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作者: 桐谷 碧
「兄貴、助けてくださいー」
フローリングでクネクネと体をよじらせながら、俺に近づいてくる様は、アザラシよりも芋虫を連想させた。気味が悪い。
「見て分からねえのか、手も足も繋がれてんだよ」
「いや、兄貴。足は外れるでしょ、それ」
 そう言われて、俺は自分の左足首を見た。
「あ……」
 間抜けな自分から、間抜けな声が漏れる。椅子の脚に繋がれた手錠は、脚を少し浮かせれば容易に輪っかが外れた。ハッシーが必死に伝えたかったのはこの事だったのだ。自由になった左足を椅子に乗せて、足首に繋がれた手錠を見るが、鍵穴は無い。代わりに小さなボタンが付いていて、押すと「カシャン」と安っぽい音と共に手錠は外れた。
「オモチャかよ」
 両手にかけられた手錠も同様の作りで、ボタンを押すだけであっさりと外れた。あの男は何を思って此処に来たのだろうか。返り討ちに合うリスク、逮捕されるリスク。それらに対して無頓着すぎる稚拙な復讐は、どこか自らの破滅を望んでいるようでもある。そして、その気持ちが、俺は少しだけ理解できた。両親を殺されてすぐ、裁判の後、俺はどこかで破滅を望んでいた気がする。
「なんだったんすか? アイツは」
 ぐるぐる巻きのテープを剥がして解放されると、ハッシーが聞いてくる。流石に殺されかけて何も教えてやらないのは可哀想で、一連の経緯を手短に話した。
「親の気持ちは分からないっすけど、大切な人が虐められて自殺したら、やっぱり復讐しようと考えますかね……」
「さあな」
「その、小林なんたら君はやっぱりアレでした? 三軍タイプ」
 当時の写真を見てもなお、小林竜太の人物像が思い出せない。つまり、そんな生徒をスクールカーストでは三軍タイプと分類するのだろう。
「兄貴はゴリゴリの一軍タイプっすからね」
「はぁ?」
「違うんすか?」
「中三の一学期までイジられてたよ」
 ハッシーの過去話を聞いて、俺は虐められていた、とは言えなかった。ぬる過ぎる。
「マジっすか? そいつ殺してませんよね?」
 どんなイメージなんだ俺は。
「太ってたんだよ、ブクブクにな。それが一気に痩せちまった」
「あー、なるほどー」
「なーにが、なるほどだよ」
「いや、遺書? 日記の内容っすよ。兄貴は仲間だったのに、裏切られたって書いてたんですよね」
「ああ」
「つまり、一緒に虐められた仲間だったのに、一人だけ一軍に行った裏切り者って事ですよ」
「はぁ?」
「いやいや、兄貴。これ結構重要なんですよ! 兄貴みたいに三軍から飛級で一軍に入るなんてケースは稀ですけどね、今まで虐められてた奴が不登校になったり、転校しちまう、なんてのは良くある話ですよ。問題なのは残された三軍です。今までそいつが受け持っていたノルマを、誰か他の人間が受け持つ訳ですから、当然負担が増えますよ。その小林くんは一軍に飛級した兄貴の分を、一手に担う羽目になったと。そーゆー事っすよ」
 目から鱗が落ちる、とまではいかないが、ハッシーの推測は的を得ていると思った。それ以外に俺が小林から恨まれる理由が見つからないのだ。
「そんなの、俺にどーしろってんだよ」
 強がって見せた声が震えた。現実として、俺が小林の自殺に関わっている事が確定したからだ。知らなかった、どうしようもない。そんな言い訳は当事者達には関係ない。そう言われて思い出す、確かに俺への弄りが無くなった頃、小林が不登校になりがちだった事。プリントを届けるよう、先生に頼まれた女子が露骨に嫌な顔をしていた場面が脳内で再生された。俺は知っていた、小林が虐めに合っているのを知っていた。知っていて何もしなかった。それは虐めに加担したのと同じではないのか。
「まあ、虐められても生きてる人間だって、沢山いるじゃないですか。結局本人次第なんすよ。あんま気にしない方がいっすよ。それより、もう一人の一軍はどこに行ったんすか? いなくて良かったっすけど」
 確かに、美波がいたらどうなっていたか分からない。
「友達と買い物だとよ」
「へー。さぞやキラキラしたお友達なんでしょうね」
「なんでだよ」
 アイツらはキラキラよりギラギラだな。
「なんでって、美人がつるむのは美人なんすよ。常識です、昔は美人とブスのセットが主流でした。美人はより引き立つし、ブスは美人の恩恵に預かれる。ウィンウィンの関係です。今はブスはダメです、映えないんで」
 オッサンの癖に、何でコイツは近年の学校事情に精通しているんだ。そして、よく喋りやがる。
「兄貴とお嬢は美男美女っすからねー」
「別に美波が、美人だろうがブスだろうが関係ねえよ」
「ないない、それは無いっす兄貴」
「なんでだよ、俺は美波の内面がす、気に入ってるんだから」
「もちろんお嬢は性格も素晴らしいです。でもブスだったら、性格を知ろうとも思わないでしょ?」
「んなこと……ねえよ」
「いやいやいや、お嬢がブスだったら付き合ってないですよ。断言します」
 そうなのか? 俺は自らに問いかけた。あの日、ファストフードで声を掛けてきたのが醜女しこめだったら、俺は東京ドームにも、ラジオ体操にも。海にも花火にも行かなかったのか。だとしたら、それは。それは俺が蔑んできた、スクールカーストを作るような低俗な人間達。見た目だけで、評価を上げたり下げたりするような、下卑た人間と変わりない。
「チッ! 出かけてくる」
「ちょ、兄貴。どこ行くんすか?」
「パチンコだよ!」
 
 人形町に一件だけあるパチンコ屋に入ると、ガラガラの店内に大音量の音楽が流れていた。頭の中にこびり付いた鬱屈した思考を払拭できない。ずっと信じて積み上げてき物が、根本から覆されたような気分だった。俺は適当な台に座り、一万円札をパチンコ台に投入した。
 目の前でグルグルと数字が踊っている。不揃いになっては再始動し、また停止した。同じ事が延々と繰り返される液晶パネルを見ながら、脳内では全く別の事を考えている。やかましい筈の店内から徐々に音が消えていき、目を瞑ると真っ暗な世界に俺は連れて行かれた。
 絶対に殺してやると裁判所で叫んだ俺が。許さない、いつか必ず殺してやると記した小林の姿と重なる。野村は俺で、俺は小林。俺は被害者で加害者。小林の父が言うには、加害者だからこそ被害者になったが正しい。
 自業自得、因果応報、身から出た錆。そんな風に考えた事はなかった。俺は純粋無垢で一途な復讐者。親の仇討ちに人生を焼かれたカスタトロフ。そんな悲劇に自らを投影し憐れみ、激怒し、世の中に牙を剥いた。しかし、俺が蔑み、嘲り、見下してきた奴らと自分は、何一つ変わらない人間だった。俺は特別なんかじゃなかった。美波とは違う。美波は純粋な被害者だ。彼女には一変の落ち度もなく、彼女は無垢な天使のままこの世を去った。
 目を開けると三つの数字が揃っていた。スーパーラッキーの文字が左から右に流れていく。一瞬、暗転した液晶パネルに映った男は、とても十九歳の青年に見えないほどやつれ、生気がなかった。夢を、生きる目的を無くした男の顔がそこにあった。
 なあ、美波。俺は間違っていたんだ。
 美波を自殺に追い込んだ奴ら、そいつらと俺は何一つ変わらない人間だった。誰かを傷つけて自殺に追い込み。当の本人は知らん顔。覚えていない、自分は無関係だと責任を逃れ、罪を逃れ。その代償を両親が払ったのだとすれば、二人を殺したのは俺なのかも知れない。
 俺は、野村と一緒なのか。俺は、美波と一緒にいても良いのか。知らないうちにまた誰かを傷付けていないか。美波を無理矢理この世に縛り付けるのは俺のエゴじゃないのか。俺は自分の事だけしか考えていなかった。都合よく世間を解釈して自分こそが正義だと嘯き、人間をカテゴライズしては枠にはめ断罪してきた俺こそが、忌み嫌ってきた人間そのものだと、今更思い知らされた。
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