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作者: 桐谷 碧
20
目が覚めてカーテンを引くと、上り始めた太陽が辺りを青く染めていた。ビルの隙間から見える空には雲がひとつもない。俺はスマートフォンを手に取り時間を確認した。九月一日、五時五十分。フッと鼻を鳴らしてから再びベッドに寝転んだ。こんなに早く起きてもやる事はないが、習慣とは恐ろしいもので、目覚ましを掛けてもいないのに同じ時間に起きてしまう。
 覚醒した脳を無理やり夢の世界に引きずり込もうと努力するが、体は主人に反抗するように心拍数を上げていく。スマートフォンをもう一度見る。五時五十八分。二分後、何事もなかったように美波が部屋に上がり込み、俺を引っ張り起こして散歩に出掛ける。
「夏休みだけ? 幽霊? 嘘に決まってるじゃん。海斗くんて意外と純粋なんだね」
 あっさりと告白された俺は、騙された悔しさよりも圧倒的に喜びが勝ってしまい顔が綻ぶ。それを見て美波の口元も緩む。そんな光景が、やけにリアルに想像出来た。しかし、気がつけば時刻は六時を回っていて、三十分を過ぎても玄関の扉が開かれる事は無かった。合鍵は渡しっぱなしにしてある。二人が入れ替わっていた時間の出来事は、日記で詳細を伝えるらしいから、凪沙が見知らぬ鍵を捨ててしまう事もないだろう。もちろん回収するほうが面倒はないが、俺と美波の繋がりが何一つ無くなってしまうのが、なんだか怖かった。
 俺は眠るのを諦めて寝室を出た。洗面所で歯を磨き、コンタクトを付ける。鏡には能面のように表情がない人間が映っていた。生気がなく目が濁っている。美波に出会う前の、復讐だけを生き甲斐にしていた男がそこにいた。俺はそいつから逃げるように洗面所を出た。キッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、そのまま口を付けて飲む。昨日の夜まで一緒にいたのに、もう何日も会っていないような不安にかられる。一秒時間が過ぎる度に美波との記憶が失われていくような恐怖に全身が震える。嫌だ。美波に会う前の自分には戻りたくない。美波を忘れたくない。美波は本当にいたのか?
 俺はボサボサの頭にキャップを被り、ジャージ姿のまま家を出た。財布も持たずに駅に向かって走った。すれ違う人間が一瞬こちらを見て、すぐにまた歩き始める。地下鉄に乗り、京浜東北線に乗り換える。赤羽駅に着いた頃には、通勤中のサラリーマンで駅は混雑していたが、気怠そうに下を向いて歩く彼らは他人に興味を示さなかった。俺は走ってその場所に向かった。ジャージにスニーカーだから走っていた方が違和感がない。とにかく目的地まで走った。ペース配分もなく休む事もなくガムシャラに走った。
 
――佐藤家と星野家は同じお寺にお墓があるんだね、運命かな?
 
 同じ赤羽に住んでいるのだから特段めずらしくもないと言うと、美波は頬を膨らませた。
『松庵寺』に到着する頃には汗だくになり、顎先からポタポタと垂らした汗がアスファルトにシミを作る。俺は歩き出して墓地に向かった。入口では住職と見られる徳の高そうな男が、このクソ暑いなか袈裟を着て掃き掃除をしていた。一瞬、目が合うと互いに黙礼する。
 それほど広くない敷地に並べられた墓石を一つ一つ確認していく。星野、星野、星野。と呟くが、狂ったように鳴く蝉の声でかき消されて、俺は最悪の可能性が頭をよぎる。
 
 ――何もかも。夢だったんじゃないか?
 
 星野美波なんて女は俺が作り出した幻。普通の高校生に憧れるあまり作り出した幻想。幻夢。幻夏。
 無い。星野家と掘られた石が無い。すでに最後の列に差し掛かり、祈るような気持ちで一つずつ確認していく。あと三つ、二つ、そして敷地の一番奥にある墓石の前で足を止めた。花が生けてあり、線香が焚かれている。ゆっくりと視線を上げると『星野家之墓』と掘られた綺麗な黒御影の墓石が目の前にあった。
 瞬間、俺はその場に膝をついた。次に手をついた。ひんやりと冷たい石畳の感触が伝わってくる。目の前のコンクリートが濡れていき、初めて自分が泣いているのだと気がついた。泣いていることに気がつくと、今度は声に出して泣いた。「美波、美波」と嗚咽を漏らして呼びかけたが、御影石はただ、朝日を浴びて静かに佇んでいた。
 美波が幻じゃないと分かって嬉しいのか、美波が本当に死んでると分かって悲しいのか分からない。ただ、後から、後から溢れ出る涙を堪える事が出来なかった。
 
「佐藤海斗さんですね?」
 膝に手をつき、立ち上がるところで不意に声を掛けられた。声の方を見てひゅっと、息が止まる。黒のローファーに白い靴下、特徴的な制服は俺でも知っているお嬢様学校のブレザーだった。見慣れない格好で、聞き慣れない話し方をする女は、見慣れた顔をコチラに向けて立っていた。しかし、それは夏休みの間、ずっと俺に向けられていた太陽のような笑顔ではなく、月のように凪いだ、冷たい目だった。それは今朝、自宅の洗面鏡に映った男と同じ目だった。
「星野、凪沙……さんですか?」
「はい」
 どうしてここに、と言う間抜けな質問は喉元で止まった。今日は美波の命日、家族が墓参りしていても、なんら不思議ではない。異様なのは墓石の前で号泣するこの俺の方だ。
「ずいぶんイメージと乖離かいりしてますね」
「え?」
「頭脳明晰、冷静沈着、極悪非道な人物だと姉の手記に書かれていたので」
 最後のは悪口だったが、星野凪沙がすでに美波の残した日記を確認して、俺が誰だかを瞬時に読み取ったのだろう。
「すみません、取り乱しました。自分でもよく分からない感情なんです」
 入口を竹ぼうきで掃いていた住職がコチラを見ていた。しかし、距離はあるので声は聞こえないだろう。
「会ったばかりの女を、そんな好きになりますかね」
 凪沙の声は冷めていた。侮蔑の混じった声色は、実の姉を女と呼ぶ事で一層悪意が覗く。俺は少しムッとした。
「美波は、彼女は特別ですから」
 美波とまったく同じ顔で、同じ口で、同じ声で凪沙は笑った。同じなのに違うと分かる、目の前にいる女の子は美波じゃない。夏休みを毎日過ごした、あの美波じゃない。凪沙には聞きたい事が山ほどあったが、俺は横をすり抜けて、この場を去ろうとした。
「その特別な人を自殺に追い込んだ女が今、何をしてるか知ってますか?」
 呪詛のように呪いのこもった声が俺の足を止めた。同時に蝉の鳴き声もやんで一瞬の空白が出来る。
「あの女は、反省なんてしていませんよ。墓参りにも来ないのがその証拠です。都内で働きながら毎日インスタあげて、週末は飲み会、夏休みは海外旅行。姉の人生を奪っておいて悠々自適に生活しています」
 振り向いた俺に凪沙はスマートフォンの画面を突きつける。そこには鼻が上を向いたブスが、似合わないワンピース姿で両手を広げていた。アカウント名には浅間菜緒と表記されている。俺は一瞬で血の気が引いた、美波を騙し、二日間に渡り陵辱した犯人。この女が男たちを先導し美波を自殺にまで追い込んだのだ。
「あ、良いですねその顔。極悪非道になってます」
 凪沙はまた笑った。俺は無視して彼女に問いかける。
「コイツは何処にいる?」
 凪沙は満足そうに頷いた。
「さあ? でも協力は惜しみませんよ。この女はかたきなんですから」
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