▼詳細検索を開く
作者: 桐谷 碧
15
佐藤海斗の家は突き止めた。しかし、どうすれば彼と接触できるのだろう。って言うか、あんな恐ろしい人と話なんて出来るのだろうか。お墓で見た穏やかな彼と、本屋ですれ違った殺人鬼のような男は、本当に同一人物か疑いたくなる。
 引っ込み思案な私では、何かキッカケがあっても仲良くお話しするビジョンが浮かんでこない。小学生の頃の凪沙なら、物怖じしない天然の彼女ならば、正面から突破するに違いない。でも、私はお姉ちゃんを演じて七年になる。これが正解なのか答えは分からないけれど、今さら凪沙には戻れない。今の私は、美波でもなければ凪沙でもない。得体の知れない人間になったような気持ち悪さは、いつまで経っても拭えなかった。
 私はパソコンを起動してから、ウェブ小説サイトにログインした。無料で執筆、閲覧できるサイトに私は小説を投稿している。すでに三本の長編を書き終えて公開しているけれど閲覧数はサッパリだ。残念ながら作家の才能はないらしい。けれど書くのが趣味なので、何も問題はない。
 私は、四作目のタイトルを入力した。
 
 『生々流転せいせいるてん
 ――すべての生き物は、絶えず生まれては変化し、移り変わっていくこと。 転生。

 次に簡単なあらすじ。

 ――十七歳で自殺した少女の魂が、夏休みの間だけ妹の体に憑依して、生前やり残した願いを叶えて行く物語。少女は心を閉ざした青年と出会い、やがて恋に落ちていく。少女の願いを青年は一つ、また一つと叶えていった。そして最後の望みが叶えられた時、二人に待ち受けるのは永遠の別れか、新たな出会いか。

「フフッ」
 キーボードを叩きながら鼻が鳴った。相変わらず私の小説に出て来るのは、身近な人間ばかり。友達がいないから、同年代の登場人物が描けない。代わりに屑を書く時にはペンが走る。前作の復讐をテーマにした物語は、娘を殺された父親が、虐めに関わった同級生を一人ずつ殺して回る猟奇サスペンスだ。次は自分かも知れないと、逃げ回る屑を拷問にかけて殺すシーンは、書いていてスッキリした。お姉ちゃんの模倣が聞いて呆れる。
『生々流転』のヒロインは天真爛漫な美少女で、誰からも好かれる人格者。ちょっと抜けている所が可愛いお調子者。なんとも、ありきたりな主人公だが、それが良い。
 一度書き始めると執筆作業に没頭した。毎日、毎日、パソコンに向かい妄想を膨らませていると、登場人物にも愛着が湧いてくる。私は物語を書くときに、頭の中で登場人物を実在する人に変換する。そのほうが想像力が膨らむし、頭の中で人物が躍動した。ヒロインはもちろんお姉ちゃん、夏休みに体を貸してあげる純情可憐な妹はこの私。そして、お姉ちゃんと恋に落ちる青年は佐藤海斗だった。彼のルックスが、塞ぎ込むに値する生い立ちが、今回の物語にピッタリとハマった。
 書き始めて二ヶ月が過ぎ、物語も後半を迎えた頃。私は佐藤海斗くんに恋をしていた。もちろん現実の彼じゃなく『生々流転』に出てくる優しい青年に。それなのに、どうしてだろう。私は現実の佐藤海斗に会いたくて仕方がなかった。彼の事を考えると心臓をキュッと握られたように苦しい。でも苦痛じゃない。彼の事を想い食欲はなくなり、夜は眠れなくなった。
 彼に逢いたい。そう想っては布団の中で身悶える日々を過ごした。この本を書き終えたら逢いに行こう。私は物語の結末が近づくにつれソワソワし、妄想の中で恋をした。その間にも小説は着々と進んでいき、前作とは違うハッピーエンドを迎える。既に執筆開始から三ヶ月が経過していた。逢いにいくのは『生々流転』をなぞり、夏休みが始まる七月二十一日と決めたのは必然で、一度決めた結末を大幅に改稿したは、彼と出会った後だった。

 迎えた当日、私は白のオーバーオールに身を包み、真っ白なスニーカーを履いた。もちろん小説に登場するヒロインの格好に合わせた形だけれど、自分以外の誰かに擬態しなければとても真向勝負する自信はない。これから行うのは世間一般で言うところの逆ナンパ、通称『逆ナン』なのだから。
 目指すは彼の住んでいる町、人形町。マンションは知っているけど、何階の何号室に彼がいるのかまでは分からない。たとえ分かっていても、直接インターフォンを鳴らして訪問する訳にもいかないので、朝からマンションの前で見張ろうという作戦だ。今日から夏休みとは言え、一日中張っていれば一度くらいは外出するだろう。だったら休みに入る前に決行すれば、高校三年生の彼は確実に通学する。通学か帰宅の時間を狙った方が確実なのが分からないほど耄碌しちゃいない。だけど、出会いは七月二十一日と物語で決まっているのだ。それは避けられない。私は玄関の扉を勢いよく開くと同時に、『生々流転』に登場するヒロインに変身した。
「おはよ!」
 隣のアパートに住む、ゴボウみたいなお爺ちゃんに挨拶をすると、部屋の中からギョッとしたような顔を私に向けた。いつもは手を前に添えて「おはようございます」と丁寧に頭を下げるからだろう。
「おお、凪沙ちゃん。なんだ、えらいご機嫌じゃないか?」
 お爺ちゃんは窓から顔を出して私を見下ろした。
「うん、恋してるから、かな?」
「ガーバッハ! そいつは良い。変な男に引っかかるなよ」
「ありがと! じゃーねー」
 手をブンブンと振ってから、私は駅前に向かって歩き出した。雲一つない青空が、朝焼けに照らされた木々が、公園の遊具が。見慣れた筈の町の景色がなぜか新鮮に映る。
 私は自由だ。ここには、凪沙を喰い尽くそうとチャンスを伺う人獣はいない。家族が壊れないようにお姉ちゃんを演じる必要もない。なんとも言えない解放感と、夏休みの初日に相応しいワクワク感が混ざり合ってテンションが上がる。鼻歌を口ずさみながら腕を振って歩くと、通り過ぎる人達が私を二度見していく。目が合った人に笑顔で答えると、相手も引き攣った顔をしながら返してくれた。生きているって素晴らしい。人生って楽しい。どうして気が付かなかったのだろう。小さな世界で思い悩み、小さな海で溺れそうになっていた。必死に足掻いて窒息しかけたその場所は、立ってみれば膝の高さ程度の水面である事に気づく。
 結局、これから会いに行く佐藤海斗くんが、お姉ちゃんの日記に出て来た少年かどうかは分からなかった。けれど、今となってはどちらでも良い。キッカケを与えてくれたお姉ちゃんに感謝するだけだ。話した事もない男の子を小説に登場させた上に恋をする。他人が聞いたら変人の部類に入るであろう所業も、数多くの恋愛小説を見てきた私に言わせれば王道と称して差し障りない。
 チンピラに絡まれていた所を助けられた、食パンを咥えたまま道角でぶつかった、消しゴムを拾ってくれた、頭をポンポンされた、壁ドンされた、飲みかけのジュースを飲まれた、目が合った、etc……。キッカケなんて何でも良い。大切なのはその後、出会ってからの展開だ。
 意気揚々とガラガラの京浜東北線に乗り込んで、上野に到着した辺りからお腹が痛くなってきた。緊張でお腹が緩むのは普段の凪沙だ。どうやらまだ、しっかりと役に入り込めていない様だ。二つ深呼吸をしてからお腹をさすり、大丈夫、大丈夫と心の中で呟くと、スウっと痛みが和らいでいく。
 地下鉄に乗り換え、人形町の駅に着いた頃にはすっかり体調は回復していて、逆にお腹が空いていた。地上へ出ると目の前にマクドナルドがあって食欲を刺激したけれど、まずは目的のマンションに向かって歩き出す。念の為に住所はスマートフォンにメモしてあった。でも三ヶ月前の記憶を頼りに歩くと、それはすぐに見つかった。
「この中にいるのね、海斗くん」
 十階以上はあると思われる、縦長のマンションを見上げながら私は独りごちた。緊張感はない、いつ現れても大丈夫、だと思う。
 
 こんにちは。私とデートしませんか?
 しないだろうな――。
 
 イケメンだから声かけちゃった。ウフフ。
 軽いなぁ――。
 
 佐藤海斗さんですよね?
 ネット検索した冷やかしだと思われるか――。
 
 あの、私の小説にあなたが出て来るんですよ。
 怖!

 良案が浮かばないのはヒロインに成り切れていないからだ。当日になればスラスラと言葉が出て来るに違いない、と、楽観的な思考で本番を迎えた。マンションからは時折、住人と思われる人達が眠そうに目を擦りながら吐き出されて行く。これから仕事なのだろう。私はマンションの前を行ったり来たりしながら、エントランスの自動ドアを注視していた。一時間、二時間、三時間経過した所で限界を迎えた。
「あっつー」
 スマートフォンで時刻を確認すると、まだ朝の八時を過ぎた所だが、初夏の日差しはどんどん増していき、額に汗が滲んでいた。その間も、マンションからは会社に向かうと思われるサラリーマンが次々と出て来るが、海斗くんの姿は当然ない。ちょっと早く到着し過ぎた事を後悔しながら腹部を撫でた。
「お腹すいたなぁ……」
 一旦、待ち伏せは解除して朝ご飯を食べる事にした。駅前にあったマクドナルドに向かう途中に『蕎麦、かき揚げ』と書かれたのぼり旗を見つけると、香ばしい匂いに誘われて、私はフラフラと店に吸い込まれていった。
「いらっしゃい!」
 カウンターだけの店内で、中年の夫婦と思しき二人が忙しなく動いている。私は入口前に設置してある券売機でかき揚げ蕎麦のボタンを押して、食券をおばちゃんに手渡した。
「かき揚げ、何にするー?」
 おばちゃんの微妙なイントネーションで日本人じゃないと分かった。中国か韓国、おそらくそのどちらかだ。珍しいなと思いながらカウンターの前を見ると、色々な種類のかき揚げが山積みになっていて、どうやら好きな種類を選んで良いようだ。
「揚げたてもあるよー」
 悩んでいるとおばちゃんが言った。え、立ち食い蕎麦屋で揚げたてを食べられるの? と疑問に思ったけれど「じゃあ、それお願いします!」と答えた。おばちゃんは手際良く蕎麦を茹でると、丼に移してツユをかける。カウンターに背中を向けて、天麩羅を揚げているおじちゃんに丼を差し出すと、フライヤーに浮かんだかき揚げを菜箸で掴み油を切った。それを蕎麦に乗せた瞬間『ジュッ』と音が鳴り食欲をそそる。私は割り箸を掴むと、湯気をたてる目の前の蕎麦に集中した。
「ごちそうさまー!」
「ありがとねー!」
 お腹をさすりながら店を出て深呼吸した。立ち食いとは思えないクオリティ。絶対にまた来ようと私は誓った。それから、再びマンションの前をウロウロして二時間が経過した。昼を過ぎると、出入りする人間は配達業者か郵便局員だけになり、日陰を選んで座っていても体力は徐々に奪われていった。私は思い切って配達業者の後をついて行き、マンションのエントランスに侵入した。
「す、涼しい……」
 玄関ロビーには空調が効いていて、ソファとテーブルまで設置されていた。私は堂々とソファに座り、体力の回復に勤しんだ。幸い、住人は滅多に通らないし、配達業者も私を怪しむ素振りは一切見せなかった。素晴らしい監視スポットを手に入れた私は、スマートフォンで小説サイトにアクセスして『生々流転』の文章校正を始めた。誤字や脱字が無いかを入念にチェックしてから本番にアップするのが最低限の礼儀だ。まあ、殆ど見られてはいないけれど。
 人の気配を感じては顔を上げてチェックするが、海斗くんは一向に現れなかった。悪戯に時間だけが刻々と過ぎていく。さすがに焦りを感じできた頃には陽は沈み始め、マンションロビーから外に出ると、東の空はすでに薄暗くなっていた。私はその場に呆然と立ち尽くして、マンションを見上げた。
「海斗くん……」
 空に向かって呟くと、なぜか泣きそうになった。自作自演のストーリーが出鼻から挫かれたけれど、悲劇のヒロインを気取るには物語が進んでなさすぎる。これじゃあただの間抜け、トンマ、ヌケサク、ひょうろく玉だ。
「プッ! ひょうろくだまって何だっけ?」
 お父さんが見ていた時代劇で、確かそんな悪口を言っていた悪代官がいたような気がした。とりあえず今日は帰るか。と、諦めた途端にお腹が鳴った。そう言えば、蕎麦を食べたっきり何も口にしていない。
「マック行こ」
 家に帰るまでお腹は持ちそうにない、私は海斗くんのマンションを後にして駅前のマクドナルドに向かって歩き出した。
 夜の人形町は人で賑わっていた。その殆どがスーツを着たサラリーマンで、仕事終わりの一杯をどこでひっかけるか悩んでいるようだ。マクドナルドは人が外に飛び出すほど並んでいて、私は戸惑い、並んでまで食べるかどうか逡巡する。悩んでいると、スッと黒い帽子を被った男が隣の列の最後尾で立ち止まった。瞬間、心臓が跳ね上がり息が止まる。
 海斗くんだ――。
Twitter