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作者: 桐谷 碧
「佐藤海斗さんですね?」
 無数の穴が空いたアクリル板があれば、弁護士が面会に来たような構図だが、目の前の男を俺は知らない、見た事もない。しかし、予想はついた。
「はい」
「私が誰だか分かりますか?」
 俺は目線だけをリビングに置かれたテレビに向けた。真っ暗な液晶画面に、先ほどのニュース速報が蘇る。
「小林……さんですか?」
 去年、虐めを苦に自殺した同級生の小林、残念ながら下の名前は分からない。そいつが残した遺書には、御丁寧に虐めた奴らの名前が書かれていたらしい。その中に、俺の名前もあったと教えてくれたのは高梨だったが、話した記憶すらない人間を虐めようもない。何かの間違いだろうと気にも留めなかった。
「はい、意外ですね」
 男は言葉の通り意外そうな顔をした。能面のように動かなかった表情に筋が浮く。なぜか俺は少しだけ安堵した。目の前にいるのが血の通った人間だと認識したからだろう。
「それなら話が早い」
 男は再び、たすき掛けにしたショルダーバッグを漁り出した。また、あの馬鹿でかいナイフが出てくるのかと思い一瞬怯んだが、俺の目の前に置かれたのは一枚の写真だった。
「竜太です」
 写真には中学生と思しき少年が、猫を抱えてコチラを見ている。ガラス玉のような不気味な瞳だが、口元の綻びで笑顔なのだと分かる。竜太と言う名前も、写真に写る少年も、同級生の小林とリンクしない。俺の記憶を司る海馬は、この少年の記録を不要と判断し消去してしまったようだ。
「あなたで最後、一年掛かりました」
 言葉の意味を測りかね、俺は無言で先を促した。
「三十五人です、竜太の自殺に関与した人間は」
 そこで理解した。つまり、三十四人は既に会ったなり、始末した。俺は最後の獲物で、三十四人目の岸谷は今ごろ焼け死んでいる、と。
「どうやって家を突き止めたか、不思議ですか?」
「いや、別に」
 年齢を偽っても戸籍までは変えられない。プロの探偵でも雇えば住民票を追って、現在の住まいを突き止める事など朝飯前だろう。
「失礼ですが、怖くないのですか?」
 男は不思議そうな顔をした。注意を払わなければ表情を読み取れないほど、微細な変化だ。
「怖いですよ、いきなりナイフを持った男が乗り込んで来たんですから」
「そうですよね、その割に落ち着いている。みなさん、恐怖で真っ青になるか、吐いてしまう子もいました」
 怖い、確かに怖い。だが、目の前に座る男は俺だ。家族を殺され、復讐を遂行する暗殺者。俺には、この男の気持ちが分かってしまう。悲しい程に肯定してしまう。
「佐藤海斗さん、あなたは虐めが無くならない理由は何だと思いますか?」
 男はガラス玉の目でジッと俺を見つめてきた。答えを誤れば死ぬのだろうか。身動きが取れない俺を殺すのは容易いだろう。岸谷家のように火を放たれたら、他の住人に迷惑をかけるな。などと、楽観的な思考でいると、すっかり忘れていた事を思い出した。
「あっ」
 思わず声が出てしまう。
「どうしました?」
「あ、っと、いや」
 ハッシーが便所にいる。相変わらず長糞の男は、この異常事態に気が付いていないだろう。しかし、この窮地を脱するにはハッシーの力が必要だ。俺の命運があの男に託された絶望感と、切り札を得た期待感と言う名の針は、僅かな差で後者に振れた。
「弱者を虐げる事で、優越感を得てストレスを解消する、これは人間だけじゃなく哺乳類や両生類、魚類などの集団生活をする生き物すべてに見られる現象です。つまり、この世から虐めを無くすのは不可能です」
 質問の答えになっているか分からないが、とにかく時間を稼がなければならない。
「おっしゃる通りです。では、解決策はないと思いますか?」
「いや、虐めは犯罪行為だと、法的に決めてしまえば良いんですよ。そもそもカツアゲは恐喝罪だし、暴力は傷害罪です。それをもっと細かく細分化していけば、あらゆる虐めを犯罪と定義する事が可能です。犯罪者をどんどん逮捕すれば、奴らはいずれ淘汰されるでしょう」
 そして、犯罪者なんて永久に牢屋に入れておけば良い。どうせ、出てきても犯罪を犯すのだから。害虫は徹底的に駆除しなければすぐに繁殖する。
「法改正ですか……。気が遠くなる話ですね」
「ええ、気が遠くなるし。もう遅い」
「もう遅い?」
「あ、いえ」
「確かに遅い。竜太はもう、帰って来ませんから」
 男は目を伏せた。身を乗り出せば首を掴める距離だ。手錠をしていても握力に問題はない、死なない程度に締め上げる事は可能だが、なぜかそんな気にはなれなかった。
「虐めに合う子供を、あなたは弱者と言いましたが、そうでしょうか? 他人を傷つけないと自分の存在意義を見出せない、そんな人間こそ弱者だと私は思います。竜太は弱者じゃない……。優しい子だったんです」
 俺は何も言えなかった。この男からすれば俺は加害者であり、弱者なのだ。美波に出会う前ならば、ハッキリと言ってやっただろう。黙って虐められている方にも責任はあると。嫌なら言えばいい、口があるのだから。殴られたら殴り返せば良い、拳を握り振り回すだけで誰にでも出来る。そんな努力もしないで死を選び、息子を殺されたと騒ぐ親は子供が自殺するほど追い込まれていた事を同じ家に住んでいたのに気が付かず、しかし、そんな自らの失態からは目を逸らし虐めた生徒たちを糾弾する。小林竜太が死んだのはあんたの所為だよ。それを逆恨みしてお礼周りとは恐れ入る。きっと、そんな風に考えたに違いない。
「あの、俺の事はなんて書いてたんですか? その、遺書に……」
「遺書というか、日記ですが。気になりますか?」
「ええ。正直、小林くんとは話した記憶がないので」
 こんな風に脅され、繋がれ、尋問される覚えはサラサラ無い。とは言わなかった。
「そうですか、確かに佐藤さんのお名前が出て来たのは一度だけでした。しかし、竜太が日記の中で一番感情的になっていたのが、あなたとの出来事です」
 俺は海馬をフル回転させて過去の記憶を呼び戻そうとするが、やはり小林竜太との思い出は欠片もない。忘れたのではなく無い、これが最もしっくしくる。
「仲間だったのに、裏切り者。殺してやる。そう綴ってありました」
 仲間? 俺と小林が? 脳内辞書で仲間を調べるが、会話もした事がないクラスメイトを、果たして仲間と呼ぶのか答えは記されていない。
「誰かと間違えてませんか?」
「佐藤さん、虐めた側、裏切った側は覚えていないんです。これは、他の方もそうでした。殴った事も、金を巻き上げた事も、恥をかかせた事も、なにも覚えていない。無意識に、空気を吸うように竜太を弄んだのです」
「いや、ちょ――」
「四月二十五日、昼休みに本を読んでいると、後ろから頭を引っ叩かれた。振り返ると安田くんが走って逃げる後ろ姿が見えた」
 男は俺の言葉を遮り、喋り出した。日記の内容を暗記しているのか。何も見ないで男は続ける。
「四月二十六日、今度は石井くんが教科書で頭を殴り逃げていった、そのすぐ後に武藤くんが来て、教科書の角で頭を殴られた。どうやら徐々に与えるダメージを増やすゲームのようだ。五月二十三日、読んでいた小説を開くとウンコが挟まっていた。その日から渾名は汚物になった」
 男はため息を一つ吐いてから続けた。
「七月十五日、佐藤海斗に裏切られた、仲間だったのに。許さない、絶対に許さない。殺してやる、いつか必ず殺してやる……」
 部屋がシンと静寂に包まれた。男は伏せていた目を俺に向けた。そこに敵意、殺意は読み取れない。あるのは虚無と僅かな愉悦。
「謝罪してください」
「は?」
「謝ってください。その写真は中学生の竜太です、裏切って申し訳なかったと。当時の竜太に、写真の前で誤ってください……」
「いや、俺にはなんの事だか本当に分からないんです、何かの間違いですよ」
「分からなくて構いません」
「は?」
「どうせ覚えてないんですから、分からなくて構いません」
「そんな謝罪に意味があるんですか? 脅して無理やり謝らせても仕方ないんじゃ――」
 男はガラス玉のようなら目をカッと見開いた。その場で立ち上がると、椅子がフローリングを擦る音が響き、そのまま俺を見下ろした。細く長い手が伸びてきて、俺の髪の毛を鷲掴みにすると、そのまま顔面をテーブルに叩きつけられた。鼻を強く打ち目の前に火花が散る。
「脅して何かを強要するのは、お前達のやり方だろうが! 謝れば許してやると言ってるんだ! みんな謝った、バッタみたいにヘコヘコ土下座して謝った。命乞いをしながらな。竜太は喜んでたよ、父さんありがとう、ちゃんと謝罪させてくれてありがとう、ってな! それなのに、岸谷ってガキは最後まで謝らなかった。日記に書かれている事は嘘だと抜かしやがった。竜太を自殺に追い込んで、死んだ後も嘘つき呼ばわり。だから殺してやったよ。佐藤海斗、お前も謝らないと死ぬぞ? 一人も二人も一緒なんだよ」
 頭上から激昂した男の声が降ってくる。まごう事なき純粋な怒りと憎しみの中に、やはり僅かな愉悦が混じっているのが分かり。鼻白んだ。こいつは弱者を痛ぶる快感に酔いしれている。しかも、その理由が愛する我が子の弔い、聖戦だから余計にタチが悪い。男は息子の復讐をする一年の間に取り込まれたのだ。息子を自殺に追い込んだ側のことわりに。こいつは屈したのだ。
「何してんだお前! だ、だ、だれだ?」
 鷲掴みにされていた頭を解放されて、顔を上げた。ハッシーがリビングの入口で男と対峙している。男に気付かれないよう、警察に通報する希望は絶たれた。しかし、絶望はしていない。こいつは俺じゃない、俺はそっち側には行かない。死んでも行かない。
「騒ぐな」
 男がサバイバルナイフを取り出すと、ハッシーは萎んだ風船のようにその場でへたり込んだ。手錠は二個しか用意していなかったのだろう、ビニールテープでハッシーの手足をぐるぐる巻きにすると、打ち上げられたアザラシのようにフローリングに転がされた。
「なんだ、お前は?」
 男はハッシーを見下ろした。
「ぼ、僕は兄貴の会社の社員だ」
 もう、その気になってやがる。適当な理由を付けて断る予定なのに。
「会社?」
 男は呟いてから俺の方を見た。再び能面の様な無表情に戻り感情が読み取れない。
「あなたはその年で会社を起こしたのですか? 住民票を見て妙だと思ったんですよ、ご両親はどうされたんですか?」
 質問が多くて何から答えて良いか分からない。答える義理もないが、何とかしてもう少し距離を詰めたい。腕を伸ばして掴める距離に。
「両親は三年前に殺されました。仕事は父親の会社を引き継ぐ形で継続しています。すみませんが、そこのアザラシは無関係です、逃してやってくれませんか?」
 男は一瞬目を剥いて、すぐに能面に戻った。
「殺されたのですか? 一体誰に……」
 アザラシの解放はあっさりスルーされたが、興味を惹く事には成功した。
「野村賢治」
 俺が答えると、男はサバイバルナイフをショルダーバッグにしまい、椅子を引いて腰掛けた。
「ノムラケンジ……。何処かで聞いた名前ですね」
 男は顎に手を当てて思案している。まだ距離がある、一足飛びで掴み掛かるには遠い。すると、視界の端でアザラシがジタバタしているのを捉えた。見ると、口をパクパクさせて何かを訴えている。読唇術でも習っていれば、その意味を理解出来ただろう、しかし、俺にその心得はない。
「関東自動車道、煽り運転事件の犯人ですか?」
 男は顎から手を離して言った。
「はい」
「まさか、あなたが、あの事件の被害者だったと?」
「そうです」
 男は感心したように頷いた後、喉の奥から漏れ出してくるような薄気味悪い声を出した。それが笑っているのだと理解したのは、口角がピエロのように上がっていたからだ。垂れた目尻と相まって醜悪な顔に歪んでいる。
「ククク、やはり天罰。私が手を下すまでもなく、罪人は既に裁かれていた」
「罪人?」
 俺は男を睨みつけた。
「竜太を殺したあなたを、育てた親もまた、罪人です。まともな子供すら育てられない未熟な人間、怪物を世に放った責任は重大です、死んで当然、当然至極」
「テメー! ぶっ殺すぞ!」
 俺は立ち上がり男に掴み掛かった。椅子を引き摺る嫌な音が響き、同時に手錠の付いた両手を伸ばす。しかし、男は椅子ごと後退り、その手は空を切る。俺はテーブルに顎を打って突っ伏した。
「それが、本性ですか? しかし、勘違いしないでくださいよ。あなたの両親を殺したのは私じゃない、ましてや野村でもない」
 男は一呼吸置いてから、言い放った。
「あなたです」
 ガラス玉のような目元に、もう笑みは無かった。そして、それ以上は何も言わずにゆっくりと部屋を出て行き、リビングが静寂に包まれてなお、俺の怒りは沸点を超え続けた。でないと俺は、あの男の言った事を認めてしまいそうだったから。両親が死んだのは俺のせいだと、そう認めてしまいそうで怖かった。
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