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作者: 桐谷 碧
暗い。暗すぎる。
 元々、明るい性格じゃないのは知ってるけれど、ここ数日の海斗くんは魂が抜けたように生気がない。パソコンの前でキーボードを叩くでもなく、マウスをもてあんでいるだけに見える。それでもハッシーがいれば、空気を読まないマシンガントークに無表情ながらも反応していた。しかし、今日はハッシーがいない。ハローワークで失業保険の手続きをすると言っていたから、終わったら来るかも知れないけれど。
 お爺ちゃんのように頼りない背中を観察しながら私は考えた。確か、海斗くんから魂が抜けたのは三日前。師匠とメグさんの三人で、渋谷に買い物に行った後だ。朝は普通だった。夜、帰ってきたらこの状態だったのだ。
 もしかして――。
 渋谷でナンパしてきた三人組と少しだけ立ち話をしたのがバレたんじゃ? 違うの、違うのよ海斗くん。やたらと口が上手いメンズ達で、矢継ぎ早に褒められたから、ついつい気分が良くなって。海斗くんは普段あんまり褒めてくれないじゃない? 良いのよ。軽口を叩く男よりも、硬派な海斗くんの方が私は好きよ。でもタマには褒められたいじゃない、女子ですもの。ううん、誰でも良いって訳じゃないの。三人組の一人がちょっと似てたのよ、海斗くんに。え? 似てれば良いのか? 違うの聞いて。師匠とメグさんが似てるって言い出したのよ、私じゃないの。師匠なんてメグさんに、コイツで我慢しろよなんて言い出してね。でも、性格は全然違うのよ。海斗くんはあんなお喋りじゃないし、そもそもソイツ関西弁だったの。ね、全然、海斗くんと違うでしょ。え? 言い訳になってない? 困ったわ。怒らないで海斗くん。
 なんて事になっているのでは。いやいや、ないない。あの日の事を知ってるのは師匠とメグさんだけだし、二人がそんな事を海斗くんにバラす筈はないだろう。
 他に女が出来た?
 そう言えば、あの日。海斗くんの家に帰るとテーブルに見慣れない物が置いてあり、私は確かに見た。チョコレートと百円ライター。海斗くんは一切甘い物を口にしないし、タバコも吸わない。では、あれは何だったのだ。視界に入っただけで気にも留めなかったけれど、よくよく考えてみたら不自然じゃないか。そう、あれが新しい女の持ち物と考えれば辻褄が合う。私が出掛けているのを良い事に、海斗くんは女を家に呼んだ。胸がデカくて両肩が丸出しの下品な女、名前はそうだな、麗華、麗華だ。麗華は海斗くんを散々骨抜きにした後にチョコレートをつまみ、ほっそいタバコを吸って帰って行った。すっかり巨乳の軍門に降った海斗くんは、私の貧相な胸を見てため息を吐いた。はぁ、そんなんじゃ挟めねえよ美波、と。
 ムッキー! その場に地団駄踏みたくなる衝動を、何とか抑えて冷静になる。挟むなら、挟んでみせよう、ホトトギス。いや、ここは秀吉より信長か。
「かーいーとーくん。あーそーぼ!」
 声を掛けると椅子がゆっくりと回転し、病人のようにやつれた顔をコチラに向けた。肩をすぼめ、両手をだらりと股の間に入れている。虚空を見つめる目は光を失っていて、その姿はまさにアンデット、生ける屍だ。
「天気良いし、外出ない?」
 怯みそうになる自分を、奮い立たせて言った。
「暑いからいい」
「甲子園見に行かない? 大阪まで、ね? 二人で旅行なんてどおかな。お婆ちゃんには友達の家に泊まるって言えば大丈夫だし――」
「兵庫」
「へ?」
「甲子園球場は兵庫県」
「あっ、そう」
 知らなかった。
「じゃあ、プールは? 実はこないだ師匠たちと買い物行った時に、水着買ったんだー。すっごいやつ、もう、ギッリギリの際どいヤツ、見たいでしょ?」
「いや、大丈夫」
 クッ。大丈夫とは何事か。可愛い彼女が水着を買ってきたんだぞ。生唾飲んで妄想にふけるのが普通だろうが。どうした佐藤海斗。お前は健全な十九歳の男子じゃないのか。
「高梨とでも、出掛けてこいよ」
 それだけ言うと海斗くんはまた、ゆっくりと椅子を半回転させて元の体勢に戻った。これは、かなり重症のようだ。恋愛経験が並以下の自分に解決できる事案ではない。私は部屋を後にしてリビングに戻り、ソファにダイブした。ゴロンと仰向けになってからスマートフォンを取り出す。グループライン『SMM』は師匠、メグさん、美波の頭文字を取った三人だけのトークルームだ。
『大変っすな! 海斗くんが死んだ魚のような目になって生気がないっすな。どうしたら良いか分からず、諸先輩方のアドバイスを求むっすな。泣泣泣』
 直ぐに既読が二件付いた。
『アイツは元々、根暗だろ。笑』
 師匠からの返信。
『夏バテかなぁ。心配だね。なにかスタミナのある料理作ってあげたら?』
 メグさんはいつも優しい。
『体調不良って言うか……。なんか精神的に病んでる感じっすなぁ』
 送信ボタンを押そうとした所で威勢の良い掛け声が聞こえてきて、寝っ転がりながら顔を向けた。朝から付けっぱなしのテレビには、真っ新なユニフォームを着た高校球児が試合前の挨拶をする為に整列している。一糸乱れぬ直線が二本。テロップには八月十五日、大会七日目の第二試合。東西の強豪校の名前が映し出されていた。
「あっ!」
 思わず口に手を当てた。また忘れる所だ。私は入力したメッセージを消して、新たに打ち直した。
『今日、美波の誕生日っすな! みんなでパーティーしたいっすな!』
 やはり、直ぐに既読が付く。
『マジか! おめでとう! 一個下だから十八歳か。パーティーは歓迎だが、二人じゃなくて良いのか?』
『おめでとー美波ちゃん! そーだよ。二人でお出かけして来なよー。私たちは後日、お祝いしてあげるからさ』
 二人からの祝辞に、私は速攻で返事を打つ。
『ありざーっす! お出掛けはもう断られたっすな! みんなでワイワイすれば海斗くんも元気になるっすな!』
『よし! 分かった。美波は直ぐに出て来れるか? ミーティングだ』
 私は猫が敬礼しているスタンプを送り、出かける準備に取り掛かった。海斗くんが屍の原因は分からないけれど、早く元気になってもらわなければ。だって、私たちが二人で過ごせる時間は限られているのだから。時間をかけてゆっくり解決するなんて、悠長な事をしている暇はない。私にはない。
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