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作者: 桐谷 碧
16
美波は一切口を聞かなかった。後ろ姿なのに怒っているのが分かる。しかし、それが自分を襲った配達員の男のせいなのか、その男を止める事の出来なかった無力な俺のせいなのか、はたまた舐めるように全身を観察してきた、若い警察官に腹が立ったのかは分からない。
「茶でもいれるか?」
 ダイニングテーブルに座る美波の後ろ頭に、キッチンから問いかけた。
「いいから、座りなさい」
 コチラを振り向きもしないで、棘のある声を出した。どうやら怒りの原因は俺のようだ。手に取った紅茶のパックを置いてから、美波の前に腰掛けた。
「どうして、海斗くんは他人に優しく出来ないのかなぁ。美波にはこーんなに優しいのにさ」
「え?」
 話の意図が見えない。無言で先を促した。
「だーかーらー! あんなこと言ったら、誰だって怒るでしょ? 別に良いじゃない、自転車を譲るくらい」
「いやいや、俺は当然の意見を述べたわけで……」
「ふーん。配達なんて底辺の仕事、小銭を稼いでセコセコ暮らせが当然の意見なんだ?」
「まあ、そうだな」
「へー、じゃあ海斗くんみたいにパソコン、カタカタする仕事は偉いんだ? サラリーマンは? 政治家は? 芸能人は? 誰が一番偉いの?」
「そりゃ、配達員よりは政治家の方が偉いだろ、だから給料も高いんだろうが」
「なるほど、給料が高いと偉いわけだ?」
「一つの指標にはなるな」
「なんか中学生みたい」
「は? なんでだよ」
「沢山ある能力の一部だけを評価して、勝手にピラミッド作って自分が上にいるって、勘違いしてる中学生」
 頭に血が上った。それは俺が、いや、俺たちが一番嫌いな人種だ。俺たちを不幸のどん底に落とした奴らだ。
「はあ? ぜんっぜんちげーよ」
「一緒じゃん」
「俺は大人にもなって、小学校から中学校の義務教育を九年もみっちり受けてだな、頭をまるで使わない仕事をする奴、人に迷惑をかける馬鹿どもが許せねえんだよ。見た目だけイキがって周りを威嚇してきた不良、集団心理を利用して弱い物いじめを助長するクズ。そーゆう奴らは配達だの鳶職だの反社だの、馬鹿でも出来る仕事をしてるんだよ。自業自得だろうが。下に見られて当然なんだよ。当然の事を奴らはしてきたんだよ!」
「分からないじゃん、あの人がそんな事してたなんて。海斗くんの想像じゃん」
「見りゃわかんだろ、ナイフ持ってたじゃねえか。善良な市民がポケットにナイフを忍ばせるのか? 人に斬りかかるのか?」
「ナイフはたまたま買ったやつかも知れないし、怒らせたのは海斗くんでしょ? あんな事が無ければ、あの人だって警察に捕まらずに、今頃はお家でリンゴの皮でも向いてたかもよ」
「は! めでたい妄想だな」
「海斗くんのだって妄想じゃん」
「俺のはエビデンスがしっかりしてるだろうが、美波のはめちゃくちゃだ」
「エビデンスってなに?」
「根拠だよ、裏付けがあるだろ。犯罪を犯す連中に肉体労働者が多いのはデータが証明してるんだよ」
「じゃあ、美波のパパも犯罪者だね」
 頭に上っていた血がサッと引いた。美波の父親の職業までは気が回らなかった。
「な、何してるんだ? お父上は……」
「長距離トラックの運転手」
「いや、それは特殊な技能が必要な立派な職業じゃないか」
 今さら、取り繕っても手遅れか。
「肉体労働じゃん! 底辺じゃん! 底辺の子供だから美波は最下層じゃん!」
 うわあ、すげー怒ってるよ。迂闊だったなと後悔するが、上手いフォローが見つからない。
「よく聞けよ美波。俺が言いたいのはだなあ、職業うんぬんじゃなくて、社会的なルールを守れない奴はダメって事なんだよ。あの配達の男は歩行者優先の歩道でベルを鳴らして歩行を妨げた、百歩譲ってそこまでは許そう、あいつは道を譲って貰っといて、礼を言うどころか舌打ちしたんだぜ? 文句くらい言わせてくれよ」
 どうだ、いけるか。
「だったら、なんで舌打ちしたんですか? って聞けば良いじゃない。あんな悪口、言う必要あった?」
 ありません。
「海斗くんは他人に偏見を持ち過ぎだよ、世の中そんなに悪い人ばっかりじゃない。あの人だって、普段は優しいのに、今日はたまたま嫌な事が重なってイライラしてただけかも知れないじゃん。決めつけない方がいいと思うな」
 
 そんなお人好しだから、お前は死ぬ羽目になったんだろ――。
 
 喉元まで出掛かった言葉を飲み込んだ。するとなぜか美波の目から涙がこぼれ落ちた。
「みんな、一生懸命生きてるんだよ……。少しは我慢しなよ」
 俺は何も言えなかった。ただ黙って美波を見つめていた。普通の恋人同士なら、こんな風に喧嘩になった時にどうするのだろう。やはり男が謝るのだろうか。上部だけでも謝罪して、体裁を整えたら明日からまた笑い合えるのか。俺たちにそんな事をしている時間はないのに。はやく美波の謎を解かなければならないのに。九月一日が来る前に。
 
「帰るね……」
 美波は椅子から立ち上がり。俯いたまま玄関に向かっていった。扉の閉まる音が聞こえる。シンと静まり返ったリビングで一人になると、己のバカさ加減にうんざりした。確かに美波の言う通りだ、何を俺はそんなにイライラしているのだ。ホームランを打って盛り上がる兄ちゃんも、ホットドッグを橋桁に捨てるヤンキーも、花火大会を楽しむ親父も、配達の仕事をする男も。俺たちの仇ではない。放っておけば良いのだ。
 ベタな恋愛ドラマなら、ここで俺は立ち上がり美波の後を追う。中々見つからないが、最後は歩道橋か橋の上で眼下を見下ろすヒロインを発見、抱きしめてキス。仲直り、まあそんな所だろう。くだらねえ。
「母さん好きだったなぁ。ベタな恋愛ドラマ……」
 俺が立ち上がったのは亡き母の想いに応えるだけで、決して美波に嫌われたらどうしよう、あわわ。と危惧している訳でも、見つければキスを出来るかも知れない、ぐふふ。なんていう下心では断じてない。もう一度言う。断じてない。
 決意するや否や、俺はベランダの窓を開けて下を見た。白と紫の浴衣を着た美波がエントランスからちょうど出てくる所だ。幽霊のようにふっ、と消えられたらお手上げだったが、その心配は無さそうだ。美波はマンションをでて右に曲がった。大通りの方角に歩いていくのを確認してから急いで部屋を出る。マンションを出て外に飛び出した。つんのめりそうになりながら右を向くが、既に美波の姿はない。薄暗い街灯の中を全力で走り大通りに出ると、少し先に揺れる浴衣の帯が目に入った。俺は慌てて電柱の影に身を隠す。身を隠してどうする、帰る前にはやく追いかけなければ、と思った所で思考が一時停止した。
 アイツは何処に帰るんだ――。
 確か近くに母方の実家、つまりお婆ちゃんの家があると言っていたが。美波が。つまり七年前に死んでいる筈の孫が家に帰ってきたら、祖父母は心停止してしまうに違いない。じゃあ何処で寝泊まりしているのだ。疑問は焦りに形を変え、やがてある懸念が俺を捉えた。
 俺、以外に男がいる?
 そいつの家に泊まってるのではないか。考えてもみろ。美波が死んでからすでに七年も経っている、幽霊だろうが地縛霊だろうが実体はあるわけで生活をしなければならない。しかし、戸籍も身分証もない美波に仕事をする事は不可能。であれば誰かを頼るより他ならない。
 俺は腹の下から競り上がってくる得体の知れない何かが喉元まで来るのを感じた。心臓がばくばくと脈打っている。美波が俺以外の男と親しげに話している所を考えるだけで、頭を掻きむしりたくなる衝動にかられた。そんな事を考えながら地団駄を踏んでいると、信号の向こうで待っているスーツを着た男が相好を崩しながら手を振っていた。その先には美波しかいない、信号が変わる前に男は左右を確認しながら横断歩道を渡ってきた。一直線に美波の元に向かうと、二人は向き合いながら何かを話している。男は笑顔で身振り手振り何かを伝えているが距離がありすぎて声は聞こえない。美波は背中を向けていて表情が見られないが、時折手を口に当てて笑っているような姿が確認できた。
「そんな……」
 俺はその場にへたり込みそうになるのを、電柱にもたれる事でなんとか耐えた。今まで考えもしなかった、美波が他の男と一緒にいる所なんて。美波には俺しか頼る人間がいなくて、俺がいなきゃ何も出来ない。自殺した美波を救うのも、美波を死に追いやった奴らに復讐するのも、美波の手を握るのも、美波の事を抱きしめるのも、キスをするのも、結婚するのも。なぜか俺だと思っていた。
 勘違い野郎――。
 途端に自分が恥ずかしくなった。出会って一ヶ月足らずの希薄な関係。考えてみたら俺は美波の事を何も知らない。どんな両親だったのか、友達はいたのか、彼氏はいたのか。好きなタイプ、嫌いな奴。自殺を阻止するために聞き出した情報以外は何も知らない。
 
 そして、それ以上に、美波は俺に何も聞いてこない――。
 
 なぜ一人暮らしなのか、両親は、学校は、どうして年齢を偽っているのか。自分で言うのもなんだが、俺はツッコミどころが満載な十八歳だろう。美波は俺に興味がない? じゃあなぜ俺に近づいてきた。
 頭を抱えていると俺の横を男が口笛を吹きながら通り過ぎていった。バッと振り返るが美波の姿はない。すぐに信号の方に向き直るとすでに横断歩道を渡りきった美波の姿がどんどん遠ざかっていく。男と一緒じゃないのか。疑問と安堵を混じらせながらも俺は美波の後を追った。
 美波は大通りをひたすら歩いていく、新日本橋を通り過ぎて、このまま行けば神田駅だ。神田、神田。神田と言えば飲み屋街だ。俺はハッとして目を剥いた。
 ――キャバクラか?
 キャバクラならば身分証がなくても、あるいは融通してくれるのではないか。しかも、あれだけの可愛さ。店としては喉から手が出るほど欲しい人材に違いない。あの手の店は従業員寮があると以前、夕方のニュースで見た事がある。そう言えば美波は、いつも金を持っている事を思い出した。酔っ払った親父たちに絡まれ、太ももを触られながら、臭い息を吐きかけられる美波を想像すると胸がキューッと締め付けられた。
 そんな事を考えていると、いつの間にか歓楽街に差し掛かり美波の姿を見失っていた。俺は慌てて辺りを見渡すが、キャッチの若い男と酔客しか見当たらない。
「そこのお兄さん。キャバクラどーですか? 一時間三千円ポッキリ、ワンドリンクサービスするよ」
 真っ黒いスーツを着た開襟シャツの男が話しかけてきて、俺が「大丈夫です」と言って通り過ぎようとした時だった。
「オッパイもあるよ」
 俺はその場に凍り付いた。頭の中で言葉の意味を推しはかる。オッパイもあるとは、果たしてどう言う事だ。キャバクラ嬢は女なのだから、オッパイがあるのは当たり前だ。それとは別物なのか。めぐみの裸が脳内で再生される前に、慌てて俺はかき消した。
「あのう、オッパイとは?」
 俺は立ち止まり、黒スーツに尋ねていた。
「オッパイパブだよ。モミ放題、吸い放題。今日は年に一度の浴衣デー。浴衣を脱がせてチューチューしちゃってよ、お兄さん、六十分、イッパイオツ勝負! たったの八千円」
 俺は戦慄した。そのような如何わしい店の存在は知っていたが、現実に目の当たりにすると、夢幻的でリアリティーがまるでない。しかも八千円だと? 人件費を四十パーセントと考えても女の子の取り分は三千二百円。馬鹿な、そんな少額で赤の他人にオッパイを揉ませると言うのか、狂っている。正気の沙汰じゃない。
 ――ちょっと待てよ。浴衣デー?
 この辺りで忽然と消えた美波、なぜか持っている現金、浴衣。揃わなくていいピースが次々にハマっていく。
「指名できますか?」
「え? ああ、もちろん。すみません、初めての方と勘違いしてました、どの嬢でしょうか?」
「みな――」
 美波と言おうとして、こういった場所で働く女が偽名を使う事に思い至る。なんてこった、美波はどんな偽名を使っているのだろう、皆目検討がつかない。いや、その前にまだ、美波が働いているとは限らない。
「みなちゃんですか? 少々お待ちください。 えー、近藤です。オッパイの美菜さんイケますか? ええ、はい、承知しました」
 黒スーツの男は、襟元についたインカムで何かを確認している。
「すみません、美菜の方が本日休みでして、どうですか、今日は違う嬢で遊んでいきませんか?」
「あ、いえ」
「そー言わずに、巨乳ちゃんが新しく乳輪、いや、入店したんですよー。ハサミ放題、吸い放題――」
「替え玉一丁!」
 黒スーツの声をかき消すような、威勢のいい声が聞こえてきて振り向くと。そこはラーメン屋だった。カウンターだけの細長い店で、扉は開けっぱなしだ。数人の客に混じって浴衣姿の美波がそこにいた。俺は弾かれたようにその場を走り去る。
「あ! ちょ、お兄さん」
 危うくオッパイパブに入ってしまう所だった。童貞でキスすらしたことの無い俺にはハードルが高すぎる。いやいや、違う。俺は美波に謝りに来たのだ。呼吸を整えて、物陰からラーメン屋を覗き見る。花火大会で散々食ったにも関わらず、まだ食うのか。半分呆れ、半分安堵した俺はその場で美波が出て来るのを待った。
 早食いの美波は五分とたたずにラーメン屋から出てきた。力士のように腹をパンパン叩いている。すると、先程の黒スーツが美波に近づいていった。晩年の夫婦のように笑顔で会話している。まさか、これから出勤なのか。だったら、せめてキャバクラであってくれ。オッパイの店は美波の胸では戦力にならないはずだ。
 願いが届いたのかどうかは分からないが、美波は黒スーツに軽く会釈すると繁華街の奥へと進んで行った。俺はまた、そろそろと後をつけていく。
「あ、お兄さん、戻って来ましたか」
「あの? さっきの子は……」
「美菜ですか?」
「じゃなくて、浴衣の。今喋ってた」
「ああ、あまりにも美少女だったんで、スカウトしたんですけどね。断られちゃいましたよ。あの子なら給料袋が立ちますよ、縦にね」
「ああ、そうだったんですね」
 俺はホッとして胸を撫で下ろした。黒スーツに深々とお辞儀をしてから美波の後を追う。美波は繁華街の空に浮かぶ三日月を見上げながら、リズミカルに歩を進めていて、さっき迄の諍いなど嘘のように上機嫌な背中だった。自分だけが四苦八苦している現実に、憤りよりも寂しさを覚えた。美波にとって俺はその程度の存在なのだろう。俺は遠ざかる美波の背中をそれ以上、追いかける事が出来なかった。夜空に浮かぶ薄い月が、俺たちの関係を嘲笑っているようで目を逸らすと。踵を返し、来た道を引き返した。
 溝鼠が一匹、俺の前を通り過ぎて居酒屋の前に積まれたゴミ袋に突進していく。俺はなぜだか少しだけ安堵して、再び歩き出した。
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