21
夏休みしか会えない美波は海斗の未来を考え、成仏する道を選ぶ。しかし、それを許さない海斗は頑なにキスを拒んだ。夏休み最終日、美波は海斗に最後の料理を振る舞いながら、飲み物に睡眠薬を混入させ、意識が朦朧とする海斗に美波は告げる。「私はもう十分に幸せを貰ったよ。だからもう、帰るね」と。そうして、体の自由を奪われた海斗にそっと口ずけをして成仏し、彼の前には永久に姿を表さない。
もちろん、海斗くんは悲しむだろう。でも、美波は幸せになって成仏した事をいずれは理解し、前を向いて歩き始めるに違いない。
な・の・に。
キス成仏の設定を忘れているのでは、この作戦は成立しない。新たに練り直す必要がある。と、この間わずか三秒。
海斗くんは私の両肩を、真綿を撫でるようにそっと掴む。次に、真っ直ぐ見つめていた視線が少し落ちて、唇を捉えると、ゆっくりと海斗くんの顔が近付いてきた。ああ、もう作戦なんてどうでもいいや、と私が目を瞑ると同時に「ガガガガガガガガッ!」という激しい振動音が、二人の近づいた距離を見事に離した。私たちが同じタイミングで音源に顔を向けると、ガラスのローテーブルでスマートフォンがブリブリと震えている。まるで、警告するように喧しく聞こえるのは、静寂のリビングに耳が慣れたせいなのに、誰かが咎めているように聞こえるのは私だけだろうか。
海斗くんは小さくため息を吐いてから、暴れ回るスマートフォンを手に取り耳に当てた。その態度とは裏腹な丁寧な言葉遣いで話しながらソファを立ち、リビングを出て行った。薄暗いリビングに取り残された私の心臓は、全力疾走した直後のようにバクついていて、私は落ち着かせるように胸に手を当ててから深呼吸をした。
「惜しかったなぁ……」
率直な感想をボソリと呟いてからスマートフォンで時刻を確認した。
「やばっ!」
すでに夜の七時を回っている。これから食事の用意をして、計画を実行に移すにはギリギリのタイミングだ。私は勢いよく立ち上がるとローテーブルにスネを打ち、悶絶しながらリビングの電気を付けると、キッチンに入った。幸いメニューは海鮮チゲ鍋だから、材料を切ってぶち込むだけだ。三倍速で準備をしていると、眩しそうに目を細めながら海斗くんが戻って来た。
「お客さん?」
「ん、ああ」
明るくなった室内をキョロキョロと見渡して、苦虫を噛んだような顔をしている。うん、気持ちはすごく理解できる。もし、あのままキスしていたら。と、考えると顔が真っ赤に蒸気するのが鏡を見なくても分かった。私はそれを海斗くんに悟られないよう下を向き、一心不乱に野菜を切っていた。
「では、いただきまーす」
ダイニングテーブルで向き合って座り、卓上コンロに乗った鍋の蓋を取ると、真っ赤に煮立った海鮮チゲ鍋がグツグツと音を立てている。海斗くんとの最後の晩餐なのに、私の心は鍋から立ち上る湯気のように、どこか宙を彷徨っていて落ち着かない。しかし、考えてみれば学芸会でも人間以外の役、風や草花しか与えられなかったロギア系の私が、二年に渡り海斗くんを欺いてきたのは奇跡に近い。きっと最後も上手くいくはずだ。
海斗くんはコップに入ったビールを一気に飲み干したので、私は瓶ビールを両手で持って傾けた。それも一気に飲み干して次を注ぐ。まるで早く酔っ払おうとするような飲み方だ。頃合いを見計らい私は自らを落ち着けて、熱々の豆腐を口に運びながら切り出した。明日の時間割を聞く母親のようにアッサリと、何でもない事のように。それでいて覚悟と決意を持って。
「今日で最後に――」
「あのさ!」
私の覚悟と決意は海斗くんの言葉でいとも容易くかき消されると、湯気の向こうで海斗くんがエメラルドグリーンの紙袋を広げて中から小さな箱を取り出した。丸みを帯びた箱がなかなか開かなくて苦戦している。
「これ、指輪……」
悪戦苦闘の末に開かれなかったその箱を私の前に差し出した。真っ赤に染まったチゲ鍋の小皿の横で、所在なさげにそれは佇んでいる。俺はこんな奴と並ぶような品物じゃないぞ、と、静かに主張しているようにも見えた。
「あのね、海斗くん――」
「誕生日のプレゼントじゃないからな! その、あれだ……」
「海斗く――」
「つまり、あれだ。け、け、け、婚約指輪的な意味があってだな、それでだな……」
「海斗くん!」
私が少し大きな声を出すと一瞬でリビングに静寂が訪れ、煮えたぎる鍋の音だけが二人の真ん中で音を立てていた。顔を上げた海斗くんは怯えた子犬のように私を見ている。私は自分がどんな顔をしているのか分からなかった。少なくとも穏やかな表情ではないのだろう。
「それは受け取れない」
キッパリと拒絶した。
「海斗くん、私はもう海斗くんには会えないの」
「何を、言って……」
そう言った海斗くんは、瞼に重力が加わったように片目を閉じかけてから開いた。頭がゆらゆらと揺れている。どうやらビールに混入した睡眠薬が効いてきたようだ。
「美波の夏休みは今日でおしまい、成仏して生まれ変わるの、分かるでしょ? ここは美波のいる世界じゃない。海斗くんはちゃんとここで幸せになって。それが私の願いだから」
「うそ……、だ……」
椅子から落ちそうな海斗くんを支えてソファに座らせた。海斗くんは最後の力を振り絞って睡眠薬の力を跳ね除けようと抗っている。
「美波の夢を海斗くんは沢山叶えてくれたよね。恋人と海に行く、花火を観る。それだけじゃなくて素敵なお友達が出来たのも海斗くんのおかげ、もう充分……、もう、充分……」
「ちが、違う……な……」
最後まで言葉を発する前に私は海斗くんにキスをした。海斗くんの体の力は抜けて上半身がゆっくりとソファに崩れ落ちる。閉じたその目から一筋の涙がこぼれ落ちそうになり、私は指先でそれを拭った。それなのに海斗くんの顔は涙で濡れている、それが自分の涙だと気付いて慌てて顔を上げた。真っ暗なテレビに映った私の顔はくしゃくしゃに歪んでいたけれど、無理やりに笑顔を作っても見せる相手はスヤスヤと寝息を立てていた。私は指先で海斗くんの頬っぺたツンツンしてみる。彼は少し口角を上げた、何だか嬉しそうだ。
「海斗くん、わがまま聞いてくれてありがとう」
そう言うと、彼の口がへの字に曲がった。
「海斗くん、いつも一緒にいてくれてありがとう」
への字だった口が元に戻る。
「海斗くん、たくさんの思い出ありがとう」
表情は変わらない。
「海斗くん、海斗くん……ごめんね、ごめんなさい……」
海斗くんといると元気になれた。素直な自分をさらけだせた、我儘も言えた、何よりも海斗くんのおかげで私は本当の自分を取り戻せた。
「死にたくない……。海斗くん、ずーっと一緒にいたいよ、海斗くん、海斗くん……」
病名を告げられてからも、一度も口にした事のない願望を呟くと涙が溢れて止まらなくなった。眠る海斗くんにしがみついて好きだと叫んでも、もう返事を聞くことは叶わない。
「凪沙だよ! 私は凪沙なの」
散々泣いて、散々わめいてスッキリしてから、私は最後に呟いた。
「星野凪沙は佐藤海斗を愛しています……。世界中の誰よりも」
そう言って眠る海斗くんにキスをした。
昔の漫画でキスの味はレモンとか言ってたけれど、私たちキスは塩っ辛い海の味がした。それがとても嬉しくて、なんだか特別で、すごく切なかった。
「よし!」
私は立ち上がってから気合いを入れ直すと、涙を拭って部屋を片し始める。食器を洗い、掃除機をかけて、お世話になった部屋へ感謝した。最後にダイニングテーブルを拭こうとした時、小さな箱がポツンと置いてある。海斗くんが美波にプレゼントする為に選んだ指輪。二度目のプロポーズをするつもりだったに違いない。私はダイニングチェアに座りその箱を手に取る。海斗くんが選んだ指輪。渡す相手がいないひとりぼっちの指輪はなんだか私みたいで親近感を覚えた。そっと箱を開けてみると、しなやかな曲線を描いたシルバーのリングにブルーのサファイアがキラキラと輝いている。
「どうして……」
私の心臓はトクトクと鼓動を早めた。
サファイアは九月の誕生石。美波の、お姉ちゃんの誕生日が八月だって事は、こないだ誕生日をやったばかりだから忘れるはずがない。店員さんが間違えた? そんな事があるだろうか。分からない。
私は震える指先で指輪を手に取り、左手の薬指にはめた。それは驚くほどピッタリと私にはまり、真っ白な指の上で輝いている。まるで夜空に煌めく星のように美しく、それでいて深いブルーの輝きは慈愛に満ちていた。『真実』の石言葉を持つサファイアは、私の為にそこにいるような錯覚を起こし、慌てて引っこ抜くように指輪を外した。これは私に贈られたプレゼントじゃない。そう自分に言い聞かせてから深呼吸をして、指輪を箱に戻そうとすると、リングの内側にアルファベットが彫られている事に気が付いた。
見るか迷った。見れば真実は一目瞭然だ。誕生石を間違えたドジな海斗くんに呆れつつ、馬鹿な妄想をした自分にうんざりするだけ。でも、もし。そこにいるのが私だったら。もし、そうだったら、この世に何の未練もない。そんな身勝手な願いが脳裏をよぎる。
私はゆっくりと指輪を持った手を顔に近づけて、内側に掘られた文字を見た。口に手を当てる。目を見開く。その瞬間、再び涙がポロポロと溢れて目の前が霞み嗚咽が漏れた。
『Nagisa 』
ブルーサファイアの婚約指輪の内側には私の名前が彫られていた。その意味をなん度も、何度も頭の中で反芻しても正解に辿りつけない。それでも、この指輪が凪沙の為に用意された物で、海斗くんは全部知っていたのだと思い至る。それは、かくれんぼをした時に誰からも見つけてもらえず時間が過ぎていき、やっと見つけてもらえたような安心感と喜び、わずかな羞恥が混ざったような懐かしい感覚だった。
私はもう一度、指輪を薬指にはめて顔の前にかざしてみる。視界がぼやけて綺麗なブルーが結晶みたいに反射していた。今までの思い出が走馬灯みたいに蘇ってくる。私なんだ、海斗くんと出会い、恋をして。夏休みを一緒に過ごしたのは凪沙なんだ。そんな当たり前の事実から目を背けて、自分自身を傷つけてきた私を海斗くんは一瞬で救ってくれた。
生きてみよう。たとえ無理でも、最後まで足掻いてみよう。努力してみよう。戦ってみよう。この命が尽きるまで、諦めずに頑張ってみよう。何も怖くない。私を見つけてくれた人がここにいる。凪沙を愛してくれた人がここにいる。私が愛した人がここにいる。
だから、もう一度。
ここへ、海斗くんに会いにこよう。
私は鞄からメモ用紙を取り出して一枚だけちぎる。書きたいことは山ほどあったけれど一言、海斗くんに伝えたい事をそこに記して折りたたむ。指輪の箱にメモ紙をしまってから蓋を閉じた。言いかけたプロポーズの答えだと伝わりますように……そう願いを込めて。
海斗くん、ありがとう。 星野凪沙――。
もちろん、海斗くんは悲しむだろう。でも、美波は幸せになって成仏した事をいずれは理解し、前を向いて歩き始めるに違いない。
な・の・に。
キス成仏の設定を忘れているのでは、この作戦は成立しない。新たに練り直す必要がある。と、この間わずか三秒。
海斗くんは私の両肩を、真綿を撫でるようにそっと掴む。次に、真っ直ぐ見つめていた視線が少し落ちて、唇を捉えると、ゆっくりと海斗くんの顔が近付いてきた。ああ、もう作戦なんてどうでもいいや、と私が目を瞑ると同時に「ガガガガガガガガッ!」という激しい振動音が、二人の近づいた距離を見事に離した。私たちが同じタイミングで音源に顔を向けると、ガラスのローテーブルでスマートフォンがブリブリと震えている。まるで、警告するように喧しく聞こえるのは、静寂のリビングに耳が慣れたせいなのに、誰かが咎めているように聞こえるのは私だけだろうか。
海斗くんは小さくため息を吐いてから、暴れ回るスマートフォンを手に取り耳に当てた。その態度とは裏腹な丁寧な言葉遣いで話しながらソファを立ち、リビングを出て行った。薄暗いリビングに取り残された私の心臓は、全力疾走した直後のようにバクついていて、私は落ち着かせるように胸に手を当ててから深呼吸をした。
「惜しかったなぁ……」
率直な感想をボソリと呟いてからスマートフォンで時刻を確認した。
「やばっ!」
すでに夜の七時を回っている。これから食事の用意をして、計画を実行に移すにはギリギリのタイミングだ。私は勢いよく立ち上がるとローテーブルにスネを打ち、悶絶しながらリビングの電気を付けると、キッチンに入った。幸いメニューは海鮮チゲ鍋だから、材料を切ってぶち込むだけだ。三倍速で準備をしていると、眩しそうに目を細めながら海斗くんが戻って来た。
「お客さん?」
「ん、ああ」
明るくなった室内をキョロキョロと見渡して、苦虫を噛んだような顔をしている。うん、気持ちはすごく理解できる。もし、あのままキスしていたら。と、考えると顔が真っ赤に蒸気するのが鏡を見なくても分かった。私はそれを海斗くんに悟られないよう下を向き、一心不乱に野菜を切っていた。
「では、いただきまーす」
ダイニングテーブルで向き合って座り、卓上コンロに乗った鍋の蓋を取ると、真っ赤に煮立った海鮮チゲ鍋がグツグツと音を立てている。海斗くんとの最後の晩餐なのに、私の心は鍋から立ち上る湯気のように、どこか宙を彷徨っていて落ち着かない。しかし、考えてみれば学芸会でも人間以外の役、風や草花しか与えられなかったロギア系の私が、二年に渡り海斗くんを欺いてきたのは奇跡に近い。きっと最後も上手くいくはずだ。
海斗くんはコップに入ったビールを一気に飲み干したので、私は瓶ビールを両手で持って傾けた。それも一気に飲み干して次を注ぐ。まるで早く酔っ払おうとするような飲み方だ。頃合いを見計らい私は自らを落ち着けて、熱々の豆腐を口に運びながら切り出した。明日の時間割を聞く母親のようにアッサリと、何でもない事のように。それでいて覚悟と決意を持って。
「今日で最後に――」
「あのさ!」
私の覚悟と決意は海斗くんの言葉でいとも容易くかき消されると、湯気の向こうで海斗くんがエメラルドグリーンの紙袋を広げて中から小さな箱を取り出した。丸みを帯びた箱がなかなか開かなくて苦戦している。
「これ、指輪……」
悪戦苦闘の末に開かれなかったその箱を私の前に差し出した。真っ赤に染まったチゲ鍋の小皿の横で、所在なさげにそれは佇んでいる。俺はこんな奴と並ぶような品物じゃないぞ、と、静かに主張しているようにも見えた。
「あのね、海斗くん――」
「誕生日のプレゼントじゃないからな! その、あれだ……」
「海斗く――」
「つまり、あれだ。け、け、け、婚約指輪的な意味があってだな、それでだな……」
「海斗くん!」
私が少し大きな声を出すと一瞬でリビングに静寂が訪れ、煮えたぎる鍋の音だけが二人の真ん中で音を立てていた。顔を上げた海斗くんは怯えた子犬のように私を見ている。私は自分がどんな顔をしているのか分からなかった。少なくとも穏やかな表情ではないのだろう。
「それは受け取れない」
キッパリと拒絶した。
「海斗くん、私はもう海斗くんには会えないの」
「何を、言って……」
そう言った海斗くんは、瞼に重力が加わったように片目を閉じかけてから開いた。頭がゆらゆらと揺れている。どうやらビールに混入した睡眠薬が効いてきたようだ。
「美波の夏休みは今日でおしまい、成仏して生まれ変わるの、分かるでしょ? ここは美波のいる世界じゃない。海斗くんはちゃんとここで幸せになって。それが私の願いだから」
「うそ……、だ……」
椅子から落ちそうな海斗くんを支えてソファに座らせた。海斗くんは最後の力を振り絞って睡眠薬の力を跳ね除けようと抗っている。
「美波の夢を海斗くんは沢山叶えてくれたよね。恋人と海に行く、花火を観る。それだけじゃなくて素敵なお友達が出来たのも海斗くんのおかげ、もう充分……、もう、充分……」
「ちが、違う……な……」
最後まで言葉を発する前に私は海斗くんにキスをした。海斗くんの体の力は抜けて上半身がゆっくりとソファに崩れ落ちる。閉じたその目から一筋の涙がこぼれ落ちそうになり、私は指先でそれを拭った。それなのに海斗くんの顔は涙で濡れている、それが自分の涙だと気付いて慌てて顔を上げた。真っ暗なテレビに映った私の顔はくしゃくしゃに歪んでいたけれど、無理やりに笑顔を作っても見せる相手はスヤスヤと寝息を立てていた。私は指先で海斗くんの頬っぺたツンツンしてみる。彼は少し口角を上げた、何だか嬉しそうだ。
「海斗くん、わがまま聞いてくれてありがとう」
そう言うと、彼の口がへの字に曲がった。
「海斗くん、いつも一緒にいてくれてありがとう」
への字だった口が元に戻る。
「海斗くん、たくさんの思い出ありがとう」
表情は変わらない。
「海斗くん、海斗くん……ごめんね、ごめんなさい……」
海斗くんといると元気になれた。素直な自分をさらけだせた、我儘も言えた、何よりも海斗くんのおかげで私は本当の自分を取り戻せた。
「死にたくない……。海斗くん、ずーっと一緒にいたいよ、海斗くん、海斗くん……」
病名を告げられてからも、一度も口にした事のない願望を呟くと涙が溢れて止まらなくなった。眠る海斗くんにしがみついて好きだと叫んでも、もう返事を聞くことは叶わない。
「凪沙だよ! 私は凪沙なの」
散々泣いて、散々わめいてスッキリしてから、私は最後に呟いた。
「星野凪沙は佐藤海斗を愛しています……。世界中の誰よりも」
そう言って眠る海斗くんにキスをした。
昔の漫画でキスの味はレモンとか言ってたけれど、私たちキスは塩っ辛い海の味がした。それがとても嬉しくて、なんだか特別で、すごく切なかった。
「よし!」
私は立ち上がってから気合いを入れ直すと、涙を拭って部屋を片し始める。食器を洗い、掃除機をかけて、お世話になった部屋へ感謝した。最後にダイニングテーブルを拭こうとした時、小さな箱がポツンと置いてある。海斗くんが美波にプレゼントする為に選んだ指輪。二度目のプロポーズをするつもりだったに違いない。私はダイニングチェアに座りその箱を手に取る。海斗くんが選んだ指輪。渡す相手がいないひとりぼっちの指輪はなんだか私みたいで親近感を覚えた。そっと箱を開けてみると、しなやかな曲線を描いたシルバーのリングにブルーのサファイアがキラキラと輝いている。
「どうして……」
私の心臓はトクトクと鼓動を早めた。
サファイアは九月の誕生石。美波の、お姉ちゃんの誕生日が八月だって事は、こないだ誕生日をやったばかりだから忘れるはずがない。店員さんが間違えた? そんな事があるだろうか。分からない。
私は震える指先で指輪を手に取り、左手の薬指にはめた。それは驚くほどピッタリと私にはまり、真っ白な指の上で輝いている。まるで夜空に煌めく星のように美しく、それでいて深いブルーの輝きは慈愛に満ちていた。『真実』の石言葉を持つサファイアは、私の為にそこにいるような錯覚を起こし、慌てて引っこ抜くように指輪を外した。これは私に贈られたプレゼントじゃない。そう自分に言い聞かせてから深呼吸をして、指輪を箱に戻そうとすると、リングの内側にアルファベットが彫られている事に気が付いた。
見るか迷った。見れば真実は一目瞭然だ。誕生石を間違えたドジな海斗くんに呆れつつ、馬鹿な妄想をした自分にうんざりするだけ。でも、もし。そこにいるのが私だったら。もし、そうだったら、この世に何の未練もない。そんな身勝手な願いが脳裏をよぎる。
私はゆっくりと指輪を持った手を顔に近づけて、内側に掘られた文字を見た。口に手を当てる。目を見開く。その瞬間、再び涙がポロポロと溢れて目の前が霞み嗚咽が漏れた。
『Nagisa 』
ブルーサファイアの婚約指輪の内側には私の名前が彫られていた。その意味をなん度も、何度も頭の中で反芻しても正解に辿りつけない。それでも、この指輪が凪沙の為に用意された物で、海斗くんは全部知っていたのだと思い至る。それは、かくれんぼをした時に誰からも見つけてもらえず時間が過ぎていき、やっと見つけてもらえたような安心感と喜び、わずかな羞恥が混ざったような懐かしい感覚だった。
私はもう一度、指輪を薬指にはめて顔の前にかざしてみる。視界がぼやけて綺麗なブルーが結晶みたいに反射していた。今までの思い出が走馬灯みたいに蘇ってくる。私なんだ、海斗くんと出会い、恋をして。夏休みを一緒に過ごしたのは凪沙なんだ。そんな当たり前の事実から目を背けて、自分自身を傷つけてきた私を海斗くんは一瞬で救ってくれた。
生きてみよう。たとえ無理でも、最後まで足掻いてみよう。努力してみよう。戦ってみよう。この命が尽きるまで、諦めずに頑張ってみよう。何も怖くない。私を見つけてくれた人がここにいる。凪沙を愛してくれた人がここにいる。私が愛した人がここにいる。
だから、もう一度。
ここへ、海斗くんに会いにこよう。
私は鞄からメモ用紙を取り出して一枚だけちぎる。書きたいことは山ほどあったけれど一言、海斗くんに伝えたい事をそこに記して折りたたむ。指輪の箱にメモ紙をしまってから蓋を閉じた。言いかけたプロポーズの答えだと伝わりますように……そう願いを込めて。
海斗くん、ありがとう。 星野凪沙――。