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作者: 桐谷 碧
20
海斗くんはお昼前には帰ってきた。なにやら、コソコソと自室に入って行ったから静かに後を付けて、その背中に声を掛けた。
「何してるの?」
 海斗くんは分かりやすく肩をビクつかせて、持っていた紙袋を下に落とした。エメラルドグリーンに白抜きのロゴは、なんて書かれているか迄は読み取れないけれど、私はそのブランドを知っている。
「お、おう。ちょっとな」
 エロ本を隠す小学生のように、慌てた海斗くんは紙袋をギュウギュウと机の引き出しに押し込んでいる。私はすぐにピンと来た。美波へのプレゼントだ。袋のサイズから推し量るにネックレス、ブレスレット、指輪だったら嬉しいけれどサイズを知らないか。などと、幸せな予測を立ててニヤけているとインターホンが鳴った。パタパタとリビングに戻り液晶モニターを確認すると、師匠とめぐさんが画面越しにピースサインと笑顔をコチラに向けていた。
「うちはお前らの溜まり場じゃねえんだぞ」
 リビングに集合した私たちを一瞥して、海斗くんはため息を吐いた。ハッシーはみんなの昼食を作るべくキッチンで奮闘している。
「ばーか、コイツは夏休み終わったらまたアメリカに戻るんだろ? だから会いに来たんだよ、な?」
 師匠の問いにめぐさんが「うん」と答えた。
「二人ともありざーっす!」
 設定上、美波はアメリカに住んでいて、夏休み限定で祖母の家に遊びに来ている事になっていた。無理があるかと思ったけれど、二人が怪しむ様子はない。やっと出会えた心許せる同性、正確には言えばめぐさんは違うけど。と、お別れするのはやっぱり寂しい。
 師匠は相変わらず破れたジーンズに外国の女性がプリントされたティーシャツが、ベリーショートにとても似合っていてかっこいい。めぐさんはクルクルに巻かれた茶色のロングヘアーが小さな顔をより引き立てている。見た目は対照的なのに心は繋がっていて、性別と中身がチグハグになっても寄り添う相手がちゃんといる。ここまで来るのに障害が無かったなんて思えない。傷付きながら、葛藤しながら、それでも前に進んできた結果が今なんだ。逃げずに、立ち向かい、自分と向き合ってきた人たちがここにはいる。
 私はみんなと一緒にいる資格がない。嘆き、恨み、自分じゃない誰かに成りすまして誤魔化してきた私は、誰の記憶にも残らずこの世を去るのだろう。もちろん、パパやママ、おばあちゃんは悲しむだろうけど。それは無償の愛で、私が残した功績ではない。
 人は死んだ後にその評価が問われる。薄い記憶に残されたお姉ちゃんの葬儀には沢山の参列者と、咽び泣く人たちで溢れていた。お姉ちゃんが十七年間で築いてきた人間関係や信頼、友情や愛情がそこには満ちていた。今思えば、私は怖かったのかも知れない。自由気ままに生きていたら、誰からも愛されない、必要とされない人生になる事が。
「どうした?」
 師匠に言われて自分が泣いている事に気付いた。頬を伝った涙がローテーブルにポタポタと落ちる。
「ごめんなさい、寂しくなっちゃって……」
 私は両手で顔を覆い下を向き、肩を震わせて泣いた。誰かの手がそっと背中を撫でる。優しく、慈しむようにゆっくりと。それが美波に向けられた優しさなのだと思うと余計に悲しくなり、自分の愚かさを呪った。
 ハンカチが頬に当てられて顔を上げると、めぐさんが目を真っ赤にして私を見つめていた。そして、囁くように言った。
「どんなに繕っても、自分に嘘は付けないの。誰かを羨んでも決してその人にはなれない。でもね、ここにいるあなたは誰かじゃない、紛れもなくあなたよ。海斗が愛し、私たちが大好きになったのはあなたなの。言ってる意味分かるよね?」
 私の両肩を掴んで、正面からめぐさんが見つめてくる。その瞳から真珠のような雫が一粒だけ落ちると、彼女はパッと笑顔になって頷いた。
「さっ、出来ましたよー!」
 困惑する私をよそに、まるで空気を読まないハッシーがテーブルに料理を並べ出した。自家製トマトソースのアラビアータは私の好物だ。ハッシーのさり気ない優しさに涙腺がまた緩みそうになってしまう。
 みんなは良く喋り、笑い、ハイティーンの仲良しグループに一人混じった三十路のお兄さんも、ほど良いアクセントになった最高の仲間だった。海斗くんはもう、迷惑そうな顔を作る事も忘れて楽しんでいる。
「それじゃあ、そろそろおいとまするかな」
 二時間ほどのランチを終えると、師匠はそう言って立ち上がった。
「そうだね」
 めぐさんがそれに倣う。
「え、もう、帰っちゃうんすか?」
 私とハッシーの声が見事に重なった。しかし、驚くハッシーの腕を掴んで「お前も帰るんだよ」と師匠が吐き捨てた。
「でも、片付けがまだー」
「海斗にやらせとけ」
「でもー」
 渋るハッシーをめぐさんが嗜めると、飼い犬のように忠実に回れ右をして玄関に向かって行った。最後の日だから二人きりにしてあげようと、そんな気を利かせてくれた気持ちが、なんだかこそばゆくて、それでいて青春の香りがしてドキドキした。三人がいなくなると、部屋は祭りの後のような寂しさに包まれていた。海斗くんと二人きりになるのが久しぶりな気がして少し緊張する。
「あ、私がやるよ」
 食器を片し始めた海斗くんに声を掛けた。
「いいよ、俺だって洗い物くらい出来るし」
 なぜか不貞腐れた中学生みたいに不機嫌な海斗くんは、カチャカチャとお皿を重ねている。
「どーしたの海斗キュン? 怒っちゃやーよ」
 頬っぺたをツンツンすると、顔を赤くしてボソボソと呟いている。
「――のかよ」
「ん? あんだって?」
「お前は、早く二人になりたくねーのかよ」
 ははーん。師匠が帰りを切り出した時に、まだいて欲しそうな態度をとった私がお気に召さないようだ。つまり。
「あ、海斗くんは早く二人きりになりたかったんだ?」
 重ねた食器をシンクに運ぶ、海斗くんの後ろをついて行きながらその背中に聞いた。
「ああ」
 あら、珍しい。素直だわ。これが最終日パワーなのね。私は驚嘆しつつ、嬉しさの感情そのままに背後から抱き付くと、太陽みたいな優しい香りがした。海斗くんの匂いだ。
「ねえ、初めて会った日のこと覚えてる?」
 イライラしながら行列に並ぶ海斗くんに、勇気を出して話しかけた時から、私たちの不思議な関係は始まったのだ。怖かったのは最初だけで、私はすぐに海斗くんが好きになった。驚くほど自然に、あっさりと恋に落ちた、
「ああ、もちろん」
 私は纏わりつく小犬のように、背中にくっついたまま離れなかった。海斗くんはそのままの体勢で食器を洗っている。静かなキッチンで、カチャカチャとお皿が当たる音だけが響いていた。叶うならずっとそうしていたかった。このまま時が止まれば良いのにと願った。けれど、水の流れる音が止まり部屋全体が静寂に包まれると、心臓の鼓動が海斗くんに伝わってしまいそうで私は体を離した。すると海斗くんは振り向き私を正面から抱きしめる。
「何がしたい?」
 耳元で囁かれて体が少しだけ硬直した。
 え? もしかして、そーゆー流れなの。いや、私は全然いいのよ、初めてを海斗くんに捧げるのは。でも、心の準備が、それにシャワーも浴びたいし。そもそもキッチンでプレイするなんて上級者がやる事じゃないの。いや、海斗くんの性癖が少しくらい変わっていても、嫌いになんてならないわ。でも、初めてくらいはもう少しムードのある場面というか、真っ昼間からって言うのはちょっと抵抗があると言うか――。
「ドライブとか、映画とか、何でも付き合うよ。確か去年は最終日には野球観に行ったよな? あんまり集中出来なかったけど……」
「え? ああ、そうだよね。うん、野球はテレビで充分ですわ! オホホ」
 危ない危ない。一人で暴走する所だった。私はホッとしたはずなのに、なぜか「誠に遺憾です」と政治家みたいなセリフを呟いていた。
「え? いかん?」
「ううん、何でもないの! 私ねぇ、お喋りしたい。時間がくるまでずーっと、海斗くんと話したい」
 顔を上げると海斗くんの顔が目の前にあってドキリとした、でも少し近づけばキスしちゃうくらいの距離に怯んだのは海斗くんが先で、私の肩を抱いたまま物凄いスピードでそっぽを向いた。
「そ、そんなんで良いのかよ。どっか行かなくて大丈夫か?」
「うん」
 私は海斗くんの真っ赤になった耳に返事をした。
 それから私たちはソファに二人、寄り添って座りながら思い出話に花を咲かせた。腕を絡めて海斗くんを見つめると、海斗くんは明後日の方角を凝視していて、でも拒絶はしてこなかった。私たちが一緒にいた日数はたったの八十四日間だったけれど、話題が尽きる事は無く、至福の時間はあっという間に過ぎてゆく。窓から差し込む日差しが夕焼け色に染まり、やがて暗くなっても、私たちは部屋の電気も付けずに話し続けた。
「海斗くん……」
 私が呼びかけると「ん?」と、返事をしながら私を見た。息のかかる距離で視線が交差しても、海斗くんは目を逸さなかった。月明かりだけの暗い部屋で、私たちは見つめ合った。と、その刹那。
 あ、キスされちゃうかも――。
 と、揺らいだ思考と共に脳内で緊急会議が始まった。それは、時間にすれば一瞬の事で、しかし的確な判断が求められる重要な会議だった。
 まず疑問に思った事は、キスをしたら美波は成仏する説を海斗くんは忘れているのだろうか。いや、覚えていないからこそ、目の前の彼はキスするぞモードに突入しているのだろう。そうなると、私が今日のために用意したシナリオが根底から覆されてしまう。そう、私が考案した海斗くんとの美しいラストとはこうだ。
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