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作者: 桐谷 碧
11
赤羽駅に到着する頃にはお昼を少し回っていた。駅前広場では炎天下の中、電子ピアノで弾き語りする若い女や、地べたに直接あぐらをかいて缶チューハイを煽る老人、汗をふきふき喫煙所で煙を吐くサラリーマンなど、バラエティに富んだラインナップとなっていて、雑多な風景は先程までの刑務所とは対極にあると主張している。
 腹が減ったが先に用を済ませる事にした。どの道、昼飯時の店々は混雑しているに違いない。人混みを交わして松庵寺に向かい歩き出す。どんなに面倒でも墓参りするのにタクシーを利用したことはない。贅沢ねぇと、母親に咎められる気がするし、なにより二人に会いに行くまでの道は実家に帰る時と同じで、なんだか懐かしい気持ちになる。
「こんにちは」
 いつ何時でも、暑苦しい袈裟を着用した住職に挨拶をすると、ゆったりとゴミを掃いていた手を止めて「これは、これは。佐藤さん、こんにちは」と返してくれた。俺は軽く会釈をしてから住職の横を通り抜けようとすると、挨拶以外の言葉を初めてかけられた。
「先ほど、星野さん所の凪沙ちゃんがいらしてましたよ」
「え?」
 足を止めて振り返ると、目尻を下げて笑顔を表現した住職がコチラを見ている。
「凪沙……。ああ、はい」
 美波が墓参りに? 自分の墓を参る人間を俺は知らない。まあ、そんな事が可能なのは美波だけだが。と、訝しんでいると、言葉が足りない事に気がついた住職が続けた。
「佐藤さん所のお墓の前で熱心に参られていたので、声を掛けてみたんですよ、お知り合いですか? と」
 美波がうちの墓に? 頭の中でいくら反芻しても納得のいく答えが浮かばない。
「彼氏っす」
「へ?」
「凪沙ちゃんが嬉しそうにそう答えたんです。その笑顔が素敵でね、なんだか昔の彼女に戻ったような気がしました。もしそうならば嬉しい事です」
 なるほど、彼氏の両親の墓をお参りする彼女ならば、著しく不自然とも言えない。しかし、あいつは凪沙のフリをしながら美波の彼氏である俺の両親の墓をお参りして、住職には凪沙の彼氏と言って、でも本当は美波の魂が入った凪沙であって正確には――。ああ、訳わからねえ。
「住職は昔から知ってるんですか? その、お姉ちゃんの事も……」
「ええ、星野さんの所は先代からお付き合いさせて貰ってますから。美波ちゃんも小さな頃から知ってます。本当に残念な事でした」
「どんな、女の子でした?」
 目線を上げて住職の顔を覗いてみたが、怪しむ様子は一切ない。朗らかな顔を崩す事なく答えてくれた。
「美波ちゃんはそりゃもう、ザ・優等生と言った感じでしたよ。言葉使いなんかも小さな頃からしっかりとしていてね、生徒会長や学級委員タイプでしたねえ」
 一年前に会った美波の同級生も同じような事を言っていた。あの時に感じた小さな違和感が再び蘇る。
「因みに……凪沙は?」
 今度は遠慮がちに聞いた。
「凪沙ちゃんは良く言えば天真爛漫、悪く言ってもおてんば娘。元気があって周りをパッと明るくする女の子でしたよ。顔は似てるのに中身はお姉ちゃんと正反対でね、それがまた可愛いんですよ。でも、美波ちゃんがいなくなってからは人が変わったみたいに行儀良くなっちゃってね、いや、行儀がいいのは良い事ですよ。でもね、なんだか引き換えに元気と言うか、大切な感情が抜け落ちたような、そんな印象を受けました」
 住職の語る凪沙には納得がいった。一度だけ会った彼女はまさにそんな印象だった。
「でも、今日の彼女は昔に戻ったような笑顔でしたよ。きっと佐藤さんのお陰ですね」
「あ、いや……」
 何て答えて良いか分からずに、俺は曖昧な返事をしてからその場を辞去すると、先に一番奥にある星野家の墓と書かれた墓石の前で立ち止まった。
「生徒会長ねぇ……」
 真面目で責任感が強く、礼儀正しい優等生。他人に対する印象なんて人によって違うのかも知れないが、少なくとも俺は美波が生徒会長タイプには見えない。どちらかと言えば、住職が小さな頃の凪沙に感じた感想の方が美波にピッタリとハマる。胸の中に広がるモヤモヤが解消されないままに、俺は美波の先祖に手を合わせた。
 佐藤家の墓はまだ少し濡れていて、日差しを受けてキラキラと光っていた。おそらく美波が掃除をしてくれたのだろう。俺はその場にしゃがんで墓石を見上げた。
「美波が来たんだって? どうだった」
 俺の彼女なんだ。と、心の中で呟くと、なんだか二人が笑ったようで少し照れる。もし二人が生きていたら、こんな風に報告をする事はなかっただろう。
「だからさ、復讐なんてやめるよ。ちょっと変わった奴で夏休みしか会えないんだけど、俺が刑務所に入ったらあいつ、きっと悲しむから……」
 返事はない。墓石はただそこに存在するだけで、二人の魂はここにいない。それなのにこうやって墓の前で語りかけて目を瞑ると、二人の姿がハッキリと蘇り、俺の話に頷いてくれる。復讐を誓った時には悲しそうな顔を見せたけれど、今は二人ともニッコリと微笑んでいる。
「今度は二人で来るよ」
 そう言ってから立ち上がり目を開くと、現実の世界に引き戻され二人はいなくなり、軽く目眩がしたのは暑さのせいか。もしくはいきなり立ち上がったせいか。はたまた空腹のせいかも知れない。すぐに脳裏を掠めたのが、去年食べた絶品の味噌ラーメンだった事を鑑みれば、腹が減っていただけだろう。俺は記憶を頼りに駅前の商店街に向かって歩き出した。

「いらっしゃいませー」
 扉を開けると、か細い声で店主が迎えてくれた。狭い店内に相変わらず客の姿は無い。しかし、そんな事よりも別の事で俺は驚き、その場で立ち尽くした。店内の冷気が逃げるように我先と外に吐き出されていく。
「あれ? 君は確か凪沙の……」
 カウンターの中から、美波父がコチラを見て目を瞬かせた。俺は混乱しながらも「はい、お久しぶりです」と会釈をしてからカウンターの端に腰掛ける。
「もしかして、去年も来られましたか?」
「はい、その後にご自宅に伺ったのですが、まったく気が付きませんでした」
「白衣に帽子ですから、私の方こそ分からなくて申し訳ない」
 変装してましたから、とは言えなかった。それにしても美波の父親はトラックの運転手ではなかったのか。意味のわからない嘘に俺は眉を顰めた。
「味噌ラーメンで宜しいですか? まぁ、それしか無いんですけどね、ハハハ」
「あ、是非。それを食べに来ました」
 美波父は優しく微笑みながら頷くと、背中を向けてラーメンを茹で始めた。その動きに俊敏さや手慣れた感はなく、緩慢とは言わないが、普段からやっているようにも見えない。
「ラーメン屋さん、長いんですか?」
 ゆっくりと焼豚を切る美波父に問いかけた。
「いえ、今年で七年目ですね。凪沙から聞いてませんか?」
「ええ、お父さんはトラックの運転手だって嘘ついてましたよ」
「ハハッ。嘘じゃありません。本職は運送業です。もっとも現場に出る事はありませんがね」
「あ、そーなんですね……。現場に出ないって事は社長さんですか?」
「まあ、小さな会社です」
 嘘じゃないがトラック運転手とはニュアンスが違うだろ。俺は美波のいい加減な説明に辟易した。
「美波が好きだったんですよ……」
「え?」
「味噌ラーメンです。だから自己流で猛勉強しました。それで夏の間だけ、美波の供養がてら暖簾を出している訳ですが。近所では呪いのラーメン屋なんて言われてまして誰も寄り付きません。来るのは赤岩中のソフト部だけです」
 なるほど。死んだ娘の為に好きだったラーメンを作り続ける父親。知らない人なら気軽に食べるのは憚られるかも知れない。ガラガラなのも頷ける。俺はメニュー表に書かれた金額を何気なく見つけて口が空いた。
「お、お父さんこれ、三百七十三円てまさか?」
「ええ。ミ・ナ・ミです」
 美波父は嬉しそうに破顔したが、俺は苦笑いしか返す事が出来なかった。「ピピピピ」とタイマーが鳴ると、美波父は再び背中を向けてからラーメンを湯切りし、丁寧に器に盛りカウンターの上に置くと「お待たせしました」と頭を下げた。
「ありがとうございます!」
 美波父が作る味噌ラーメンは、今年も極上の美味さだった。夢中で食べ進めてあっという間に完食すると、空になったコップに水を注いでくれる。
「やっぱり最高にうまいです」
「ありがとうございます。でも、凪沙のやつは顔を出しても食べて行かないんですよ」
「そーなんですか?」
「はい、凪沙は醤油派なんで。姉妹なのに味覚から性格、利き手まで違うなんて珍しいでしょ?」
「えっと、因みにお姉さんは蕎麦派ですか?」
「いや、美波はうどん、蕎麦派は凪沙です」
「へー」
 注がれた水を飲みながら頭の中を整理する。凪沙の体を借りているのだから、利き手が逆になったり、味覚が凪沙よりになるのはむしろ自然な事だろう。別に変じゃない。しかし、性格まで変貌するのは如何なものだろう。生前の美波を知る人達が話す人物像と、俺が知る美波はまるで別人に思える。本性を隠していた? もしくは死んでからの七年で人格が変わった? どちらも腑に落ちない。
「あっ! そう言えば。佐藤さんはどちらの出身で?」
「え? 赤羽ですが」
「やっぱり……。年齢は凪沙と同じくらい?」
「あ、はい。一つ上です」
「野球をやっている?」
「中学までは、はい」
 実家を訪れた時に、一度だけ名乗った名前を覚えている記憶力に驚いていると、美波父はポンと手を叩いて裏に引っ込んでいき、ものの数秒でカウンターのこちら側に戻ってきた。手には黒い手帳を持っている。
「昨年、家に来た時に目標が書かれた手帳をお見せしようとしたのに、見当たらなかったでしょ?」
「はい、覚えています」
「なぜか、この店の倉庫に置いてあったんですよ」
「へー」
「でね、また勝手に見ると女子連中に叱られるのですが、ご覧のとおり暇な店ですから、ついつい出来心でパラパラとね」
 美波父は実際に手帳をパラパラとめくり出した。
「そうしたら、日記に佐藤海斗さんのお名前が出てきてびっくりしましたよ。同姓同名かと思いましたけど、赤羽出身で年齢的にもピッタリだ」
 そう言って俺の横に座ると、開いた手帳を差し出して指を差した。差された日付の下にはびっしりと几帳面な文字が並んでいる。美波の日記を盗み見る罪悪感よりも美波父の言葉が興味をひいて、いつの間にか俺は文字を追っていた。

 七月二十三日(火)
 部活が休みだから軽くランニングしてたら、家から少し離れた公園で小学生が野球をしていた。可愛い♡ 少しだけ様子を見ていたら一番小さな男の子がいきなり友達を蹴っ飛ばして怒鳴りつけている。友達は逃げるように帰って行って、小さな男の子は一人で壁にボールを当てていた。なんだかその姿が寂しそうに見えて話しかけたら「うるせえ、女は嫌いなんだよ」と一蹴される。カチーンときて少年からボールを奪うと「何すんだブス」と罵られたけれど構わずに振りかぶり、壁に向かって全力で投げた。少年は口をあんぐり開けて跳ね返ってきた球を見つめていたから「私の方が速いでしょ?」と胸を張ると「グヌヌ」と歯を食いしばって睨んできた。「お前、素人じゃねえな」と言われてお腹が痛くなるほど笑った。可愛い。凪沙と同じくらいだろうか。二人でキャッチボールをした後に名前を聞いたら「佐藤海斗、海に北斗七星のあれ……」と、ぶっきらぼうに答えてくれた。

「え……」
 思わず声に出して呟くと、十年近く前の記憶が輪郭を伴いながら蘇ってくる。近所にあった児童公園には、緑色の金網に四方を囲まれた広いスペースがあり、サッカーや野球に興じる子供たちで溢れていた。確か俺も小学生まではその場所で、日が暮れるまで野球をしていたはずだ。ある時期、大人の女の人とキャッチボールをした記憶は確かにある。華奢な体の左腕から放たれるボールは、糸を引くように速く、美しい回転をしながらグラブに収まり、豪快なスイングは空気を切り裂く音がした。彼女は毎週火曜日、決まった時間にやって来て俺にアドバイスをしてくれた。
 
「やはり、あなたの事でしたか?」
 美波父に質問されて、唖然と固まる俺は金縛りが解けた。
「えっと、はい、たぶん……」
「次の週にも書かれていますよ」
 そう促されて日記のページをめくり、七月三十日の所で止まる。

 七月三十日(火)
 海斗くんは一人で壁に向かってボールを投げていた。「お友達は?」と聞いたら「あいつら真面目に練習しねえから……なんか帰った」と言って下を向いた。多分、また海斗くんが怒って喧嘩になったのだろう。スポーツは温度差があるとつまらない、海斗くんは上昇志向が強くて、お友達は楽しく野球をやりたいのだろう。どちらも正解だし、批難はできない。「お友達に嫌われるの怖くない?」と、さりげなく聞いた質問に「別に」と答えた横顔は寂しそうで、頭を撫でると「触んなよブス!」と悪態をつかれた。笑。本当は友達とも仲良くしたいのに、試合で勝ちたい気持ちが優先される海斗くんはプロ向きだと思う。私みたいに全員の顔色を伺って、チームワークを優先する人間も必要だと思うけど、素直な感情を出せる海斗くんが少し羨ましい。そっか、凪沙に似てるんだ。「また来週ね」と言った私に「うん」と呟いた海斗くんを抱きしめたくなったけど、また怒られるからやめておいた。しかし癒されるなあ。

 八月六日(火)
 今日も一人の海斗くん。先週までと違うのは金属バットを持参している所だ。「お前、打つ方はどうなんだよ?」と聞かれて「お前じゃなくて美波」と答えたけど無視された。名前を呼んで貰うのはまだ時間が掛かりそうだ。「ここバット禁止だよね?」と聞いたら「俺の球が打てるかよ」と言ってバットを渡してくるから相手になった。二十球くらい完璧に打ち返した所で公園の管理人さんが顔を真っ赤にして向かってきた。私たちは二人で慌てて逃げ出して、見知らぬマンションの駐車場に隠れた。「私の勝ちね?」と聞いたら、得意のグヌヌ顔になってから「教えてくれよ、打ち方……」と、態度とは正反対に素直で可愛いらしい。こうして私は海斗くんの専属コーチに昇格した。
 
 八月十三日(火)
 今日はお友達とキャッチボールをしていた海斗くん。綺麗な顔をした男の子は「よろしくお願いします」と、礼儀正しくお辞儀した。どうやら弟子が増えたようだ。「コイツ平野、女みたいな顔だけど、センスあっから」と言って、兄弟子みたいに胸を張る海斗くんと、モジモジしながら照れる平野くん。「どうして左利きの事をサウスポーって呼ぶんですか?」と聞いてきた平野くんに説明してあげると、感心しながら頷いていた。海人くんはあまり興味がなさそうだ。平野くんは学校でオカマと揶揄われているらしい、でも海人くんだけは絶対に言わないと彼はこっそりと教えてくれた。うん、そうだろうなと私も思う。短期間だけど海人くんの性格は大体分かってきた。羨ましい反面、これから損をする事、野球はチームスポーツである事を伝えていきたいと思う。もちろん師匠としてね。笑。
 
 八月二十日(火)
 今日も男の子は壁に向かってボールを投げていた、私が挨拶をすると、今では帽子を取って挨拶してくれる。部活がない火曜日にしか出来ない二人のキャッチボール。男の子の球は会う度に速くなる、多分、最初は私が女の子だから加減していたのだろう。意外にジェントルマンだ。将来が楽しみね。佐藤海斗くん。

 八月二十八日(火)
 「なあ? どうしたら友達と仲良くなれるかな」と聞いてきた海人くんに私は答えた。「他人が自分と同じように出来ると思わないこと、相手の気持になって考えること、最後には許してあげること」と、答えた。小学生には難しいと思ったけど、いつか海人くんがこの言葉の意味を理解してくれたらそれでいい、まあ、忘れちゃうと思うけどね。海人くんは帰り際に振り向いて「師匠、これからもよろしくお願いします」と言って頭を下げた。なぜか涙が溢れた。なんでだろう。照れ隠しするように「師匠じゃなくて美波」と答えたけど、やっぱり海人くんには無視された。
 
 次のページからはずっと白紙になっていて、それが美波は死んだことの証明であるように思えて手が震える。その手にパタパタっと涙が落ちた。俺は美波に会っていた。小さな頃にもう出会っていた。
 偶然じゃない? 美波は俺だと。あの時、公園で出会った少年だと分かって会いに来てくれたのだろうか。だったらどうして言ってくれないのだろう。もう、何もかも知っている俺に隠す必要性はないはずだ。それに……。
 美波に対する違和感の正体に気がついて、俺はますます混乱した。凪沙の体を間借りしているのだから味覚や利き手が彼女になるのは分かる。しかし、記憶は説明がつかない。記憶だけは彼女の、美波の物でなければおかしいだろう。サウスポーの語源を俺は知っていた、それは小さな頃に美波から聞いた知識だった。それなのに彼女は。二人で初めて野球観戦に行ったあの日、確かに美波は俺に質問した。
 
「左利きってどうしてサウスポーって言うの」
 
 俺の知っている二人の美波がどうしても交わらなかった。記憶が鮮明になっていくほど、十歳で出会った彼女と、十七歳で出会った美波が同一人物とは思えない。話し方、表情、性格に至るまで重なる部分がまるでない。そして、その結果がもたらす現実に思考が追いついていかない。考えたくない、でも知らなければならない。眼の前が暗く閉じていくような、暗澹たる気持ちに心が支配されていく。
「佐藤さん?」
 美波父に肩を叩かれて我に返る。俺は動揺しているのを隠すようにおしぼりで顔を拭いた。
「いや、びっくりしました。こんな偶然があるんですね、しかし、本当に、毎日丁寧に日記をつけていて驚きました」
「ええ、生真面目と言いますか、小さな頃から周りに気を使うような子供でした。私たちもそんな娘に過度な期待をしてしまって、結果的にそれが彼女にはプレッシャーだったのかも知れません。なんでも相談できるような親になれなかった私の責任です」
「そんな事……」
「だから凪沙には奔放に育って欲しかったのですが、娘を亡くした直後は何も考える事が出来なくて……。守るべき家族は残されていたのに」
 気の利いた言葉が出てこなくて沈黙が流れる。しかし、ここで固まっている場合ではなかった。俺はポケットから財布を取り出して千円札を一枚抜いた。
「ご馳走様でした。僕はそろそろ……あの、お会計お願いします」
「いえ、お代は結構ですよ。ここも今年で終わりなんです、ちょっと海外に行かなくてはなりませんので」
「え? お仕事ですか」
「いえ、凪沙からは聞いていませんか?」
「いや、なにも――」
「そうですか、いえ、ちょっと……」
 歯切れの悪い答えに若干の不安を覚えつつも、今は一刻も早くあの場所に行きたかった。俺は丁寧に頭を下げてから店を後にした。
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