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作者: 桐谷 碧
変だ。何かが変だ。違和感の正体を突き止めようと、部屋を見渡すまでもない。ソファの前に置いてあるガラスのローテーブルで、真剣にパソコンと睨めっこしているのが可憐な少女から小太りの中年に変わっている。
「兄貴、これどーゆー事っすか?」
 ハッシーこと、橋本瑠姫亜はしもとるきあ、三十三歳、独身、小太りが、ドングリのようにつぶらな目を俺に向けた。
「ググレカスッ!」
「ちょ、兄貴、ググっても分からないんすよ。頼みますよー。今日、機嫌わるくないっすかー?」
 ああ、悪い。すこぶる悪い。
「お嬢がいないからって、当たらないでくださいよー」
 語尾を伸ばすな、甘えた声を出すな、キラキラネームを改名しろ。
「腹減ったから飯作れ、その後だ」
「飯っすか? 了解しました!」
 九月から週に二回、ウェブデザインの知識を学ぶために俺の家に来い。そう言った、確かに言った。が、まだ八月なのにコイツは来た。やる気アピールなのか? そーゆーの良いから。おかげで美波と二人きりの時間は減り、基礎から教えているから俺も忙しくなった。更に今日は美波が、高梨たちと出掛けてしまったから部屋に二人きり。冗談じゃねえ。
「お待たせしましたー。 炒飯っす」
 ハッシーはカウンターキッチンから、綺麗なお椀型に盛られた炒飯を差し出した。
「はえーな!」
「スープもあります」
 手際がいいのだ。この男は。そして。
「うっま!」
 美味いのである。
「なんだよこのスープ。すげー美味いな」
「いや、簡単っすよ。ラードで――」
 ウンタラカンタラとレシピを披露するが、俺にはまったく理解できない。とは言え、何の因果で俺が中年男の面倒を見なければならんのだ。美波におねだりされると、後先考えずに引き受けてしまう生活を、少し改める必要がありそうだ。
 二人で昼飯を平らげて俺がソファで寝転んでいると、付けっ放しのテレビが緊急速報を報じた。火事のニュースだ、真夏に家事とは些か珍しいが、さして興味も惹かれない。俺はリモコンを取り、テレビ画面に向けた所で手が、いや。体全体がピタリと硬直した。
 火事の原因が放火だったからじゃない。燃えている一軒家が、東京都北区赤羽にある岸谷家だったからだ。中三の同級生、不良グループのリーダー格。俺が知っている岸谷の情報は少ない。よってこの燃えている家が、あの岸谷の自宅かどうかは分からない。珍しい苗字でもないが、良くある苗字でもない。
 岸谷はいわゆる不良だったが、少年漫画に出てくるヤンキーよろしく、校内の窓ガラスを割りまくったり、トイレで煙草を吸ったり、ましてや河原で他校の番長とタイマンするようなオールドヤンキーではない。髪をオシャレに染めて、たまに酒を飲む程度のマイルドヤンキー。その言い方が正しいのか分からないが、要するに上っ面だけ不良ぶった普通の生徒だ。
「放火っすか?」
 ハッシーがキッチンから出てきて言った。手にはマグカップが二つ、コーヒーのいい香りが漂っている。気が利きやがる。
「ハッシー時代の虐めってどんなん?」
「虐められてる前提っすか!」
「違うの?」
「まあ、虐められてましたけど……。そんな変わらないっすよ。イジり、パシリ、殴りの三段活用っすね。とりあえず、見た目が悪いやつはイジられます、ここで面白い返しができる奴は一軍の末席に昇格します、つまらない奴はパシリになって、不服そうな態度をとる奴、まあ可愛げがない奴は殴られますね。僕がそうでした」
「へー」
 経験者の言葉は重い。 
「へーって、興味ないでしょ! 本当に大変でしたよ。ボクシングの世界戦があった次の日はサンドバッグにされるし、総合格闘技の試合なんてあると、関節全部決められた上に、落とされて放置とか普通でしたよ」
 それ、普通なの?
「爪の間に安全ピン刺されたりー」
 壮絶だな。
「マットで簀巻きにされたまま、二日間発見されなかった事もありましたねー」
 よく生きてたな。
「まあ、一番キツかったのは女子の前でオナニーさせられた時っすね。お前みたいなブス男が女の前でチンコ出す機会は永遠にないから、感謝しろって金取られましたよ、ハハハ」
 もうちょっと、彼に優しくしようかな。
 
『放火された家にはまだ、逃げ遅れた住人がいる模様です! 放火された家にはまだ、逃げ遅れた住人がいます!』
 
 ヘルメットを被った女子アナが、切迫感を全面に出してリポートしているが、綺麗に整えられた眉が、パッチリした二重が、マイクを握る細い指が、私は一軍よと主張していて萎えた。メットの脇から出てる髪の毛しまってから出直してこい。俺はテレビを消した。
「あ、お腹痛い。トイレ借りますー」
「コンビニでして来いよ」
「漏れちゃいますよー」
 コイツのうんこタイムは果てしなく長く、そして果てしなく臭い。今ごろ美波は何をしているだろう、嫌な予感しかしない。ソファに寝転んで目を瞑るとインターフォンが鳴った。俺はため息をついて体を起こす。
「川戸運輸でーす」
 液晶モニターにダンボールを担いだ男が映っている。水をケースで頼んだのは昨日だが、もう来たのか。
「ああ、はい」
 俺は何の疑いもなくオートロックを開錠した。すると、一分もしないで再びインターフォンが鳴る。今度は玄関の方だ。
「置いといてください、ご苦労様です」
「あ、佐藤様すみません。最近、置き配での盗難が多発してまして、受け取って頂けますでしょうか」
 男は懇願するような声をだした。内廊下だし盗まれる心配は無いと思うが、問答するより取りに出た方が早い。俺は「分かりました」と答えて玄関に向かった。
「どうも、すみません。ちょ、重いですよ」
 メガネをした長身の配達員がダンボールを渡してきた。俺がそれを受け取り礼を言うが、男は玄関に突っ立ったまま微動だにしない。液晶モニターでは気が付かなかったが、男は頬がこけていて、メガネの奥に光る目は、ガラス玉みたいな人工物に見えた。
「あ、サインっすか?」
 俺が訝しげに問いかけると、男はたすき掛けにしたショルダーバッグを漁り出した。てっきりサインペンが出てくるものとばかり思い、ダンボールを廊下に置いて振り向くと、すぐ目の前にナイフがあった。チャチな果物ナイじゃない、イノシシでも捌くようなデカいサバイバルナイフだ。
「え?」
「騒がないで下さい」
 男は静かに言った。学校の先生が中学生を諭すように、ゆっくりと。俺は微動だにせずナイフの切先を見つめて、ゴクリと唾を飲んだ。
「これを……」
 右手にナイフ、左手には黒い手錠を持っていて、男は左手を俺に差し出した。間抜けにもそれを黙って受け取ってから男を見る。
「手首に……」
 ナイフの切先は微動だにしない。素早く手を払ってナイフを奪い、男を組み伏せるのは簡単そうだ。長身だが男の腕は枯れ木のように細く頼りない。しかし、突きつけたナイフは動かない。この男には覚悟がある、俺を刺す覚悟、断固たる決意。俺は動けず、男の指示に従った。
「中へ……」
 俺は手錠をして、促されるままリビングに向かった。男は後ろから死神のように付いてくる。鎌の代わりにサバイバルナイフを携えて。
「座ってください……」
 ダイニングチェアに座ると、男は俺の前に跪いた。まるで靴紐を結んでくれるような体勢だが、足首の感触で手首に巻かれている物と同じ物が、足首に付けられたのだと分かった。男が立ち上がったので確認すると、左足の足首と、椅子の脚が手錠で繋がれている。男は椅子を引いて俺の前に座った。
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