と教室でご飯を食べたことがない。担任教師からお前が教室にいたら子供たちの食欲が失せるから外で食べろと言われているので、従うしかなった。
私の分の給食は配られない。なけなしの貯金から給食代は毎月払ってはいるが、ちゃんと皿に盛った給食はもらえたことがない。毎日出されるのは、給食の残飯だけ。
皆が給食を食べ終わった後、教室の窓が開いてご飯、野菜、汁物が混じってお粥みたいになった残飯が私のために地面に垂れ流される。
「食え! 家畜!」
残飯を垂れ流した少年が笑いながら叫んだ。他の同級生たちも私の惨めな食事を見物しようと窓辺へ集まってきて、げらげらと笑い出す。
私は地面に広がる残飯の前に膝を付き、どろどろになったそれを犬食いする。出来たてなのに合わない色んな味が混じっていて、全く美味しくない。顔中を残飯で塗らし、口いっぱいに広がるまずさにえずきながら私は食べ続ける。
嫌なら食べなければいいのだが、嫌でも食べなければ栄養不足に陥り命に関わる。毎日の食事が粗末な献立の上、母からうちは貧乏だから弁当は作るなと言われ、約束を破ると発狂される。なので学校に来る時だけに食べられる残飯の米と野菜入りの味噌汁を口にして、なんとか栄養失調を防いでいた。
皆の前で土下座し残飯を犬食いしながら、私は脳裏に父の黒い影を思い浮かべる。お前のせいだからな、お前のせいで⋯⋯と恨み言を吐いて、歯を食いしばり、憎しみを研ぎ澄ます。
そうすれば、いじめられる苦しみに意識を向けずに済むからだ。
「味噌汁まだある?」
「うん、持ってこよう!」
嫌な予感がして咄嗟に逃げようとしたが、窓から投げつけられた椅子が背中を打ち、激痛で動けなくなる。その隙に桶いっぱいの熱い味噌汁を上から被せられ、全身を熱湯に浸けられたような凄まじい熱さに私は悲鳴を上げた。
味噌、脱脂粉乳の混じった汁が着物に染み込み、皮膚にぴったりくっついて更に焼けるような熱さを皮下まで染み込ませる。
子供たちの歓声が頭上から轟く。笑い声の中には担任教師の声も混じっていた。
全身の皮膚を火で炙られたような激痛に悶えながら私は立ち上がって走り出し、運動場の水飲み場へ向かう。組み上げ式ポンプのレバーを動かして桶に水を溜め、いっぱいになったら頭から被った。熱かった全身が冷え、痛みが引いていく。
毎日こうして、何度でも生徒たちは私をいじめてくる。私が穢らわしいのなら無視すればいいものを、彼らは飽きることなくいじめを楽しみ続ける。
十三年前の裁かれずに故郷へ帰還した殺戮の鬼どもの代わりとして、血縁的に同胞である私に罰を加えているからなのかもしれない。
私へのいじめは、あの日の悲劇を、鬼どもへの憎しみを末永く忘れないようにするための儀式なのだろう。「あの悲劇を忘れない」と言ってヤケ村虐殺事件のあった空き地に記念碑を建てたみたいに、私へのいじめも過去の忘却を防ぐためのものなのかもしれない。
私をいじめたって、皆の心の傷が癒えるわけでもないのに。
味噌汁が染み込み茶色に変色した着物を水で洗った。着物を絞ると茶色い水が滴り排水溝に流れていく。これだけ濃厚な汁が染み込んでしまったなら、なかなか臭いは取れないだろう。着替えなんかないのに。私はうんざりしながら、味噌汁で変色した部分を揉み洗いする。
嫌な匂いが付いたままの着物を振るって水を飛ばし、水飲み場のそばに立つ木の枝に両袖を通して乾かす。上半身裸になった私は原っぱに寝転がり、お日様の光を浴びて身体の水滴を早く乾かそうとした。昼休みになったら子供たちが来て、また私をいじめるだろう。再び面倒事が起きる前に早く着物が乾いてくれればいいが。
昼休みまで後一時間ある。それまで図書館で時間を潰そう。私は木の上に隠しておいた鞄を手に取り、半裸のまま校舎の東側端にある図書室へ向かった。
図書室に通い、図鑑や歴史書を読んで色んな知識を蓄えるのが私の唯一の楽しみだった。木の板で構成された廊下を進み、突き当たりにある図書室の引き戸を開ける。昼過ぎの黄色味がかった日光が窓から差し込んで、室内全体が蜂蜜色に染まっている。
図書室の四方には本棚がたくさん並んでいる。私は各棚に陳列された背表紙を見回した。ほとんどの本が読んだもの、興味ないものばかり。新刊の置かれた場所へ行き、新しい歴史書がないか物色していると、私は『おおかみひつじ』という題名の絵本に目を惹かれた。
『おおかみひつじ⋯⋯?』
絵本は全く読まないが、なぜか惹きつけられる題名だった。絵本を引き抜くと、狼の顔を持つ変な羊の絵が書かれた表紙が現れる。彼が主人公の狼羊らしい。狼羊の背後には怯えた様子の羊の群れが、前方には牙を剥き出しにした一匹の狼がいる。
私は『おおかみひつじ』という絵本を手に取り、めくって読み始めた。
『昔々、牧場の羊たちを襲って食い殺している悪い狼がいました。
ある日、いつものように狼が牧場に行くと、一匹のとても可愛らしい雌羊を見つけました。
狼は殺されたくなければ嫁になれといい、怖がった雌羊は仕方なく言うことを聞きました。
やがて雌羊は狼との子供を産みました。
子供の頭は狼で、身体は羊でした。
子供は『狼羊』と呼ばれ、牧場の羊たちは狼の顔を持つ狼羊を見ると、悲鳴を上げて逃げ惑いました。
羊飼いは狼羊が羊たちを食べるのではないかと恐れ、銃で狼羊を襲いました。
逃げ切った狼羊は森へ行き、寂しくなって遠吠えをしました。すると狼たちがやって来て、狼羊を皆で笑いました。
「お前は狼でも羊でもない半端者だ。どちらにも交われず、これからもずっと独りだ」
独りぼっちの狼羊は泣きました。
「狼羊、どっちの子? どっちにもなれない半端の子!⋯⋯僕はこの先ずっと独りだ」
狼にもなれず、羊にもなれない狼羊はどちらの集団にも馴染めず、ずっと独りでした。
狼羊は母を無理矢理嫁にして自分を産ませた父を憎みました。父がいなければ、ぼくは半端者に生まれて皆から嫌われずに済んだのに、と』
衝撃のあまり、絵本を握る手が震えていた。絵本の内容は、自分の境遇と全く似たものだったからだ。
羊たちを虐殺した父の狼と、無理矢理子供を産むはめになった母の羊から誕生した混血児の狼羊。狼にも羊にもなれない彼は羊たちに嫌われ、牧場から追い出され、ひとりぼっちに。そんな狼羊は、母を無理矢理嫁にして自分を産ませた父を憎み、父がいなければ、ぼくは半端者に生まれて皆から嫌われずに済んだのにと嘆いている。
作者は私の人生を模倣してこの作品を書いたのかと思ってしまうほどに、狼羊と私の立場はよく似ていた。
私は無我夢中で絵本の頁をめくり、文を目で追った。
『ある日、狼羊は決意しました。父を殺して、羊たちに自分は狼とは違う者なのだと証明しよう、と。
ある日、父がまた牧場を襲って羊を食い殺しました。羊たちの悲鳴を聞きつけた狼羊は急いで牧場へ駆けつけ、怯える群れの前に立ち、父を噛み殺したのです。
父を食い殺した狼羊は羊たちから「君を羊と認めよう。これからも牧場を守り続けてくれ」と認められ、讃えられ、その後悪い狼が来るたびに追い払い、仲間を守り続けました。
めでたし、めでたし』
絵本を読み終えた後、私は狼狽えながら両表紙を閉じてその場に膝をついた。
衝撃のあまり思考が吹っ飛んでいた。
空白になった頭の中に、絵本に書かれていた一文が鮮明に焼き付いていた。
――ある日、狼羊は決意しました。父を殺して、羊たちに自分は狼とは違う者なのだと証明しよう、と。
自分は父とは違う者なのだと皆に証明する。そうすれば、もういじめらず皆と仲良くすることができる。それは、出口のない真っ暗な洞窟をさまよい続けていたら、突然遠くに一縷の光が見えてきたような幸運に感じられた。
言いようのない興奮が全身を駆け巡って私はその場に呆然と膝をつき、天を仰いだ。
もしも狼羊のように父を殺せば、私も村人たちのように彼らが憎かったから殺したのだと皆に証明することができ、私は同胞ではないと認めてもらえるのだろうか。そして私は皆からいじめられずに済む人生を歩めるのだろうか。
震える手で絵本を胸に懐き、私は固唾を呑む。
もしも父を殺したことで、これからの人生がいじめられっぱなしで台無しにならずに済むというのなら、どれだけいいことだろう。まるで夢物語のようだが、それでも大切な宝物のように手放したくない理想論だった。
脳内に浮かび上がる青い目の人影を見つめながら、私は彼に問う。
――⋯⋯父さん。もし、もしもこの世界のどこかでいつかあなたを見つけ出して殺したら、私は皆から鬼畜の子供ではないと認められるのだろうか。
時間が経って興奮が和らいできた時、意識が現実に引き戻されて私は絵本の表紙に目を落とす。そこには、牙を向いて父を威嚇している狼羊の姿があった。作中で狼羊が父殺しをする場面にも出てきた絵だった。
怯える羊たちの前に立って父を威嚇する狼羊が、「父を殺して、自分はお前と違う者なのだと証明しなさい」と私に訴えかけてくるようだった。
下校時になっても、父殺しの理想論が私の心にぴったり貼り付いて離れることはなかった。もし父を見つけて殺すことができたのなら⋯⋯という夢のまた夢のような希望が胸のうちで膨らみ、思考がそればかりに囚われてしまう。
妄想をやめられない自分に段々呆れてきて、私は苦笑する。
もしできたらの話だ。名前も顔も居場所も生きているのかさえわからない父をどうやって探せばいいのか。
まずはそこを乗り越えなければ何もできないじゃないか。興奮が醒めて冷静になったせいか、妄想の実現には粗が多いことに気付く。奇跡ばかり目が行って父発見に至るまでの道を見ていない自分が段々馬鹿らしくなってきて、一旦そこで思考を止める。そして帰ったら畑の雑草抜きと夕飯の仕度をしなきゃ、と自分に言い聞かせて私は理想論を頭の外に弾き出した。
翌日、父殺しの理想論はすっかり頭の片隅に追いやられていた。
登校して昼休み後の四時間目が終わり、下校時前の学活時になった。いつもの野外席に座っていると、開いた窓からぐちゃぐちゃに丸められた紙が飛んできた。
紙を拾い上げて広げる。学活時に配られる学級だよりと時間割表だった。私に対する悪口のラクガキがされている。私の紙だけいつもこうして丸められ、ラクガキされた状態で配られる。
窓越しから紙を投げつけた犯人の子供たちのくすくすと笑う声が聞こえた。
担任教師の声が聞こえた。
「皆さん、三日後にこの村に戦争調査隊の方々が来ます。国がかつてこの地域で起きた戦争の実態を調査をするために派遣し、戦前世代の人たち全員にお話を伺います。お母さん、お父さん、おじいちゃん、おばあちゃんが辛いことを思い出すと思うので、皆支えてあげてくださいね」
沈黙が数秒流れた後、生徒たちは「はいっ」と答えた。
かつてこの地域で起きた戦争の調査、村の人たちに話を伺う、辛い思いをする。それらの言葉を組み合わせて、私はその戦争調査隊やらが十三年前の悲劇の実態を村人たちから聞き出すのではないかと勘繰った。
戦争の調査か。村人たちの傷をえぐろうとする者が他にもいたのねと私は苦笑する。やがて調査隊の話からは興味が失せて頭から自然と抜け落ちた。退屈な学活に付き合っていられず、私はぼんやりと運動場を眺める。
その時、一人の生徒が立ち上がって先生に訊いた。
「せんせーい! 戦争調査隊の人たちに色々質問とかしていいですか。夏休みの自由研究の課題にしたいんで」
「はい、いいですよ。戦争調査隊の人たちは戦前の資料や証言を集めて研究をしているとても戦争に詳しい人たちなので、興味があれば何でも訊いてみてくださいね」
緊張が全身に広がり、心臓が高鳴り出す。戦前の資料や証言を集めて研究をしているとても戦争に詳しい人たち、ということはもしかすると彼らは実父の情報も知っているのではないだろうか。
忘れ去られた理想論が再び頭をもたげた。
もし戦争調査隊の人たちに父のことを訊いて、長年闇に葬られていた彼の消息がわかったとしたら⋯⋯。そう思った時、居場所も名も不明な父へ繋がる道が開けるのではというぼんやりした期待が込み上げてきて、諦めで塞がれていた心がぱっと開くような感覚を覚えた。
三日後、戦争調査隊が来たら父のことを聞いてみようと私は頷き、再びこみ上げてきた興奮にぎゅっと両手拳を握り締めた。
昼の二時間目、私は教室の外に置かれた椅子に座って膝上の教科書を眺めていた。真昼の陽射しが頭に当たって頭皮が熱い。風が吹くと教科書と学習帳が飛ばされそうになり、膝にぐっと押さえつける。
隣の開いた窓から、国語の教科書の小説を朗読する先生の声が聞こえてくる。私の席はいつも教室の外だった。私が教室の中にいると「汚ねえ! 汚ねえ!」と生徒たちがうるさいし、先生からも「あんたが教室にいると吐き気がするから外にいて」と言われているので、雨の日も雪の日も外で授業を受けていた。
他の先生たちも雨風に当てられながら授業をしている私を見ても、あいつはああいう扱いがお似合いだと言わんばかりに知らんぷりをしている。私も自分が教室にいれば皆の心をえぐり、不快な思いをさせることを知っているので、外での授業はむしろ適切だと思っていた。
どうせ自分だけ朗読を指名されることはないし、陽射しも熱くてたまらないので、私は椅子から立ち上がって隣の桜の樹の木陰に座る。
枝々に広がる緑葉の幕が日光を遮り、熱くなっていた頭が少し涼しくなった。額に浮かんだ汗を腕で拭い、腕に付いた汗を着物の裾で擦る。
枝みたいに細い自分の腕を見ていると物悲しい気分になり、私は溜め息をついた。
両足も、握って力を込めればぽっきり折れてしまいそうなくらいに細い。こんなにがりがりに痩せているのは、毎日の三食がイナゴの佃煮、里芋煮、山菜の汁物だけという粗末な献立のせいかもしれない。
他の農民よりも遥かに小さい畑で生計を立てている私達親子の食べられるものは、山の幸と畑で取れる小さい里芋だけだ。玄米や麦は貯金しないと買えないのでめったに食べられない。
ぐうぅ、と腹が鳴って胃に締め付けられるような痛みが走る。先程から音を立ててはきりきりとした痛みを発し、食べ物をせがんでくる胃が憎たらしかった。
頭上の枝に一羽の小鳥が止まり、鈴の転がるような可愛らしい声で数回囀った後、飛び去っていく。青空を背景に宙を舞い、彼方の里山へ消えていった小鳥を眺めて私は羨ましさに溜め息をついた。あんたはいいね、自由に色んな場所へ行けて。私は農民という立場ゆえ生まれた時からこの村から出て行けず、飢えに苦しみ、村人たちからいじめられる毎日だ。
背中に翼が生えてどこかへ飛んでいけたらなぁ、と何度思ったことか。
授業が終わり、給食の時間になった。子供たちがお互いの机を一斉に動かしくっつける騒音が窓越しから鳴り響く。私は運動場に独り立ち尽くしながら、窓越しから響いてくる椅子の音を聞いていた。
私は入学してから六年間、皆と教室でご飯を食べたことがない。担任教師からお前が教室にいたら子供たちの食欲が失せるから外で食べろと言われているので、従うしかなった。
私の分の給食は配られない。なけなしの貯金から給食代は毎月払ってはいるが、ちゃんと皿に盛った給食はもらえたことがない。毎日出されるのは、給食の残飯だけ。
皆が給食を食べ終わった後、教室の窓が開いてご飯、野菜、汁物が混じってお粥みたいになった残飯が私のために地面に垂れ流される。
「食え! 家畜!」
残飯を垂れ流した少年が笑いながら叫んだ。他の同級生たちも私の惨めな食事を見物しようと窓辺へ集まってきて、げらげらと笑い出す。
私は地面に広がる残飯の前に膝を付き、どろどろになったそれを犬食いする。出来たてなのに合わない色んな味が混じっていて、全く美味しくない。顔中を残飯で塗らし、口いっぱいに広がるまずさにえずきながら私は食べ続ける。
嫌なら食べなければいいのだが、嫌でも食べなければ栄養不足に陥り命に関わる。毎日の食事が粗末な献立の上、母からうちは貧乏だから弁当は作るなと言われ、約束を破ると発狂される。なので学校に来る時だけに食べられる残飯の米と野菜入りの味噌汁を口にして、なんとか栄養失調を防いでいた。
皆の前で土下座し残飯を犬食いしながら、私は脳裏に父の黒い影を思い浮かべる。お前のせいだからな、お前のせいで⋯⋯と恨み言を吐いて、歯を食いしばり、憎しみを研ぎ澄ます。
そうすれば、いじめられる苦しみに意識を向けずに済むからだ。
「味噌汁まだある?」
「うん、持ってこよう!」
嫌な予感がして咄嗟に逃げようとしたが、窓から投げつけられた椅子が背中を打ち、激痛で動けなくなる。その隙に桶いっぱいの熱い味噌汁を上から被せられ、全身を熱湯に浸けられたような凄まじい熱さに私は悲鳴を上げた。
味噌、脱脂粉乳の混じった汁が着物に染み込み、皮膚にぴったりくっついて更に焼けるような熱さを皮下まで染み込ませる。
子供たちの歓声が頭上から轟く。笑い声の中には担任教師の声も混じっていた。
全身の皮膚を火で炙られたような激痛に悶えながら私は立ち上がって走り出し、運動場の水飲み場へ向かう。組み上げ式ポンプのレバーを動かして桶に水を溜め、いっぱいになったら頭から被った。熱かった全身が冷え、痛みが引いていく。
毎日こうして、何度でも生徒たちは私をいじめてくる。私が穢らわしいのなら無視すればいいものを、彼らは飽きることなくいじめを楽しみ続ける。
十三年前の裁かれずに故郷へ帰還した殺戮の鬼どもの代わりとして、血縁的に同胞である私に罰を加えているからなのかもしれない。
私へのいじめは、あの日の悲劇を、鬼どもへの憎しみを末永く忘れないようにするための儀式なのだろう。「あの悲劇を忘れない」と言ってヤケ村虐殺事件のあった空き地に記念碑を建てたみたいに、私へのいじめも過去の忘却を防ぐためのものなのかもしれない。
私をいじめたって、皆の心の傷が癒えるわけでもないのに。
味噌汁が染み込み茶色に変色した着物を水で洗った。着物を絞ると茶色い水が滴り排水溝に流れていく。これだけ濃厚な汁が染み込んでしまったなら、なかなか臭いは取れないだろう。着替えなんかないのに。私はうんざりしながら、味噌汁で変色した部分を揉み洗いする。
嫌な匂いが付いたままの着物を振るって水を飛ばし、水飲み場のそばに立つ木の枝に両袖を通して乾かす。上半身裸になった私は原っぱに寝転がり、お日様の光を浴びて身体の水滴を早く乾かそうとした。昼休みになったら子供たちが来て、また私をいじめるだろう。再び面倒事が起きる前に早く着物が乾いてくれればいいが。
昼休みまで後一時間ある。それまで図書館で時間を潰そう。私は木の上に隠しておいた鞄を手に取り、半裸のまま校舎の東側端にある図書室へ向かった。
図書室に通い、図鑑や歴史書を読んで色んな知識を蓄えるのが私の唯一の楽しみだった。木の板で構成された廊下を進み、突き当たりにある図書室の引き戸を開ける。昼過ぎの黄色味がかった日光が窓から差し込んで、室内全体が蜂蜜色に染まっている。
図書室の四方には本棚がたくさん並んでいる。私は各棚に陳列された背表紙を見回した。ほとんどの本が読んだもの、興味ないものばかり。新刊の置かれた場所へ行き、新しい歴史書がないか物色していると、私は『おおかみひつじ』という題名の絵本に目を惹かれた。
『おおかみひつじ⋯⋯?』
絵本は全く読まないが、なぜか惹きつけられる題名だった。絵本を引き抜くと、狼の顔を持つ変な羊の絵が書かれた表紙が現れる。彼が主人公の狼羊らしい。狼羊の背後には怯えた様子の羊の群れが、前方には牙を剥き出しにした一匹の狼がいる。
私は『おおかみひつじ』という絵本を手に取り、めくって読み始めた。
『昔々、牧場の羊たちを襲って食い殺している悪い狼がいました。
ある日、いつものように狼が牧場に行くと、一匹のとても可愛らしい雌羊を見つけました。
狼は殺されたくなければ嫁になれといい、怖がった雌羊は仕方なく言うことを聞きました。
やがて雌羊は狼との子供を産みました。
子供の頭は狼で、身体は羊でした。
子供は『狼羊』と呼ばれ、牧場の羊たちは狼の顔を持つ狼羊を見ると、悲鳴を上げて逃げ惑いました。
羊飼いは狼羊が羊たちを食べるのではないかと恐れ、銃で狼羊を襲いました。
逃げ切った狼羊は森へ行き、寂しくなって遠吠えをしました。すると狼たちがやって来て、狼羊を皆で笑いました。
「お前は狼でも羊でもない半端者だ。どちらにも交われず、これからもずっと独りだ」
独りぼっちの狼羊は泣きました。
「狼羊、どっちの子? どっちにもなれない半端の子!⋯⋯僕はこの先ずっと独りだ」
狼にもなれず、羊にもなれない狼羊はどちらの集団にも馴染めず、ずっと独りでした。
狼羊は母を無理矢理嫁にして自分を産ませた父を憎みました。父がいなければ、ぼくは半端者に生まれて皆から嫌われずに済んだのに、と』
衝撃のあまり、絵本を握る手が震えていた。絵本の内容は、自分の境遇と全く似たものだったからだ。
羊たちを虐殺した父の狼と、無理矢理子供を産むはめになった母の羊から誕生した混血児の狼羊。狼にも羊にもなれない彼は羊たちに嫌われ、牧場から追い出され、ひとりぼっちに。そんな狼羊は、母を無理矢理嫁にして自分を産ませた父を憎み、父がいなければ、ぼくは半端者に生まれて皆から嫌われずに済んだのにと嘆いている。
作者は私の人生を模倣してこの作品を書いたのかと思ってしまうほどに、狼羊と私の立場はよく似ていた。
私は無我夢中で絵本の頁をめくり、文を目で追った。
『ある日、狼羊は決意しました。父を殺して、羊たちに自分は狼とは違う者なのだと証明しよう、と。
ある日、父がまた牧場を襲って羊を食い殺しました。羊たちの悲鳴を聞きつけた狼羊は急いで牧場へ駆けつけ、怯える群れの前に立ち、父を噛み殺したのです。
父を食い殺した狼羊は羊たちから「君を羊と認めよう。これからも牧場を守り続けてくれ」と認められ、讃えられ、その後悪い狼が来るたびに追い払い、仲間を守り続けました。
めでたし、めでたし』
絵本を読み終えた後、私は狼狽えながら両表紙を閉じてその場に膝をついた。
衝撃のあまり思考が吹っ飛んでいた。
空白になった頭の中に、絵本に書かれていた一文が鮮明に焼き付いていた。
――ある日、狼羊は決意しました。父を殺して、羊たちに自分は狼とは違う者なのだと証明しよう、と。
自分は父とは違う者なのだと皆に証明する。そうすれば、もういじめらず皆と仲良くすることができる。それは、出口のない真っ暗な洞窟をさまよい続けていたら、突然遠くに一縷の光が見えてきたような幸運に感じられた。
言いようのない興奮が全身を駆け巡って私はその場に呆然と膝をつき、天を仰いだ。
もしも狼羊のように父を殺せば、私も村人たちのように彼らが憎かったから殺したのだと皆に証明することができ、私は同胞ではないと認めてもらえるのだろうか。そして私は皆からいじめられずに済む人生を歩めるのだろうか。
震える手で絵本を胸に懐き、私は固唾を呑む。
もしも父を殺したことで、これからの人生がいじめられっぱなしで台無しにならずに済むというのなら、どれだけいいことだろう。まるで夢物語のようだが、それでも大切な宝物のように手放したくない理想論だった。
脳内に浮かび上がる青い目の人影を見つめながら、私は彼に問う。
――⋯⋯父さん。もし、もしもこの世界のどこかでいつかあなたを見つけ出して殺したら、私は皆から鬼畜の子供ではないと認められるのだろうか。
時間が経って興奮が和らいできた時、意識が現実に引き戻されて私は絵本の表紙に目を落とす。そこには、牙を向いて父を威嚇している狼羊の姿があった。作中で狼羊が父殺しをする場面にも出てきた絵だった。
怯える羊たちの前に立って父を威嚇する狼羊が、「父を殺して、自分はお前と違う者なのだと証明しなさい」と私に訴えかけてくるようだった。
下校時になっても、父殺しの理想論が私の心にぴったり貼り付いて離れることはなかった。もし父を見つけて殺すことができたのなら⋯⋯という夢のまた夢のような希望が胸のうちで膨らみ、思考がそればかりに囚われてしまう。
妄想をやめられない自分に段々呆れてきて、私は苦笑する。
もしできたらの話だ。名前も顔も居場所も生きているのかさえわからない父をどうやって探せばいいのか。
まずはそこを乗り越えなければ何もできないじゃないか。興奮が醒めて冷静になったせいか、妄想の実現には粗が多いことに気付く。奇跡ばかり目が行って父発見に至るまでの道を見ていない自分が段々馬鹿らしくなってきて、一旦そこで思考を止める。そして帰ったら畑の雑草抜きと夕飯の仕度をしなきゃ、と自分に言い聞かせて私は理想論を頭の外に弾き出した。
翌日、父殺しの理想論はすっかり頭の片隅に追いやられていた。
登校して昼休み後の四時間目が終わり、下校時前の学活時になった。いつもの野外席に座っていると、開いた窓からぐちゃぐちゃに丸められた紙が飛んできた。
紙を拾い上げて広げる。学活時に配られる学級だよりと時間割表だった。私に対する悪口のラクガキがされている。私の紙だけいつもこうして丸められ、ラクガキされた状態で配られる。
窓越しから紙を投げつけた犯人の子供たちのくすくすと笑う声が聞こえた。
担任教師の声が聞こえた。
「皆さん、三日後にこの村に戦争調査隊の方々が来ます。国がかつてこの地域で起きた戦争の実態を調査をするために派遣し、戦前世代の人たち全員にお話を伺います。お母さん、お父さん、おじいちゃん、おばあちゃんが辛いことを思い出すと思うので、皆支えてあげてくださいね」
沈黙が数秒流れた後、生徒たちは「はいっ」と答えた。
かつてこの地域で起きた戦争の調査、村の人たちに話を伺う、辛い思いをする。それらの言葉を組み合わせて、私はその戦争調査隊やらが十三年前の悲劇の実態を村人たちから聞き出すのではないかと勘繰った。
戦争の調査か。村人たちの傷をえぐろうとする者が他にもいたのねと私は苦笑する。やがて調査隊の話からは興味が失せて頭から自然と抜け落ちた。退屈な学活に付き合っていられず、私はぼんやりと運動場を眺める。
その時、一人の生徒が立ち上がって先生に訊いた。
「せんせーい! 戦争調査隊の人たちに色々質問とかしていいですか。夏休みの自由研究の課題にしたいんで」
「はい、いいですよ。戦争調査隊の人たちは戦前の資料や証言を集めて研究をしているとても戦争に詳しい人たちなので、興味があれば何でも訊いてみてくださいね」
緊張が全身に広がり、心臓が高鳴り出す。戦前の資料や証言を集めて研究をしているとても戦争に詳しい人たち、ということはもしかすると彼らは実父の情報も知っているのではないだろうか。
忘れ去られた理想論が再び頭をもたげた。
もし戦争調査隊の人たちに父のことを訊いて、長年闇に葬られていた彼の消息がわかったとしたら⋯⋯。そう思った時、居場所も名も不明な父へ繋がる道が開けるのではというぼんやりした期待が込み上げてきて、諦めで塞がれていた心がぱっと開くような感覚を覚えた。
三日後、戦争調査隊が来たら父のことを聞いてみようと私は頷き、再びこみ上げてきた興奮にぎゅっと両手拳を握り締めた。