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作者: 桐谷 碧
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――今日もあの男の子は壁に向かってボールを投げていた、私が挨拶をすると、最近は帽子を取って挨拶してくれる。部活がない火曜日にしか出来ない二人のキャッチボール。男の子の球は会う度に速くなる、多分、最初は私が女の子だから加減していたのだろう。意外にジェントルマンだ。将来が楽しみね。佐藤海斗くん――

 日記の中に登場する佐藤海斗は、私が幼い頃、お姉ちゃんから聞いた小学生に違いない。しかし、煽り運転の遺族である佐藤海斗は同一人物なのだろうか。佐藤海斗なんて珍しい名前じゃない。しかし、名前、年齢、住んでいる地域まで一緒となればどうだろう。
 私の興味は事件から被害者遺族の佐藤海斗に変わった。しかし、彼の事件後消息は、どこにも記されていない。ネットに晒された住所を一度訪ねてみたが、空き家になったと思われる一軒家に人の気配はなく、インターフォンを押しても、カチャカチャとボタンが擦れる音だけが虚しく響いた。
 それから半年後、野村賢治の一審判決が下された。検察の求刑、懲役十五年に対して判決は懲役十年。それが長いのか短いのか私には分からない。でも、法廷画家が書いた公判中のイラストはやけにリアルで、鬼気迫る感情がテレビ越しにも伝わってきた。ネットで晒された遺族の子供、佐藤海斗は端正な顔つきの、涼しげな青年だった。しかし、判決が決まってから野村賢治に向かって叫んだと見られる彼のイラストは、般若の如く目が釣り上がり、口は裂け、髪が逆立っていた。それは人獣に噛みつき、引き裂き、食い殺そうとする、恐ろしい復讐者の顔だった。
 日記を読む限り、お姉ちゃんが佐藤海斗と会ったのは六回。夏休みの間の六回。二人に七回目は訪れなかった。彼は何を思っただろうか。夏休み限定だと知りガッカリしたんじゃないだろうか。まさか、死んでしまったとは考えなかったと思う。
 彼に会ってみたかった。どうしてだろう、会って話してみたいと思った。密かにお姉ちゃんを知る人が、同じように家族を人獣に殺された仲間かも知れない。彼のように強い心で、人獣に立ち向かいたい。いろんな想いが綯い交ぜになって出た答えは、彼を探す事だった。
 相変わらず学校には行けなかったけど、教科書を見て、分からない箇所はネットで調べた。テストの時だけ保健室に登校して、なんとか二年に進級出来た。勉強して、本を書いて、佐藤海斗を探した。だけど、判決が下り一段落した事件に世間の感心は薄れていき、風化する。やがて、ネットの情報も更新されなくなり、佐藤海斗の行方は益々分からなくなった。
 すっかり諦めかけた頃、唐突に私たちは出会った。いや、一方的に私が見つけただけ。月命日にお姉ちゃんのお墓参りをしていると、平日の昼間にも関わらず熱心に墓を掃除する青年がいた。その横顔ですぐに分かった。ネットに流出した無数の写真を思い出す。実際に見ると、涼しげな目元は穏やかで、思っていたより背が高い。佐藤海斗だ。
 私はその場に立ち尽くした。話しかけたいけど言葉が出てこない。地蔵のように固まったまま、身動きが取れず、ただ彼の事をじっと見つめていた。
「あ、どうも」
 私に気づいた彼が声を掛けてきた。金縛りが解けて「あ、こんにちは」とだけ返す。それで私たちの会話は終わった。彼は軽く会釈をすると立ち尽くす私を訝しむ様子もなく、手桶と柄杓を持ち、去って行った。
 放心状態のまま、墓の敷地を出て行く彼の背中を見つめていた。野村賢治に極致の憤怒を浴びせた男の背中は寂しく、頼りなく遠ざかって行く。その背中に引き寄せられるように私は歩き出した。フラフラと夢遊病者のように彼の後を付いて行き、赤羽駅の自動改札を通り抜ける彼を見送った。そこでハッと我に返り、財布を取り出して中身を確認する。千円札が二枚と小銭が数枚、急いで切符売場に向かいお金を入れた。とりあえず三百二十円の切符を購入すると、急いで構内に走った。
 辺りを見渡しても彼の姿はもうなかった。五路線が乗り入れる巨大な駅では、一度見失ったら見つけるのは難しい。そもそもストーカーのように後を付けて、私は一体何をしようとしたのだろう。握りしめた切符はクシャクシャになり、少し濡れていた。ため息を吐いて顔を上げると、本屋が目に入った。構内に出店している小さな本屋だ。私はせっかく支払った切符代金の元を取るために、久しぶりに立ち寄ってみた。
「あっ!」
 思わず声に出てしまい、直ぐに片手で口を塞ぐ。入り口のすぐ横で立ち読みをしていたサラリーマンが、首を曲げて私を一瞥し、ゆっくり本へと顔を戻した。佐藤海斗は文庫のコーナーで本を物色していた。顎に手を添え、書店員オススメと書かれて平積みされている本を手に取り、裏表紙のあらすじを見ては元に戻している。私はサッと本棚の影に身を隠し、彼の様子を伺った。横顔が険しい、お墓で見た寂しげな表情は微塵もなく、眉間に皺を寄せている。本を物色するその目は、親の仇を睨み付けるように鋭く尖っていた。
 やがて、一冊の本を手に取ると、会計をする為にレジへと向かった。私は彼が立っていた場所に移動して、彼が手に取った文庫の表紙を確認する。それは私が一番好きな作家の本で、私はすでに単行本を読み終えていた。そんな事で何となく距離が縮まった気がして勇気が出た。話しかけてみよう、お姉ちゃんの事を覚えているかも知れない。間違っていたら謝れば良いじゃないか。自分を奮い立たせて、彼が会計を終えるのを店の外で待った。
 スマートフォンを端末に翳している様子が見える。左手を振ったのは、袋は要りませんの合図だろう。彼はブックカバーを掛けられた文庫本を掴むと、コチラに向かって歩いてきた。すると、入り口の横で立ち読みをしていたサラリーマンが本を棚に戻し、床に置いていた鞄を持った。彼とタイミングが重なり、狭い通路で二人はぶつかった。
「チッ!」
 サラリーマンが彼の顔を見てから舌打ちした。背は低いけど、ガッチリとした体格の男は、さっさと謝罪しろと言わんばかりに彼を見上げる。その瞬間だった。彼は男の顔面を右手で掴んだ。男は両手でそれを引き剥がそうと努力しているらしいが、まったく外れる様子がない。右手に覆われた男の顔がみるみる赤黒く変色していく。
「お前から殺してやろうか?」
 彼は男の耳元で囁いてから手を離して男を解放した。男はその場にへたり込み顔を覆っている。そして、何事も無かったかのように、男を跨いで店を出てきた。彼は私のすぐ横を通り過ぎて行ったけど、話しかける勇気はもう無かった。
 そのかわりに私は追った。京浜東北線に乗る彼を、上野で降りて日比谷線に乗り換える彼を追い回した。そして、人形町という見知らぬ駅に降り立ち、彼の住んでいるマンションを突き止めた。
 
 高校二年生になる四月の出来事。この三ヶ月後に私は彼と再び出会う。今度は星野美波として、私たちは再会する――。
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