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作者: 桐谷 碧
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千葉刑務所の外観は、一見すると東京駅のようなモダンな煉瓦造りだった。しかし、内側から発せられる空気は当然、東京駅のそれとは酷似する筈もなく、負のオーラが漏れ出ている。常時、千人以上の犯罪者が生活を共にして、出所しても半数以上が再犯を犯し再び収容される。更生施設としてはまったく機能していない建屋だが、それを全て刑務官の責任にするのはあまりにも横暴だろう。むしろ、こんな場所で毎日犯罪者と生活していれば、善良な一般市民でさえ黒く染まってしまうに違いない。
 被害者遺族が加害者に面会をするケースは殆どない。わざわざ加害者に会いに行くような奇特な人間が少ないのも事実だが、たとえ面会申請をしても加害者側が拒否をすれば対面は叶わない。加害者の精神的安定をおもんばかり、被害者家族の事など一切憂慮しないこの国の司法には、呆れを通り越して無関心になるしかなかった。しかし、断られると思っていた野村賢治との面会はあっさりと決まり、世話になった担当弁護士を通じて返ってきた答に俺は少し驚いた。
 指定された時間の二十分前に到着すると、受付で入館の手続きをしてから手荷物検査を受ける。スマートフォンや録音機器などは没収されると聞いていたので、俺は自ら刑務官にスマートフォンを差し出した。当たり前だが差し入れなどは持参していない。面会室はドラマで見たような個室で、無数の小さな穴が空いた透明のアクリル板が、正常な世界と犯罪者の住む世界を分け隔てている。もっとも、こちら側にいる俺が正常な人間かどうかは分からないけれど。
 五分ほど待たされて、アクリル板の向こう側にある鉄の扉が、錆びた音を立てながら開いた。テレビでも裁判所でも幾度となく拝んだその顔は、萎びた茄子のように燻んだ顔色と落ち窪んだ瞳で、まるで老人のように正気がない。野村はコチラに深々と一礼してから俺の前に座った。付き添いの刑務官はそのまま、奥に設置されている小さなテーブル椅子に腰掛けてメモを取る体制になるが、壁の方を向いているので気にはならなかった。
 野村賢治と面会をするにあたり、俺は初めて野村の事を調べた。と言っても、ネットに乱立する情報をかき集めただけで本当かどうかは眉唾物だ。何万人という暇人が収集した情報は、とりわけ信憑性よりも話題性が優先されるが、その中でも同乗していた交際相手のお腹に子供がいた事はテレビでも報道されていたので本当なのだろう。野村は幼い子供のように一時の感情を優先させた結果、これから産まれてくる我が子と、恋人を同時に失ったのだ。当然、自業自得であり同情の余地はないが、大切な家族を二人失ったと言う事実だけを見れば、コイツは俺と同じ被害者とも言える。それなのに俺たちの立場、いや、世界は真っ二つに分断され、透明なアクリル版で分かれた景色や未来は、第三者から見れば天地の隔たりがあるに違いない。
「お久しぶりです」
 敬語とは尊敬する相手ではなく、心の距離を近づけたくない人間にこそ有効な言語であると俺は知り、野村賢治は座ったままの体制で頭を下げて「お久しぶりです」とオウムのように返してきた。
「彼女とは結婚する予定だったんですか?」
 俺の質問に虚を突かれたのか、野村は目を瞬かせた。しかし、直ぐに意を解して「はい」と答える。
「子供は……男の子ですか? 女の子ですか?」
 野村は俺の面会依頼を聞いた時に、一体何を思ったのだろうか。罵詈雑言の限りを尽くされ、悪意を正面からぶつけられると見越していたに違いない。その上で、俺に会う事を決めたと考えるのが自然だろう。だからこそ目の前の男は俺の質問に戸惑い、逡巡していた。
「あ、いや……。まだ分からなかったんです」
 そう言って野村は目を伏せた。
「では、名前もまだ決めてなかったのですか?」
 俺は続けた。ネットの情報ではなく、本人の口から真実を、この男の人生を語らせたかった。
「決めていました……」
 ボソリと呟き野村は顔を上げた。
「平仮名で……つばさ、と」
「男の子でも、女の子でも通用する名前ですね、なにか由来でも?」
「はい、私たちは……。えっと、私と彼女はあまり頭が良くなくて、なんて言うか不良品みたいな人生だったんです。だから子供にはちゃんとした教育をして頭の良い子に育って欲しかったんです。それで、私みたいに狭い場所だけで生きる人間ではなく、世界に羽ばたくような立派な子に育って欲しいと思い、彼女と考えました」
「素敵な名前だと思います」
 本心から言うと、野村は気恥ずかしそうにはにかんだ。もし、この男に小さな頃から粗相を注意してくれる親や友人がいれば、あるいは違う人生を歩んでいたのかも知れない。しかし、一度しかない人生をやり直す事も、立て直す事も、きっと世間は許さないだろう。
「どうして手紙の枠を僕だけに使ったんですか?」
 刑務所から外に出す手紙には制限がある。初めは月に四通と決まっていて、模範囚であればその数は少しずつ増えていく。野村は服役してから今日に至るまで、毎月限度いっぱいの枠を使い、俺に手紙を送っていると担当の弁護士から聞いた。
「あなたの大切なご家族を奪った罪は、私が何をしようと許されません。私の謝罪など迷惑にしかならないでしょう、でもあなたは最後に言いました。絶対にぶっ殺してやる、と」
 野村の後ろで、壁を向いたままペンを走らせていた刑務官の肩がピクリと揺れた。野村は横目で気配を察しながらも続ける。
「そうあるべきだと思いました。あなたにはその資格があり、私にはその責任があると……。だから、その為に生きようと思いました。自ら命を断とうと考えた事もありましたが、それじゃあダメだと。例え憎しみでも生きる力、原動力を持ち続けなければ、あなたが絶望してしまう事が怖かったんです。私は全てを失いましたが、生きる目的は出来ました。それが一日でも早く出所して、あなたに殺される事なんです」
 最後の言葉は刑務官に聞かれないよう、蚊の鳴くような掠れた声だったが、アクリル板に空いた無数の穴からは呪詛のように漏れ聞こえてきた。
「自分は生きている、刑務所の中で生きていると僕に伝えたかったのですね?」
「はい……」
 人間が生きていくのに、夢や希望は必要ない。体を構成するエネルギーさえ摂取して、適度な運動をしていれば長生きも可能だろう。刑務所はまさにそれを体現した施設と言える。毎朝、決められた時間に起きて質素な食事を摂り、規則正しい生活を三百六十五日、強制的に強いられる。それでも死刑囚じゃない限り、いずれは退所して俗世に戻る。多くの受刑者はその日を生きる希望として、退屈な日々を耐え忍んでいるのだろう。
「冗談じゃありませんよ……」
「え?」
 塀の中で護られた、退屈な日々が犯罪を犯した対価だと言うのならば、被害者たちには何が残ると言うのだろう。どんな方程式にも当てはまらない究極の数式に、被害者やその遺族は組み込まれていない。そんな中で、自らの希望に被害者遺族を組み込んだ野村は、再犯などしないだろう。いや、生きる意味を失った男が行き着く終着駅には死神が待っているに違いない。
「大切な人が出来ました……」
「え?」
 この男にはもう、何も残されていない。僅かな夢も希望も全て、あの日に失ったのだから。真っ暗な闇の中で、もがくようにして見つけた一縷の光が、自分を心から恨む人間に殺される事だったのだ。その唯一の希望さえ、俺は奪おうとしている。
「彼女を護り、ずっと一緒に生きていきたいと思っています」
「そう、でしたか……」
 野村は全てを察したように目を伏せた。
「だから、あなたとの約束は果たせそうにありません」
 ゆっくりと被りを振る男を、俺はアクリル板越しに見つめた。
「彼女と結婚して、子供を作り。幸せな家庭を築く事が両親への供養になると思っています。だから……だからもう、手紙は結構です。出所してからの墓参りも必要ありません。僕たちの関係は今日を持って解消しましょう。僕はもう、あなたを恨んでませんから」
 野村は肩を震わせながら、首を何度も縦に振った。何度も、何度も、頭を下げた。その度に落ちる涙を拭いもせずに、何度も、何度も頭を下げ続けた。
「そろそろ……」
 刑務官に促されると野村は立ち上がった。一礼してからゆらゆらと去る背中に死神の気配がして、俺は思いかけず叫んでいた。
「工場に出る不良品ってあるじゃないですか! あれって完全に無くそうと思えば可能らしいんですけど、手間やコストを考えたら数百分の一の確率で生まれる不良品をはじく方が楽ちんなんですよ。弾かれた不良品は何の役にも立たなくて、廃棄されるのを待つだけです。誰からも必要とされない」
 野村は背中を向けたまま頷いた。それが自分なのだと認めるように。
「本当にそうですか? 野村さん、あなたを必要とする人はこの世に二人もいたじゃありませんか! 奥さんと、つばさちゃんは、世界であなたを一番必要としていたはずでしょう? 違いますか」
 野村は肩で息をしながら振り返ると、今までで一番深くお辞儀をしたまま固まった。「ありがとうございます、ありがとうございます……」と床に向かって呪文のように唱える野村を、刑務官も黙って見守っていた。
 自分がどうしてそんな事を言ったのか理解出来なかった。けれど、本当は最初から分かっていたのかも知れない。求刑通りの一審判決を受け入れ、控訴もしなかった野村が心の底から反省し、後悔している事を。判決が下り肩を震わせ泣いていた姿を、下卑た笑みに脳内で変換していた自分を。そうでもしないと生きる目的を失ってしまう事を。
 俺はアクリル板の向こう側にいる二人に向かって一礼すると、それ以上は何も言わずに面会室を後にした。
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