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作者: 桐谷 碧
15
人形町に戻ると、花火大会の喧騒が嘘のように静かな街が出迎えてくれた。やはり人混みは疲れる。いるだけで体力が削られていくような感覚がするのは、俺が普段から人を遠ざけているからだろうか。
「花火、綺麗だったねえ。海斗くん」
 一番しっかりと観ていたのは俺だ。それよりも、変な喋り方が治って安心した。酒も随分と飲んでいたように見えたが、足元はしっかりしている。
「酒、強いんだな」
「ふっふ、まあね! なーんて。あれノンアルコールだったよ全部。海斗くんのビールは本物っぽかったけど」
「え? そーなの」
「うん。師匠のも、めぐさんのもアルコールなし。おっちゃんが、未成年に酒はだせねえから、二十歳過ぎたら、また来いよってさ」
 そうか、バレていたのか。俺たちは自分が思っているよりもずっと子供に見えているようだ。どうせ美波たちを酔っぱらわせて、あわよくば性的な事をしようと目論んでいる下卑た中年親父と嘲り、シートに入れてくれた上に飲食までさせてくれた彼らに礼の一つも言わなかった自分を少しだけ恥じた。
「俺のビールは本物だったな」
 この浮遊感は明らかに少し酔っている。
「あ、やっぱり。男の子は優遇されるんだ」
 アメリカではレディファースト、日本だって結婚できる年齢は女子の方が早いし、平均寿命だって女が上だ。どちらかと言えば優遇されているのは女だと思うが、などと考えていると、後ろから自転車のベルを鳴らされた。チリンチリンチリンチリンと、操縦者の苛立ちをベルの音色に乗せている。
 美波が「あ、すみません」と言って横に捌ける。「チッ」と舌打ちしながら、配達用のバックを自転車の前カゴに入れた中年の男が通り過ぎようとした。
「待てコラ!」
 そいつの背中に声を掛けると、配達員の男は自転車を止めて足を着き、素早くコチラを振り返った。長髪を後ろで結んでいて、目が窪んでいる。薄暗い道でも顔色が悪いのが明白だった。アルコール依存症がこんな色をしているのをテレビで見た事がある。
「なんだよ?」
「チリンチリンじゃねえんだよ、ここは歩道だろ。交通ルールも知らねえのかテメェは」
「ちょっと海斗くん……」
 自転車が歩道を走行する時は徐行、歩行者の妨げにならないように走らなければならない。それを車道のようなスピードで、人を縫う様に走り抜ける馬鹿どもがここ数年で一気に増えた。もちろん某配達会社の影響だ。俺は美波を遮って配達員の前に出た。
「――るせえな」
 男がボソリ呟く。
「はぁ? ちゃんと喋れよ気持ちわりい。そんなんだから配達なんてど底辺の仕事しか出来ねえんだよ、分かってる? せめて法律を守って小銭稼ぎながらセコセコ生きてろクズ」
「るっせえんだよ!」
 男は急に怒鳴り声をあげた。瞳孔が開いて目の焦点が合っていない。まっすぐ俺を見ているのに、その後ろを見ているようだった。普通じゃない。
「るせんだよ、リア充が……。殺してやろうか、出来るんだよ、俺には出来るんだよ、失うものなんて何もねえ、やってやるよ、やってやる」
 男の声が段々とハッキリしてきた。すると男は自転車をスタンドも立てずに投げ捨てた。派手な音を立てて自転車が転がり、カゴに入っていた配達用のバックも道に放り出される。呆気に取られていると、いつの間にか男の手に光る物が握られていた。それが刃渡の短いナイフだと気がつくのに数秒かかった。しかし、俺は慌てない。刃物を持っている方の手首を掴んで、握力で締め上げる。ひ弱そうなコイツは、すぐにナイフを地面に落とすだろう。反対の手で顔面を掴み、握り潰してやる。正当防衛だ。
 俺よりも早く気が付いた美波が、短い悲鳴をあげる。男はその声に反応するように、彼女に向かってナイフを振り上げた。しかし俺は動けない、金縛りに合ったように、足から根が生えてしまったかのように、その場に固定されている。美波が両手で頭を庇う、男のナイフが月明かりに照らされてキラリと光った。
 美波が死ぬ――。
 刹那的にその考えが頭をよぎっても、体は動かないままだった。刃物を前に恐怖で硬直していた。これは夢の中で何度も反芻した、あの男のナイフじゃない。目の前にいるのは野村賢治ではないのに。細胞レベルで俺を三年前のあの場所に連れていくと、目の前の光景にぴたりと重なった。
「何をしている!」
 ドスの効いた怒鳴り声で、我に返ったのは俺だけじゃなかった。ナイフを振り上げたまま男は停止して、声の方角に顔を向けた。
「そのまま動くな!」
 制服を着た警察官が、男に向かってじりじりとにじり寄っていた。急がず、慌てず。しかし、確実に距離を詰めていく。左手を前に出して「落ち着きなさい」と語りかける。その距離が二メートル程になった所で、別の警察官が後ろから男を羽交締めにした。すぐに正面にいた警察官も加わり、あっという間に男は確保された。
 その後、交番で調書をとられ。俺たちが解放されたのは夜の十時を過ぎた頃だった。二十六歳と言う偽の身分証が無ければ、さぞや面倒な事になっていただろう。そして、身分証の類を持ち合わせていない美波は、その幼い見た目も相まってかなり怪しまれたが、二人で浴衣を着ていたのが功を奏した。花火大会帰りの恋人、強引に二十歳で押し通して、親を呼び出される事はなかった。
 配達員の男は警察官に取り押さえられると、抵抗する事もなくアスファルトに組み伏せられた。死ぬ間際の遺言のように「ハンバーグ弁当を届けないと……」と呟いているのを耳にした時。無性に胸が苦しくなるのを感じた。なぜだか分からない、目の前の男が自分の姿に重なった。
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