▼詳細検索を開く
作者: 桐谷 碧
19
好きな物をご馳走すると言って、美波が選んだのは原宿にあるパンケーキ屋だった。甘いものが嫌いな俺は辟易したが、今日は夏休み最後の日。少しくらいの我儘はご愛嬌。と、思っていたのは、この暑い中でトグロを巻くように出来ている行列を見るまでだった。
「嘘だろ」
 ポツリ呟いた俺の腕に、美波は自分の腕を絡ませて最後尾にならんだ。暑いから離れろよ、なんて勿論言わずに黙って従う。列に並んでいるのは殆どが若い女で、男の姿は二人しか確認できない。そして、やはりその二人も一見楽しそうに笑顔を振りまいているが、時折り見せる倦怠感を俺は見逃さない。すれ違う列で目が合うと互いに黙礼した。ご苦労様です、と。
 たっぷり一時間半は並んだだろう。体感はそれ以上だ。上機嫌で話しかけてくる美波に、初めこそ答えていたが、次第に適当な相槌に変わり、最後の方は自販機のように、ただそこに置かれていた。
「お次の二名さま〜」
 間延びした店員の声で、やっと順番が回ってきた事を知り目が覚めた。喉はカラカラ、シャツはびしょ濡れ、最悪のコンディションでこれから注文するのは、好きでもないパンケーキ。俺は生ビールを探したが、残念ながらメニュー表には無かった。店員が持ってきた水は、やたらとコップが小さくて、一気に飲み干しても喉の乾きはまったく癒されない。ピッチャーでありませんかと尋ねた俺は美波から叱責され、店員からは奇異な目で見られた。
 よく分からない名前のアイスティーを三杯飲んで、やっと落ち着くと、微かなヒソヒソ話が耳に付いた。
「あり得ないでしょ」
「でも美波そっくり」
 首を動かさないように、視線だけを声の方に向ける。右隣のテーブルには二十代と思しき女性客が二人、失礼にならない程度にコチラを伺っていた。美波はまったく気が付く様子もなく、ナイフとフォークを使いパンケーキを切り刻んでいる。
「凪沙」
 隣に聞こえるよう美波に呼びかけた。忙しなく動いていた美波の手がピタリと止まり、俺を上目遣いで見つめてくる。顔にほんのり朱がさした。
「どーしたの?」
「いや、呼んだだけだ、気にするな」
 訝しむ美波。しかし、隣を牽制する為の作戦は裏目に出た。おそらく美波の知り合いらしき二人は、顔を見合わせ驚いている。
「あの?」
 茶髪の髪を巻いた、今風の女が身を乗り出す。
「もしかして、星野凪沙ちゃん?」
 ソファ側、美波の横に座る黒髪の女性が遠慮がちに尋ねてきた。妹の凪沙まで知っていたとは誤算だった。
「あ、えっと……。はい」
 おそらくは頭をフル回転させて、自分の立ち位置を確認している美波は、ナイフとフォークを皿に置いた。大丈夫だ、ちゃんと凪沙を演じれている。
「やっぱり! 私たち美波の同級生で中学校のソフト部。凪沙ちゃんは試合の応援にいつも来てくれて、何回か会ったことあるんだけど、まだ小さかったから覚えてないかなぁ?」
 黒髪の女性は片桐優子と名乗り、茶髪の方は遠藤恵美と言った。久しぶりの同級生との再会に、美波は目を輝かせているように見える。
「もちろん、覚えてるっすな! あの伝説のメンバーっすな!」
 でた、その話し方。あと、自分で伝説とか言うな。と思ったが。凪沙の反応としては完璧なのだろう。隣の二人は破顔した。
「やだ、本当に美波そっくり」
 と片桐は言って少し淋しそうに表情を曇らせた。
「凪沙ちゃんはソフトボール続けてるの?」
 遠藤がとりなすように話題を変えた。
「高校で肩を壊して、やめたっすな」
 矢継ぎ早に繰り出される質問に、美波は凪沙として答えた。ボロが出ない内に撤収したいが、二人はかつての旧友を懐かしむように目を細めている。
「あ、こないだ美穂にもあったんだよ。なんか、雑誌の取材とか受けたんだって」
 先日、取材した橘氏の名前が出て内心ドキリとするが、三人は誰一人として俺に注意を払っていなかった。
「もしかして、絶対エースの橘さんっすな!」
「そうそう、でもね凪沙ちゃん。本当のエースは美波だったのよ」
「へ?」
「ね?」
 遠藤が片桐に同意を求めている。俺もその話には興味を持った。
「うん、美波は球が速すぎて誰も取れないのよ。だからキャッチャーやってたの。左利きのキャッチャーなんて珍しいでしょ?」
「た、確かに珍しいっすな」
 俺は何気なく、本当に何気なく質問した。
「どんな方だったんですか? その、美波さんは」
 片桐と遠藤は俺の存在を認識していなかったのか、虚をつかれたように口をポカンと開いた。しかし、直ぐに気を取り直して顎に手を当てた。
「とにかく真面目、ザ! リーダーみたいな」
「責任感が強くて自分に厳しかったよね、だからみんな付いて行ったんだけど」
 目の前で褒められて、さぞや恐縮しているかと思ったが、美波はふんぞり返って椅子から転げ落ちそうになっていた。
「そうなんですか、人格者だったんですね」
 俺の中で小さな違和感を覚えた。それは本当に小さな、しかし小骨が奥歯に詰まって取れないような不快感があり、後日また、俺はこの日を思い出すことになる。
「じゃあね」
「またね」
「おつかれしゃーっす!」
 二人はやっと満足したのか席を立った。綺麗に平らげた皿を店員がすぐに回収して、一分後には見知らぬカップルが座っていた。
「なんだよ、残すのか?」
 美波の皿には、切り分けられたパンケーキが半分くらい残っている。
「あ、うん。お腹いっぱいー」
「ふーん、めずらしい」
 俺たちは店を出ると、ブラブラと竹下通りを歩いた。夏休み最終日だからか、毎日なのか知らないが、とにかく人が多い。見たところ同年代の人間が殆で、しかし俺には何の魅力も感じない街を、美波もまた退屈そうに歩いていた。
「なあ、美波」
「ん?」
「野球観にいかね?」
「うん!」

 ――野球観に行きませんか?

 一ヶ月前、初めて美波に声を掛けられた日の事を思い出す。もし。あの日、あの時、あの場所で美波が声を掛けてくれなかったなら。俺は今も、灰色の日々を過ごしていたに違いない。他人を疎ましく思い、遠ざけ、蔑んでいた過去の自分。世界が反転したとは言わないが、少なくとも色眼鏡で見てきた景色を、素直な気持ちで見ようと思える柔軟性と優しさに気付かせてくれた。
 だから怖い。美波がいなくなる事がすごく怖い。太陽が無ければ輝くことのない月のように、真っ暗な世界に戻るのが俺は怖い。行かないでくれ、頼むからずっと俺のそばで笑っていてくれ。もう、それ以外なにも望まないから――。
 

「ねえねえ、私がいない間に凪沙と会う?」
 野球が終わり、車で美波を送る途中そんな質問をしてきた。巨人はヤクルトに圧勝したが、俺たちはまったく試合に集中できず、ファールボールが目の前に落ちて来た時でさえ微動だにしなかった。
「凪沙に? 会ってどうするんだよ」
「ほら、見た目は同じだし。海斗くんの事はちゃんと日記に書いてあるから、訪ねて行っても無視はされないと思うよ」
「ないな」
「なんで? 一年も会えないんだよ。寂しくないの?」
「寂しいけど、凪沙は美波じゃないだろ」
「そうだけど……」
 チラッと助手席を見ると、バックパックを抱きながら美波は俯いている。音楽もラジオも流れていない車内はやたらと静かで、遠ざかっていくサイレンの音がやけに耳に付いて離れなかった。
 美波の自宅から少し離れた公園の脇に車を停めた。エンジンを切ると、シンと外の空気に同調する。八月にしてはやけに涼しくて、蝉の声も聞こえてこない。俺は車を降りて小さな公園に入った。後ろから助手席のドアを閉める音が響き渡り、美波は砂利を踏み鳴らし背後から近づいてくる。
「美波」
 俺は振り返らないで言った。
「ん?」
「佐藤海斗は星野美波を愛しています。世界中の誰よりも」
 背後から「プッ」と空気を吐き出す音が聞こえて振り返る。美波はクスクスと口元を緩めて笑っていた。
「なにそれ?」
「野球好きならタッチくらい読んどけ」
「知ってるよ、タッちゃんが南に告白する名シーンでしょ」
「ああ」
「なんで今?」
「つまり、あれだ。絶対に帰ってこいよって事だ」
「分かった、約束する。星野美波は来年の夏休み、必ずや戻って参ります。海斗くんはその間に浮気なんてしないように、分かりましたか?」
「ああ、約束する」
「海斗くん……。ありがとう!」
 礼を言いたいのは俺の方だったが、美波は笑顔で手を振り帰って行った。彼女が本来帰るべき場所、俺とは交わらないその世界に。
 俺は車に乗り込んでエンジンをかけた。帰ろう。俺も帰るべき場所に。帰ろう。独りぼっちの世界へ。大丈夫、きっと今までとは違う色で見えるはず。そんな気がする。ハンドルを握りながら、美波と過ごした日々を思い出す。東京ドーム、江ノ島、花火大会、一番長い時間を過ごした俺の家。思い出す美波はいつも笑っていた。笑って俺を照らしていた。忘れられないひと夏の楽しい思い出。
 それなのに、なぜか器用にパンケーキを食べる美波の姿が瞼に焼き付いて離れない。何かを見落としているような、大切な何かを。そんな気がした。
Twitter