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作者: 桐谷 碧
エピローグ
「アレクサ、おはよう」
 海斗がスマートフォンに向かって話しかけると、誘拐犯が使うボイスチェンジャーのような無機質な女の声で「はい」と返事が返ってきた。同時にベットの横のカーテンが自動で開き、リビングのテレビがつく。さらにカウンターキッチンの上にあるアレクサ本体がなにやら喋りだした。
『七月二十日、水曜日、只今の時刻は午前十時三十五分、本日の日本橋人形町の天気は晴れ、最高気温は三十三度、最低気温は二十四度――』
 設定した地域の天気予報がながれ布団から這い出ると、寝室からリビングを抜けて洗面所に向かい、鏡の裏からコンタクトレンズを取り出して片方ずつ装着した。顔を洗い歯を磨いてからリビングに戻り窓を開けると、都会の濁った空気が夏の熱気を帯びて室内に入ってくる。オフィスビルが立ち並ぶ街で、どこに潜んでいるのか行方知らずの蝉たちが、今日も競い合うように鳴いていた。
 テレビにはメジャーリーグ史上最高年俸の日本人選手が、マウンドの上で土を均してから投球練習を始めている。海斗は横目でテレビを見ながら、生卵を熱したフライパンの上に落とし、食パンをオーブントースターに放り込んだ。電気ケトルで湯を沸かしながら、ウインナーに切り込みを入れてから目玉焼きの横に置くと、タコが踊るように反り返る。皿の上に目玉焼きとタコさんウインナーを盛り付けて胡椒を振った。『チン』と間抜けな音で焼き上がりを知らせるオーブンから、食パンを取り出してダイニングテーブルに並べていると、ケトルが『カチッ』と鳴る。海斗がインスタントコーヒーを入れたカップにお湯を注ぐと、キッチンに白い煙が二つ上がった。
『ブブブブブブッ』
 食パンを齧ると、ダイニングテーブルの上でスマートフォンが震えた。液晶画面にはハッシーと表示されている。海斗はため息を吐いてからハンズフリーで電話に出た。
「社長! もう十一時っすよ! いつまで寝てるんすか?」
「……」
「え! ちょ、無視っすか? 社長ー!」
「社長はやめろ。あと、七月二十日は休みだって言っただろーが、カス」
「あ、今日はその日でしたかー。大変失礼しました!」
 人を雇うのは面倒だし責任も付いて回る。一人で自由気ままに働いていたのに、ハッシーは一通り仕事を覚えると次々と客を捕まえて来た。SNSを駆使して宣伝し、対面する事なく受注してくるから、あっという間に二人では手に負えない仕事量になり、渋々人員を増やしているうちに十人を超えてしまった。仕方なく家の近くに事務所を借りて、小さな会社の社長を気取っている。まあ、これはこれで悪くない。ついでに社内メールをスマートフォンでチェックした。
『こら海斗! いくら何でも納期が短すぎるぞ! ふざけんな! なんとかしろよテメー』
 社長と呼ばれるのも鬱陶しいが、上司に対してこの言い草もないものだ。海斗は高梨のメールをとりあえず無視してコーヒーに口を付けた。しかし、同級生の高梨と平野がいつの間にか社員になったのはなぜだろうか。しっかり仕事をこなすから文句はないが、せまいオフィスで三角関係をキープされるのはかなわない。
 小さなダイニングテーブルの上には銀の盾が飾られている。大学ノートくらいのサイズで再生ボタンを表す横になった正三角形の下に『ホシミナチャンネル』の文字が彫られていた。突如現れた謎の美少女ユーチューバーは、二ヶ月足らずの活動期間にも関わらず十万人以上の登録者を獲得していた。その動画は今も残されていて、そこには確かに彼女がいた。この世界に彼女は存在していて、今でも鮮明に海斗の心で生き続けている。銀の盾の前に置かれたコーヒーカップを見ながら海斗は薄い笑みを漏らして呟いた。
「これじゃあ、お供え物みたいだな……」
 彼女がいなくなってから何度目の夏を迎えたか、もう忘れてしまった。数えないように、あえて忘れるようにしている訳じゃないが、指折り数えて待っていると周りに悟られるのも具合が悪い。とは言え、日々の忙しさに忙殺されて記憶も薄れていくのかと思ったが、一日だって忘れた事はない。夢にはしょっちゅう出てくるし、街で白いオーバーオールを見かけたら心臓が止まりそうになる。
 海斗は食べ終えた朝食の食器を洗うとソファに腰掛けた。インターホンの音が鳴り肩がビクリと揺れる。液晶画面に映るのはもちろん宅配業者であって彼女ではない。そもそも、アイツはマンションの合鍵を持っているのだから勝手に入ってくるだろう。それなのにいちいち反応してしまう自分の体に苦笑しながら定位置に戻った。
 海斗はメジャーリーグの中継が終わると重い腰を上げた。部屋を隅々まで掃除してから洗面所で鏡を覗くと、寝癖だらけの頭に無精髭がだらしなく生えている。今日は出勤予定も外出予定もないのだから構わないが、顔を入念に洗った後に剃刀で丁寧に髭を剃り、ヘアスタイルをセットしてから外着に着替えた。見栄えだけは整えて再びソファに座る。ワイドショーでは政治献金の不正受給問題について、タレント達が熱弁をふるっていたが、海斗はリモコンを手に取りテレビを消した。
 ソファに横になって目を瞑ると心地よい睡魔が襲ってくる。抗いもせずに身を任せていると、なぜか子供の頃の記憶が蘇ってきた。
 小学生の頃、夏休みの終わりはどうしてあんなに寂しかったのだろう。特段学校が嫌いだった訳でもないのに、まるで地球最後の日のような絶望感は社会人の日曜日の夜に酷似しているのかも知れない。つまりサザエさん症候群だ。
 大人になれば八月三十一日はなんて事がない普通の日となる。同時にあれほど希望に満ち溢れていた七月二十日もいたって普通の日に降格した。それが普通の大人だろう。海斗のように仕事を休んで期待を胸に膨らませている人間は稀だ。そして、毎年のように裏切られる結果になろうが決して悲観的にも、自暴自棄にもならずに現在に至る。
 目を覚ますとオレンジ色の陽射しが部屋を染めていた。海斗は弾かれたように起き上がると、インターフォンの液晶画面を操作して来客の有無を確認する。カラカラに乾いた喉が鳴り、後からため息が漏れた。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して喉を潤すと空腹感に襲われる。
「味噌ラーメンくいてぇ……」
 敢えて海斗は呟いた。ラーメン屋など近所に幾らでもあるので食べようと思えば食べられる。しかし、今日の夕飯はすでに決まっている。バカバカしい理由で決して他人には明かす事など出来ないが。寝癖頭にキャップを被り、海斗は家を出た。

「ちっ、早くしろよババア……」
 海斗の後ろに並ぶ男が、舌打ちをしながらボソボソと口籠る。首を僅かに横に向けると、落ち着きのない様子が肩越しにも伝わってきた。前に向き直る。ファストフードのレジでは初老の女性がオロオロと財布の中から小銭を探していて、見守る外国人と思しき店員は穏やかな笑みを絶やさずに、トレーに並べられていく小銭を眺めていた。
「よろしければ、僕の前どうぞ」
 海斗は振り向き、小柄な中年男に話しかけた。
「え、あ、いや」
「どうぞどうぞ、僕は平気なので」
 男性に前を譲りスマートフォンで野球中継を見始めた。まだハンバーガーで胃もたれするような年齢ではないはずだったが、この時間に食べるのは年に一度、この日だけだ。
『どっちが勝ってますか?』
 なんて聞いてくる不思議な少女はもちろんいないが、心の準備だけはできていた。気の利いたセリフだって用意してある。そんな事を考えている間にあっさりと順番は回ってきた。今年もハズレか。そんな感想を抱きながらも喪失感はない。いつか必ず現れる、そう信じていた。
 海斗はチーズバーガーのセットを受け取ると自宅のマンションに向かって歩き出した。交差点を渡り、行き交う人たちが通り過ぎていく。おそらく話すことも、交わることもない赤の他人がなぜかいとおしい。誰かと関わり、その人生に自らが干渉する事の喜びを教えてくれたのは彼女に他ならなかった。
 薄闇に照らされて、新築だったマンションも至る所に老朽の跡が見て取れた。いい加減新しいマンションに引っ越しても良いのだが、後々文句を言われても敵わない。
 どうしてい勝手に引っ越すのよ。散々探したじゃない!
 勝手に行方をくらませた事を、棚に上げて立腹する姿が容易に想像できて海斗は笑みが漏れた。偶然マンションから出てきた中年女性の住人が、訝しむように顔を引き攣らせて見ている。
「こんばんは」
 海斗が笑顔で挨拶をすると、つられたように笑顔になり「こんばんは」と返事をした。満足してオートロックのセンサーにキーを翳すと透明な扉が大袈裟な音を立てて開き、エントランスへと足を踏み入れる。まっすぐエレベーターに向かって歩いていくと、背後から閉まりかけた扉が開く音が聞こえた。同じマンションの住人だろう、とはなぜか思わなかった。周りの空気が変わり、背後に気配を感じる。その気配が音もなくそろそろと近づいてきた。彼女だ。そう思うのと、背中に声が掛けられるのが同じタイミングだった。
「かーいーとーくん!」
 幻聴にしてはやけにハッキリとした声音。振り向く事ができない、海斗はその場で石のように固まっていた。
「まさかとは思うけど、まだ一人暮らしてるんじゃないでしょうねえ?」
「ああ」
 その懐かしい声に背中が震えた。
「もしかしてー。私を待っててくれたのかな?」
「ああ」
 そのおどけた口調で記憶が過去に巻き戻る。
「じゃあ、結婚しよっか?」
「ああ」
 彼女がいなくなったあの日から、ずっとこうなると信じていた。それなのに、用意していた言葉が出てこない。何も言葉が見つからない、
「もう、海斗くん! こっちむいてよ」
「ああ」
 海斗がゆっくり振り向くと、そこには真っ白なオーバーオールを着た彼女が頬を膨らませながら、腰に手を当てて立っていた。まるで、あの日と同じように。

 星野凪沙は立っていた――。
 
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