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作者: 桐谷 碧
13
歳の離れたお姉ちゃんは、私のことを無条件で可愛がってくれた。両親も二人目の娘ということで子育てに慣れたのか、良く言えば自由に、悪く言えば適当に次女を育てた。おかげで私は奔放に育ち、何のストレスもない自由な幼少期を過ごす事になる。天然な母に似て、明るく物怖じしない性格の私は、友達も多く遊んでばかりいたせいで学校の成績は散々だった。
「凪沙が羨ましいな」
 お姉ちゃんは時折、私の髪を撫でながらそう呟いた。嫌味を言っている様には聞こえなかったけれど、頭が良くてスポーツも万能、妹から見ても妖精のように美しいお姉ちゃんが、男の子と平気で喧嘩をするような、ガサツな妹を羨む理由は分からなかった。
 お姉ちゃんは私に色々な話をしてくれた。学校の事、部活の事、野球の事、パパやママの事。優しい声で人の悪口なんて一切言わないお姉ちゃん。私は誰々ちゃんがムカつく、先生が嫌い、ママの不満、パパの文句。私が子供ながらに感じていたストレスをぶつけても、お姉ちゃんはにっこり微笑むだけだった。
「すごい男の子がいるの」
 お姉ちゃんが男子の話をするのは珍しい。いや、初めてだった。好きな人でも出来たのかと、なぜか私がドキドキした。
「誰にも負けない強い心を持っていてね、決して自分を曲げない。芯が強いのね、きっと鉄で出来てる。私は竹ね、折れないけどしなる」
 言葉の意味が理解できなかったけど、馬鹿だと思われるのが嫌で聞き返せなかった。それからも度々、お姉ちゃんはその男の子の話をした。聞いていく内に分かった事は、名前とその子が通う小学校。お姉ちゃんがしきりに褒める男の子は、私のたった一個上で、てっきりボーイフレンドの話かと思っていた私は、ちょっとだけガッカリした。その男の子の何が凄いのか、具体的には分からなかった。そのうち聞いてみよう、いつだって良いや。十歳の私には無尽蔵の時間があるけれど、毎日やる事は沢山あって、一日はあっという間に過ぎて行った。
 夏休みは、毎日友達と一緒だった。ラジオ体操をしてから、みんなで宿題や自由研究をやる名目で集まり、殆どの時間を遊んで過ごした。学校のプールにも通っていたから、いつの間にか身体は真っ黒に日焼けしていた。お姉ちゃんは夏休みも部活で忙しかったけど、男の子の話は良くしてくれた。
 それから、お姉ちゃんはなんの前触れもなく死んだ。少なくとも私にはそう感じた。不思議と涙は出なかった。まだ幼かった私には、家族の死を真っ直ぐに受け止める事が出来なかったのだと思う。
 一人減っただけで、家の中は図書館のように静かになった。ママは塞ぎ込んで部屋に篭り、みるみる内に衰弱していった。パパは外で飲んでくる事が増えて、朝起きると玄関でスーツのまま寝ている所を何度も見た。十歳の私にも、お姉ちゃんの死は心に深い穴を開けた筈だけれど、それよりもパパとママまで死んでしまう恐怖に怯えるようになった。
 私がなんとかしないと――。
 そう思うと同時に、私がお姉ちゃんの代わりになれば解決するという、安易な考えが頭に浮かんだ。何もかもが正反対のお姉ちゃん。真面目で責任感が強く、頭も良くてスポーツ万能。気が遠くなるほど今の自分とかけ離れた人間に、私は成らなくてはいけない。じゃないと壊れる、バラバラになる。そう思って私は凪沙みずからを封印した。
 まずは、とにかく勉強した。友達の誘いを断り、塾に通い。一日の殆どを勉強に費やした。ママが「どうしてそんなに勉強するの?」と心配したから、中学受験したいと適当な理由を作った。その頃には学校の友達からも敬遠されていて、特に公立に進む理由もなくなっていた。元々馬鹿ではなかったのだろう、学力はメキメキ向上して、気が付けば難関中学にギリギリ滑り込める程度の力は身に付いていた。
 中学に入り、勉強の為に一度辞めていたソフトボール部に入部した。こっちの方はいくら努力しても、お姉ちゃんのようにはいかなかったけど、代わりにルールブックやプロ野球を見て、知識だけは誰にも負けないよう努力した。パパとママも次第に元気を取り戻して、星野家は次第に平穏な日常生活を取り戻していった。そして、それは私がお姉ちゃんの代わりをした事が少なからず影響していると、信じて疑わなかった。
 中学校生活は学園生活の中でもっとも穏やかで、楽しく、希望に満ちた時間だったと思う。だけど、エスカレーターで上がった高校で風向きは変わった。転機は分からない、そんな物はないのかも知れないし、癇に障る事をした可能性もある。どちらにせよ彼女たちは、虐めのターゲットを肉食獣のように探していて、見つけた瞬間、喉元に食いつき捕食する。そして、そのターゲットは私の友達だった。無視から始まり、臭いと罵り、時には暴力も振るわれた。私はその都度、猛獣たちに立ち向かった。獲物の前に立ちはだかり、先生に相談し、解決案を探った。なぜなら、お姉ちゃんならそうするから。私の中で生き続けるお姉ちゃんは、虐めを黙って見過ごすような人間ではない筈だから。
 当然、獲物は私に切り替わり、彼女たちはあらゆる手段を駆使しながら、私の弱みを探し続けた。狡猾に、水面下で。蛇のように。
 
 薬物セックスで逮捕された姉を持つ女――。
 
 ある日、黒板にはそう書かれていた。何をされてもハッキリと拒絶してきた私が、初めて怖気付いた瞬間だった。肌が粟立ち、言葉の意味を反芻しては戦慄した。淫乱、薬中、売女。あらゆる中傷の言葉は、私を通じて死んだお姉ちゃんにぶつけられる。自分が何を言われても我慢できた。けれど、お姉ちゃんを侮蔑する猛獣たちの言葉に、私はあっさりと、造作なく食い尽くされていった。
 彼女たちは猛獣よりも恐ろしかった。内面まで、心まで侵蝕して獲物を壊す。ライオンは空腹を感じてから狩りをする、つまり余分な殺生は行わない。家族が生きる為の狩りだ。しかし、彼女たちに満腹はない。食べても、食べても、食べてもなお、お腹は満たされず、次の獲物を探しに徘徊する。お姉ちゃんが自殺をしていなければ、私はその道を選んだかも知れない。戦い疲れ、敗北した私は次第に学校から遠ざかり、夏休みになる頃には不登校となっていた。
 パパとママは無理に行かなくて良い、いや、行くなと私を抱きしめた。虐められている事は言わなかったけど、薄々勘づいていたのだろう。お姉ちゃんに続いて妹にまで自殺をされたら、きっと二人は壊れてしまう。人間が簡単に壊れる事を、この時の私はもう知っていた。
 家にいる時間は本を読んで過ごした。恋愛、ミステリ、サスペンス。ジャンルを問わずに読み漁っている時は、現世の事を忘れて逃避できた。自分でも書いてみようと思ったのは、思い通りにならなかった自らの人生を、都合よく書き換える事が出来ると思ったからだ。妄想の中で進む世界は輝いていて、困難な挫折も四苦八苦しながら乗り越えていく、明朗快活な主人公が虐めを解決し、同年代の男の子と恋をする。ありきたりで、賞に応募したら、すぐに吐き捨てられるようなストーリーが、私は逆に好きだった。
 ある日、部屋のテレビでワイドショーを見ていると、一年前に関東自動車道で起きた、煽り運転の事件を特集していた。事故ではなく事件。サービスエリアで喫煙を注意された被告人が、その後、執拗に被害者を追いかけ回した挙句、車を停車させて口論となる。当時、中学生の男の子を車外に引きずり出したところ、後続からやって来たトラックがワンボックスに衝突。中にいた中学生の両親は即死。玉突き事故となり、被告人の車に同乗していた女も死亡した。トラックの運転手は軽傷。計三人が亡くなった凄惨な事件だが、幸いにも引き摺り出された中学生は無傷だった。
 実況見分であくびを噛み殺す被告人を見た時に、アイツらと同じだと思った。この男も猛獣、いや人獣だと。己の我欲を満たす事しか頭に無く、人の傷みを鑑みない。自己愛が強く攻撃的、そのくせ被害妄想癖があり狡猾だ。こんな姿が全国放送されているとも知らずに、きっとコイツは公判中に涙を流し、許しを請うだろう。土下座をするかも知れない。目を瞑ると、その姿が瞼にありありと浮かんだ。
 私はこの事件に興味を持った。この人獣が現行の裁判でどう裁かれるのか。間接的とはいえ人を三人も殺した悪魔、コイツが地獄に落ちる様を見届けたい。そんな事で自らの溜飲が下がるかどうかは分からなかったけれど。私はパソコンを開き、事件の詳細を調べた。
 まとめサイトや六チャンネルには、嘘か本当か分からない情報で溢れていた。一つ一つを精査して、自分なりに被告人と被害者を調べていく。被告人の名前と年齢は報道にも出ていた。野村賢治、二十五歳。そして、あまりにありきたりな野村の半生に私は辟易した。中学生の頃から素行が悪く、恐喝、窃盗、暴行など犯罪歴のオンパレード。当然、学力も低く、名前を記入すれば入学できるような、存在意義の不明な高校を何度かの停学を繰り返した後に卒業。地元の土建屋に見習いとして入り、七年。千葉県のアパートに一人暮らしをしていて、事件に至る。
「馬鹿じゃないの」
 自らまとめたレポートを机に放って呟いた。犯罪者養成フルコースの道を歩ませておいて、今さら反省も更生もあったもんじゃない。親は、教師は、周りの大人たちはコイツが人獣に育つ前に食い止める事が出来なかったのか、きっと見放したのだろう。関わりたくない、面倒くさい、勝手にしろ。その結果がこれだ。
 こんな奴をいくら掘り下げても、幼児用のプールよりも浅く、汚水しか出てこない。私は被害者の家族を調べる事にした。驚く事に、野村よりも被害者の方が情報が数多く露出している。家族構成から住所、電話番号、写真は勿論、子供の中学校まで割れていた。それが、私と同じ地元だったからなのか、古い記憶を刺激されたからなのか分からない。被害者遺族である『佐藤海斗』という名前を見た時に、懐かしさと同時に脳裏をよぎる何かを思い出した。
 私は勢いよく立ち上がると、その反動で椅子が後ろに転がった。それを、起こしもしないで部屋を飛び出すと、隣の部屋の扉を開けた。ママは今でも毎日、この部屋を換気して、念入りに掃除しているから私の部屋より片付いていて、空気も良い。その部屋に入り、机の引出しを開けると、A五サイズの手帳が一冊置かれていた。若い女の子が使う物とは思えない地味な手帳を手に取り、パラパラと日記をめくった。
「いた……」
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